1958年、ジョニーはリバティ・レコードLiberty Records傘下のフリーダム・レコードFreedom Recordsとレコード契約を結んだ。1958年にフリーダム・レコードで6曲中5曲を書き、レコーディングした。同年、フリーダム・レコードは廃業し、彼はリバティ・レコードに移籍した。リバティ・レコードからリリースした最初の2枚のシングルは地域的には好調だったが、ビルボードにチャートインすることはなかった。リバティからリリースした3枚目の「シンシナティ・ファイアボールCincinnati Fireball」と「ドリーミンDreamin」はヒットした。
「ドリーミン」はすぐに1960年のビルボード11位にチャートイン。B面はジョニー・バーネットの典型的なロカビリー・ソングだ。「ドリーミン」が特別だったのは、オーケストラが加わっていたことだ。
同年リリースされたジョニー4枚目の「ユア―・シックスティーンYou’re Sixteen」はチャート8位。
「ユア―・シックスティーン」は「ドリーミン」よりもさらに良い成績を収め、ゴールド・レコードを獲得した。1961年には「リトル・ボーイ・サッドLittle Boy Sad」と「ダウン・トゥ・ザ・リバー(I Go) Down To the River」をリリース。「リトル・ボーイ・サッド」はビルボード17位にチャートインした。
ビルボードでの最後のヒットは、1961年の「ゴッド・カントリー・アンド・マイ・カントリGod, Country And My Country」(チャート18位)と「オネストリー・アイ・ドゥHonestly I Do」である。
リバティ・レコードでのレコーディングは1962年が最後となる。チャンセラー・レコードChancellor Recordsに移籍し、3枚のシングルをリリースしたが不発に終わった。1963年、兄のドーシーと共にチャンセラー・レコードからシングルをリリースした。その後、ジョニーはキャピトル・レコードCapitol Recordsと1年間のレコード契約を結んだ。彼はかなりの数の曲をレコーディングしたが、キャピトルはその中から数曲だけを選んでリリースした。
契約終了後、彼はキャピトル・レコードを離れ、1964年にサハラ・レコードSahara Recordsという自身のレコード・レーベルを立ち上げた。サハラからシングルを1枚リリースしたが、サハラという名称ががすでに使われていたため、レーベルをマジック・ランプMagic Lampに変更せざるを得なかった。ジョニーはこの新しいレーベルから1枚のレコードをリリース。どちらもチャートには入らなかった。
その年、ジョニー・バーネットはカリフォルニアのクリア湖でのボート事故で命を落とした。彼の曲「ユア―・シックスティーン」はロカビリーの殿堂入りを果たした。ドーシー・バーネットは多作なソングライターであり、ロカビリー・アーティストだった。1960年に「トール・オーク・トゥリー(There Was A) Tall Oak Tree」をヒットさせ、チャート23位を記録した。
ジョニー・バーネットとドーシー・バーネットは、プレスリーが初めてロカビリー・レコードを出す2年前の1952年にキャリアをスタートさせたロカビリー・ソングライターであり、ロカビリー・ミュージシャンだった。ジョニーとドーシーはロカビリー音楽の真のパイオニアであり、ロカビリーの殿堂、ロックの殿堂に入るにふさわしい。