4-8.ブルー・ムーンBlue Moon-マーセルズThe Marcels(リチャード・ロジャースRichard Rodgers、ローレンツ・ハートLorenz Hart)
61年2月15日録音、61年2月コルピックスColpixのシングルとして発売:R&B3位、ポップ1位
もしマーセルズが他にレコードを出さなくても、ブルー・ムーンのやかましく元気いっぱいのアレンジによって、ロックンロールの殿堂入りは確実だったろう。この曲が1961年初めにリリースされて、ロックンロールに何が起きたのかと考えている多くのティーネージャーに向けて、『ボンプ・ババボンプス』が放送されたときのインパクトの大きさ――と差し迫った感じ――は、今日では言葉に表すのが難しい。
1961年初めの状況はおぞましかった。マーセルズ以前には、チャートのトップになった2曲がローレンス・ウェルクLawrence Welk(ちぇっ)とドイツのオーケストラ・リーダーのベルト・ケンプフェルトBert Kaempfertだった――確かに、踊りたくなるようなエネルギッシュな曲ではなかった。
バディ・ホリーBuddy Holly、リッチー・バレンスRichie Valens、ビッグ・ボッパーThe Big Bopperは死に、エルビスは軍隊から出てきたばかりであり、リトル・リチャードLittle Richardは宗教に専念し、チャック・ベリーは監獄への道を歩んでいた。
どんな望みが残っていたのか?
望みはあり、必要なのは、ピッツバーグ出身の、この黒人と白人の6人組の数行の詩だけだ。最初に放送されて1日、2日のうちに、「ブルー・ムーン」はすべてのティーネージャー達が胸をときめかして話題にし、最新のヒット・レコードに、この早口言葉のようなドゥーワップのフレーズを付けるミニ・リバイバルのお膳立てが整った。「ラマ・ラマ・ディング・ドングRama Lama Ding Dong」、「シビレさせたのは誰?Who Put The Bomp」、「バーバラアンBarbara-Ann」などが、その後1、2年間「ブルー・ムーン」の後を追ってチャートを上がり、同じやり方が功を奏した。
ところで、「ブルー・ムーン」はどうやって生まれたのか?グループは、かつてのたくさんのR&Bヒットをフィーチャーしたデモ盤を用意していたように思え、その中にはキャディラックスThe Cadillacsの「ズームZoom」があり、「ブルー・ムーン」と同種だったが、力強さには欠けていた(バス・シンガーが歌う代わりにグループが歌った)。
コルピックス・レコードColpix recordsのプロデューサーのステュ・フィリップスStu Phillipsがレコーディング・スタディオのなかをちらっと見た時には、セッションの時間が数分残っていて、フィリップスは、別のティン・パン・アレーTin Pan Alleyの名曲の「ハート・アンド・ソウルHeart And Soul」を演奏するよう頼んだ。
グループはどうやらその曲の歌詞を知らなかったようだったが、代わりに「ブルー・ムーン」を提案した。フィリップスは「ズーム」のオープニングを使うことを勧め、「ブルー・ムーン」のマーセルズ・スタイルが実現した。言い伝えによると、ニューヨークのDJ(そして将来の「5人目のビートルズ・メンバー」)のマレイ・ザ・ケー Murray the Kが、この曲のデモ盤を取り上げ、レコード会社名を言わずに26回立て続けにかけた。
リクエストがとても早く来たので、シングルが大急ぎでリリースされ、数週(たとえば2週)のうちに世界のほとんどいたるところで1位となった。
マーセルズは1曲しか持っていないという批評家もいるが、1発屋のグループではなかった。「ブルー・ムーン」のすぐ後に、グループは「サマータイムSummertime」や「ハーテイクスHeartaches」など、昔のポップ・スタンダードにドゥーワップ手法を施し、60年代半ばまでレコードを出しておおよそ成功した。
しかし「ブルー・ムーン」はまさしく太陽のもとで輝く瞬間であり、衰退しつつあったロックンロールの世界を救出したのだった。