次に来たのがアントワーヌ・ドミノAntoine Dominoという名前の22歳のピアノ奏者で、みんなは「ファッツFats」と呼んでいた。
ファッツのテーマ・ソングは、ニューオーリンズの別のピアニストのテーマ・ソングを少し書き直したもので、元の曲は、チャンピョン・ジャック・デュプリー”Champion” Jack Dupreeの「ジャンカー・ブルースJunker Blues」だった。
この歌詞はヘロイン使用を扱っていたので、リズム&ブルースのヒット・パレードを飾る運命にはなかった。しかし、「ザ・ファット・マンThe Fat Man」は、ファッツの特徴の右手3連符と愛想の良い声が功を奏して、世の中にあるどの曲とも違って聞こえ、1950年のR&Bチャートのトップは逃したが、インペリアル・レコードImperial recordsで今後12年間にわたって60曲近くヒットする最初の1曲になった。
その後、チャドとバーソロミューは、何で喧嘩になったか今ではわからないことで言い争いになり、バーソロミューは仕返しをする。
1952年初め、スペシャルティ・レコードSpecialty recordsのアート・ループArt Rupeは町中を探し回り、オーディションを催したがほとんどうまくいかずに、諦めようとした時、次の歌手が歌の途中で感極まって泣き崩れた。
アートは感動し、セッションを用意した。デイブ・バーソロミュー以上にバックをうまく使える人はおらず、しかもファッツ・ドミノがピアノを演奏していたのだ。ロイド・プライスLloyd Priceの「ローディー・ミス・クローディLawdy Miss Clawdy」がファッツ・ドミノのレコードにならなかった理由は、プライスが歌ったことに他ならない。
この曲は1952年のR&Bとしては最もよく売れ、白人のティーンエイジャーにもたくさん売れた。ただし、チャート入りするほどではなかったが、アラン・フリードAlan Freedとハンター・ハンコックHunter Hancockが注目するには十分だったし、ルー・チャッドLew ChuddはバーソロミューDave Bartholomewに、復帰を懇願するほどだった。
何らわだかまりがないことを示すために、バーソロミューはほかのレーベルで働くことが許され、ロイド・プライスがアラディン・レコードAladdin recordsでレコーティングすることも認められたが、この案は数人のティーンエイジャーがコズィモ・スタディオで作ったデモを聞いたメスナー兄弟によってストップをかけられた。
そのティーンエイジャー達は、白人が自分たちを探しているのはトラブルになっているからだと思い逃げ回っていて、探すのに数日を費やしたが、メスナー兄弟がいったん見つけると、グループのほとんどを解雇させ、シャーリー・グッドマンShirley Goodmanとレナード・リーLeonard Leeのデュオを組ませたところ、シャーリー&リー Shirley&Leeとしてレコード上のロマンスは、その後何年もティーンエイジャーを魅了した。
プライスは1954年に徴兵されるまで、スペシャルティでレコーディングを続けた。