1-25.リリー・メーベルLily Maebell-バレンタインズThe Valentines(リチャード・バレットRichard Barrett、トミー・バストラTommy Vastola、レイモンド・ブリッグスRaymond Briggs)
55年10月ラマRamaのシングルとして発売
レンズThe Wrensと同様に、バレンタインズは、ジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerの初期ドゥーワップ・グループの一つだったが、バレンタインズの方が成功し、リード・シンガーのリチャード・バレットRichard Barrettは1956-57年のロックンロール爆発の際に飛びきり重要な人物となった。
バレットは元々フィラデルフィアの出身で、いったんハーレムに移った後、ドリーマーズThe Dreamersというグループと一緒になり、日雇いの仕事をして少ない収入を補った。バレンタインズに改名して、ハイ・ワイスHy Weissのオールド・タウン・レーベルOld Town labelで最初にレコーディングし、小さな名曲「トゥナイト・キャスリーンTonight Kathleen」をレコード化した。
9か月後にグループはゴールドナーのラマ・レーベルRama Labelに移籍した。最初にリリースしたのは「リリー・メーベル」というストリート・ソングで、ぶっ続けのチャイムのように次々とタイトルを繰り返した。アラン・フリードAlan Freedは、悪名高きモリス・レビーMorris Levyとつながっていたおかげでゴールドナーの仲間だったので、この曲を放送してローカル・ヒットになり、フリードのライブ・ショーにたくさん登場するチャンスをグループに提供した。
1956年半ばにバレンタインズは、「ザ・ウー・ウー・トレインThe Woo Woo Train」(どんなコーラスだか想像できるかな?)が再び成功したが、この曲もその場で作ったもので彼らのライブ演奏におけるハイライトとなり、列車を意味する列になってステージに登場する振り付けだった。
後にヒットメーカーとなるデイブ・ベイビー・コーテツDave “Baby”Cortezを加わっても、1957年までグループはとても順調に行ったが、少なくともバレットはほとんどじっとしていることはかった。
1955にも、ゴールドナーの非公式A&Rになって、フランキー・ライモンとティーネージャーズFrankie Lymon & The Teenagersを連れて来て、大成功の結果をもたらした(「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブWhy Do Fools Fall In Love」を参照)。
バレットは続いて、リトル・アンソニーとインペリアルズLittle Anthony & The Imperials、シャンテルズThe Chantels、それ以外にも多くの成功したグループをゴールドナーのために見い出し、ソロのアーティストとして自分自身もマイナー・ヒットのレコードを出し、最終的にはガール・グループで、今日でも一緒に仕事をしているスリー・ディグリーズThe Three Degreesの創設者/マネージャーとしてさらなる成功を発掘した。