EMIは、どうしても最初にイギリスを制覇しなければならず、10月半ば、ドン・アーデンDon Ardenのリトル・リチャード・ツアー(サム・クックSam Cookeも共演)がニューブライトンNew Brightonのタワー・ボールルームthe Tower Ballroomに来たが、ビートルズはリチャード出演前の最後から2番目だった。
![Live at the Harlem Square Club, 1963 / Vinyl record [Vinyl-LP]](https://m.media-amazon.com/images/I/71eFlHIYGmL._UF1000,1000_QL80_.jpg)

リチャードは最初の二日間たくさんのゴスペルと、自分のポップ・ヒットを手早くメドレーで演奏したが、北に向かう頃には演奏の順番を決めていた。そして前座にも注目し、「おい、あのビートルズは素晴らしい!見ていなかったら白人とは夢にも思わなかっただろう。あいつらは本物のニグロ・サウンドだ」とマージー・ビート誌のジャーナリストに話した。
マージー・ビート誌のカメラマンは、楽屋でリチャードとビートルズのツー・ショットを撮った。そして、ビートルズはリチャードと一緒に、11月初め、スタークラブthe Star-Clubで演奏した。
これは少し残念なことで、レコードが極めて重要な段階にちょうど差し掛かっていた頃だからだ。ビートルズは、リチャードがいようがいまいがライブから抜け出そうとしたが、できなかった。もちろん放送局では誰もレコードをかけなかったが、キム・ベネットKim Bennettは一所懸命かけようとした。

キムは専業主婦向けの昼食時の番組、ランチ・ボックスLunch Boxに持ち込んで、ビートルズがハンブルグから戻ってきた後に、ライブのラジオ演奏でBBCのプロデューサーにかけさせようとした。
キムは10代向けの重要な番組のサタデイ・クラブSaturday Clubでうまくいきそうだったが、リバプールからレコードのリクエストが非常にたくさん来たので、そんなに人気があるはずはなく組織的な運動だと思われてしまった。最終的に「ラブ・ミー・ドゥLove Me Do」は、11月末が近づいても放送されなかったが、ニュー・ミュージカル・エクスプレスthe New Musical Expressの27位に這い上がった。


これはすごいことだ。NMEはロックンロールをかなり敵視しており、自身を本質的に洗練されたジャズ誌だとみていたが、チャートは重く受け止められた。実際、非常に重く受け止めたので、ジョージ・マーティンはブライアンに電話をかけて11月末にもう一回セッションを手配するように言った。

それにもかかわらず、ビートルズはハンブルクへ向かった。今回は報酬や滞在中のホテルの部屋まで、事情ははるかに改善された。それに、リトル・リチャードが自分のやりたいようにやるのを見ることができるのだが、その中でもとりわけピアノの上で最後にストリップ・ショーをするという、アメリカでのゴスペルではありえないような演出もあった。リチャードには、16歳のビリー・プレストンBilly Prestonという自分のオルガン奏者がいて(ジョージ・ハリソンGeorge Harrisonは17歳だということで強制送還になったのだから、ワイスレダーWeisslederは当局とのコネが強かったに違いない)、イギリスのバンド、サウンズ・インコーポレーティッドThe Sounds In-corporatedがバックを務め、ビートルズとプレストンは、スタークラブthe Star-Clubで生涯にわたる友情を始めた。



ブライアンは最後の数日のために飛行機で移動していたが、ワイスレダーが1963年の日程を予約したいと言うと、ブライアンはまだできないと話した。そしてビートルズは、新年のショーなど12月17日から始め、更に2週間演奏することになっていた。ハンブルグでの時は刻々と過ぎたが、ビートルズに分かっているのは11月16日にイギリスに戻り、飛行機でロンドンに入ってプレス対応すること(キム・ベネットはビートルズをもう少しBBCのラジオ番組に出演させていて、レコードはまだ売れていた)と、その午後ジョージ・マーティンからの要望でじっくり話すことだった。
