しかし、全員が本業を持っていて、カールはそれが嫌だった。
べテル・スプリング・ショーthe Bethel Spring showの後に、カールは駐車場でエルビスに近づき、どんなにショーを楽しんだかを話した。
(エルビスには元気づけが必要だった。というのは、最後の曲の後、ステージ上のケーブルでつまずき、しりもちをついたのだった。)カールは、サン・レコードがアーティストを探しているかどうかを尋ね、エルビスは、分からない、と答えた。それは、それで終わった。そうだなあ、それを分かる方法はただ一つ。何年か後、パーキンスは伝記作家のデイビッド・マギーDavid McGeeに語った。
「プレスリーはうまくやった。僕がやろうとしていたことを正にやったのだし、それは聞いた瞬間に分かった。それなら、可能性があると分かり始めた。というのは、あのね、もし、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」をプレスリーが録音するなら、僕がしたって良い。だって、歌っていたんだからね。僕は愚かにも、サムのところに行って歌ったら、[サム・フィリップは]僕の歌を気に入るかもしれない、と考えたんだ。」
そこで、1954年10月、パーキンス兄弟はフルーク・ホランドの車に荷物を載せてサン・スタディオのあるユニオン・アベニューに向かった。
カールが入ってレコーディングについて尋ねるや否や、マリオン・ケイスカーは彼を追っ払った。
プレスリーで手いっぱいだから、タレントはもう必要なかったのだ。エルビスみたいに歌えるとカールは主張したが、彼女は、それじゃ役に立たない、と言い返した。しかも、サム・フィリップはそこにいなかったので、オーディションをしても無駄だった。カールは出て車に戻り、走り去ろうとしたちょうどその時、青くて大きい高級車ビュイックがスタディオの前に乗り付け、サムと思しき男が下りてきた。
カールは飛び出してサムをつかまえ、話を聞いてほしいと頼んだ。サムはいらいらしながらも、2~3分なら良いがそれ以上はダメだ、と言ってスタディオに案内した。何年か後に、サムはカールに、「もしダメと言ったらカールは終わりだっただろうが、カールの話を聞いて、的外れではないと思った。」と話した。アーネスト・タブを得意とするジェイが登場して自分のオリジナル曲を始めたが、サムはやめさせた。
それからジェイがタブのナンバーを歌い始めると、サムは、アーネスト・タブはもう存在している、と諭した。カールは数年前に書いた「ムービー・マグMovie Magg」という曲(実は一番最初に書いた曲)をすぐに始め、サムは聞いた。
サムは最後までずっと聞いた。そしてその時、サムはカールに、飛び回らずに演奏できるかと尋ね、カールはその頃には緊張していたが演奏した。サムは2回目の演奏はあまり魅力的でないが、曲は気に入ったと認めた。「もう1曲作って来てくれたら、レコード契約の話をしよう。でも今は、あのね、この男、エルビスで手一杯なんだ。」よし、やった、とカールは思った。カールは曲を書けるだろう。カールとサムは2週間後の約束をして、カールとバンドはジャクソンに戻り、その時が来るのを待った。彼らがスタディオに戻って来た時、フルーク・ホランドはドラム・セットを持っていたので、サムは少し驚いたが、乗ってきたのは彼の車だったので、セッティングを任せた。彼らは、「ムービー・マグMovie Magg」を、カールが完成させた全く新しいバージョンで録音し、それから新しい曲、「ホンキー・トンク・ギャルHonky Tonk Gal」を録音した。
サムは「ムービー・マグ」のB面としては気にいらなかったので、彼らは別のもっとカントリー調の、「ターン・アラウンドTurn Around」 を演奏した。
しかし、カールはたくさん用意していたので、すべてレコーディングする気満々だった。