1964年12月11日、発砲事件の疑いがあり、ロサンゼルス警察がハシエンダ・ホテルthe Hacienda Hotelに出動したところ、サム・クックが事務長のバーサ・フランクリンBertha Franklinに3発打たれ、オフィスの床で死亡しているのを発見した。
当局の捜査は、サム・クックがその夜一緒にチェックインした若い女性をレイプしようとして命を脅かしたと主張するバーサ・フランクリンの証言に基づき、正当な殺人事件と断定した。
フランクリンは警察に、クックがコート一枚で激昂して彼女のオフィス(彼女のアパートでもあった)に押し入り、一緒にチェックインした若い女性はどこにいるのかと尋ねたと語った。フランクリンはクックに、彼女はオフィスにはいないと告げると、クックは攻撃的になり、彼女に暴力をふるった。揉み合いになり、彼女は床に押し倒され、身の危険を感じて銃に手を伸ばし、彼を3発撃った。
サムは、プロデューサー夫妻と食事をしていた高級イタリアン・レストランで、エリサ・ボイヤーElisa Boyerという22歳の若いアジア人女性をナンパした。
彼はその若い女性がバーで数人の男性と一緒にいるのを見つけ、すぐに彼女と二人きりになった。彼女は歌手や女優を目指していたので彼を誘ったという話もある(彼女はサム・クックだと認識していた)。目撃者の証言によると、サムは彼女を殴っていた男とケンカになり、午前2時ごろバーを出た。ボイヤーは、家まで送ってくれるよう頼んだが、サムはそれを拒否し安ホテルに連れて行ったと証言している。しかし証拠によれば、彼女はクックから逃げるチャンスは何度もあったのに何もしなかった。クックの死から数週間後、彼女はハリウッドの通りで売春の廉で逮捕された。ボイヤーはまた、自分の服ではなく間違えてクックの服を拾って部屋から飛び出し、クックにレイプされそうになったと証言した。そうなると、クックは怒りで気が動転し、この少女を見つけたいと思った理由も説明がつく。あの夜、ホテルの一室でクックとこの少女に何が起こったのか、真実は誰にもわからない。
事務長のバーサ・フランクリンとこのアジア人女性のエリサ・ボイヤーは、クックがバーでかなりの金額を見せていたことから、クックから金を奪うために詐欺を働いたのではないかと推測する者もいた。これは捜査では証明されなかった。興味深いことに、1979年、ボイヤーはボーイフレンドに対する第二級殺人罪で有罪になった。クックの死亡当時、ボイヤーはプロの売春婦であり、いかがわしいハシエンダ・ホテルはLA地区の売春婦が利用する一晩3ドルの宿であったことが判明している。ひとつ確かなことは、サム・クックはあの夜、無垢な高校生や大学生の女の子をナンパしたわけではないということだ。クックの死亡時のアルコール血中濃度は0.16(0.08は運転してはいけない法定レベル)だった。このことから、クックが一晩中アルコールを飲み過ぎていたという、レストランの人々の話も納得できるだろう。
このいかがわしいホテルの事務長には、かなり長い犯罪歴と前科があった。世の中の多くの裁判と同様、人々は常にクックの死の動機と、正当殺人という認定が彼の死を妥当に判断する理由なのかどうかに疑問を呈してきた。クックには個人的な問題があり、尻軽女や売春婦に惹かれることが多かったからだ。クックは音楽業界にはめられた(彼は多くの敵を作った)と多くの人が言っている。今日、多くの人が、その証拠は辻褄が合わないと感じている。当局は捜査の再開を検討してきた。しかし、関係者のほとんどは現在生きていないため、その可能性は非常に低い。
サム・クックの伝記作家が最近ラジオのインタビューに答え、クックの死について質問された。クックに起こったことは、当時のアメリカの黒人文化においてあまりにも頻繁に起こっていたことであり、ロサンゼルスの当局は正しく理解していたのだ。サム・クックのような才能あるミュージシャンが、自己破壊的な生き方のために若くして命を落とすことは、あまりにも多い。サム・クックはロックンロールのレジェンドであり、本当に惜しまれる。クックはソングライター、リズム&ブルース、そしてロックの殿堂に名を連ねている。彼は29歳で早すぎる死を遂げた。