ドゥーワップの歴史における重要な出来事
1902年秋――RCAビクターの前身のビクター・トーキング・マシーン・カンパニーが黒人シンガー――バージニアのディンウィディー・カルテットDinwiddie Quartet――を始めて録音した。
このグループは、ゴスペル・ソングを5曲、『ポップス』の「ダウン・アット・ザ・オールド・キャンプ・グラウンド」を1曲録音した。
1910年代――ボーカル・グループがやっとポピュラー音楽として現れ、主に大学のグリー・クラブか、黒人ゴスペル・カルテットと聖歌隊として存在した。ボードビルの演奏者は当時の有名ポップ歌手で、上品な白人の観客を『怒らせる』ことなく黒人音楽を演奏するために、(アル・ジョルソンAl Jolsonのように)『黒い顔』でよく登場した。
1920年秋――マミー・スミスMamie Smithの2枚目のレコード「クレージー・ブルースCrazy Blues」が(宣伝によって)マスコミで注目を集め、黒人社会でとてもよく売れたので、大手レコード会社が黒人のエンターテイナーにスタディオの門戸を開放し始めた。
それ以前にはレコード会社は、アル・ジョルソンAl Jolsonやソフィー・タッカーSophie Tuckerなどのシンガーが『黒い顔』をまねてレコーディングしたが、それ以外の点では、黒人社会をまともな市場としてみなすことは無かった。
新たな黒人レコードはほとんどすべてが何らかのブルースで、レース・レコードRace Recordsという種別で販売されていた。
1921年――黒人が所有する最初のレコード会社ブラック・スワンBlack Swanが始まり、ブルースという形式だけに絞らずに黒人音楽の全領域を熱心に調べた。
20年代後半/30年代前半――少数の黒人アーティストがラジオで放送されるようになり、ゴールデン・ゲート・カルテットGolden Gate Quartetなどのグループは演奏を放送してもらうことによって、レコード売り上げが増えた。
世界大恐慌でレコード業界全体が不況になり、黒人のレコードは主にディスカウントやデパートのレーベルで生き残った。
1930年代――オハイオ出身の黒人家族のボーカル・グループのミルス・ブラザースThe Mills Brothersは、リードのいないハーモニーとバス・ボイスの中でボーカリストが楽器の真似をする、上品でリラックス調の『ポップ』サウンドで次々とヒットを繰り出した。
このグループは、ビング・クロスビーBing Crosby、エラ・フィッツジェラルドElla Fitzgerald、ルイ・アームストロングLouis Armstrongなどのボーカリストのバックを盛んに務め、1950年代半ば目でよく売れ続けた。
1939年――セラ・ジュビリー・シンガースThe Selah Jubilee Singersはとても尊敬されたゴスペル・グループで、40年代にわたってレコードが成功し、50年代初期にボーカル・グループのラークスThe Larksに発展して、黒人社会で売れるレコード・ヒットをたくさん出した。