ある意欲満々のミュージシャンがメンフィスのユニオン・アベニューUnion Avenueの建設現場に立ち寄ったのだが、そこには、陸軍通信部隊から出てきたばかりの赤毛の男が、現在地元ラジオ局にエンジニアとして雇われていて熱心に働いていた。
そのワンマン・バンド・ミュージシャン、ジョー・ヒル・ルイスJoe Hill Louisは、その男に何をしているかを訪ねた。
「ひとたびビル建設が済んだら、ここにレコーディング・スタディオを建てるつもりだ」と男は答えた。「うわっ。それこそメンフィスにぜひ必要なものだ」とジョー・ヒルは言った。まさしくそうだった。ジョー・ヒルはコロンビア・レコードColumbia recordsと契約をして、地元でレコーディングできれば、自分やほかのアーティストが考えていることにぴったり合う。
多くのレコーディングは、放送が休止中の夜間にラジオ局でまだ行われていたが、専用のレコーディング・スタディオならもっと高音質のサウンドが実現できる。メンフィスの黒人タレントの中には、ジム・ブレットJim Bulleitのブレット・レコードBullet Recordsがブルースのレコードを出しているナッシュビルまではるばる行く者もいたが、メンフィスはシカゴと同様に、若いファンが好むものの、ブレットが理解できない余分な装備をそぎ落としたエレキ・サウンドを開発していた。
しかし、1950年にサム・フィリップスSam Phillipsがメンフィス・レコーディング・サービスthe Memphis Recording Serviceを開店するや否や、人々は自分の腕前を聞かせに現れ始めた。
フィリップスはすぐにラジオ局時代から知っている女性のマリオン・ケイスカーMarion Keiskerを採用して手助けしてもらった。
フィリップスは、自分がミュージシャンを惹きつける完璧な立ち位置にいるということが良くわかっていた。その理由は、黒人がミシシッピ・デルタから北に上って、そのまま居続ける状態が何十年間も続き、ミュージシャン仲間は自分たちの作りたい音楽をナッシュビルが牛耳っていることに、強く憤慨していたからだ。こうして、サムは自分がなんと幸運であるかが分かった。
もっと北にはシンシナティがあって、あらゆる種類の黒人と白人ミュージシャンが偶然地理的に集まる場所となっており、キング・レコードKing Recordsが1943年から操業して、レコーディングするのはほとんど、この地域にあふれている変わった種類のヒルビリーだった。キングを支えていたのは、あまり目が見えず怒りっぽいユダヤ人のシド・ネイザンSyd Nathanで、その担当医は現在よりももっとストレスの少ないビジネスをやりなさいと言ったので、レコード店を開きジュークボックス用の中古レコードを売った。
これがきっかけで、ネイザンはキング・レコードを設立し、WLWラジオ局でライブ放送された曲を聞いてリリースしたが、その中にはオハイオ州ではいつもよく売れていたブルーグラスなど、ナッシュビル以外のカントリーのアーティストもいた。
しかし、ネイザンの流通業者たちは「レース」のレコードに対する要望が強いと言ったため、シドはクイーン・レーベルQueen labelを設立し、すぐにキングと合併した。みんなの話では、フィリップスと違ってネイザンは最初、自分が何をしているか分からなかったのだから、本当にラッキーだった。