大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート3 第2夜
2013年3月2日放送
(放送内容)
ニューヨークのポップス・シーンについて、ボビー・ダーリンとコニーフランシス、そしてニールセダカの三人に絞りまして、その三人の関係がニューヨークポップス、更には60年代ポップスを作っていく、その過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。
えーまずは前回のおさらいから。
Splish Splash / Bobby Darin
ニューヨーク最初のロックンローラーとなったボビーダーリンは、ブロンクスの学校時代に知り合いだったドン・カーシュナーDon Kirshnerと作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話いたしました。
そして、コマーシャルの仕事をしていた時にコニーフランシスと付き合って、えーコニーはすでに55年にレコードデビューを果たしていました。
デビュー曲はフレディーという曲です。
Freddy / Connie Francis
このように売れないシングルが続いてそして4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの曲でした。
My First Real Love / Connie Francis
ボビー・ダーリンもコーラスでがんばりましたが、全くかすりもしませんでしたね。そうこうしているうちに、ボビー・ダーリンもレコードを出すことになって、メジャー会社のデッカからデビューします
Silly Willy / Bobby Darin
ボビーダーリンもデッカから4枚シングルを出しましたが、全く売れませんでした。
さてもう一人のニールセダカは同じニューヨークでもブルックリンですから、ボビーやコニーとは住んでいる場所が違いました。もっともコニーはニュージャージーでしたけどもね。セダカは同じアパートに住んでいた、ハワード・グリーンフィールドHoward Greenfieldとコンビを組みことになります。
それが1952年です。それにしてもこの二人が同じアパートだったというのは出来すぎのような話なんですけど、同じ学校とか、近所に住んでいるとかよくある話なんですよね、これは。グリーンフィールドの方が先輩だったので、出版社に曲を売り込みに回って歩いていたんですよね。それとプログレッシブ・ミュージックProgressive Musicという会社がありまして、そこが二人の曲を買ってくれました。その曲をアトランティックのクローバーズが吹き込みます。
Bring Me Love / The Clovers
この二人の才能を認めた出版社のジェリー・ウエックスラーJerry Wexlerは、もう一曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。
Passing Time/The Cookies
このクッキーズとセダカは6年後に再会することになるんですけど、どちらにしても2曲ともB面で言うなれば数合わせのB面作家として使われたわけですね。しかしアトランティックレコードの重鎮であったところのジュリー・ウエックスラーは、後にあの二人とあの時に正式に契約をしておけばよかったという風に後悔したそうです。セダカは、この当時ハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リンカーン・ハイスクールAbraham Lincoln High Schoolという由緒ある名前ですね。
ブルックリンにあるこの学校なんですけど、他にもたくさんの音楽関係者を輩出しています。ハワード・グリーンフィールドも先輩でした、そこの学校の。それからトマス・シューマンのモルト・シューマンMort Shuman、大先輩ですね。
他にはボブ・フェルドマンBob Feldmanにニール・ダイヤモンドNeil Diamond、この二人は後輩です。
そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズThe Tokensでした。
I Love My Baby / The Tokens
このトーケンズもヒットが出るのもこれから5年後のことなんですね。で、コニーフランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったんですけど、ニールセダカはマイナーレーベルからのスタートでした。
それでも3人とも全くヒットせずで、エルビスがハートブレークホテルで登場したのは1956年のことでしたが、この3人にとってはスターへの道はまだ遠かったのでした。翌57年、コニーフランシスにとっては試練の年となったんですね。というのも、この3年間で9枚のシングル版を出したんですが、一局もヒットしなかったんです。さすがにMGMレコードもシビレを切らして、次の10枚目もヒットしなかったら契約を打ち切ると言ってきたんですね。そこでステージパパの登場ですね。パパ「いいかい、コニー、君は18曲を無駄にした。だから最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ。」という風に頼んだんです。それは30年以上も前の古い歌でした。
Who’s Sorry Now / Billy Banks & His Rhythmakers
コニーのパパはこの歌が大好きで、いつも歌っていたんだそうですね。しかしコニーは「こんな古臭い歌、やーよ。」と言って断ったんだそうですけど、結局は最後だということで押し切らせて吹き込みをすることになりました。しかし、それが結果的には大ヒットとなって、コニーフランシスはようやく有名になれたわけです。
Who’s Sorry Now / Connie Francis
この曲がチャートをにぎわしていたのは、58年の4月ごろですから、すでにマーティー・ロビンスのポップカントリー調の曲は市民権を得ていた時期ですね。ロッカバラードとポップカントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったんじゃないでしょうか。このレコーディングに関してコニー・フランシスは面白いことを言っています。「ここまでのシングルは常に誰風に歌おうと考えていた。しかしこのときは誰のまねもしなくて、自然に歌えた。」と言ってるんですね。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたんだと言うことなんでしょう。と言うことでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。ではこのときボビー・ダーリンはどうしていたかと言いますと、前回もお話しましたが、デッカからアトランティックに移籍して自分の路線をどれにしようかと迷っていた時代だったんですね。しかし時代はロックンロールですから、ボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの二人はそれ風の曲を作りました。
Pretty Betty / Bobby Darin
リトル・リチャードのトゥイティ・フルーティですね
Don’t Call My Name / Bobby Darin
これはすぐに分かりますね。ファッツ・ドミノのエイント・ザッツ・ア・シェイムですけども。
この2曲をカップリングして出しましたが、全くヒットしませんでした。ちょうどこの時期ですね、アトランティックが待ちに待っていたリーバ・ストラのコンビが町にやってきました。
そしてコースターズのニューヨークにおける初セッションと言うことになるんですけど、ここでボビーダーリンが曲を提供していたんですね。
Wait A Minute/The Coasters
落ちがいいですよね。サーチンSEARCHIN’とヤングブラッドYOUNG BLOODを足した歌ですけども、ボビー・ダーリンとドン・カーシュナーのコンビはほんとに分かりやすいですね、曲が。
このコンビは作家チームとしては、大失敗でしたね。ドン・カーシュナーは作家の夢を早々と捨てて出版事業に走ったのは大正解だったわけですね。人生早めの切り替えが大事と言うことでしょうか。ニューヨークに来て本家のリーバ・ストラがコースターズに最初にかいのがヤクリー・ヤークでした。
Yakety Yak / The Coasters
やっぱりノベルティー・ソングを作らせたらこの二人に適う人はいませんね。一方のニール・セダカもマイナー・レーベルからレコードを出し続けておりました。
Ring A Rockin’/Neil Sedaka
ジェリー・リー・ルイス・タイプの曲ですね。やっぱりボビーダーリンよりはニール・セダカのほうが作曲能力は高いですね。もしこの曲がヒットしていたらニールセダカのほうがニューヨーク発のロックンローラーという風になっていたわけです。ところがニールのロックンロールはヒットせずに、ボビー・ダーリンの作った曲の方がヒットしたと言うわけでした。
Splish Splash/ Bobby Darin
イントロでギターを弾いていたのはおそらくアル・カイオラですね。
ギター、「どう弾いてんだー」みたいなことでちょっと弾いたと言う感じですね。と言うことでニューヨーク発のロックンローラーは結果的にボビー・ダーリンと言う風になってしまったわけですけども、これがヒットしていた時に1位だったのがコースターズのヤックティー・ヤークでした。アトランティック・レコードしてはこの頃、ウハウハの状態だったわけですね。ついにヒットの出たボビー・ダーリンはロックンロール路線を突っ走りました。
Mighty Mighty Man/Bobby Darin
歌はうまいですよね。ボビーダーリンてね。ボビーよりも先に登場したコニー・フランシスは第2弾を出します。
I’m Sorry I Made You Cry / Connie Francis
自信が出てきたんでしょうね。歌い上げてました。フーズ・ソリー・ナウと全く同じ路線だったんですけど36位と低調だったんですね。そこでもう第3段にプレッシャーがかかりました。ここでさらに順位を落としますと、フーズ・ソリー・ナウはまぐれだったていうことになりますからね。この第2弾からはMGMの新しいプロデューサー、モンティ・クラフトが担当したんですけども、彼も相当あせったでしょう。いろいろと局を探したんですけど、なかなかいい曲が無くてそこへドン・カーシュナーが登場します。
彼が始めた出版社に今度契約したコンビがいると言うことでセダカとグリーンフィールドを連れてきたんですね。その場にはボビー・ダーリンがいましたが、いろいろ聞いている中でコニーは「この曲を私に頂戴。」と叫んだのがこの曲です。
Stupid Cupid /Connie Francis
後半に聞こえているピアノはニール・セダカが弾いています。
ここでストゥーピッド・キューピッドがニューヨーク初の女性ロックンローラーとなったわけで、恋人ボビー・ダーリンのスプリッシュス・プラッシュを追ったということになりました。それよりもこのセッションは重要な偶然がありました。このストゥーピッド・キューピッドをアレンジしたのはチャック・セーグルChuck Sagleです。彼は以前マーキュリーのスタジオでアレンジの仕事をしていたんですが、プロデューサーのモーティーが呼んできたんですね。セダカにとって、このチャックス・ヘーブルとの出会いは非常に大きかったんです。ストゥーピッド・キューピッドがご機嫌なロックンロールに仕上がったのもこのチャック・セーグルChuck Sagleス・ヘーブルのアレンジの力が大きかったのです。同じ日のセッションでもう1曲セダカの曲が録音されました。
Fallin’ / Connie Francis
フィーバーですけどね。このブルージーなムードは100%アレンジャーのチャック・セーグルChuck Sagleの腕によるものなんです。セダカは、このアレンジャーが相当気に入ったと見えますね。この2曲、ストゥーピッド・キューピッドは14位、フォーリンは30位とランクはそう高くはありませんでしたが、コニーはニール・セダカによってロックンロール路線を始めることができたわけです。58年6月にアルドン出版社と契約したニールセダカに与えられた仕事はリトル・アンソニーとインペリアルズの第2弾を作ることでした。彼らの第1弾とは。
Tear’s On My Pillow / Little Anthony & The Imperials
これがポップチャートでは4位となる大ヒットで、プロデューサーのジョージ・ゴーダーは第2弾を探していたんですね。そこでグリーンフィールドとセダカの書いた曲が、ザ・ダイアリーと言うことになりました。
The Diarγ「恋の日記」 / Little Anthony & The imperials
お聞きになって分かるとおり肝心な所でコードが間違っていたりとかですね、ジョージゴードナーは勝手に歌詞を変えたりして、ニールセダカはずいぶん憤慨したそうですね。で、アルドン出版社のアルネビンズの勧めもあって、セダカは自分のレコードの第1弾をこの曲にしようと決めました。これ、他人にアレンジやプロデュースを任せた場合によく起きることで、作者側としては「出来がちょっと違うんだよな」と言うようなことがあると、その思いが高じると「これはこうやるんだよ」と、自分でやりたくなったりするもんですが、セダカもおそらくそういう思いでやったんじゃないでしょうか。レコード会社もアルネビンズAl NevinsがスリーサンズThe Three Suns時代の古巣でね、RCAと決まって、デビュー曲ザ・ダイアリーを録音することになりました。
The Diary(demo) / Neil Sedaka
これが最初のダイアリーなんですね。サックスはキング・カーティスKing Curtisなんですけども、なんか日本のムード歌謡みたいなんですけど。
やっては見たけども、満足できる出来ではなかったんですね。そこでニール・セダカは、コニー・フランシスのセッションで知り合ったアレンジャーのチャック・セーグルChuck Sagleックス・ヘーブルを呼んできたんです。それから彼はセダカのアレンジャーと言うことになるんですけど、初期の楽曲はすべて彼が編曲しています。そして再録音されたセダカのデビュー・シングル、ザ・ダイアリーはめでたく59年1月に発売されました。
Neil Sedaka – The Diary
これがポップ14位、R&Bでも25位にチャートされまして、セダカはこの時点で歌手としてコニー・フランシス、ボビー・ダーリンと肩を並べることができたのでした。ザダイアリーに続きましてセダカの第2段シングルはお得意のジェリー・リー・ルイス調のロックンロールでした。
Go Ape / Neil Sedaka
曲が始まる前に前の語りを付いていましたけど、あれをバースと言いますけどね、こういうバース付きというのは、セダカの得意技のひとつでもありました。これはチャック・セーグルChuck Sagleのアレンジが光ってすばらしい出来で、ニューヨーク生まれのロックンロール・ナンバーとしては、ナンバーワンではないかと僕は思います。特にドラムが凝っているんですよね。ドラマーはスティックス・エバンスSamuel “Sticks” Evansといいます。
この人は非常にうまいんですよね。それからもう一人ブラシを叩いている人がいて、ダブルでリズムを刻んでいます。このすばらしいニューヨーク生まれのロックンロールができたわけですけれどもチャートは42位と振るわなかったんです。しかしですね、イギリスではこのアイ・ゴー・エイプ、セダカのデビュー・ヒットなんですね。で、なんと9位にランクされているんです。アメリカは42位。この辺りもアメリカとイギリスのロックンロールのとらえ方の違いが現われているともいえますし、59年になりますとアメリカではブームにかげりが出ていますからね。そういう関係もあったかもしれないです。さて、セダカのロックンロールのアイ・ゴー・エイプを録音していたころに、自作のポップ・ソングのデモを作っていました。
Dream Lover(demo) / Bobby Darin
あの半音は何ですかね。これをレコーディングするに当たって、これギターはおそらくアル・カイオラでしょうね。
で、ボビーダーリンは自分でギターを弾いているんだと思います。これの正式なレコーディングをする前日にですね、ボビー・ダーリンはニール・セダカに電話したんですね。で、「明日のセッションでピアノを弾いてくれないか」と頼んだんです。で、ボビー・ダーリンはデビュー依頼、ピアノは全部自分で弾いているんです。セッション・マンを使ったことは、たったの一度しかないんです。ただ不思議なことなんですよね、この曲だけ前日突然ニール・セダカをピアニストとして使ったんですけどね。
Dream Lover/ Bobby Darin
アル・カイオラのギターがデモよりも高音になってますよね。オクターブあげた方がいいと言うアイデアはセダカがセッション中に出したものだと言われてます。本人が言ってますよね。またもうひとつですけど、この曲のドラマーはセダカのメイン・ドラマーだったスティックス・エバンスが叩いています。このエバンスがボビー・ダーリンのセッションに参加したのは、後にも先にもこの時だけなんですね。ですからこの曲は完璧なセダカ・サウンドに聞こえてしまうんであります。このドリーム・ラバーは最高位が2位と大ヒットしていた59年の6月ですが、追いかけるようにチャートを上がってきたのが、コニーのこの曲でした。
Lipstick On Your Collar / Connie Francis
途中のギター・ソロはジョージ・バーンズGeorge Warren Barnesという有名なジャズギタリストです。
途中のフレーズはさすがにジャズマンという感じがしますね。ジョージバーンズはこのころになりますと、ニューヨークのジャズミュージシャンもロックンロールのニュアンスをかなり出せるようになっています。ジョージ・バーンズはカントリーのレコードなんかも出していますね。それにしてもボビー・ダーリンがロックだと言えばロック、ポップだと言えばポップと言う風にコニーのボビー・ダーリンのフォロー度合いがすごいですね。カラーに口紅のB面はニールセダカのバラードでした。
Frankie /Connie Francis
イヤー、いいバラードですね。この辺から、コニーとセダカの相性がぴったりしてきましたね。この後は次々に名曲が生まれます。A面のカラーに口紅が5位、B面のフランキーは9位と両方がトップテン入りするという、コニー・フランシス初の両面ヒットです。この両面ヒットはシックスティーズポップスの幕開けを感じさせるシングル版といえると思います。また、カラーに口紅は、私のポップスの原点となった曲でありまして、非常に思い出深い曲であります。カラーに口紅、フランキーの両面ヒットの出た後、いよいよ真打ニール・セダカの大ヒットが登場します。
Oh! Carol / Neil Sedaka
これは9位となってセダカ初のトップテンヒットです。これでようやく、ボビー・ダーリン、コニー・フランシスとトップ・テン・シンガーの仲間入りができたというわけですね。この時点では3人とも、まだ、ナンバーワンヒットは持っていません。さて、オーキャロル、このアレンジの元ネタはご存知、ダイヤモンズのリトルダーリン。
Little Darlin’ / The Diamonds
ダイヤモンズのアレンジなんですけど、これもチャック・セーグルChuck Sagleその人だったんですね。
どこにもクレジットされてなくて別の人の名前が書かれていますから、今まで知られていなかったんですが、ニール・セダカがそう発言しています。また、ダイヤモンズを調べますと、チャック・セーグルChuck Sagleは当時別名を使ったり、あるいは本名でB面を作成したりしています。でオー・キャロルは、このリトル・ダーリンの真似だと思ってたんですが、実は本家本元のアレンジであったわけです。このオーキャロルにはアンサーソングがあったということは最近では有名な話となっています。
Oh Neil! / Carole King
作詞は旦那のゲリー・ゴフィンGerry Goffinが書いています。
この二人は結婚する前ですね、キャロル・キングとニールセダカは10歳のころから知り合いだったそうです。そこでセダカが元のガール・フレンドであったところのキャロルと言う名前を使って詩を書いてくれとグリーン・フィールドに頼んだ。それがオー・キャロルであったわけです。キャロル・キングが歌ったオー・ニールのアレンジとプロデュースはチャック・セーグルChuck Sagleです。何度も出てきますけども。このオー・ニールのお陰と言いますかね、これが契機となりましてゴフィン・キングはドン・カーシュナーと知り合ってアルドン出版社Aldon Musicと契約したんです。
この二人のゴフィン・キングはセダカの次のアルドンのエースになりましたし、さらにはシックスティーズ・ポップスの牽引者となったわけです。このオー・ニールが第1作だったんですね。何がきっかけになるかと言うのは本当に分からないものです。
さてボビー・ダーリンに話を移します。本名をウォールデン・ロバー・トカソッドWalden Robert Cassotto、イタリア系です。イタリア系で男性歌手となりますと当然目標はフランク・シナトラとなるわけですね。幼少時代からシナトラのような大歌手になると言うのが周囲の期待でもあったわけです。ですから、いくらポップ・ヒットが出てもボビー・ダーリンは満足することがありませんでした。ドリーム・ラバーをヒットする前にですね、このスタンダード・ナンバーを集めたアルバムを企画していたんです。すでにこの曲はドリーム・ラバーより前に録音されていて、しかも後々ヒットするんですが、半年以上も前に録音されていました。
Mack The Knife / Bobby Darin
このリリースの遅れたのはですね、周囲特にDJの反対が大きかったと言います。せっかくドリーム・ラバーが大ヒットして、ティーンの客をこれだけ掴んだわけだから、みすみすそれを失うのはなかろうと言うのは、DJの意見だったんですね。ところが半年後出してみたら、人気が落ちるどこかさらに広がって、ナンバーワンを獲得しました。9週ですね、他のチャートとしては10週、連続1位だったんですね。そうしますとこの曲は音楽界最大の栄誉である所のグラミー賞を獲得します。
ここでボビーダーリンはティーンのアイドルから大人の歌手へと、つまり、シナトラへの道が開けたわけですね。マック・ザ・ナイフが入ったアルバム、このタイトルはザッツ・オールと言いまして、このアルバムも大ヒットしました。スタンダードナンバーを集めたものでした。
That’s All / Bobby Darin
シナトラへの道まっしぐらと言う感じですね。この曲をボビーダーリンが録音したすぐ後に、コニー・フランシスも同じ曲をレコーディングしています。
That’s All/Connie Francis
ボビー・ダーリンへのラブレターと言う感じですね。切々と歌っておりました。まさにボビーダーリンへの後追い三味線ですね、これは。本名、コンセッタ・ロサ・マリア・フランコメンConcetta Rosa Maria Franconero、イタリア系です。ボビー・ダーリンはこの後、夢の舞台であるコパカバーナに出演します。
そして、ダーリン・アット・コパDarin At The Copaというアルバムも出ます。
その半年後、コニー・フランシス・アット・コパ Connie Francis At The Copaというアルバムも出します。
どこまでもボビー・ダーリンをフォローするコニー・フランシスさんではありました。
Follow The Boys / Connie Francis
アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜はニューヨークのその後としまして、ボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人組の物語をお送りいたしました。この3人の共通人物がアルドン出版社のドン・カーシュナーだったことを含めまして、いままでのストーリーをアルバムにするとなると、タイトルはティーンネイジ・トライアングル。つまりこれが、ティンネイジ・トライアングルのボリューム・ゼロだったと言うわけですね。
その後の3人ですけど、ボビー・ダーリンの映画に進出すると言うお決まりのコースですね。コニー・フランシスはアルドン出版社のライターのヒットが続きます。セダカは持っていた音楽センスを活かして、ポップスの名曲を次々と発表することになるんですが、続きは日を改めて60年代、アルドン・ミュージックの時代でお話しすることにいたします。それではまた、明晩。