クオリーメンThe Quarrymenは仕事を探していて、ポールとストゥはイギリスにたくさんあるサマー・キャンプの一つで仕事が欲しいと思い手紙を送ったが、このキャンプは家族が1~2週間行くもので、ダンス用の音楽エンターテインメントがあった。




もちろん、雇ってもらうには全く遅すぎたのだが、彼らはこのことを知らなかった。(一方、ロイ・ストーム&ハリケーンズRoy Storm and The Hurricanesはそのことを知っていて、1960年のシーズンには業界で最高のバトリンズ・ホリデー・キャンプButlin’s Holiday Campに雇われていた。)


ストゥの書いた手紙の原稿が出てきたが、その時の状況を良く捉えている。こう書いてある。「あなたの注意を、あるバンド、クオリーthe Quar『ビータルズBeatals』に、向けてほしい。」もちろん、この名前を思いついたのはジョンで、いうまでもなく、クリケッツThe Cricketsにインスパイアされたのだが、その名前が他のどのグループでもつけそうな、型どおりの誰かとか何かに当てはまらないことも気に入っていた。
(ジョンは、名前のスペルもちゃんと、ビートルズThe Beatlesとした。)ストゥの手紙が誰に狙いをつけたものかは誰も知らないが、一つ確かなことは、彼らは仕事にありつけず、1960年前半に演奏したわずかな仕事は、リバプール芸術大学でのもので、そこには彼らが使えるアンプがあった。ビートルズには、まだドラマーもいなかった。


そして4月16日、もっと幅広く紹介してもらえたはずの機会が消えてしまった。というのは、ツアー再開の前に長い休みを取ろうとヒースロー空港に向かったジーン・ビンセントGene Vincent、エディ・コクランEddie Cochran、エディのガールフレンドでありソングライターのシャロン・シャーリーCharon Sheeleyが、チッペンハムの街灯柱にすごいスピードで衝突した事故に巻き込まれからだ。
ジーンとシャロンは重傷だったが、エディは頭に大けがをして数時間後に病院で死亡した。(そして、バトリンButlinの出演予約と同様に、他のプロたちはビートルズに先行していて、ロリー・ストーム&ハリケーンズRory Storm and The Hurricanesは、すでにカス&カサノバスCass and The Cassanovasと一緒にツアー再開後のメンバーに加わっていた。)
それでもショーは続けなければならず、5月3日にリバプール・スタディアムにいたアメリカ人唯一の大スターはジーン・ビンセントだけで、ビートルズのメンバーはストゥとジョージだけだったが、もちろん聴衆としてである。ショーの後で全員がジャカランダthe Jacarandaに行き、そこではパーンズとウィリアムズが、今後の仕事をどのように一緒にやるかを相談していた。

パーンズのところには、ダフィー・パワーDuffy Powerとジョニー・ジェントルJohnny Gentleという北イングランドで演奏する二人の歌手がいたが、二人のバックで演奏する信頼できるアーティストが必要だった。
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ウィリアムズはスタディアムのショーのために12人のアーティストを集めたのだから、当然彼が相談相手になる。数日後、パーンズ事務所は折り返し電話してもう一つ注文したのだが、それは、ビリー・フューリーBilly Furyのためのバック・グループも必要だというものだった。ウィリアムズは10日の火曜日にミュージシャンを用意することに同意した。

