ブライアンは直ぐに仕事に取り掛かった。ファン・クラブは何もしていなかったので、ポールは、ガールフレンドの友達のロバータ・ボビー・ブラウンRoberta “Bobby “ Brownにそれを引き継いでもらった。
しかしブライアンはロバータに止めろと言い、二人で打ち合わせを行ったが、その結果彼女が実に有能であることが分かり、しぶしぶ承諾した。それからブライアンのところに、ドイツ・グラモフォンDeutsche Grammophon(Great Britain)に勤めているグラハム・ポンスフォートGraham Pauncefortが訪れ、親会社のポリドールPolydorがイギリスのポップ・ミュージックに進出するための計画に加え、クリスマスセールのことを話したがった。

結果的にDGは「マイ・ボニーMy Bonnie」を1月5日にリリースすると公表した。
グラハムは、時間を割いてビートルズの親(ジョンの場合はミミおばさんAunt Mimi)と会ったので、親たちはとても感動した。


特にモナ・ベストMona Bestは感動したが、ニールNeilの子供を妊娠していて、ビートルズ関連の仕事を削減しなければならなくなっていた。


ブライアンはEMIを訪問した後に手紙を送り、ケンプフェルトKaemphfertの契約書の翻訳を送ってもらったが、そこには、もしビートルズのマネージメント契約を更新しないと正式に通知にすれば、1962年6月末に契約が終了する、と書いてあった。

一方で、ビートルズがこそこそとやっていた仕事があり、それを果たさなければならなかった。地元音楽業界のサム・リーチSam Leachは、リバプールから200マイル離れた、狭義のロンドンの南西郊外にあるアルダーショットAldershotの仕事をビートルズに取って来た。

リーチは3つのバンドの宣伝を地元新聞に出したのだが、掲載されなかった。ほかの2グループはリーチの想像上の産物で、結局ビートルズは約18人に向かって演奏し、このライブはリバプールの写真家でビートルズの仲間のディック・マシューズDick Matthewsによって、実質的に誰も参加しなかったビートルズ最後のショーとして不滅のものとなった。

リーチは20ポンドをビートルズに約束したが、かろうじて自分のポケットマネーから12ドルを出すのが精いっぱいで、ビートルズは帰路にずっとリーチと口をきくのを拒絶し、ブライアン・エプスタインを出し抜いてビートルズをマネージすることによって儲けるというリーチの夢は露と消えた。
