当時、ビルボード誌はR&Bと「ヒルビリー」のレコードの地域チャートを出していたが、それが魅力的だった理由は、それぞれの地理的エリアは、両ジャンルで独特の嗜好を持っていたからだ。レコード番号、サン209はメンフィス・チャートにかなり早くから登場した。
それも当然で、サムはレコード・プレス工場への発注を、通常の試し注文枚数からすぐに、5千枚、さらには7千枚へと変更しなければならず、それだけ良く売れたということだ。レコードの宣伝も大変だった。もしシンガーが白人なら、なぜアーサー・クルーダップを歌っていたのか、そして、もし黒人なら、よりにもよってビル・モンローと何をしようとしているのか?
最初にこのレコードが手に入った場所はテキサス州で、ダラスのビッグ・ステイト・ディストリビューションBig State Distributionにいたアルタ・ヘイズAlta Hayesという宣伝担当の女性が何とか放送し、それからダラスのチャートに登場した。勢いづいたサムはグランド・オール・オプリGrand Ole Opryにコネを使い、エルビスが9月にショーでレコードの曲を歌うチャンスをもらった。
伝説とは違って、オプリのマネージャーであるジム・デニーJim Dennyは、エルビスにトラック・ドライバーの仕事を辞めるなとは言わす、実際には、目撃者によると、ジムはエルビスの演奏に少し感銘を受けたとのことだった。
そして、エルビスがたまたま舞台裏でビル・モンローにばったり会った時、モンローがエルビスに、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」をどんなに気に入っているかを話し、ビルはこの曲をワルツから4分の4拍子にアレンジし直して翌週録音すると告げたので、エルビスの最悪の恐怖は消えた。
エルビスは、スコッティ・ムーアにチェット・アトキンスChet Atkins(エルビスのあこがれの人)を紹介してもらい、オプリの次の番組であるミッドナイト・ジャンボリーThe Midnight Jamboreeがアーネスト・タブ・レコード店the Ernest Tubb Record Shopで開催されたとき、エルビスはタブと会話し勇気づけられた。
オプリとルイジアナ・ヘイライドLouisiana Hayride(カントリー・ミュージックで2番目に重要なライブ番組)に出演後しばらくして、エルビスはスタディオに戻り、次のシングル、「グッド・ロッキン・トゥナイトGood Rockin’ Tonight」をレコーディングした。