それは良い知らせで、マーティンは考えた末に、ビートルズには魅力があると判断し、できるだけ早くシングルをもう一枚出したがった。

マーティンはアルバムも欲しかったが、これはどこの馬の骨とも知れない実績のないグループとしては前例がなかった。キャバーンで録音されたライブ・アルバムで、その大部分はオリジナル曲だった。

ジョージ・マーティンは型破りな考え方や、変わったリリースで成功していることで知られ、ジョン・レノンJohn Lennonが尊敬していることの一つは、超現実的で素晴らしいグーン・ショーGoon Show のLPで、これはどうやら最新のものだった。

マーティンはタイトルを考えていなかったので、ポールが「オフ・ザ・ビートル・トラックOff the Beatle Track」を提案して、メモ帳をつかんでそのアルバム・カバーをざっと書いた。


マーティンはそれに感心した。よーし、やるべきことをやってしまおう。11月26日、ビートルズはスタディオに戻って、「プリーズ・プリーズ・ミーPlease Please Me」と「アスク・ミー・ホワイAsk Me Why」をレコーディングした。
一方、「ラブ・ミー・ドゥLove Me Do」は、ゆっくり、ゆっくり、チャートを上昇した。
すべてうまくいったが、ジョージ・マーティンは「プリーズ・プリーズ・ミー」の最後の音が消えた後、トークバック・ボタンを押してビートルズに言った。「諸君、君たちは最初のナンバー・ワン・レコードを作り上げた。」ビートルズは大爆笑した。お茶休憩を取り、その後戻って裏面を録音した。5週間後の1963年1月11日にレコードがリリースされるのを待つばかりだ。
ブライアンには少しやるべき仕事があった。
ジョージ・マーティンはアードモア&ビーチウッドArdmore & Beechwoodの「ラブ・ミー・ドゥLove Me Do」の取り扱いには不満があったので、ディック・ジェームズDick Jamesに話をするようにブライアンに進言したが、ディックは昔からの出版者で、アメリカ企業の傘下になかったため、どのアメリカ企業とも自由に交渉できた。


ブライアンがディックにアポを取ると、ジェームズの15歳になる息子と、ディックの受付のリー・ペリーLee Perryがファンであることが分かった。ジェームズが「プリーズ・プリーズ・ミーPlease Please Me」のアセテート盤を聞いたとき、「びっくりして天井まで飛び上がった。」
ナンバー・ワンのレコードを聞いたと思ったし、ブライアンは、まだレコーディングしていないオリジナル曲がたくさんあるとジェームズに言った。彼らの間で契約書の詳細を詰めているとき、ブライアンは珍しい条項を主張したのだが、それは全員が承認しなければ、レノン・マッカートニーLennon-McCartneyの楽曲をレコーディングできないというものだった。このように、ジェームズの主な仕事は、「レコードを通じて」著作権を行使することであって、カバー・バージョンをたくさん集めることではなかった。これはビートルズを最優先にする考えだ。そして、この契約がまとまると、ビートルズはBBCパリス・ストリート・スタディオBBC Paris Street studioに現れ、ザ・タレント・スポットThe Talent Spotという番組を収録した。


彼らが舞台裏に来ると、リバプール出身の友人、アラン・スミスAlan Smithが、年末人気投票の載っている買ったばかりのNMEを見せた。ビートルズはイギリス・ボーカル・グループBritish Vocal Groupで5位、イギリス・スモール・グループBritish Small Groupで8位だった。マージー・ビートMersey Beat人気投票で優勝した1年後としては、悪くなかった。(もちろんビートルズは今年も優勝した。)そして12月が過ぎていくと、ビートルズのすべきことは、キャバーンでライブを1回開くことと、グラナダ・テレビGranada TVの「ピープル・アンド・プレーシスPeople and Places」のテープ撮りだけとなった。今度は、放映された。
