第5章 1953-1954年 スターが揃う
いや、揃ってないかも。確実なことはこうだ。1953年6月3日、エルビス・アーロン・プレスリーElvis Aron Presleyは、メンフィスのヒュームズ・ハイ・スクールHumes High Schoolを卒業した。
卒業式には音楽プログラムがあったが、彼は参加しなかった。生まれ故郷のテューペロから家族でメンフィスに転居して以来数年間、エルビスは自分の母親が教会で知り合った女性の息子からギターのレッスンを受けた。特にギターの才能が有ったというわけではなかったが、ラジオで聞いたポップ・ソングを中心に、自分の好きな曲に合わせてコードを見つけることができた。メンフィスに転居してきて以来、彼の音楽への関心は、リスナーとしても演奏者としても高まって行き、いつもギターを持ち歩き、いくつかのタレント・コンテストに応募した。
自分が住んでいた共同住宅の中庭や、プレスリー家族が収入オーバーで公営住宅から退去させられた後に借りた家の玄関先で、インフォーマルの集まりがあると、演奏して人々を楽しませていた。また、彼は一風変わった子供だった。目上の人には礼儀正しいがそっけない感じの生徒で、服装は華々しいもの(黒とピンクはお気に入りの組み合わせだった)を着て、派手なソックスを履き、複雑に盛った髪型にとかしていた。その髪型は、白人の観客しかいないハンディー・シアターHandy Theaterで日曜夜のショーに彼が見たであろう黒人演奏者の髪型だった。
多くの友人と同様にデューイ・フィリップスDewey Phillipsの番組、WHBQ局のレッド・ホット・アンド・ブルーRed Hot & Blueを聴いた。
これはメンフィスの放送局で、このフィリップスというヒルビリーの狂人(サム・フィリップSam Phillipsとは無関係)に、楽曲に捧げる言葉を読み上げさせたり、自由形式のコマーシャルをさせるだけでなく、自分でかけるR&Bのレコードにかぶせて歌わせたり、早口のおしゃべりをさせていた。
エルビスもチャーリーズCharlie’sというレコード店によく出入りしていたが、店内には試聴室でなく、販売するためのレコードを入れたジュークボックスがあり(ただし、かけるためには5セントが必要)、たくさんの熱心な音楽ファンを惹きつけていた。
エルビスは卒業した日の朝、テネシー州職業安定所Tennessee Employment Security Officeに出向き、M.B.パーカー・機械製作店 M.B. Parker Machinists’ Shopに就職したことが分かっている。
翌日働き始める。彼は歌に関連したものを探していたことも分かっている。多分レコードを作りたかったのだ。