一曲で二人のキャリアが始まったのだが、二人には一線を画すものがあった。
ベストセラーのブルース曲はあまり露骨にセックスを表現することはまれで、揺さぶるという意味の「ロッキン」という歌詞は、ダンスや音楽演奏に関するものだったのかもしれないが、「彼女を力いっぱい抱きしめる/彼女は今晩俺がものすごく力強い男だとわかる」という対句がある。露骨ではあるものの誰も過度に騒ぎ立てなかった。「黒人が演奏してるだけだから」であって、白人バンドがこんな曲を演奏したり、影響を受けやすい白人の子供たちが聴くことはないからだ。たぶん、WLAC局からそんなレコードを買う人間以外は聴かない。思った通り、レコード店はすべてキング・レコードの入った小包を提供し、少なくともヒット曲を1曲入れてごまかした。そしてミシシッピ州トゥペロからメンフィスに最近引っ越してきたティーンエイジャーのエルビス・プレスリーElvis Presleyは、そこでレコードを手に入れたのではないかもしれないが、それを手に入れて繰り返し聞いたのだ。
母親のことが好きな良い子で、日曜になると母親と一緒にいつも教会に行ったが、時には、自分たちの教会での礼拝が終わってから、母親を説得して、その先にある黒人の教会にも行くこともあった。
しばしばそれができた。たとえ内気ではあっても極めて説得力があるので、母親のグラディスは、だめだとは言いにくいと思っていた。
エルビスは気づいていなかったかも知れないが、あまり有名でないゴスペルの巡回ツアーの音楽と同様に、黒人教会の音楽は変わりつつあった。レコード会社にとってゴスペル・ミュージックはあまり儲からなかった。なんといってもレコードのほとんどはジュークボックスのオペレーター向けに販売され、バーのジュークボックスで、悔い改めるよう忠告するような曲だけは聞きたくないのだが、ともかくレコーディングする会社もあった。
スペシャルティ・レコードSpecialty Recordsのアート・ループArt Rupeはファンとしてゴスペル・ミュージックが好きで、現場の販売員が得意先の小売店に売るときには「われらの宗教商品」を勧めるように命じた。彼がゴスペルのレコーディングを始めたのは1947年で、ジェームズ・ペトリロJames Petrilloが自分のミュージシャン組合に最後のストライキを呼びかけて、インストゥルメンタル奏者にレコーディングを禁止した時だった。
問題なかった。最も人気のあるゴスペル・グループの中にはボーカル・アンサンブルもいて、楽器を使わずに歌うことでアレンジを磨き、最後にピアノやギター、オルガンを加えるだけだった。ピルグリム・トラベラーズThe Pilgrim Travelersは、ループにとって最初のグループで、過去と未来の完全な架け橋だった。
このグループは1930年から存在して、長寿のゴスペル・グループと同じように、中核以外のメンバーを変えていたが、このケースでコアだったのはジョー・ジョンソンJoe Johnsonと二人のデービスDavis兄弟だった。ループと契約するまでには、ジョンソンとデービス兄弟はとっくにいなくなっていて、グループはJWアレクサンダー J.W. Alexanderの優れたリーダーシップの下にいたが、アレクサンダーは、リード・ボーカルとバックにリズミカルな音節を奏でるグループという古いスタイルから脱却して、ソロ・ボーカリストがリードして全員が同じ言葉をハーモニーで歌うという、もっと現代的なスタイルに移行した。
これは、1930年代にミルス・ブラザースThe Mills Brothersなどの黒人ポップ・グループが開発したので、必ずしも新しいスタイルではないが、ゴスペルにとっては新しかった。
ゴスペルは毎週教会の礼拝で演奏されるわけではなく、牧師か音楽指導者と教会自体の聖歌隊がリードして歌う人々が中心となるものでもなく、どちらかと言えば、よりショービジネス的背景のもとで、規模の大小はともかく、旅芸人をフィーチャーした特別なショーだったということが重要だ。