ロックンロール誕生 17

アランフリード⑥

ラジオ・ビジネスにおけるペイオーラの慣行は古くからあり(違法ではない)、フリードは委員会に対し、レコード会社からペイオーラを受け取っていたことを認め、しかもそれが悪いことだとは思っていなかった。委員会は後にディック・クラークを呼び出すことになるが、彼はレコード会社からペイオーラを受け取っていないと話した。委員会はフリードを訴追することはできず(ペイオーラを禁止する連邦法はない)、調査を打ち切った。1959年以降、ペイオーラは違法となる。フリードが委員会で証言する前に、WINSはフリードに、WINSラジオにいる間はペイオーラに関与していなかったという宣誓供述書にサインするよう求めたが、彼は拒否し、1959年に解雇された。

NY Radio Archive - WINS 1010Rock 'n' Roll Payola: Dick Clark and Alan Freed - In These Times

委員会がラジオ業界内のペイオーラを調査すると発表したことで、ラジオ業界全体に疑心暗鬼の波が押し寄せた。全米のラジオ局が、連邦通信委員会が免許を取り上げるのではないかと恐れたのだ。当初、アメリカ中のラジオ局は、ディージェイに対して、過去にペイオーラに関与したことがあるのなら、「ラジオ局から立ち去って、戻って来るな」と言った。その後、ラジオ局の幹部はディージェイたちに、自分の局でペイオーラに関与していないという宣誓供述書にサインするよう求めるようになった。拒否は解雇を意味した。ペイオーラはアメリカ中のラジオ業界に広く蔓延していたので、今やラジオは危機に陥っていた。
1954年、カンザスシティの中西部のラジオ局幹部2人が、地元のバーでビールを飲んでいた。幹部のひとりが、バーで特定の曲が何度も何度もかかっているのに気づいた。彼(トッド・ストルツTodd Storz)はジューク・ボックスに行き、レコードが40枚しか入っていないことに気づいた。こうして「トップ40のフォーマット」が誕生した。

REELRADIO: A Stamp for Storz? Proposal to Commemorate the Father of Top 40Todd Storz Graphic - KATI Radio Casper

中西部のいくつかのラジオ局がトップ40の番組フォーマットを始めた。ディージェイは「ビルボード誌のウィークリー・トップ40フォーマット」の曲しかかけられなかった。中西部のラジオ局は大成功を収めたが、ディージェイがアメリカ中のラジオ業界を支配するのを止めることはできなかった。一方で、トップ40というフォーマットは、ラジオ業界が直面していたペイオーラ危機を解決するものだった。
トップ40フォーマットによって、ラジオ局幹部はディージェイを完全にコントロールできるようになり、より重要なことはペイオーラの動きを止めたことだ。これによってアメリカにおけるディージェイの時代と、ロックンロールの誕生が終焉を迎えた。アラン・フリードは犠牲者となって、その後いくつかのディージェイの仕事をクビになり、1965年に43歳で慢性アルコール中毒に関連した病気で命を落とす(失恋のためという説もある)。しかし、フリードは生前、ペイオーラ(ニューヨーク州にはペイオーラ法があった)で有罪となり、300ドルの罰金と6ヶ月の執行猶予付きの判決を受けることになる。フリードはロックンロールの父として知られ、ロックの殿堂the Rock ‘n’ roll Hall of Fame入りしている。

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