1-12.グロリアGloria-キャディラックスとジェシー・ポウエル・オーチThe Cadillacs, ウィthe Jesse Powell Orch(エスター・ナバロEsther Navarro)
54年7月ジョシーJosieのシングルとして発売
ボーカル・ハーモニーが50年代に、行儀の良いティーネージャーや非行少年の間でも流行するにつれ、少数の曲が新グループのハーモニー能力を測定する物差しとして役立ったのだが、「グロリアGloria」、そのうち特に評価の高いニューヨークのキャディラックスThe CadillacsのR&Bバージョンがたぶんリストの最初に来るだろう。もし、キャディラックスのバージョンのように「グロリア」を歌えなければ、そうだなあ…今の自分の本業を辞めるな。
キャディラックスはドゥーワップの歴史の中で割合幸せな物語の一つを経験したのだが、それは1954-1959年の有名なレコードのほとんどすべてでリード・シンガーを務めた、アール・スピード・キャロルEarl “Speedo” Carrollによるところが大きい。
派手な衣装と素晴らしいダンスの型が有名であり、絶頂期のキャディラックスはステージで他のグループのほとんどをかすませてしまうほどだった。それだけ言えば十分だ!有名なダンス振付師コールズとアトキンスColes and Atkinsのコーチを受けて、キャディラックスはジョシー・レーベルJosie labelで順調に活動している間、継続的に人気があり、1955年の「スピードSpeedo」、1958年の「ロメオRomeo」と「ピーカブーPeek-A-Boo」のポップ・ヒットを出した。
キャロルCarroll はその後1960年にコースターズThe Coastersに加入して、彼らの連続ヒットに貢献した。
この「グロリア」は、たくさんの他の曲名が、非常に多くの全く違った曲を表してきたが、最初、チャールズ・ブラウンとミルス・ブラザースCharles Brown and The Mills Brothersによって1948年に世に出たが、その時には歌詞とアレンジが少し違っていて、表現方法は完全にポップだった。
キャディラックスのマネージャーのエスター・ナバロEsther Navarroがこの曲を仕上げるまでに、R&Bのスタンダードに再構築された。キャロルはエコーが響く距離から、ほとんど目の前までそっと近づきながら、1954年のあの夏の日にオープニングの『グローリーア…グローリーア…チェリーイーア』と歌った。この歌い方はこの曲の一つの解釈で、この曲に近づいたが完成はされていない。
今日、『スピード』はニューヨークの生きるレジェンドであり、市内の地元の中学校では彼が働いていた周りの子供達からヒーローとみなされていた。再編成されたキャディラックスと一緒に今でも演奏(し、強い説得力を持って「グロリア」を歌って)いて、このエリアのいくつかのテレビ・ニュース・スペシャルの題材になり、テレビシリーズでも相談を受けてきた。このことに加えて、もう一つの要素――たまたま彼はこの地球上で最も素晴らしい人間の一人だということ――を加えれば、なぜ彼とキャディラックスがどこのロックンロール・ファンから敬われているかが飲み込める。