1939年夏――インク・スポッツThe Ink SpotsはデッカDeccaで最初のヒット――「イフ・アイ・ディドゥントゥ・ケアIf I Didn’t Care」――を出し、そのあと次から次へとヒットを連発したが、そのほとんどはリード・ボーカルのビル・ケニーBill Kennyをフィーチャーしたものだった。その年の後半、後にプラターズThe Plattersが巨大ヒットにする「マイ・プレーヤーMy Prayer」のオリジナル・バージョンを録音した。
1939-44年――ゴールデン・ゲート・カルテットGolden Gate Quartetが、黒人社会でヒット曲をたくさんリリースした。
1940年――インク・スポッツThe Ink Spotsが「フェン・ザ・スウォローズ・カム・バック・トゥ・キャピストラノWhen The Swallows Come Back To Capistrano」と「ウィー・スリーWe Three」を録音したが、この2曲のヒットソングには、後に『リズム・アンド・ブルースrhythm & blues』と呼ばれるボーカル・サウンドの気配があった。
1940年夏――キャッツ&フィドルThe Cats & The Fiddleは、多くのボーカル・グループな50年代に(もっとも有名なのはオリオールズThe Orioles)録音することになるスタンダードの「アイ・ミス・ユー・ソーI Miss You So」で成功した。
ゴスペル・グループのシャリオティアーズThe Charioteersも古典の「ソー・ロングSo Long」がポップ・チャートでヒットした。
1941-42年――フォー・クレフスThe 4 Clefsは「ディグ・ディーズ・ブルースDig These Blues」と「フォー・クレフス・ウギー4 Clefs Woogie」がヒットしたが、両方ともその時代のブギー・ウギーの流行に乗じたものだ。
1942年秋――ビルボード誌Billboardが黒人社会で売れている現代の黒人レコードの最初のチャート・ランキングであるザ・ハーレム・ヒット・パレードThe Harlem Hit Paredeを出版した。
1943年――ギターを特色とする男性カルテットのフォー・バガボンズThe 4 Vagabondsが「カミニン・オンナ・ウィング・アンド・ア・プレヤーComin’ In On A Wing And A Prayer」等、3曲のポップで成功した。
1944年――ボーカルとインストゥルメンタルのグループのファイブ・レッド・キャップスThe 5 Red Capsは、3曲のヒット曲を出した。
1945年――ハーレム・ヒット・パレードThe Harlem Hit Paradeがレース・レコード・チャートthe Race Records chartになった。
1946年――ゴスペル指向のボーカル・グループのデルタ・リズム・ボーイズThe Delta Rhythm Boysは「ジャスト・ア・シッティン・アンド・ア・ロッキンJust a Sittin’ And A Rockin’」で成功し、1945年にはジミー・ランスフォードJimmie Luncefordのバックで、彼の最大のヒットである古典の「ザ・ハニードリッパーThe Honeydripper」が成功した。
1946年夏――『密集』和声で知られるジュバレアーズThe Jubalairesが、アンディー・カークと彼のオーケストラAndy Kirk & His Orchestraと一緒にポップ・ヒット「アイ・ノウI Know」で成功した。
1947年春――ディーク・ワトソン・アンド・ブラウン・ドッツDeek Watson &The Brown Dotsとしてスタートし、フォー・チューンズthe Four Tunesとして1954年に2曲の全国ポップ・ヒットを出すことになるセンチメンタリスツThe Sentimentalistsは、女性歌手のサバンナ・チャーチルSavannah Churchillが歌う「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラブドI Want To Be Loved(But Only By You)」のバックで、ポップと『レース』の両方に成功した。