2-2.ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブWhy D Fools Fall In Love-ティーネージャーズ、フランキー・ライモンをフィーチャーThe Teenagers, featuring Frankie Lymon(フランク・ライモンFrank Lymon、ハーマン・サンチャゴHerman Santiago、ジョージ・ゴールドナーGeorge Goldner)
55年12月5日録音、55年12月ジーGeeのシングルとして発売:R&B1位、ポップ6位
フランキー・ライモンの物語は優に本一冊になるほどで、誰かがどこかで書く話が数か月ごとに伝わってくる。ところで、基本的な話の筋はかなりよく知られている。生まれ持った才能のあるライモンはたった13歳の時、元々はプレミアーズThe Premiersというグループと一緒に、バレンタインズThe Valentinesのリチャード・バレットRichard Barrettを説得して、レーベルを所有していたジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerのオーディションを受けさせてもらった。
ゴールドナーと付き合っていくために、バレットはもう少し優しく説得するようにしなければならなかったのだが、なぜなら当時、レーベルの有力者がミリオネアーズThe Millionaires(実は、ファイブ・クラウンズThe Five Crownsで、1958年にドリフターズThe Driftersになる)というグループに関心を持っていて、レコーディング・セッションの前にリハーサルをさせることをバレットに望んだ。
バレットはゴールドナーに、間もなくティーネージャーズになるバレットのもう一つのプロジェクをゴールドナーがオーディションしなければミリオネアーズのリハーサルはしないと言った。話によるとその時、プエルトリカンのメンバーのハーマン・サンチャゴHerman Santiagoがグループのリード・シンガーで、バレットは何とかゴールドナーに、ティーネージャーズがラテン・グループだと信じ込ませた。
ゴールドナーは自分の持っていたティコ・レーベルTico Labelで、かなりのシェアを保有していたので、ベレットの要求に嫌々従った。
バレットがティーネージャーズをスタディオに連れてきた時に、ゴールドナーの顔を見たらさぞ面白かったろう。ゴールドナーはインスト・グループが来ると思っていたのだが、思春期にも達していないように見える幼い子供集団を相手にしなければならないのだ。だが、このグループは「ホワイ・ドゥ・バーズ・シング・ソウ・ゲイWhy Do Birds Sing So Gay」という曲と詩を持ってきて――そして、物語は話す人によってここで少し変わる――、誰かによって「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」に変更になった。
同時に、ライモンがサンチャゴの代わりにリード・シンガーに格上げとなったが、サンチャゴはこの日に風邪をひいていて、ライモンが名乗り出たという人もいる。1955年12月最終週にリリースされて、すぐに売れ始め、業界はびっくりした。ここで初めて、明らかに少年であるアーティストが、全国のポップでトップ・テンに入った。ハーレムに2000人のティーネージャーがいることは分かっても、13歳の子が全国ヒットを飛ばせるという事実を全国の都市がすぐには理解しなかった。もし本当に必要なら、過去30年の最大のアーティストのうちの数人に、自分にどんな影響があったかを訊ねてみなさい。マイケル・ジャクソンMichael Jacksonだって、1956年における絶頂期のライモンにはかなわない。
グループは、アラン・フリードAla Freedの映画に2回、ほとんどの大ネットワーク・テレビ・バラエティ番組にも (ライモンはエド・サリバンEd Sullivanショーに2回) 出演し、1957年初めまでにイギリス・ツアーに出かけた。
1956年、グループは4曲――(「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」、「アイ・ウォントゥ・ユー・ビー・マイ・ガールI Want You To Be My Girl」、「ザABCズ・オブ・ラブThe ABC’s Of Love」、「アイ・プロミス・トゥ・リメンバーI Promise To Remember」によってライモンの星は明るく輝いた――のポップとR&Bヒットを出してライモンの星は明るく輝いた――しばらくの間は。
その後やり手のレコード幹部の中にライモンをソロとしてレコードを出そうと決め、残りのグループ・メンバーを『過去の人』として追いやった。ライモンは一人でエバーグリーンのポップである「グッディ・グッディGoody Goody」をヒットさせたが、その後は、ティーネージャーズと一緒に手にした成功には及びもつかなかった。
1958年までには、自身も『過去の人』になり、翌年、破滅の原因となるヘロインの常習が始まって、1968年にわずか26歳で腕に注射針を刺したまま死んだ。
正しく処遇されていたら、ライモンがどうなっていたかは分からない。才能があったし、それ以上の重要なことは、幸運な少数の者しか持っていない生まれながらのステージ上の存在感があった。騒々しい地域に育ってショー・ビジネスに入り込んで、まだ未成年の時にスポットライトを浴たので、業界の陰謀に傷つきやすく、業界は彼の分別を失わせるのに一役買った。
彼はみじめな姿で死んだが、非常に多くのレコード・アーティストから今日でもまだすぐに認知される存在であり、尊敬されている。「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」は、新しいアーティストにとってヒットの素材として役に立ち続けている(ダイアナ・ロスDiana Rossは1981年のバージョンで1位になった)が、フランキーの遺体はブロンクス共同墓地にある気付かれない墓の下に横たわっている。ティーネージャーズの5人のメンバーのうち2人だけが存命だが、彼らの物語は最近良い方向に転換していて、本当に10代だった頃から久しぶりに「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」の権利を取り戻したばかりだ。