唯一の問題は、彼がスポットライトを浴び、歌い始めた時なのだが、人々(当時のガールフレンドを含むと多くの人が言っている)がその雑音から逃れようと、バーへ向かったことだった。それでもトニーは自分を信じてできるだけ聴衆の前で演奏し、1952年までにはロニー・ドネガンLonnie Doneganと自称していたのだが、それは紛れもなく自分のアイドルであるロニー・ジョンソンLonnie Johnsonへのオマージュだった。
6月のある晩、ロニー・ドネガンの名前で、ロイヤル・アルバート・ホールRoyal Albert Hallにおいて18ステージの派手なショーを催したが、彼とギターだけだった。
自分でも認めたように、それはひどかったが、舞台では他の誰もしなかったことをやってのけ、批評家はともかく、観客は熱狂した。月末には再びフェスティバル・ホールFestival Hallのステージに立ち、ポスターによると企画がジャズ協会全国連盟the National Federation of Jazz Organisation、出演がイギリス、オランダ、スウェーデンのジャズ・ミュージシャン、そして二人のアメリカ人、ラグタイム・ピアニストのラルフ・サットンRalph Suttonと他ならぬロニー・ジョンソンだった。
もちろん、音楽家組合がアメリカ等外国のミュージシャンを禁止しているため、そのようなライブには出演できないと、ポスターに載っていた有名人が抗議して出演を取りやめたということがあった。ドネガンは組合に加入していなかったので、その後この仕事を受けた。しかしドネガンはとても緊張して、サパークラブ音楽ショーに出演した自分のアイドルであるジョンソンに、一言も話しかけなかった。そんな折り、クリス・バーバーChris Barberのバンドが解散したという知らせが届いた。
ドネガンはすぐにバーバーと連絡を取った。新バンド結成に当たって、ビル・コリヤーをマネージャーとして採用し、ウォータールー駅でケン・コリヤーと会った後、バンド名をケン・コリヤーズ・ジャズメンKen Colyer’s Jazzmenに代えた。
すぐにデンマーク・ツアーを行った。