大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 第1夜
2013年8月13日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 の時間のタイムがやって参りました。本日はニューヨークのグループを中心に、後にドゥーワップと呼ばれたコーラス・グループを特集します。全体の雰囲気をつかむためにたくさん曲をかけていこうと思っております。曲のさわり部分だけとなりますが、ご了承ください。まずは、この曲から。
Frankie Lymon & The Teenagers 「Why Do Fools Fall In Love」
1956年1月に、エルビスのハートブレーク・ホテルが発売になり、そこからロックンロール時代が始まったというお話をして参りました。
ほぼ同時期にR&Bチャートでは、この曲がナンバー・ワンだったということもお話いたしました。ポップ・チャートでも6位でしたから、この時代としてはかなりの快挙だったわけです。アメリカン・ポップスの中心地であったニューヨークは、以前からこのようなコーラス・グループが中心的存在だったんですね。フランキー・ライモンは、アッパー・マンハッタンの出身で、他のメンバーもハーレム付近、二人のプエルトリカンがいましたが、二人ともニュー・ヨーク育ちでした。
で、フランキー・ライモンのすぐ近くに住んでいたのが、後にロネッツThe RonettesになるベロニカVeronica Bennettです。
で、大スター、近所の青年が大スターになったということで、フランキー・ライモンはベロニカのアイドルでした。
The Ronettes 「Baby, I Love You」「Why Don’t They Let Us Fall In Love 」
えー、この、アーアッアーていうのは、ずいぶん、ベロニカは影響されていますね。で、ホワイ・ドゥ・フールズ・フォーリン・ラブですけれども、これはニュー・ヨークのジーという会社から発売されました。GEEですね。このベーベルを作ったのはギャンブル好きで有名なジョージ・ゴールドナーです。
で、GEEといいますと、これと同名のヒット曲がありました。
The Crows 「Gee 」
クロウズのジーですね。これは、ホワイ・ドゥ・フールズよりも3年前の53年のヒット曲で、R&B2位となる大ヒットでした。レコード会社はラマ、RAMAですね。ラマは、ジョージ・ゴールドナーが最初に作ったレコード・レーベルです。ゴールドナーは両親がヨーロッパからの移民で、ニュー・ヨークで育ちました。そして40年代にティコというレコード会社を作りまして、レコード・ビジネスに参入していました。最初はラテンのレコードを出していたんですね。その中から、ティト・プエンテの曲を聞いてみましょう。
Tito Puente 「Abaniquito 」
アバニクイトという曲で49年の録音です。この後に、このレコード会社を辞めまして、ニュー・ヨークの大ボス、モーリス・デビ―と作ったのが先ほどのラマというレコード会社でした。そして5枚目のシングルのジーが大ヒットとなって、「これはツキが回って来たな。」と思ったんでしょう。ゴードナーはそのジーのヒットにあやかって、ジーという新しいレーベルを作ったんです。そしたら、フランキー・ライモンの大ヒットが出たと、ま、こういうことでした。ジーのヒットを飛ばしたクロウズですけれども、彼らのニュー・ヨーク、ハーレム出身の若者たちでした。クロウとはカラスですね。え、これは先輩に、レイブンズThe Ravensという大型のカラスです、それがいたので、自分たちを小型のカラスにしたのではないかと思います。
では、その大ガラス、レイブンズの曲を。
The Ravens 「Count Every Star」
50年のカウント・エベリスター、当時はチャート・インしなかったんですけども、後にリンダ・スコットのカバーで大ヒットしました。
Linda Scott 「Count Every Star 」
ザ・レイブンズは46年ですから戦後すぐですね。ニュー・ヨークで結成されました。ではレイブンズからもう一曲、48年の暮れ、9位のヒットとなった曲を。かなり早いけど、メリー・クリスマス。
The Ravens「White Christmas」
このレイブンズのアレンジが54年のドリフターズに受け継がれました。
The Drifters「White Christmas」
そして77年に、日本のトランク短いが受け継ぎました。
トランク短井「お正月」
ま、これはどうでも良いですけど、このようにアレンジとかそういうものが受け継がれていくというのも、このドゥー・ワップの面白いところであります。で、レイブンズの登場を皮切りに、なぜかコーラス・グループが鳥の名前を付けるのが恒例になって行きます。続いて登場したのが、ムクドリ、オリオールズでした。
The Orioles 「Crying In The Chapel」
オリオールは、正確にはムクドリモドキというそうですけども、このクライング・チャペルは53年のナンバー・ワン・ヒットで、ポップでも11位にランクされるほどの全米ヒットとなった曲でした。まあ、オリオールといいますと、メジャー・リーグ・ファンならすぐに、カル・リプケンがいたボルティモア・オリオールズを連想しますけども、このオリオールズはボルティモアで結成されたんですね。
で、オリオールはボルティモアの州の鳥なんです。ま、それにちなんでつけたということですね。リード・シンガーのソニー・ティルもボルティモア生まれで、グループ結成は48年ですから、メジャー・リーグのオリオールズよりも、はるかに先にオリオールズを名乗っていたことになります。
続いての鳥はスワローズ。
The Swallows 「Will You Be Mine 」
このスワローズもボルティモアのグループなんですね。で、グループ名は大御所、インク・スポッツの曲名から拝借したものです。
やはり先輩のオリオールズに倣って鳥の名前を付けたんだと思いますが、次のグループも、ボルティモアで結成されたグループ、カーディナルス。
The Cardinals 「The Door Is Still Open 」
55年4位にランクされたヒット曲、ザ・ドア・イズ・スティル・オープン・トゥ・マイ・ハートでした。で、後にディーン・マーチンでも大ヒットしましたねえ。
で、カーディナルというのは、羽の赤い色が特徴で、これもメジャー・リーグの話になりますが、セントルイス・カーディナルスのユニフォームにはバットに乗っているカーディナルの絵が描かれています。
さて、ボルティモアから舞台はシカゴに移りまして、フラミンゴウスの登場です。
The Flamingos「That’s My Desire 」「I’ll Be Home 」
ザッツ・マイ・ディザイア、53年にリリースされた彼らの2枚目のシングルでした。これもたくさんのカバーがある名曲ですが、曲自体は31年に作られていた曲です。このレコードを発売した会社はシカゴのチャンス・レーベルでした。で、フラミンゴースはついに移籍して、シカゴのパロット・レーベルに移籍します。いよいよレコード会社まで鳥の名前を付け始めました。そこからリリースされた珍しいナンバーを聞いてみましょう。
The Flamingos「I Really Don’t Want To Know 」
フラミンゴースはカントリーの「知りたくないの」をカバーしていたんですね。鳥の名前はほかにも、ロビンズとかラークスとかたくさんありましたが、ここら辺にしておきます。
このように、ニューヨーク、ボルティモア、シカゴ、ロサンゼルスなどの各地でコーラスグループが結成されていたところへ、53年、先ほどのジーですね、クロウズの、これが大ヒットして、翌年コーズのシュ・ブームのヒットで、一気にこのジャンルが盛り上がって、そして56年、フランキー・ライモンの登場となったわけです。
ここで、鳥の名前以外のグループも紹介しておきましょう。ドゥー・ワップ・グループは全部・鳥の名前が付いているという風に思われるのも困ります。まずは51年のR&Bナンバー・ワン・ソング、ザ・グローリー・オブ・ラブを聞いてみましょう。
The Five Keys 「The Glory Of Love」
タバコ・カントリーといわれるバージニア州のニュー・ポート・ニューズのグループですけれども、この曲はニュー・ヨークで録音されました。次も51年のナンバー・ワンソング、クローバーズのドンチュー・ノウ・アイ・ラブ・ユウ。
The CLovers 「Don’t You Know I Love You 」
アトランティック・レコード社長のアーメット・アーティガンの作曲です。
クローバーズはワシントンDCのグループですが、ニュー・ヨークには50年に活動拠点を移していました。
アトランティック・レコードのコーラス・グループの基本となったのが、このクローバーズでした。次はシカゴの大御所、ムーン・グロウズ。
The Moonglows 「Sincerely 」
54年のナンバー・ワン・ヒット、シンシアリーでした。結成は52年、それから何枚かレコードを出しましたが、54年にチェス・レコードに移籍して、そこで初めてヒットと、そしてナンバー・ワンになったのが、このシンシアリーでした。1年遅れの結成だったフラミンゴーズも、55年に同じくチェス・レコードに移籍してきてヒットを飛ばしました。
The Flamingos – I’ll be Home
56年、5位のヒット曲、アイル・ビー・ホームでした。まあ、パット・ブーンの方が売れてしまったわけですけども、この時点ではチェス・レコードは、フラミンゴーズとムーン・グロウズが2枚看板となっていました。
この二つのグループは、チェス・レコードに来る前は、同じシカゴのチャンス・レコードにいたんですね。で、その会社にいたグループは、ザ・スパニエルス。
The Spaniels 「Baby It’s You 」
ベイビー・イッツ・ユー、スパニエルスでした。スパニエルスはインディアナ州ゲイリーの出身なんですね。
インディアナ州・ゲイリーといいますとジャクソン5の故郷として有名ですが、ジャクソン5の先輩が、このスパニエルスだったわけです。
で、ゲイリーの街にビビアンとジェームスという夫婦がいまして、レコード店を経営しておりました。で、53年に会社を作って、それがVJレコードVee-Jay Recordsです。
ビビアンとジェームス Vivian Carter and James C. Brackenですね。
このVJレコードが先ほどのチャンスレコードを吸収合併して、大勢のアーティストがBJに移籍しました。このスパニエルスもVJに移籍してヒットを飛ばします。
The Spaniels「Goodnight, Sweetheart, Goodnight 」
54年5位のヒットとなった、グッナイト・スイートハーツでした。
続いて同じくVJレコードの、エル・ドラドースのアット・マイ・フロント・ドア
The El Dorados 「At My Front Door 」
アット・マイ・フロント・ドア、55年、これはナンバー・ワンになりました。このようにヒットの連発で、VJレコードはシカゴのR&B界では、チェスに次ぐレーベルに成長していったのでありました。同じくインディアナ州はインディアナポリスの出身はザ・カウンツ。
54年に発表されてました、ダーリン・ディア
The Counts 「Darling Dear 」
このパー・パー・パーっていうのはスペクターが頂いてましたねえ。
さて、話をニュー・ヨークに戻します。
Gee / the Crows
このジーのヒットのクロウズ、そしてシュ・ブームのコーズ、そしてフランキー・ライモンとティーネイジャーズと、すべてニューヨークのグループなんですね。で、50年代ニューヨークでは、このヒットで空前のコーラス・グループ・ブームが起きたんです。で、たくさんの小さなレコード会社ができました。その中から、いくつか紹介していこうと思います。モンテ・ブルースが作ったブルース・レコード、ここからデビューしたのが、ハープ・トーンズでした。
The Harp Tones 「Sunday Kind of Love 」
53年に発表された、サンデー・カインド・オブ・ラブ、スタンダード・ナンバーのカバーですが、このグループも、ニューヨーク・ハーレム出身で、選曲も良く、実力もある素晴らしいグループでした。
当時はこのようなグループがハーレム近辺にたくさんいて、彼らは公園を練習場所にしていたんですね。で、このハープトーンズが練習しに来ると、それまで練習していたほかのグループがこそこそと逃げ出すというくらいに、非常にうまいグループでした。ただ、会社の宣伝力の問題もあって、ヒットした曲が無いんです。チャートには入らなかったんです。ニューヨークで最初に黒人専門のビジネスを始めたと言われるのがボビー・ロビンソンBobby Robinson。
アポロ劇場の近くて46年からレコード店を経営していました。そして、50年代にレコード会社を作って、そこから出たグループが、メロー・ムーズ。
The Mello-Moods 「Where Are You-Now That I Need You 」
51年に発表された、フェア―・アー・ユー。彼らは12歳から16歳までの5人組で、これがニューヨークにおける最初のティーネイジャーのグループだったと言われています。確かに声が若いですよね。この同じレーベルの、スカーレッツの曲を聞いていましょう。
The Scarlets 「Dear One 」
54年のスカーレッツ、ディア・ワンでした。ニール・セダカはこれは聞いていたんでしょうね。で、このスカーレッツはコネティカット州のニュー・ヘイブン出身で、この曲を書いたのがリーダーのフレッド・パリス、このパリスが次に作った曲がファイブ・サテンズ。
The Five Satins 「In The Still Of The Night 」
56年、3位となる大ヒット、イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト、これはバック・コーラスのシュルン・シュ・ビ・ドゥていうのが印象的でしたね。で、このシュルン・シュ・ビ・ドゥですけども、これのヒントとなったのが、前年、55年に出ていた、ロンリー・ナイツでした。
The Hearts 「Lonely Nights 」
このサックスのフレーズですね、これをパリスが、シュルン・シュ・ビ・ドゥていう風にコーラスにしたわけですね。作者のパリス本人も、このロンリー・ナイツが頭に合ったんだろうと語っています。で、ハーツはニューヨーク、ブロンクスの出身です。
歌を聞いていますと女性グループに聞こえますが、ピアノの担当がなんと男性だったので、男女混淆のグループに分類されています。女性ドゥー・ワップに関しては、また別のコーナーでお話しします。
ザ・ハーツの曲はニューヨークの曲はニューヨークのバトン・レコードから発売されていました。バトン・レコードの最初のヒット曲は、リビリアーズ。
THE RIVILEERS – “A THOUSAND STARS”
53年のリリース、リード・ボーカルのユージーン・ピアスEugene Pearsonの作曲によります、サウザンド・スターズでした。後にキャシー・ヤングで大ヒットしましたね。
Kathy Young & The Innocents「A Thousand Star 」
このリビリアーズは、クイーンズのジャマイカ地区で結成されたグループです。
このようにニューヨークでは、マンハッタンだけでなく、ブロンクス、ブルックリン、そしてクイーンズと各地区にたくさんのグループがおりました。このクイーンズ、ジャマイカ出身といえば、ハート・ビーツもそうでした。
Heartbeats 「A Thousand Miles Away 」
56年のリリース、5位まで上がった、ア・サウザン・マイルズ・アウェイでした。クイーンズのジャマイカ地区のグループは、サウス・ジャマイカ・プロジェクトという風に呼ばれておりまして、たくさんのグループがいました。クレフトーンズもこの地区出身でした。
The Cleftones – Little Girl Of Mine
カモン・レッツ・ターキー・トロットCome on let’s turkey trot(Little Eva)ですね、これ。リトル・ガール・オブ・マインでした。56年、8位となるヒットで、キャロル・キングさんもこの曲を頂いておりました。
Little Eva 「Let’s Turkey Trot 」
クイーンズのお隣、ブルックリンに目を転じますと、これまたたくさんグループがおりました。
まずはその中から。フォア・フェローズ。
THE FOUR FELLOWS – ”SOLDIER BOY”
55年リリースのソールジャー・ボーイでした。グループのメンバーの一人が朝鮮戦争に行った時の体験をもとにして作った曲です。これはエルビスが軍隊から復帰したアルバム、エルビス・イズ・バックの中で、ソールジャー・ボーイと歌っていましたね。
Elvis – Soldier Boy
続きまして、ブルックリン出身のグループはデュポンツ。
Little Anthony & The Duponts You
このデュポンツのリード・ボーカルがアンソニー・グールダインJerome Anthony “Little Anthony” Gourdine、彼がリトル・アンソニーとなって作ったグループがインペリアルズでした。
Little Anthony & The Imperials 「Tears On My Pillow 」
58年2位の大ヒット曲、ティアーズ・オン・マイ・ピローでした。まだまだブルックリンのグループが続きます。ザ・チップスのラバー・ビスケット。
The Chips 「Rubber Biscuit 」
えー、呪文でも言っているような、このような面白いサウンドのノベルティーの楽曲も登場してきたのも、55年前後の特徴でした。ニューヨークにおけるノブルティー・ドゥーワップの原点となったのは、キャデラックスのスピドゥーでした。
The Cadillacs 「Speedo 」
55年のキャデラックス、スピドゥーでした。3位となる大ヒットでしたね。このジャンルはすぐに西海岸からコースターズがやって来まして、彼らに取られた格好になりましたけれども、次もキャデラックスのナンバーなんですけども、とあるミュージシャンによって日本にも紹介されてますので、耳馴染みになっているものと思われます。
The Cadillacs「Zoom 」
このようなドゥビドゥビダンダンていうのは、コーラスのフレーズを、私は日本のお囃子言葉という風に例えたんですけどもね。いろんな言葉、音の組み合わせ、バラエティー度が増してきたのが55年前後のコーラスグループの特徴でした。日本のサンドウィッチマンを歌った珍しい曲っていうのも、まあ、鶴田浩二さんじゃなくて、アイ・アム・ザ・ジャパニーズ・サンドマン、と歌っていたのは、マンハッタン出身のセローズでした。
The Cellos 「Rang Tang Ding Dong-I Am The Japanese Sandman 」
正式にはラン・タン・ディン・ドンという曲なんですけど、奇妙な声を出してエコー処理をするというのは画期的なアイデアでしたね。このまた、お囃子言葉をメインにしたサウンドというのはこの辺から段々増えてきまして、この後エドセルズが、この流れを受け継いで作ったのが、ラマ・ラマ・ディン・ドンでした。
The Edsels 「Rama Lama Ding Dong 」
このタイプが60年代ポップスの基調となって、更に発展を遂げていきました。50年も中期になりますと、いよいよボストンからもグループが登場してきます。ジー・クレフスのカ・ディン・ドン。
The G-Clefs 「Ka-Ding Dong 」
カ・ディン・ドン、56年、R&B9位、ポップでも24位のヒットで、ボストン出身のグループとしては最初にナショナル・チャートに入ったグループだと言われています。当の解説には、ギターを弾いているのはフレディー・キャノンだと書いてありますが、メンバー達は否定しています。続いては、ピッツ・バーグのグループ、デル・バイキングス。
The Dell Vikings 「Come Go With Me 」
57年R&B2位、ポップ4位と大ヒットしました、デル・バイキングスのカム・ゴウ・ウィズ・ミーでした。ピッツ・バーグの小さなレコード会社から発売されていたのをドット・レコードが買い取って、全米にヒットしました。このグループは4人組ですけれども、白人1人が入っているという混交グループでした。このデル・バイキングスでようやく白人が登場しましたが、本日は、ここまでかけた曲は、すべて黒人グループによるものでした。しかし、54年のクリュー・カッツThe Crew-Cuts、シュ・ブームSh-Boomが1位。
それからドゥー・ワップの白人カバーが大ヒットしまして、その流れにブルックリンのこのグループが登場したんです。
Neil Sedaka & Tokens – I Love My Baby
Neil Sedaka & Tokens 「While I Dream 」
ニール・セダカとトーケンズですね。セダカの初ヒットもドゥーワップ調のザ・ダイアリーでした。しかし、セダカは、これはヒットはしなかったんですね。で、セダカよりも前に白人グループが登場してきました。ブロンクスのベルモント・アベニューから登場したこのグループが、ホワイト・ドゥーワップの幕を切って落としました。
Dion & The Belmonts「I Wonder Why 」
58年のディオン・アンド・ベルモンツのアイ・ワンダー・ホワイ、チャートは22位でしたが、リード・ボーカルのディオンは、ニューヨークの音楽ファンのアイドルとなって、翌59年、このヒットが決定打となりました。
Dion & The Belmonts「A Teenager In Love」
56年のフランキー・ライモンとティーネージャーズから、58年のディオン、ティーンネイジャー・イン・ラブと、ドゥー・ワップもティーネイジャーの音楽となりました。ブルックリン育ちのキャロル・キングは、「エルビスには影響は受けなかったけど、リズム・アンド・ブルースやコーラス・グループを好んで聞いていた」と発言しています。
彼女のようなニューヨーク育ちの音楽家が中心となったのが60年代ポップス。ドゥーワップは60年代ポップスの原点ということで、駆け足でたくさんの曲を聞いていただきました。それではまた明晩。