ニール・セダカNeil Sedaka(1939-現在)ニューヨーク、ブルックリン
ニールの父はトルコ系移民の息子でタクシー運転手だった。母親はロシア系ポーランド人。
セダカは小学校2年生のときに音楽の才能を発揮し、教師の勧めもあって、母親は1947年に副業をしてピアノ・レッスンの授業料を稼いだ。ニールはジュリアード音楽院の子供のための準備部門に入学した。
13歳のときに、16歳で作詞家志望のハワード・グリーンフィールドHoward Greenfieldと出会い、一緒に仕事をするようになる。
高校時代、ニールはリンク・トーンズThe Linc –Tonesというドゥーワップ・グループを結成。
彼らはトーケンズThe Tokens(後にライオンは寝ているThe Lion Sleeps Tonightをリリース)に改名し、メルバ・レコードMelba Recordsで2曲レコーディングした。「アイ・ラブ・マイ・ベイビーI Love My Baby」と「ホワイル・アイ・ドリームWhile I Dream」である。
セダカはグループの女性メンバーと交際を始め、トーケンズの他のメンバーはニールにグループからの脱退を求めた(グループは、ニールが自分たちの曲のリード部分をすべて彼女に渡したと感じていた)。
1957年、セダカはデッカ・レコードDecca Recordsでの初のソロ・レコード、「ローラ・リーLaura Lee」と「スノウ・タイムSnow Time」の2曲を書いた。
セダカは義理の兄ともう1曲書き、その曲「ネバ―・アゲインNever Again」は、ダイアナ・ワシントンDiana Washingtonが1958年にマーキュリー・レコードMercury Recordsでレコーディングした。
ソングライター・チーム(セダカとグリーンフィールド)は、自分たちの曲をブリル・ビルに持ち込むことになる。このチームは、コニー・フランシスConnie Francisが録音した 「間抜けなキューピッドStupid Cupid」と「フォーリンFallin」でついにビルボード・チャートにランクインした。