レイ・チャールズRay Charles(1930-2007)ジョージア州オールバニー
ジョージア州オルバニーにおいて、母親は小作人、父親は鉄道員、機械工、便利屋で、レイ・チャールズ・ロビンソンRay Charles Robinsonとして生まれる。
レイが幼い頃、一家はフロリダ州グリーンビルの貧しい黒人居住区に引っ越した。幼い頃、レイはカフェで男がブギウギをピアノで弾くのを聴いた。兄の死(バスタブで溺死)を目撃し、数年後の人生で罪悪感を抱くことになる。レイは7歳の誕生日までに失明し、1937年から1945年までフロリダ州セントオーガスティンの盲学校に送られた。
レイの父親は彼が10歳のときに亡くなり、母親はその5年後に亡くなった。学校ではクラシック音楽を教わった。彼はラジオから流れるジャズやブルースを好んだ。レイは学校行事で機会があるごとに演奏し、学校の人気者になった。
レイは学校でショップ・ボーイズThe Shop Boysというグループを結成する。ある時期、彼はフロリダのタラハシーにホームステイした。彼はさまざまなバンドで演奏するようになり、タラハシーのレッド・バード・クラブthe Red Bird Clubにたどり着く。
1946年までにレイは盲学校を去り、15歳でフロリダ州ジャクソンビルの家族(母親の友人)の家に住むようになった。彼はその地域のさまざまなバンドで演奏し、転々としてフロリダのオーランドやタンパに行き、ピアノを弾いたり歌ったりしていた。
レイは1947年にフロリダを離れ、ワシントン州シアトルに引っ越す決心をした。すぐにロバート・ブラックウェルRobert Blackwellとクインシー・ジョーンズQuincy Jones(ミュージシャン)に出会い、最初の曲「コンフェッション・ブルースConfession Blues」(チャールズ作)をダウン・ビート・レーベルDown Beat Labelでレコーディングし、リズム&ブルース・チャートで2位を獲得した。
1952年にはスイング・タイム・レコードSwing Time Recordsに移籍し、「ベイビー・レット・ミー・ホールド・ユア・ハンドBaby Let Me Hold Your Hand」5位と「キサ・ミー・ベイビーKissa Me Baby」8位の2曲を同レーベルのために書いた。
レーベルは倒産し、エイハム・アーティガンAham Artegun(アトランティック・レコードAtlantic Recordsのオーナー)は1952年にレイと契約した。アトランティック・レコードは、1948年に始まったリズム&ブルース専門の黒人独立系大手レコード・レーベルのひとつだった。レイは1953年までアトランティック・レコードでほとんど鳴かず飛ばずだった。アーティガンはチャールズのために「メス・アラウンドMess Around」という曲を書いた。
この曲はチャールズのアトランティックでの最初の大ヒットとなり、その年に「イット・シュッドゥ・ハブ・ビーン・ミーIt Should Have Been Me」と「ドント・ユー・ノウDon’t You Know」の2曲が続いた。