これらのアーティストもすべて大人で、強い酒を提供するナイトクラブのお客にアピールし、ティーンエイジャーは行くことができなかった。この観客たちは可処分所得が多く、レコードを買う傾向が強かったので、R&Bマーケットには世代の広がりがあった。ルース・ブラウンRuth Brownのような演奏者は、もっと洗練されているか大人の楽曲をレコーディングすることによって、キャリアを延ばすことができると考え、一方で新人たちはここからスタートし、もし途中でティーンエイジャーを獲得できれば、なおさら結構だと考えた。
たぶんその典型的な例はリトル・ウィリー・ジョンLittle Willie Johnだ。
彼は子供のころから演奏をしていて、10代の頃、彼のクリスマス・シングルをリリースした連中と一緒にニューヨークに行ったとき、テレビを見ていて、カウント・ベイシーCount Basieが出演すると、その連中を置き去りにしたのだ。
ウィリーはそこから姿を消してテレビ・スタディオに走って行き、説得して生放送のテレビでベイシーのバンドの前面に立つゲストになってしまった。その間、彼の周りの人たちは、全く信じられないという思いで見つめていた。彼の最初のレコードはリズム&ブルース調の、「オール・アラウンド・ザ・ワールドAll Around the World」(後にリトル・ミルトンLittle Miltonによるバージョンのグリッツ・エイント・グローサリーGrits Ain’t Groceriesでより良く知られている)だったが、
サパー・クラブの分野に見事に入り込んだのは、1956年の「アイ・ニード・ユア・ラブ・ソー・バッドI Need Your Love So Bad」と、特に「フィーバーFever」の2曲だった。
「フィーバー」は2年後にペギー・リーのキャリアに再び火を点けることになった。
ウィリーはキング・レーベルからレコードを出し、シド・ネイザンSyd Nathanはジェームス・ブラウンJames Brownよりウィリーの音楽の方が好きだったことは間違いがないが、この二人の演奏者は後に親友となった。