レナード・チェスLeonard Chessがたまたま町にいて、前年にビハリ兄弟The Biharisがしたようなスカウト遠征をし、この曲を聞いた。
これはヒットすると思い、その場でフィリップスから買い取り、他に売り物のマスター盤があるかどうかを尋ねた。実は、フィリップスは持っていた。それは、ターナーが見つけた非常に珍しい演奏者で、アーカンサス州ウェストヘレナ出身の巨漢の41歳元農家によるレコードで、一生ブルースを歌い、若いころにチャーリー・パットンCharley Pattonと一緒に旅したことがあった。
チェスター・バーネットChester Burnetはギターとハーモニカを演奏したが、本当の持ち味は声で、サム・フィリップスは、これを「人間の魂が決して死なないところ」と印象的に表現し、バーネットの芸名ハウリン・ウルフHowlin’ Wolfの信憑性を高めることになった。
彼の演奏は恥ずかしげもなく古風だったが、若い演奏者で構成されたバンドを維持していたので、世代を超えて受け継がれた。チェスはフィリップスの持っていたレコードを受け取り、シカゴに持ち帰った。チェスが選ばなかったレコードは、サムがモダン・レコードModern recordsに送った。
それから、ある人にとっては残念なことが起きた。「ロケット・エイティエイト」が、その名の通り、上昇して軌道に乗ったのだ。ビハリ兄弟は不愉快だった。その理由は1951年最大のヒットの一つが、最初に自分たちのところに提案されずに、最大の競争相手にそのまま売られてしまったからだ。アイク・ターナーも不愉快だったのは、このレコードが、アイク・ターナー&ヒズ・キングス・オブ・リズムIke Turner and His Kings of Rhythmの名前でなく、ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツJackie Brenston and His Delta Catsの名前で発売され、ジャッキー・ブレンストンがフィーチャーされたことだった。
この結果、ビハリ兄弟はフィリップスや彼のスタディオとの取引をもうこれ以上するのは止め、ターナーもフィリップスやチェスとの取引を止めた。チェス・レコードは、全面的勝利をおさめてフィリップスとの関係を維持し、まだ気が付いてはいなかったが、ハウリン・ウルフという、今後何年もレーベルを支えることになる重要なタレントを手に入れたのだ。一方で、ビハリ兄弟は、BBキングをぜひレコーディングしたかったが、町にはサムのスタディオしかなかった。確かに、アイク・ターナーとのつながりがなければ、他に選択肢はなかったが、アイクは黒人YMCAに立ち寄り、ビハリ兄弟にレコーディングする場所を見つけたと話した。
ジョー・ビハリJoe Bihariはテープ・レコーダーを2台引っ張って町に来て、アイクは体育館の壁に掛ける毛布をたくさん見つけ、二人は録音に取りかかった。
BBはローウェル・ファルソンLowell Fulsonの古い曲「スリー・オクロック・ブルーシーズThree O’Clock Blues」など数曲をレコーディングし、アイクはピアノを弾き、YMCAが部屋を戻せというまで、ビハリもジョニー・エースJohnny Aceやボビー・ブランドBobby Blandなどアイクが推薦した地元の人たちと一緒にセッションに参加した。
ジョーはテープ・レコーダーを片付けてロサンゼルスに向かい、「スリー・オクロック・ブルース」を年末に向けてリリースした。B.B.はすぐにそのことを忘れてしまったが、ビハリが送った電報にはこの曲が10万枚売れ、まだ勢いを増しているとあった。