この件をはっきりさせるのは、別のベリーであるチャックChuck Berryに任せよう。
1月21日、チャック・ベリー、ジョニー・ジョンソンJohnny Johnson、
ハウリン・ウルフHowlin Wolf’sのギタリストであるヒューバート・サムリンHubert Sumlin、
そしてリズム・セクションのウィリー・ディクソンWillie Dixonとフレッド・ビローFred Belowがチェス・スタディオChess Studioに入り、
インストルメンタル(ディープ・フィーリングDeep Feeling)、スペイン語のノベルティ・ソング(ラ・ジュアンダLa Juanda)、そしてティーネージの賛歌「スクール・デイSchool Day(Ring Ring Goes the Bell)」を録音した。
30歳のベリーは確かに、学校で丸一日待ちわびるティーネイジの気持ちが分かっていた。一分一分が嫌でたまらないが、突然、ベルが鳴り解放され、一目散にジューク・ボックスのあるハンバーガー店に向かい、チャックが歌うように、コインを穴に入れて一日中貯まり溜まったものから解放される。
万歳、万歳、ロックンロール。昔から持ってきて。」と彼は歌う。簡単なことだ。誰だって5セント硬貨があればできる。(ジュークボックスは1プレイ5セント、6プレイ25セントだ。)それはティーネージャ―になるための指示マニュアルであり、自分達の領分への地図であり、自分たちの文化が他の文化と当時に存在し、異なるものであり様々な点で優っていることを確認する行為なのだ。「スクール・デイSchool Day」は4月にチャートインした後、26週というとんでもない長期間とどまり、ポップ・チャートでは3位、R&Bチャートでは1位になった。エルビスなども成功したが、この年はチャック・ベリーの年だったが、大事な点は、ベリーのレコードがすべてR&Bチャートよりもポップチャートで成功したことだ。そして、そうなった成功例も増えて行った。
しかし、バディー・ホリーBuddy Hollyにとっては試練の時期だった。
デッカDeccaは彼のことを理解できず、発売した2枚のシングルは全くうまくいかなかった。
さらに悪いことには、彼のマネージャーであるハイ・ポケッツ・ダンカンHi Pockets Duncanがラジオをやめ、アマリロに移って、クローバー・クラブthe Clover Clubというナイトクラブを開いたのだ。
ダンカンはバディーから電話をもらい、バンドにはきっと改善の余地があると言われた。そこでダンカンは夜中はバーを閉め、ティーンのダンス・パーティーとして、バディーの露出を高めた結果、予想した以上にうまく行き、それが恒例の出し物になった。バディーは、デッカがもう状況を理解することは無いと思って、方針と変えた。まず、新しいバンドを結成し、ドラムはジェリー・アリソンJerry Allison、セカンド・ギターはニキ・サリバンNiki Sullivanとした。
次に、ニューメキシコ州クロビスに通い始めたが、そこは州境のすぐ向こうでラボックから車であまり遠くなかった。クロビスは、ノーマンのオルガンを売りにしたインストゥルメンタル・コンボであるノーマン・ぺティ・トリオthe Norman Petty Trioのリーダー、ノーマン・ぺティの故郷で、妻のビViがピアノ、そしてジャック・ボーガンがドラマーだ。
彼らはカクテル音楽と呼ばれるものを演奏していたが、1954年に「ムード・インディゴMood Indigo」の演奏でヒットしたくさん売れたので、ぺティが最新機器を備えたスタディオを故郷に開くのに十分なお金を手に入れた。
言うまでもないことだが、このスタディオは西テキサス州のミュージシャンを惹きつけ、リズム・オーキッドRhythm Orchidsというバンドが1956年後半にレコードを作成し、2曲のヒットとなって2人のミュージシャンを生み出した。
バディ・ノックスBuddy Knox’sの「パーティー・ドールParty Doll」とジミー・ボーウェンJimmy Bowenの「アイム・スティッキング・ウィズ・ユーI’m Sticking with You」で、それをルーレットRouletteに売った。
この2曲は1枚の45回転レコードの両面でとても良く売れ、これから売り出すバディにとって幸先が良く思えた。
ぺティはコロンビア・レコードのポップ・ミュージック部長のミッチ・ミラーMitch Millerにつながりを持っていて、ぺティ・トリオと契約していた。
バディはバンドと一緒に1月クロービスに出向いて、「ブラウン・アイド・ハンサム・マンBrown Eyed Handsome Man」のバージョンなどをレコーディングした。
その後、「ザットル・ビー・ザ・デイThat’ll Be the Day」はしばらく取り組んだが結局はナッシュビルで録音した。
もう1曲は「ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブLooking for Someone to Love」で、ニューヨークのデッカに送るつもりのデモのB面として急遽作ったものだが、ナッシュビル・オフィスよりも自分を理解してくれるかどうかを見るためだった。