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それから1年後の1954年、サム・フィリップスはオフィスで、黒人のように聞こえる白人シンガーを見つけようと大声で話していた。マリオンはすぐに少年のテープをサム・フィリップスに渡した。
サムは少年に電話をかけ、オーディションをセッティングした。1954年1月24日、少年はサム・フィリップスのオーディションを受けた。オーディションの終わりに、サムは彼をレコーディングしたいかどうか迷っていた。1954年春のある日、サム・フィリップスは「ウィズアウト・ユーWithout You」という曲のデモを入手した。
マリオン・ケイスカーはフィリップスに、「長いもみあげ」の少年にこの曲を歌わせることを提案した。サムはそれに同意し、その少年を2度目のオーディションに連れ戻した。それからは接触しなかったが、フィリップスはその少年のことが頭から離れなかった。1954年7月5日、少年はサン・スタジオに戻り、フィリップスは彼をギタリストのスコッティ・ムーアScotty Moore、ベーシストのビル・ブラックBill Blackと組ませ、リハーサルするよう勧めた。
その日、ロカビリーのサウンドが生まれ、エルビス・プレスリーElvis Presley(少年の名前)がサン・レコードでレコーディングを始めたらしい。エルビスの最初のレコードは「ザッツ・オール・ライト・ママThat’s All Right Mama」と「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキーBlue Moon Of Kentucky」だった。
「ザッツ・オールライト・ママ」は、ミシシッピのブルース・シンガー、アーサー・ビッグ・ボーイ・クルーダップArthur Big Boy Crudupの1946年のレコードだ。
この曲は1954年7月19日にリリースされ、メンフィス地区の白人ティーンエイジャーの間で大ヒットとなった。サム・フィリップスの兄(ARマン)は、このレコードをクリーブランドのアラン・フリードAlan Freedのところに持っていった。
フリードはフィリップスに、自分のラジオ番組ではカントリー・ミュージック(彼はこの音楽を嫌っていた)は流さないと言った。この曲のオリジナルが黒人レコードだとフリードが知っていたかどうか、確かなことは誰にもわからない。