ハンブルグでの残りの滞在は、刺激薬のプレラディンとビールであっという間に過ぎ去ったが、5月24日、ベルト・ケンプフェルトの指示の下で、スタディオに戻ってトニー・シェリダンTony Sheridanのバックで伝統的なアメリカの2曲「スワニー・リバーSwanee River」と「スイート・ジョージア・ブラウンSweet Georgia Brown」(このことから、ケンプフェルトはビートルズが使用としていることをほとんど理解していなかったことが分かる。)の演奏を録音した。
それはポリドールとドイツ向けのもので、翌日、ブライアンはEMI都契約を締結した。ブライアンは依頼人であるビートルズthe Beatles(Parlophoneは「Beattles」とつづった。)の代理人として署名し、ボブ・ウーラーBob Wooelerが副署して証明した。
ウーラーはキャバーンThe Cavern clubにビートルズが戻ってくることについて交渉し、そこでは戻って来てから2週間独占して登場して、レコーディング日程に合わせて午後二日間使えるという内容だった。
それからビートルズにほかの厚遇を与えたのだが、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisがリバプールで一晩出演する予定だと、アラン・ウィリアムスAllan WilliamsがローリーとハリケーンズRory and the Hurricanesに教えて、フランスでの冒険――いずれにしても、バトリンでのサマー・シーズンが近づくと終わる予定だった――を早めに切り上げ、戻って来てショーに間に合わせたので大成功した。
興行主ドン・アーデンDon Ardenのおかげで、どうやら、アメリカのロックンローラーの季節になったらしいが、ドンは、ハンブルグにジーン・ビンセントGenen Vincentを送り、そこでは、スタークラブthe Star-Clubにビートルズと重なることがあって、数日間身の毛もよだつような興奮をした。
ビンセントVincentは手が付けられなくなって、スコッチをラッパ飲みし、どこかで手に入れた銃を振り回し、ある時自分の妻を打とうと必死になってジョージをホテルに拉致したが、ジョージに銃を渡した。幸いにも、事態は重大にならずに解決した。
6月2日、イギリスのマンチェスター空港に戻ってニールNeilに迎えられ、ブライアンからの茶封筒を受けとったが、そこには彼らの契約に関する記事の載ったマージー・ビート数冊と、翌週以降のスケジュール表が入っていた。その茶封筒を開けた後練習に入いり、ピートは直ぐに母親に会いに行ったが、今妊娠7か月で、そのまた母親、つまりピートの愛している祖母を失ったばかりだった。
2、3日後、彼らはワゴン車(ブライアンは列車)に乗り込み、ロンドンに向かった。ビートルズは到着すると一日休みにして、ほとんど話に聞いてる都市をぶらぶら歩いたが、ポールが言うには「バス旅行のために北からやってきた仲間みたい」だった。そして、6月6日、スタディオに入り、「べサメ・ムーチョBesame Mucho」、「ラブ・ミー・ドゥLove Me Do」、「ピー・エス・アイ・ラブ・ユーPS I Love You」、「アスク・ミー・ホワイAsk Me Why」を録音したが、そのうち2曲はシングル用と判断され、さらにそのうちの1曲はレノン・マッカートニーLennon-McCartneyとしてシド・コールマンSid Colmanが出版した。
セッションでおかしなことは、ビートルズが契約していた「ライク・ドリーマーズ・ドゥLike Dreamers Do」より良い楽曲があると主張したことで、他のプロデューサーだったら許さなかっただろうが、マーティンはレコーディングさせた。
セッションには20分かかり、そのあと全員でコントロール・ルームに押しかけ、再生して聴いた。マーディンはマイクロフォンに関する技術上の細かいところまで厳しく批判し、パーロフォンParlophoneの将来について詳細を教えた。ビートルズは黙って聞き、取り入れた。最後にマーティンが言った。「いいかい、僕は時間をかけて批判したが、反応がない。気に入らないことがあるのか?」