1-8.ア・サンデー・カインド・オブ・ラブA Sunday Kind of Love-ハープ・トーンズThe Harp-Tones ウィリー・ウィンフィールドWillie Winfieldをフィーチャー(バーバラ・ベルBarbara Belle、アニータ・レオナルドAnita Leonard、スタン・ローデスStan Rhodes、ルイス・プリマLouis Prima)
53年11月ブルースBruceのシングルとして発売
「ア・サンデー・カインド・オブ・ラブA Sunday Kind of Love」は、シングル・レコードとしてはたぐいまれな名声を受け、一度もチャート入りしなかったが、最も人気があり畏敬されたボーカル・グループの名作だった。ハープトーンズは、イースト・コーストのドゥーワップ・マニアの目には聖地を歩いているような存在だったが、1960年に小品がチャートの底の方をかすったことはあったものの、本当は言うべきほどのヒットは全くなかった。それじゃ、何がすごかったのか?
とりわけすごかったのは、最高のリード・シンガーのウィリー・ウィンフィールドWillie Winfield、ウィンフィールドとともに脚光を浴びていた素晴らしいバックのシンガー・グループ、才能のある音楽マネージャーでピアノ・プレーヤ―のラウル・シータRaoul Citamそして、超ロマンティックな数多くのバラードが、ヒットはしなかったがすべてのドゥーワップ・レコードの中で最も人気があり良く売れていた。
特に注目すべきであると選んだのは、「マイ・メモリーズ・オブ・ユーMy Memories Of You 」(1956年)だけでなく「ライフ・イズ・バット・ア・ドリームLife Is But A Dream」(1955年)だ。
54年初めのR&Bボーカル・グループ・ヒットの数か月前にレコーディングされたにもかかわらず、「ア・サンデー・カインド・オブ・ラブA Sunday Kind of Love」は初期のオリオールズやレイブンズの曲のように聞こえ、宗教色のない当時の黒人レコードではほとんど聞くことのない教会オルガンで始まった。しかし、最初のベース音とグループのイントロの後、ウィンフィールドが引き継いで、そこからレコードは自分たちの主張を鮮明にした。
ハープトーンズは、1955年にプロデューサーのハイ・ワイスHy Weissの設立したオールド・タウン・レコードOld Town Recordsに移籍し、その後、元ブルース・レコードBruce Recordsのオーナーであるレオ・ロジャースReo Rogersと一緒になって、1956年初めにアンドレア・レーベルAndrea labelで数曲演奏した。
この年の後半に、R&B業界のもう一人のレジェンドのであるレーベル・オーナーのジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerと手を組み、その後の2年間に優れた曲をたくさんレコーディングした。
60年代に入って、もっと小さなレーベルで時々レコーディングし続けたが、70年代初めにドゥーワップを評価する第2の波が訪れると、生まれ変わった。ウィンフィールドWillie Winfieldとグループは、イーストコーストの熱狂的愛好者に永遠に感謝したことには、過去20年間コンサートで演奏を続け、彼らの魅力をほとんどまったく失っていないのだ。