ある程度、というのは、同じサン・レコードという名前の他の2社も商売をしていることがすぐに分かったからだ。一つはニュー・メキシコ州でレコードを作って先住民に売り、もう1社はイディッシュ音楽を録音するニューヨークのレーベルだった。
サムはどうにかして相手に勝った。しかし、兄のジュドJudに頼って自動車にレコードの箱を積み込み、南部を自動車で乗り回って配給業者をあえて作らなかったために、販売が成功しなかったというのは紛れもない事実だった。
ビハリ兄弟the Biharisもチェス兄弟the Chess brothersもそうしなかった、ということはわかっている。
そしてサンは足場を築こうとして、自分がレコーディングしたアーティスト達をチェスにまだ送り込まなければならず、最も有名なのはハーモニカ・フランク・フロイドHarmonica Frank Floydだった。
サムは、自分の秘書兼右腕兼女性所長のマリオン・ケイスカーMarion Keiskerに、「もし正統派黒人サウンドを持った白人の男の子を見つけ出せれば、10億ドル稼げる」とよく話し、フロイドは「男の子」という部分を除けば、その要求にぴったりだった。
サムがフロイドのレコーディングを始めたのはその男の子が44歳だったが、サウンドはメディスン・ショーで南部の田舎を何年も旅して出来上がったものだった。チェス・レコードもフロイドのレコードを発売したものの、いったい誰に売っているのかは誰にも分からなかった。一方サムは、カントリー・ミュージシャンも含めて、誰でもレコーディングする気でいた。ナッシュビルとメンフィスはカントリー・ミュージックでライバルの歴史があったのだが、メンフィスはいつも負けていて、その原因の一部は、たくさんのメンフィスのカントリー演奏者が、少なくとも部分的に正統派のカントリー・サウンドとフィーリングを目指していたからだとサムは発見したのだろう。