そして、ジム・スチュワートJim Stewartが登場した。

スチュワートは銀行員でメンフィスでは定評があったが、大好きな趣味があり、それはカントリーのフィドルだ。ジムとその姉エステル・スチュワートEstelle Stewart Axton(同じく銀行員)は音楽が大好きなロックンロール・ファンで、最新の曲を追いかけていた。

エステルの同僚は、彼女のヒット曲を見極める能力に驚き、間もなくエステルは地元の卸売店まで走って行ってレコードを買い、職場で同僚に売って儲けた。ジムはその工程の反対側に入った。ジムが定期的に散髪しに行く床屋はマーシャル・エリスMarshall Ellisがやっていて、カントリー・ソングも書いて録音し、そのうちの一曲がカントリー・スターのハンク・ロックリンHank Locklinに取り上げられ、エリスが著作権を持っていたことから、大金を手にすることになった。

ジムは採算計算して出版会社を始め、スプートニクSputnikにちなんでサテライト・レコードSatellite Recordsという名前のレコード会社を、フレッド・バイラ―Fred Bylerというディスク・ジョッキー等数名と共同経営に乗り出した。

彼らはガレージにカーテンを吊るし、ジムの曲など数曲をバイラーが歌って録音した。
それは大失敗に終わったが、ジムは夢中になった。次にジムは、地元の男が歌うロカビリー・ナンバーをレコーディングしたのだが、それを聞いた人々によると本当に良かったという話だった。しかしエリスが出版のことをジムに教えたものの、流通については何も知らなかった。やがてエリスは引っ越し、自分のテープ・レコーダーも持って行ってしまったのだが、ジムの新しい床屋には娘がいて、ジムは才能があると思った。その上、その床屋はテネシー州ブランズウィックに貯蔵用ビルディングを持っていて20マイル離れていたが、レコーディング・スタディオを開くために使わせてくれた。ジムは事業をブランズウィックに移転し、エステルは新事業に憑りつかれ、サテライト・レコードが使うアンペックス350プロ用コンソール・テープ・レコーダーを買うため、自分たちの家を担保にして2500ドル借りることを夫に説得した。

その後、黒人男性5人組のベルトーンズThe Veltonesが、とても素晴らしい曲「フール・イン・ラブFool in Love」を携えてどこからともなく現れたが、この曲は過去にサン・レコードで歌ったハーモニーの未発表シングルだった。
![Veltones – Fool In Love / Someday – Vinyl (7", 45 RPM, Single), 1959 [r3260324] | Discogs](https://i.discogs.com/QhPsXy7C_bse_L5peZv-seAvJ1mfIB3JRFow8G7Q4VQ/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:599/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTMyNjAz/MjQtMTMyOTkxMjA1/Ny5qcGVn.jpeg)
準備は整った。彼らがどうしてブランズウィックに行くことになったのかというのは良い疑問で、エステルの息子のチャールズ・パッキー・アクストンCharles “Packy” Axtonが好きでよく行っていた黒人バーで大酒を飲んでいる時にたまたま出会ったのか、あるいは、リンカーン・ウェイン・チップス・モーマンLincoln Wayne “Chips” Momanがブランズウィックに行くのを勧めたのかもしれない。


リンカーンは、できたばかりのレーベルでエンジニア契約をする前、サン・レコードでロカビリーをしていたビリー・リー・ライリーBilly Lee Rileyと一緒にギタリストとしてツアーに行き、「フール・イン・ラブFool in Love」の著作権を半分持っていた。どのようにしてブランズウィックに行ったにせよ、ベルトーンズは「フール・イン・ラブFool in Love」をレコーディングし、ジムはそれをサテライト100として9月にリリースした。

ほどなくして、マーキュリー・レコードがやって来て、それを流通に乗せることになり、大ヒットにはならなかったが、サテライト・レコードは数百ドル稼いだ。エリスは正しかった。
