ゴーディはおそらくその名前が嫌いだったのだろうが、100ドル持っていなかったのかもしれない。
![Songs Of Berry Gordy[Import]](https://m.media-amazon.com/images/I/719NiVAphhL._UF1000,1000_QL80_.jpg)
ゴーディは短期間で大量のレコードをプレスし流通させるためにお金を払い、誰もが知っているお金は「カム・トゥ・ミーCome to Me」の販売によるお金だけで、それはユナイテッド・アーティスツUnited Artistsが当然の分け前として受け取ったのだ。


ある日、ゴーディはヒッツビルにあるピアノの前に座っていると、放課後に働いていた高校生の受け付け、ジャニー・ブラッドフォードJanie Bradfordがこう言っている。

「ゴーディは、リフを弾いて、私達は立って書き続け、歌詞を入れ、メロディを手直しして全体がまとまった。」「私達」の中にはバレット・ストロングBarrett Strongもいて、数名の白人高校生徒が、家から出る騒がしい音を聞きつけると、ベースやギターを抱えてこの場に入ってきた。

「歩いて行って、セッションに参加できるかと尋ねた」とストロングは後に思い出す。「それ以来、彼らには会っていない。誰だったかもわからない。真新しいヒッツビル・スタディオHitsvill studioの中で、その連中はドラムのベニー・ベンジャミンBenny Benjamin、タンバリンのブライアン・ホランドBrian Holland、ピアノのストロングStrongと共に座り、演奏が終わるとタムラの大ヒット曲が誕生した。


その連中は、「分かっていることを書いて」と言い、ゴーディとブラッドフォード(ゴーディは共同の著作権表示を与えた)は、その通りにした。

「マネーMoney(That’s What I Want)」は8月に、すぐ大ヒットしたので、全国で成功させるために、ゴーディはこのレコードを姉の所有するチェス流通レーベルのアンナ・レコードAnna recordsに、1960年初め使用許可を与えた。


そして売れに売れ、お金が入ってきた。
