ロックンロールの歴史 第Ⅱ巻 つなぎ書房に送付

THE HISTORY OF

ROCK & ROLL

ロックンロールの歴史

 

第Ⅱ巻

 

1964-1977

 

 

ビートルズ、ストーンズ、

そしてクラシック・ロックの台頭

 

 

 

 

著者 エド・ウォード

翻訳者 高村 義久

 

 

 

 

 

 

 

 

マーガレット・モーザーMargaret Moser,へ、

1954-2017 彼女は存分に生きた

 

 

 

目次

 

第0章 これまでの話

第1章 息子も娘も親の手に負えない

第2章 驚異の年2 友人からの助け

第3章 みんなは愛の群衆だよね?

第4章 1969年だ、OK

第5章 『シックスティーズ』を発明する

第6章 僕は敵が歌う歌

第7章 ロック万歳

第8章 ルネサンス待望

終章  1977年8月16日

 

 

ロックンロールの歴史

第Ⅱ巻

 

 

第0章

これまでの話

 

カリフォルニア州ミルバレーのビレッジ・ミュージックVillage Musicのセレクション

1980年頃

(マッシュ・エバンスMush Evans撮影/ジョン・ゴダードJohn Goddardの好意)

 

 

 

 

戦後のアメリカにおけるロックンロールの誕生は、当時世界にもたらした数多くのショックのうちの一つに過ぎず、社会を脅かしたのは、10代少女の絶叫(そういった少女たちは1940年代のフランク・シナトラFrank Sinatraの時に現れていた)や性的に思わせぶりなレコード(そうしたレコードは、ロック以前から常に存在していた)ではなかった。ロックンロールのスタイルが人気になり、アメリカにおけるポピュラー・ミュージックのデフォルトのスタイルになるにつれ、音楽業界を支配するのが思慮深い年配者でなくなったというのは事実だ。素敵な十代の少年の身なりを整え、良い楽曲を与え、テレビに出し、レコードを徹底的に売り込むことは可能だが、それでもやはり、その少年を売り込もうとしている相手の子たちが関心を向けてくれないかもしれない。こんなことは以前であれば起きなかったし、このような子たちは受け身の消費者のはずだった。また、元々、真のパイオニアであるエルビス・プレスリーElvis Presley、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis、リトル・リチャードLittle Richard、ファッツ・ドミノFats Domino、チャック・ベリーChuck Berry(ベリーはキャリア開始時点で30歳近かった)などは、若いファンより数歳年上だが、1950年代が終わり1960年代に入ると、この年齢差は縮まり始める。まず、リッキー・ネルソンRicky Nelsonやブレンダ・リーBrenda Leeなど新興の10代スターは、親たちの反感を買わないように注意深く管理され、特にネルソンの場合は、たくさんの子供たちがネルソンの親のテレビ番組で毎週彼を見ていて、「あれなら自分もできる」と思った。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。バックのミュージシャンも子供だったが、スタディオの経験があり、特にジェームス・バートンJames Burtonはカントリーのツアーを経由してハリウッドへの道を切り開き、同時にほかの人のレコードにも登場して、最も有名なのはデール・ホーキンスDale Hawkinsの「スージー・キューSuzy Q」の中のくねくねしたギター・ラインだった。しかし、実際に「それを実行」できた子もいて、バディ・ホリーBuddy Hollyはエルビス・プレスリーElvis Presleyがテキサスの最初のツアーをラボックで開催したときに、ステージの合間に会って話したところ、類似の精神を持っていると思った。ホリーと彼のグループのクリケッツThe Cricketsが、チャートでエルビスと一緒に載るにはもうちょっと長くかかるのだが、実現することになる。

そして、リズム&ブルースのチャートにいるたくさんのボーカル・グループ・シンガー達は若く、フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズFrankie Lymon and The Teenagersは本当にティーンエイジャーで、シャンテルズのアーリーン・スミスArlene Smithは「メイビーMaybe」を歌った時に13歳だった。しかし、多くの白人の10代にとっては、未知の世界だった。

この状態は長くは続かず、テレビはいよいよ、ディック・クラークDick ClarkのABCネットワーク・ダンス・パーティー番組、「アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstand」で、若い新人演奏者の画像を、放課後すぐの午後遅い低視聴率時間帯に全国放送し始め、演奏者はライブで演奏せずにレコードに合わせた口パクだが、少なくともテレビにはよく出ていた。同じように登場したのが、流行に超敏感な、あるいは、そのように見えたフィラデルフィアの子たちで、スタディオに集まって最新の服を着て、番組で最新のダンスを踊った。これを真似する番組が現れ、この内容を地元で行なったり、可能ならライブ演奏するツアー・アーティストのいる番組もあった。「アメリカン・バンドスタンド」の問題は、フィラデルフィアに拠点を置く数人(番組司会者のディック・クラークDick Clarkやその音楽業界仲間)が、この10代の現象を確実に支配できると思い込み、格好の良い10代の男の子たちに演奏させ、軍隊に行ったエルビスElvis、セックス・スキャンダルをしたジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisとチャック・ベリーChuck Berry、牧師になったリトル・リチャードLittle Richardを失った観客に、その男の子たちをうまく押し付けたのだった。

しかし西部ではこの現象を受け入れなかった。一つには50年代半ばに始まった、ベンチャーズThe Ventures、ウェイラーズThe Wailers、ポール・リビア&レイダーズPaul Revere and The Raidersなど、エレキギターとドラムスだけで構成された小編成のバンドが、たいていは地域的でしかなかったが大流行していた。このタイプのバンドが南へと広まり、ギター名人のリチャード・モンスールRichard Monsourが、戦後生まれたスポーツのサーフィンを楽しみながら気分転換をしていた。プロとして演奏したくてたまらなかったので、父親の助けを借りてバンドを結成してレコードを作り、バルボア・ビーチBalboa Beachで毎週ダンスパーティーを催した。ディック・デールDick Daleと改名したモンスールと、彼のバンドのデルトーンズThe Deltonesは、初ヒット「レッツ・ゴー・トリッピンLet’s Go Trippin’」(トリッピンは、知り合いの子たちが使うサーフィンの単なるスラング)のタイトルにサーフィンを入れ、結局ヒットした。サーフィン・インストゥルメンタルはロサンゼルスでレコーディングされ、波のないところでもよく売れた。そういえば、海のないところでも。

カリフォルニア州ホーソーン近くでは、3人兄弟とほかの2人によるグループが、ボーカル・グループ音楽の練習をしたり浜辺をうろついていたが、実際にサーフィンをしたのは、そのうちのデニス・ウィルソンDennis Wilson、一人だけだった。デニスは、これらのレコードには言葉がないという興味深い事実に飛びついた。なんと誰もサーフィンについて歌っていなかったのだ。すぐに兄のブライアンが歌詞を書き、父親のコネでキャピトル・レコードCapitol Recordsと契約したが、この会社はビッグ・スターのフランク・シナトラFrank Sinatraとディーン・マーチンDean Martinをワーナー・ブラザースWarner Bros.に引き抜かれて、何としてもヒットが欲しかった。キャピトルは、ウィルソン家のグループであるビーチ・ボーイズThe Beach Boysでヒットを出した。

しかし、「あれなら自分もできる」という動きはこれだけではなかった。50年代半ばから、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、デンバー、そして全国の大学のキャンパスではフォーク復活の新たな波が生まれた。1930年代に主に左派政治や労働運動によってフォークが活気づいたこともあったが、1950年代はウィーバーズThe Weaversの台頭へとつながり、50年代初めにはしっかり編成されたヒット曲を出したが、赤狩りによって大打撃を受けた。この新しい動きの中にいる演奏者はそれらの政治思想を持ったり、当時の公民権運動や核軍縮のための闘争と結びついているものもしばしばあったが、彼らの音楽は6枚組LP、「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージックthe Anthology of American Folk Music」にも影響を受けたと感じられる。このLPはハリー・スミスHarry Smithという変人がフォークウェイズ・レコードFolkways Recordsで編集した。「バラッズBallads」、「ソーシャル・ミュージックSocial Music」、「ソングズSongs」という3組のダブル・アルバムは、わずか35年前に録音されたものだが、ほぼ完全に消滅してしまった田舎の音楽を世に出したものだ。このアンソロジーと78回転カントリー・ブルースの違法複製盤によって、大学世代のアマチュア研究家が南に向かい、これらの人々がまだ存命か確認し、実在していれば、録音し、持ち帰ってコンサートで演奏した。研究者はインストゥルメンタルのテクニックも学び、自分で演奏し始めたものも多かった。流行しているポップ・ミュージックは味気ないと幻滅するようになった20歳近い10代にとって、こうすることは、同じような考えを持つ個人が全国ネットワークをつなげる素晴らしい方法で、ギターやバンジョーを持って現れ、面白い人たちの会えるのだった。ミネソタ州ヒビングの町から大学に来た10代のロバート・ジマーマンRobert Zimmermanなどは、地元のフォーク・シーンに熱を入れただけでなく、自分の曲を書き始めようと決め、そのほとんどは不正と現代社会に関するものだったが、プロテスト・シンガーのウディ・ガスリーWoody Guthrieがやったように伝統的なメロディに乗せて歌った。ボブ・ディランBob Dylanと名乗るようになったジマーマンは、すぐにニューヨーク市に行き、そこのフォーク・クラブで成功を収めようとした。

このフォーク・ミュージックの動きはラジオやチャートに現れ始め、最初にキングストン・トリオThe Kingstone Trioというグループの主なレパートリーはフォーク・ミュージックでは全く無く、ショービジネスの曲だったり、作曲された垢ぬけた歌で大学生の子たちに広く受け入れられた。しかし、トリオの風変わりなヒット曲は、フランク・プロフィットFrank Proffittというバンジョー演奏者による本物のフォークソング、「トム・ドゥーリ―Tom Dooley」を彼らなりにアレンジしたものだった。キングストン・トリオの基本形態が、ピーター・ポール&マリーPeter, Paul and Maryだけでなく、ほかの商業主義のグループを数多く生み、PPMは純粋商業主義とアングラとの間を、最初のヒット曲であるボブ・ディランBob Dylanの「風に吹かれてBlowin’ in the Wind」によって橋渡しした。これらのグループは、イギリスで別のフォーク・リバイバルを思いがけず引き起こしたが、それがスキッフルの流行だ。気楽に持ち運べる楽器と楽しい歌の集いが、イギリスの大学キャンパスや地方の核軍縮グループだけでなく、ロンドンのソーホーにいる慣習にとらわれない群衆の間で流行した。スキッフル演奏者のレパートリーは、主にアメリカン・フォークの最初のフォークソング・リバイバルで、芝居がかった曲や黒人歌手のレッド・ベリーLead Bellyが1930年代に録音した曲が中心だった。

イギリスではスキッフルが大流行したため、最初のロックンロールの波にほとんど乗れなかったし、真似をしようとしても下手だったり、見苦しかったりした。すぐに、ナンシー・ウィスキーNancy Whiskeyやロニー・ドネガンLonnie Doneganがイギリスのチャートを駆け上がった。ドネガンは、レッド・ベリーLead Bellyの「ロック・アイランド・ラインRock Island Line」という曲でアメリカでもヒットさせ、残念ながら忘れられない「ダズ・ユア・チューイング・ガム・ルーズ・イッツ・フレーバーDoes Your Chewing Gum Lose Its Flavour (on the Bedpost Overnight)?」は、ミュージック・ホールの曲調でさらにヒットした。しかし、スキッフルの人気のカギは必要なものが簡単であることで、ギター2本と、長い物干し紐と地元の食料品店の裏で拾える鉛の裏地が付いた茶箱でできたベースがあれば、だれでもスキッフルができると思えた。すぐにロンドンだけでなくイギリス中に広まり、イングランドの北にあるリバプールにも届き、ジョニー&ムーンドッグズJohnny and The Moondogsというスキッフル・バンドは、この音楽形式にロックンロールの曲を当てはめたが、ほとんどうまくいかなかった。このグループのリーダー、ジョン・レノンJohn Lennonはロックンロールにとり憑かれていて、地元のレコード店にしょっちゅう行っては試聴ブースで聞き、万引きしたり、必要があれば買った。教会の祭日にリバプールで、ムーンドッグズの演奏前に、レノンの友達がポール・マッカートニーPaul McCartneyという子をレノンに紹介したが、マッカートニーもロックンロールにとり憑かれていた。マッカートニーには友達がいて、マッカートニーやレノンよりもはるかにギターが上手かったが、二人より若いジョージ・ハリソンGeorge Harrisonだった。すぐに本格的ロックンロール・バンドを結成し始めた。彼らには演奏の仕事が必要だったし、ドラマーが必要だったが、そして、そう、必要なことはたくさんあった。

話をロンドンに戻すと、ジャズ・ミュージシャンたちは何の気なしにスキッフル・シーンを生み出してしまったが、別のサブジャンルであるブルースも発達させ、ジャズ・ライブで休憩用音楽として数人のプレイヤーが演奏を試みた。特に有名なのは、アレクシス・コーナーAlexis Kornerとグラハム・ボンドGraham Bondで、当時アメリカにおいてヒットしていたシカゴのブルース演奏者であるマディ・ウォーターズMuddy Watersとソニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamsonを聞いていた。これが興味深い現象を引き起こしたのだが、それは若いファンがメインのバンドでなくブルース演奏者を聞きに来て、この年輩の男たちが演奏する音楽に熱狂的に引き込まれていったのだ。間もなくコーナーはレギュラーだった雇い主から離脱し、ブルース・インコーポレイティッドBlues Incorporatedを結成して、クラブのライブでレギュラーになり、リズム&ブルースと呼ぶ音楽で若いファンを惹きつけ始めた。これらのファンのうち最も騒々しい者の一人が、郊外出身のブライアン・ジョーンズBrian Jonesという若者で、リズム&ブルースを支持する手紙を音楽出版に書き、ハーモニカを吹いてコーナーと一緒に演奏した。やがて、コーナーはジョーンズを、マイケル・ジャガーMichael Jaggerとキース・リチャーズKeith Richardsに紹介したのだが、この2人は、チャック・ベリーChuck Berryも所属しているチェス・レーベルChess labelのブルースが大好きなことで結びついていた。3人はチェルシーにある惨めなアパートに身を置いて成功の道を歩むことになる。メンバーはまだ流動的で、最終的には南ロンドンのクラブでローリン・ストーンズThe Rollin’ Stonesとしてデビューした。

本著はその少し後から始まっている。ビーチ・ボーイズは太陽の中で楽しむただの一時的流行のプロモーターではなく、本物のヒット・メーカーとして自己を確立し、ビートルズはイギリスを制覇し、キャピトル・レコードCapitol recordsは両グループの権利を所有していたが、まだヒット曲を必要としていた。キャピトルはビートルズの最初のレコードを見送ったが、1963年後半にビートルズを売ってみることに決めた。ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesはもう少しかかることになるが、自分たちの音楽を作りたがっている10代は、自分もできるというさらなるうねりを作り出した。音楽ビジネス、音楽シーン、そして若者文化そのものが大きく変わろうとしていた。

これに関しては、もっと複雑な背景がたくさんあるので、それを知るためには、このロックンロールの歴史第Ⅰ巻を探して読んだ方が良いが、だからと言って第Ⅱ巻から始めると、素晴らしい話を知ることができないということではない。もっと重要なことは、このすべてのことが起きた時にその場にいた読者が、この巻を読み進めて行くと、端的な例を挙げれば、ディスコ、エレクトロニック・ポップ、カントリー音楽の小さな革命など、省略したり軽視した出来事が多少あることに気が付くだろう。これには訳がある。この第Ⅱ巻を書いている間に、上記のことやそれ以外の展開について必要な詳細を注意深く扱うためには、最終巻となる第Ⅲ巻が必要だということが明らかになった。この最終巻は現在執筆中である。

もう一点について述べると、この本で扱っている期間は、大量のポピュラー音楽があふれ出ていた。この期間におけるお気に入りのアーティストで語られていない者や、ふさわしい詳細な取り扱いがなされていないと感じることも大いにあるだろう。これには理由があって、この時期はロック報道が増え、これらのテーマを非常に詳細に扱えると思うライターが増加したのだ。批評や理論だけでなく、ビートルズThe Beatlesの本、ストーンズThe Rolling Stonesの本、グレイトフル・デッドGrateful Deadの本、レーベルの本、個々のアルバムの本、ポスターとアルバム・カバーの本だけでいくつかの書棚を一杯にすることができる。関心のあるトピックスをさらに読むことを勧めるので、本著を書くにあたって参考にした本を、参考文献一覧に挙げたが、完全なものとはとても言えない。本著は概説であって、それ以上ではない。本著の目的は、どのような動きが起こり、対象となるファンとどのような関係が生まれ、どのように消えていったかを示すことだ。そして1963年12月に続く。

 

 

第1章

息子も娘も親の手に負えない

 

 

素晴らしい4人組A Fab Four、ビートルズThe Beatlesの正規品ではない

(デビー・ハドソン・バディンDebbie Hudsonの好意による写真、彼女のコレクションから)

 

 

 

 

アメリカン・ポピュラー音楽の世界は1963年12月26日に永遠に変わったが、当時は誰もそのことに気づかなかった。おや、業界雑誌の広告に、頭から切り離された4つのヘアカットが「ビートルズがやって来る!The Beatles Are Coming!」という言葉の上に浮いていたが、それがどうしたのか。刺激的な広告はレコード業界にとっては必須で、それが意味するのは、キャピトル・レコードCapitol Recordsが、イギリスにある親会社の子会社であるパーロフォンParlophoneの要請を受け、多分いやいやであろうが、アメリカで既にキャピトルが見送り、他の2レコード会社が発売したアーティストのレコードを出すことに決めたことだ。しかし、イギリスでこの連中のレコード売り上げはすごかったことは否定できないので、アメリカで試してみても困ったことにはならないだろうということになった。ビートルズが「抱きしめたいI Want to Hold Your Hand」を出すので、キャピトルは年明けに試してみることになった。

この曲はワシントンDCのWWDC-AMのディスク・ジョッキーのキャロル・ジェームスCarroll Jamesには相手にされなかった。彼には英国航空の客室乗務員に友達がいて、イギリス盤のレコードを手に入れ、リスナーは気に入ったようだが、販売されていなかった。テレビ司会者のジャック・パーJack Paarは1月3日の番組にビートルズのフィルムを放映すると言い、しかも有名なテレビ司会者エド・サリバンEd Sullivanは、2月9日と16日の日曜夜の番組に出演すると発表した。

しかし、新年にはいつも楽観的になるもので、レコード業界雑誌のビルボード誌Billboardは1月4日号に大きな黒い見出しを載せた(ビルボード誌Billboardは決まった日より数日早く印刷出版されていた)「1964年を最高にホットな年と予測」。よくありがちな予測だが、この年に限っては正しく、2週間後の見出しは、「イギリスのビートルズ キャピトル・レコード史上最も熱いシングル」。これを裏付けるデータがあり、「抱きしめたいI Want to Hold Your Hand」は空前のシングル・チャート45位初登場を果たし、レコード発注数は百万枚を超え、そのうち20万枚はRCAレコードRCA recordsのプレス工場に外注し、キャピトル・レコードはビートルズを乗せた飛行機が2月に到着したときに、ゴールド・レコードをプレゼントすることを望んだ。

翌週には宣戦布告がなされた。シカゴのリズム&ブルース・レーベル、ビージェイ・レコードVee-Jay recordsが、1963年にキャピトルの見送ったビートルズの数曲の使用権を保有し、ビートルズが契約下にあると主張して、キャピトルとスワン・レコードSwan recordsに対して差し止め命令の訴訟を起こした。スワンはフィラデルフィアの頼りないレーベルで、ビージェイが見送った「シー・ラブズ・ユーShe Loves You」を販売した。キャピトルの方はビージェイに対する差し止め訴訟を起こし、スワンが手をこまねいていると「シー・ラブズ・ユーShe Loves You」は69位にチャート入りした。ビートルズ自身は、アメリカ・ツアーを最高の出来にするための準備をし、1月16日から2月4日までパリのオリンピア劇場で連続公演を行い、アメリカのシンガーのトリニ・ロペスTrini Lopez、フランスのイェイイェイ・シンガーのシルビー・バルタンSylvie Vartanと共演とした。フランスの批評は散々だったが、マネジャーのブライアン・エプスタインは、そんな批評はくそくらえだというレポートをニューヨークから受け取り続けた。

2月7日、ヒースロー空港のファーストクラス・パンナム・ラウンジはビートルズ一行でいっぱいになった。メンバー4人、エプスタインBrian Epstein、最初から取材していたリバプールの新聞記者トニー・バローTony Barrow、リバプールから来たもう一人の親友ニール・アスピノールNeil Aspinall、コンサート設営スタッフになったモル・エバンスMal Evans、そして驚いたことに、もはや秘密で無くなったジョン・レノンの妻のシンシアCynthiaがいた。彼らが乗りこんだ時、ファースト・クラスの客室をうろうろしたのはフィル・スペクターPhil SpectorとロネッツThe Ronettes(そのうちの一人はジョージ・ハリソンGeorge Harrisonと付き合っていた)で、ビートルズのレコードをプロデュースさせてくれるよう、飛行機に乗って説得することを期待していた。ほかには、イギリスのジャーナリストでビートルズを広範囲に執筆していたモーリン・クリーブMaureen Cleave、リバプール・エコー紙the Liverpool Echoのレポーターで紛らわしい名前のジョージ・ハリソンGeorge Harrison、着陸時のお世話をするか、あるいは、したいと思っているキャピトル・レコードCapitol Recordsのスタッフ数名がいた。エコノミー・クラスにはイギリスの騒々しいビジネスマンの一団がいて、長いフライトの間にビートルズ商品の取引についてエプスタインと話すチャンスを望んでいた。その見込みはほとんどなく、客室乗務員は、その人たちのメモをファースト・クラスに持っていくのを断った。結局、ビートルズの公式写真家のデゾ・ホフマンDezo Hoffmannが同情して、ビートルズとエプスタインの業務の世話をしているロンドンの事務弁護士の名前を教えてあげた。飛行機が着陸態勢に入ると、空港エプロンの巨大な人だかりに気付き、スペクターが双眼鏡を取り出して「ほら、見ろ!ビートルズの横断幕を掲げている!」と言ったとき、初めて乗客は何が起こっているのかに気が付いた。群集の多さと同様に騒音も常軌を逸していたが、ニューヨーク市警の手助けがあって、巨大なホールへと進み、そこで200人のジャーナリストがアメリカにおけるビートルズ最初の記者会見を待っていた。

ビートルズの報道担当ブライアン・サマービルBriana Sommervilleは、キャピトルとの調整のため2日前に飛んできていて、ビートルズが税関を通過した後、マイクのあるテーブルで待っていた。目撃者によると、その部屋が敵意に満ちていたのは明らかだった。外では金切り声をあげる群集がいたが、奇妙な格好をした外国の若造がアメリカの発明をパクって大金持ちになったのだから、内に秘めた怒りがあった。ざわざわと言う話声、葉巻の煙で目から涙が出る中、カメラのフラッシュが絶え間なく続いた。最後にサマービル元海軍司令官が「黙って!ちょっと、黙って!」と言うと、ビートルズ全員が「そうだ、黙って!」と言った。アメリカ人も同じように言って、拍手した。その後質疑が始まった。「アメリカで散髪するつもりですか?」が最初の質問で、レノンが「昨日やった」とうまくさばいた。「私たちのために何か歌ってくれますか?」には、再びレノンが「最初にお金が必要だ」と返した。こんな感じで気の利いた素晴らしい返事をした後、リムジンに乗り込んだが、その際、ポールは、ウィッグではないかと思って取ろうとしたレポーターに髪の毛をつかまれた。プラザ・ホテルthe Plaza Hotelに向かったが、ループの4人が「ビジネスマンBusinessman」だというエプスタインの説明があまり正確でないとホテルが知るとすぐに、ニューヨークの他のホテルにグループを泊めてほしいと頼んだ。その後数日間、ビートルズは基本的に監禁状態だったが、時差ボケを避ける超人的な技を使い、ポールは初日に何とかプレイボーイ・クラブthe Playboy Clubに行き、レノン夫妻とリンゴはペパーミント・ラウンジthe Peppermint Loungeに行ってどんな所かを見た。その後リンゴがどうなったか分からないが、レノンとシンシアは早々に引き上げた。とにかく誰もツイストを踊らなかったが、ハウス・バンドはビートルズの曲を演奏していた。

次の日、ビートルズはエド・サリバン・ショーthe Ed Sullivan Show に向けてCBSスタディオでリハーサルを行ったが、ジョージはのどが痛くなってダウンし、アメリカ人と結婚して中西部に住んでいた姉に看護してもらった。2月9日の夜、ショーに出演し7千万人が視聴した。当時はステージ・モニター導入以前の時代だったので、それほど過熱しているようには聞こえなかったし、少女たちの金切り声もあったが、成功した。ビートルズ熱はもはや全国的で、その晩、エルビス・プレスリーElvis Presleyとトム・パーカー大佐”Colonel Tom” Parkerのサインの入った、幸運を祈るという電報をエド・サリバンEd Sullivanが読み上げて、ビートルズの出番を紹介した時、時代の主役が交代した。

翌日、別の記者会見が行われたが、場所はプラザ・ホテルthe Plaza Hotelだった。今度は長く続いたので、その途中でビートルズは昼食を注文して運ばれてきた。次の日、ワシントンDCに行くことになっていた。当初、行く予定がなかったのだが、エド・サリバン・ショーでは3千ドルしか払われなかったことを考えると、エプスタインは少しお金を稼ぐ必要があると考えたのだった。思わぬ障害が発生した。それほどたくさんの人が日曜の夜にビートルズを見た理由の一つは、北東部を巨大な吹雪が襲い、誰も外に出られなかったからだ。翌日もずっと雪が降り、ワシントンへ向かうことになっていた朝も雪だった。急いで電話をかけた結果、設営とリハーサルに十分間に合う時間に到着するワシントン行列車に専用車両を連結してもらえ、その晩コロシアムthe Coliseumの大観衆の前で、キャロル・ジェームスCarroll Jamesに紹介されてステージに上がった。その後、英国大使館主催のパーティーに行き、そこで珍しい物のような取り扱いを受け、ある女性はリンゴのところまで行って、マニキュア・バサミで髪の毛を少しチョキンと切っても構わないかのように感じ、そうしてしまった。しかし、頑張り続け、ニューヨーク市に戻ってカーネギー・ホールCarnegie Hallでショーを2回、その後、次のサリバン・ショーのためにマイアミ・ビーチに向かった。2月22日に飛行機に乗ってイギリスに戻ったが、後には大混乱が残った。しかし、彼らには作るべき映画があった。

新たな風景が展開された。一つにはファン層が異なり、小売店の話ではとても若い子が来てビートルズのレコードを1、2枚だけで他には買わないというのだ。そして次がおもちゃだ。ブライアン・エプスタインは、市場でビートルズを利用して儲けるような商品の量を懸命に抑えようとして、たとえば公認のビートルズかつらが売りに出されたが、ビートルズと露骨に結び付けているわけではなく、しかも安い、ボサボサのモップ販売を止めることはできなかった。たくさんのレコードが発売され、スワンズThe Swansの「ザ・ボーイ・ウィズ・ザ・ビートル・ヘアThe Boy With the Beatle Hair」、ドナ・リンDonna Lynnの「マイ・ボーイフレンド・ゴット・ア・ビートル・ヘアカットMy Boyfriend Got a Beatle Haircut」、バディーズThe Buddiesのインストゥルメンタル「ザ・ビートル」は怒涛の始まりに過ぎず、年末には人形腹話術師ティック&クワッカーズTich and Quackersの「サンタ・ブリング・ミー・リンゴSanta, Bring Me Ringo」で最高潮を迎えた。ビートルズThe Beatlesでチャンスを逃したレコード会社は、イギリスのバンドであれば基本的に妥協し、エピック・レコードEpic recordsが最初にデーブ・クラーク・ファイブThe Dave Clark Fiveの「グラッド・オール・オーバーGlad All Over」を1月にリリースし、『マージー・ビート!Mersey Beat!』と銘打ったのだが、そうすることによって、リバプールの象徴であるマージー川をデーブ・クラーク・ファイブの故郷であるロンドンにうまく転換させようとした。ローリー・レコードLaurie Recordsは、ブライアン・エプスタインBrian Epsteinのもう一つの依頼人であるジェリー&ペースメーカーズGerry and The Pacemakersと契約し、一方で、カップ・レコードKapp recordsはサーチャーズThe Searchersと、アトコ・レコードAtco recordsはフォーモストThe Fourmostと、リバティ・レコードLiberty recordsはビリーJクレイマー&ダコタス Billy J. Kramer and The Dakotas、そして、スウィンギング・ブルー・ジーンズThe Swinging Blue Jeansの2グループと契約したが、これらは全部リバプールのバンドだった。奇妙なことに、マージービーツThe Merseybeatsはアメリカでは契約しなかった。近隣では、マンチェスターのホリーズThe Holliesもリバティ・レコードLiberty recordsと契約し、MGMレコード MGM recordsはニュー・キャッスルのアニマルズThe Animalsを獲得し、ロンドンの代表であるシャドーズThe Shadowsはアトランティック・レコードAtlantic recordsと、ゾンビーズThe Zombiesはパロット・レコードParrot recordsと、おお、そうだ、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesはロンドン・レコードLondon recordsと契約した。イギリスのバンドの容赦ない流入は1965年5月にある種、哀れな終焉を迎え、イアン&ゾディアックスIan and The Zodiacsは、三人の写真が載っているアルバムをリリースし、その吹き出しには「僕らは新しい!僕らはイギリス出身!僕らのサウンドは新しい!」とあった。この頃までには誰も気にかけなくなり、差し当たり選択肢は十分だった。

2月の大西洋横断フライトの間、ギタリストのジョージ・ハリソンはリバプールのジャーナリストのジョージ・ハリソンに、「あそこには何でもある」とアメリカのことを言った。「いったい、なんで僕らを欲しがったのか?」この質問に対する答えは嫌になるほど語られてきたが、ハリソンは的を射ていた。他の文化の流れは続いていて、米英ともにポピュラー・ミュージックの顔を変えるためにビートルズが重要だったし、ビートルズ自身にとっても非常に重要だった。

理由の一つはフォーク・ミュージックだ。キングストン・トリオKingston Trioとピーター・ポール&マリーPeter, Paul and Maryが一方にいて、ニュー・ロスト・シティー・ランブラーズThe New Lost City Ramblersがもう片方にいて、今や音楽ビジネスの一部として確立されていた。フーテナニー・バンドと呼べるようなものはどこにでもいて、ノブ・リック・アッパー10,000 The Knob Lick Upper10,000 、セレンディピティ・シンガーズThe Serendipity Singers、バック・ポーチ・マジョリティThe Back Porch Majority、フォークウイミンThe Folk Women、チャド・ミッチェル・トリオThe Chad Mitchell Trioは、フィーチャーしたシンガーのソロ・ナンバーと、歌の集いの曲をミックスしたアルバムをリリースした。これらのグループは大学キャンパスのライブ歌手として人気はあったが、ほとんどはレコードをたくさん売っているとは思えなかった。フォークの動きのもう一面は『正統派』のグループで、ボブ・ディランBob Dylanの最新アルバム「ザ・タイムズ・ゼイ・アー・アチェインジンThe Times They Are a-Changin’ 」の中でディランがとっているスタンスを手本とするソングライター達もいた。このディランのアルバムはほとんどがプロテスト・ソングから成り、タイトル曲の「ウィズ・ゴッド・オン・アワ・サイドWith God on Our Side」や「フェン・ザ・シップ・カムズ・インWhen the Ship Come In」を含む(ビルボード誌Billboardはこのアルバムについて、「全体テーマは、人間が人生と戦うにあたってのわびしい悲しさや幻滅だ」と書いている)。これには、かつてのジャーナリストのフィル・オクスPhil Ochs、アメリカン・インディアン活動家のバフィー・セントマリーBuffy Sainte-Marie、左派の主婦のマルビナ・レイノルズMalvina Reynolds、そしてもちろんピート・シーガーPete Seegerがいて、シーガーは、レイノルズの郊外にあるスラムのことをかなりはっきり歌った「リトル・ボックシーズLittle Boxes」というミニヒットを出していた。曲作りだけしたり、選りすぐりのフォークソングを歌うだけのフォーク・アーティストもたくさんいた。イアンとシルビアIan and Sylviaはカナダ人デュオでカントリー色を帯び、時にはケベックなまりのフランス語がかったフォークを歌い、グリーンブライアー・ボーイズThe Greenbriar Boysは都会のブルーグラスをやってみて、フォークソング・ファンを取り込んだ。フォークウェイズ・レコードFolkways recordsはロスコー・ホルコムRoscoe Holcombやドック・ボッグスDock Boggsなど、新たに見い出された伝統的演奏者による曲をリリースしていた。「白人はブルースを歌う/演奏することができる/すべき」という論争をフォークの人達が続けているのは、デイブ・バン・ロンクDave Van Ronkのおかげであり、他にもミネアポリスのケルナー・レイ&グローバーKoerner, Ray and Glover、そして、ボブ・ディランBob Dylanをコロムビア・レコードColumbia recordsと契約させた男の息子のジョン・ハモンドJohn Hammondがいた。そして、もし正統性にこだわりつつも笑いでほっとするのを必要とするのなら、二人の素晴らしいシンガー、ジェフとマリア・マルダーGeoff and Maria Muldaurをフィーチャーしたボストン出身のジム・クウェスキン・ジャグ・バンドJim Kweskin Jug Band、そして、ニューヨークの際立って風変わりなホリー・モーダル・ラウンダーズHoly Modal Roundersがいた。これらのフォークも大してたくさんのレコードを売ることはできなかったが、キャンパスやフォーク仲間で並み外れた出演をこなした累積効果と人気によって、たぶんお金は稼いだのだろう。「正統派」として認められたアーティストとしては、最初のアルバムからずっとチャートに載っていたジョーン・バエズJoan Baez、そして(時には、しぶしぶ正統派と認めざるを得ない)ピーター・ポール&マリー Peter, Paul and Maryがいて、そのLP2枚組ライブ・アルバム、「イン・コンサートIn Concert」のものすごい売れ行きに業界はびっくりした。

それどころか、昔の演奏者の再発見や新発見は次に起こることのために重要だった。1964年、スポーツライターでフォーク・ファンのディック・ウォーターマンDick Watermanとほかの二人の男が、よりにもよってニューヨークのロチェスターで、伝説的ブルースマンのエディJサン・ハウス Eddie J. “Son” Houseを見つけ出した。間近に迫ったこの年のニューポート・フォーク・フェスティバルで演奏してもらえることに意を強くして、さらに探そうとしたところ、この頃にはレアなレコードに名前だけ載っていたもう一人の伝説的人物のネヘミア・スキップ・ジェームスNehemiah “Skip” Jamesを、他のファンたちが見つけ出していたことが分かった。この二人以外に出演するミシッシピ・ジョン・ハートMississippi John Hurtは、他の二人同様、前年に見つけ出され、聴衆を惹きつける穏やかなカリスマだけでなく、名人芸もまだそのままだった。(あるファンが、クラシックのあこがれのギタリスト、アンドレス・セゴビアAndres Segoviaにハートのレコードをかけたところ、ギタリストが二人いるとセゴビアが叫んだという話は、残念ながら真実でない。)グリーンブライアー・ボーイズThe Greenbriar Boysのマンドリン奏者、ラルフ・リンズラーRalph Rinzlerは、フォークウェイズ・レコードthe Folkways recordsのアルバム、「アンソロジーAnthology」のスター、クレアレンス・アシュレーClarence Ashleyを見つけ出し、ニューヨークに呼んで自分の組織する非営利団体、フレンズ・オブ・オールド・タイム・ミュージックFriends of Old Time Musicが企画したコンサートで演奏してもらった。それだけでなく、アシュレーが現れた時、自分の町のかなり若いアーセル・ドク・ワトソンArthel “Doc” Watsonを引き連れたのだが、ワトソンが演奏するフォーク・ギターのスピードと正確さに、フォーク・ギタリストたちは舌を巻き、その後フォーク演奏者として人気が出た。これらの古いレコードは、遠い昔に録音したと思われていたが、実はせいぜい35年前の録音だと知ることは、フォーク・ムーブメントの「正統派」に新たな力を与えることになった。

フォークの世界とソウル音楽は天と地ほど開きがあるように思えた。公民権運動は、民俗学者ガイ・カラワンGuy Carawanが発見し、ピート・シーガーPete Seegerが書き直して流行らせた、フォークの賛歌「ウィー・シャル・オーバーカムWe Shall Overcome」と関係したが、カーティス・メイフィールドCurtis Mayfield率いるシカゴのインプレッションズThe Impressionsは、単にヒットさせただけでなく、ヒット曲に自由のメッセージを注意深く埋め込み、1964年の公民権法の文言に反映された。彼らの優れたレコードはどんどんリリースされ、1963年後半の「イッツ・オール・ライトIt’s All Right」で始まり、「アイム・ソー・プラウドI’m So Proud」(おそらくシンガーのガールフレンドのこと)と「キープ・オン・プッシングKeep On Pushing」が続き、1964年は(シドニー・ポワチエSidney Poitierが初めてオスカーを受賞した映画、野のユリLilies of the Fieldのサウンドトラックからとった)「エーメンAmen」、そして1965年には「ピープル・ゲット・レディPeople Get Ready」によってはっきり意見を表明し、熱烈で断固としたゴスペルの歌唱法によって俄かに名作になった。メイフィールドは勇敢で、黒人教会でさえマーティン・ルーサー・キング・ジュニアMartin Luther King Jr.を全面的には応援せず(言うまでもないが白人教会の年配の人々も応援していない)、そこまで歯に衣着せずに思い切っていう演奏者はほとんどいなかった中で、バイブレーションズThe Vibrationsの「マイ・ガール・スラピーMy Girl Sloopy」はスラム街で流行り、マーサ&バンデラスMartha and The Vandellasの「ダンシング・イン・ザ・ストリートDancing in the Street」を夏の人種暴動に関連付けた者もいたが、これはこじつけ気味。しかし、運動における別の偉大な曲は、サム・クックSam Cookeのダンス曲「シェイクShake」のB面だった。「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カムA Change Is Gonna Come」はのんびりしたペースで、ドクター・キムDr. King自身が書いたとしてもおかしくない楽観論で、長い間待ち望まれていたとは言え変化は来つつあった。

しかし、クックは考え直していた。ツアーをやめて、マネジャーのJWアレクサンダーJ. W. Alexanderと一緒に設立したレーベルSAR recordsに専念し、好機を待つと発表したのだが、それは、スタッフ・プロデューサーのヒューゴとルイジHugo and LuigiがRCAとの契約を更新せず、ルーレットRouletteに移籍したからだった。RCAはすぐに新曲が必要となり、クックはその曲にもう少しソウルを吹き込む手助けをしてくれる人が現れるかもしれないと考えた。クックには考えがあって、マディ・ウォーターズMuddy Watersやジョン・リー・フッカーJohn Lee Hookerのような人が書いたブルースのアルバムに関するアイデアだった。「シェイクShake」と「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カムA Change Is Gonna Come」をリリースした。1963年のある日、マイアミのハーレム・スクエア・クラブHarlem Square Clubでライブ録音したが棚上げされて何年も後にリリースされたとき、そこにはサムのかなり気骨ある態度が現れていたので、オーティス・レディングOtis Reddingは個人的に崇敬した。1965年にサムが死んでしまうと思った人はいただろうか。誰も思わなかった。1965年12月11日夜、クックは一人で出かけ、結局ショービズのマートニMartoniというレストランで、仕事友達数人と会った。その夜が更けていく中で、若い美女のエリザ・ボイヤーElisa Boyerが、クックの知り合いのミュージシャン数名と同席しているのに気づき、その子もクックに気が付いた。二人は結局一緒にドライブすることになり、その子はハリウッドの素敵なホテルに行くことを提案したのだが、サムはミュージシャンが行くホテルで、煩わしくないところを知っていた。二人がハシエンダ・モーテルthe Hacienda Motelに着いた午前2:30には、サムはグデングデンに酔っぱらっていた。部屋に入ると、サムは奇妙な行動を始め、ボイヤーの服をはぎ取った。彼女はバスルームに逃げ込んだが、カギがかからなかった。戻るとサムは裸だった。サムがバスルームに入って出てくると、サムのジャケットを除いてボイヤーとサムの服が消えていた。サムは、スポーツ・ジャケット以外何も着ずにモーテルのオフィスに行ったが、見たところの印象では、支配人のバーサ・リー・フランクリンBertha Lee Franklinがボイヤーをかくまっているようだった。バーサはかくまっていないと言ったが、サムはオフィスのドアを壊し始めた。あっという間にドアを粉々にし、よろめきながら入って、ボイヤーを探し、フランクリンに襲いかかった。二人は取っ組み合い、フランクリンはオフィスにしまっていた銃を握ったが、こんなことは以前にも起こった。サムは銃を奪おうとし、フランクリンの1発目は天井を撃った。もう一度撃った。3発目はサムの胸に当たり、弾丸は心臓と肺を突き抜けた。サムは「お前、撃ったな」と言って、バーサに飛びかかった。フランクリンはこん棒を持ち上げ、サムの頭をひっぱたいた。サムは床に倒れ、死んだ。事件は正当防衛と判決され、フランクリンは起訴されなかった。

もしクックが生きていたら、SARレコード SAR recordsはモータウンと激しい競争をしていただろうが、モータウンはちょうど最初の隆盛期を迎え、自ら主張するように「若いアメリカのサウンド」になることを狙っていた。モータウン創設者のベリー・ゴーディBerry Gordyは、個人的に公民権運動に深くかかわっていたが、政治的な主張をしているからと言って阻害するようなことは考えていなかった。1964年は結局、テンプテーションズThe Temptationsの「ザ・ウェイ・ユー・ドゥ・ザ・シングズ・ユー・ドゥThe Way You Do the Things You Do」、「ザ・ガールズ・オールライト・ウィズ・ミーThe Girls Alright with Me」、「ガールGirl(Why You Wanna Make Me Blue)、マービン・ゲイMarvin Gayeの「ユア・ア・ワンダフル・ワンYou’re a Wonderful One」、「ベイビー・ドンチュー・ドゥ・イットBaby Don’t You Do it」、「ハウ・スイート・イトゥ・イズ・トゥ・ビー・ラブド・バイ・ユーHow Sweet It Is to Be Loved By You」(ポップとクロスオーバーしているものを挙げただけでも)、マーベレッツThe Marvelettesの「トゥー・メニ・フィシュ・インザ・シーToo Many Fish in the Sea」、メリー・ウェルスMary Wellsの「マイ・ガイMy Guy」、そしてゴーディにとって最も重要だったのは、以前から大躍進が予想されていたが「ノーヒット」だったスプリームスThe Supremesが、ついにこの夏に大ヒットさせた「フェア・ディドゥ・アワ・ラブ・ゴーWhere Did Our Love Go」、その直後「ベイビー・ラブBaby Love」、「カム・シー・アバウト・ミーCome See About Me」、そして1965年に入り、「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブStop!In the Name of Love」、「バック・イン・マイ・アームス・アゲインBack in My Arms Again」が続いた。モータウンは名曲をたくさん出していたので、ベルベレッツThe Velvelettesの「ヒー・ワズ・リアリー・セーイング・サムシングHe Was Really Saying Something」のような素晴らしい曲は忘れ去られ、レーベル初のヒット・メーカーであるマリー・ウェルスMary Wellsは、無視されたと感じてゴーディとの再契約を拒否し、20世紀センチュリー・フォックス20th Century Foxや無名のレーベルに移った。この年は海外におけるモータータウン・レビュー・ツアーMotortown Revue tourの初年でもあった。ヒッツビルUSA Hitsvill U.S.A.に関しては、このレビューが間もなくコパthe Copaで演奏されるだろうという噂が流れていた。

他のソウル・ミュージックに関しては、相変わらず続いていた。メンフィスでは、ボビー・ブルー・ブランドBobby “Blue“ Blandが、素晴らしい「シェア・ユア・ラブ・ウィズ・ミーShare Your Love with Me」など、R&Bトップ・テンヒットを立て続けに3曲出し、切磋琢磨しているリトル・ミルトンLittle Miltonは、本人のキャリアの中で最大のヒットである「ウィア・ゴナ・メイク・イットWe’re Gonna Make It」を出したが、これは恋愛と黒人のプライドが少し入り混じったものだ。シカゴでは、深みのあるソウルのボーカリストであるミティ・コリアMitty Collierが、「レット・ゼム・トークLet Them Talk」に続いて、ゴスペルのスーパースター、ジェームス・クリーブランドJames Clevelandが書いた「アイ・ハダ・トーク・ウィズ・マイ・マンI Had a Talk with My Man」を出した。ニューオーリンズではアーマ・トーマスIrma Thomasが「ウィッシュ・サムワン・ウッド・ケアWish Someone Would Care」で、念願だった突破口を開き、それに続いて素晴らしい「タイム・イズ・オン・マイ・サイドTime Is On My Side」を出したが、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesのバージョンによってつぶされた。有名なガール・グループのディキシー・カップスThe Dixie Cupsは、1964年に「チャペル・オブ・ラブChapel of Love」でポップ・チャートのトップになり、翌年には「アイコ・アイコIko Iko」というとても変わった曲を出したが、これは魅力的なパーカッションに、マルディ・グラ・インディアンの奇妙な歌詞をかぶせて歌った。メンフィスでは、スタックス・レコードStax recordsが生き残るために、なんとしてもオーティス・レディングOtis Reddingをヒット・メーカーに育て、ブッカーT&MGs Booker T. and the M.G.’sにヒットを出させようとしていた。ブッカーT&MGsは、オリジナルのベース奏者、ルイス・スタインバーグLewis Steinbergを出して、ギタリストであるスティーブ・クロッパーSteve Cropperの幼馴染、ドナルド・ダック・ダンDonald “Duck” Dunnと交換させたところ、功を奏した。しかし、何もうまくいかずにいると、1964年12月になってオーティス・レディングOtis ReddingがA面「ザッツ・ハウ・ストロング・マイ・ラブ・イズThat’s How Strong My Love Is」、B面「ミスター・ピティフルMr. Pitiful」の両面ヒットをリリースした。それでも、スタックス・レコードStax recordsは、レディングと、アトランティック・レコードAtlantic records(この時点ではスタックスの流通をしていた)がマイアミで見つけたデュエットのサム&デイブSam and Daveに大きな望みをかけていた。

アトランティック・レコードAtlantic recordsはソロモン・バークSolomon Burkeと一緒にソウルの発展に一役買っていて、バークの「エブリバディ・ニーズ・サムバディ・トゥ・ラブEverybody Nees Somebody to Love」は、バークが聖職者であることを人々に思い出させた一方で、ドリフターズThe Driftersの「アンダー・ザ・ボード・ウォークUnder the Boardwalk」は1964年夏に最も流行したシングルの一つで、ジョニー・ムーアJohnny Mooreのリード・ボーカルは彼女と一緒に毛布の上にいるとイメージさせるので、ビーチでできるレクリエーションはサーフィンだけではないということを示した。インプレッションズThe Impressionsにおけるかつてのリード・シンガー、ジェリー・バトラーJerry Butlerは、ベティ・エベレットBetty Everettとスローな「レット・イット・ビー・ミーLet It Be Me」をデュエットし、マクシン・ブラウンMaxine Brownは「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビーOh No Not My Baby」で恋人に抗議し、リトル・アンソニー&インペリアルズLittle Anthony and The Imperialsは「アイム・オン・ザ・アウトサイドI’m On the Outside (Looking In)」、「ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッドGoin’ Out of My Head」、「ハート・ソー・バッドHurt So Bad」で、伝統的スタイルのボーカル・グループ・サウンドが意気軒高なことを示し、1958年に初ヒットを出したグループとしては悪くなかった。ラークスThe Larksは「ザ・ジャークスThe Jerks」というダンスの踊り方を教えたすぐ後に、モータウン・レコードMotown自身のミラクルスThe Miraclesも加わって、10代に「カム・オン・ドゥ・ザ・ジャークCome On Do the Jerk」と急き立てた。

 

しかしみんなの注目を集めたのはイギリス人だった。ビートルズは大急ぎでイギリスに戻り映画製作に取りかかったが、この映画はウェールズ人脚本家アラン・オーウェンAlun Owenが書き、監督はロンドン在住のアメリカ人リチャード・レスターRichard Lesterで、コメディ一番組ザ・グーンズthe Goonsでテレビの番組や映画を製作してジョン・レノンJohn Lennonの気持ちをつかんだ。グーンズのレコードはビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンGeorge Martinが作っていた。急いでまとめられた、ジョン・レノンの文章集、ア・スピニアード・イン・ザ・ワークスA Spaniard in the Worksを読めば分かるように、ほとんど模倣ともいえるほどレノンは彼らを崇拝していた。このビートルズの映画は(幸いにも)当初伝えられていたように、「ザ・ビートルズThe Beatles」ではなく、リンゴRingo Starrが間違って発した言葉を使って、ア・ハード・デイズ・ナイトA Hard Day’s Nightになり、撮影に丸6週間半かかった。ところが実は、ビートルズThe Beatlesという題名の方が良かったのかもしれないのは、ビートルズがテレビ番組のためにロンドンに来てビートルズ・ファンに遭遇するという筋書きをうまく要約しているからだ。まじで。しかし結果として、ビートルズThe Beatles、リチャード・レスター、アラン・オーウェンへの賛辞となったのだが、オーウェンは、ファンタジーやびっくりするような映画テクニック、そしてもちろん、歌・演奏をやせっぽちのビートルズ・メンバーに割り当てた。

5番目の主役は、背の高いやせこけたポールの反抗的なおじいちゃん(ウィルフリッド・ブラムベルWilfrid Brambellが演じる)であり、気を付けてみる必要がある。ビートルズはホテルに閉じ籠り、マネジャー達は、テレビ局の準備をするために出かけている合間を使って、ビートルズには写真にサインし、ファンの手紙に返事を書いて欲しかった。ビートルズの各メンバーは、おじいちゃんの一暴れしたいという気持ちに動かされ、それぞれが様々な冒険をする。もちろん記者会見があって、食べ物・飲み物が出されたが、ビートルズの誰も手をつけられなかった。それから、最も大事なリハーサルがあったが、どのメンバーもしなかった。もちろん、最後に、ショーは行われる。それでおしまい。

しかし、それ以上のことがあった。一つには、当時、もしビートルズの生の生活を見に行ったとしても、そばに近づくこともできないし、ステージ上の荒々しい音と女の子たちの悲鳴で何も聞くこともできず、顔を見ることさえできそうになかった。しかし、この映画を見に行けば、すべて実物よりも大きく見え、スタディオでミックスされたサウンドが聞こえる。レスターは手持ちカメラを使っていて、カメラマンがビートルズと一緒に走っているところとか、特に悲鳴を上げるファンにビートルズが追いかけられているシーンでは(男女ともほとんどが様々な芸能学校から採用され、才能あるドラマーの若き日のフィリップ・コリンズPhilip Collinsもクライマックスのテレビ番組の観客として見ることができる)、映画にスピード感を加え、アクション・シーンが終わっても、すぐに次の突進シーンになった。そして、モノクロで撮影したことでニュース映像、すなわちテレビ用のように見えた。

「ブリティッシュ・インベージョンBritish Invasion」という言葉は、ビルボード誌Billboard1964年3月21日号4ページ目に初めて使われ、知られるようになったが、それはもちろん、他のブリティッシュ・アーティストたちがヒットを出して初めて現実のものになるのであって、当時は決して確定したものではなかった。例えば、コロムビア・レコードColumbia recordsは、「ザ・エキサイティング・リバプール・サウンドThe Exciting Liverpool Sound」というアルバムを出し、その中にはソニー・ウェッブ&カスケーズSonny Webb and The Cascades、イアン&ゾディアックスIan and The Zodiacs、リンゴが以前いたローリー・ストーム&ハリケーンズRory Storm and The Hurricanes、ファロンズ・フラミンゴスFaron’s Flamingosなどの駄作が含まれていた。既にイギリスのアーティスト達と契約したレコード会社は、どうやって彼らをチャート入りさせようかと思っていた。1964年のビルボード誌によると、ビートルズはハンブルグでレコーディングしたトニー・シェリダンTony SheridanのMGMレコードMGM records盤を含めて、4社のレコード会社から出して、1位、2位、3位、7位、14位、42位、58位、79位を占めた。そんなことも有り得たのは、次の例を見ても分かる。デイブ・クラーク・ファイブDave Clark Fiveの「グラッド・オール・オーバーGlad All Over」は問題がなかったようだし、「ザ・オックスフォード・サウンド」と大いに宣伝された静かなデュオのチャド&ジェレミーChad and Jeremyは、ビートルズ・ファンの目の前で「イエスタデーズ・ゴーンYesterday’s Gone」を立派に演奏し、その夏には「ア・サマー・ソングA summer Song」で一層好評を博し、アニマルズThe Animalsの「朝日の当たる家House of the Rising Sun」(ボブ・ディランBob Dylanの最初のアルバムのバージョンをベースにした)は、8月に「ア・ハード・デイズ・ナイトA Hard Day’s Night」と1位の座を争った。

ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの方は、シングル盤でインベージョンに便乗することはできなかったが、それでも6月にアメリカ・ツアーを決行した。記者会見は必須で、髪の毛は?「これはチャールズ1世の髪型」、影響を受けた人は?「ボ・ディドリーとチャック・ベリー」と答え、サリバン・ショーより明らかに1段か2段低いレ・クレーンLes Craneの番組、ナイト・ラインNight Lineに出演した後、ロサンゼルスに飛び、別のテレビ番組のザ・ハリウッド・パレスThe Hollywood Palaceが待ち受けていた。そこではディーン・マーチンDean Martinがストーンズの外見に敵意のある言葉を放ち、アクロバットのラリー・グリスウォルドLarry Griswoldが演技を終えた後、マーティンは「今のはローリング・ストーンズの父親で、ずーっと自殺しようとしてきました」と言った。それから、RCAスタディオに行くと、そこで、後に一緒にレコーディングすることになる、フィル・スペクターPhil Spectorのアレンジャーであるジャック・ニッチェJack Nitzscheに出会い、その後、バスに乗ってサンバーナーディノのスイング・オーディトリアムSwing Auditoriumで最初のコンサートを開き、成功した。次のコンサート、サンアントニオのティーン・フェア・オブ・テキサスTeen Fair of Texasでの2日間はそれほど成功せず、カントリー・スターのジョージ・ジョーンズGeorge Jones、訓練を受けたサル、ボビー・ビーBobby Veeと共演したが、ビーは観客とは違って感銘を受けていた。次のミネアポリス、オマハ、デトロイトにおけるいくつかのショーの観衆は百数十人だった。ストーンズはほとんど気にすることなく6月10日、11日はコンサートがなく、シカゴのサウス・ミシガン・アベニュー2120にある、正に聖地であるチェス・スタディオChess Studiosでレコーディングする予定で、そこはストーンズ結成の原動力となったレコードをあこがれのアーティストたちが録音してきた場所だった。そこにいた間に14曲レコーディングし、チャック・ベリーChuck Berry 、バディ・ガイBuddy Guy、マディ・ウォーターズMuddy Watersと会い、電話でボ・ディドリーBo Diddleyと話をすることができた。「あのギター奏者は悪くない」とウォーターズはブライアン・ジョーンズBrian Jonesを評価した。それからニューヨークに戻り、ホテルに1泊してロンドンに帰った。

ストーンズは10月、逃すことのできない機会のためにアメリカに戻った。若いテレビ・ディレクターのスティーブ・バインダーSteve Binderは、「エレクトロノビジョンElectronovision」と名付けた高解像度テレビカメラを開発したジョセフ・イー・ブルースJoseph E. Bluthという男と組んで、番組を収録し、それを限定された映画館で公開する提携をした。最初はリチャード・バートンRichard BurtonのハムレットHamletのブロードウェイ作品だった。この作品は、資金の潤沢なビル・サージェントBill Sargentという男が全額出資した。サージェントは家庭用有料テレビ向けのホーム・エンターテインメント・カンパニーthe Home Entertainment Companyを設立し、続いて劇場向け限定スポーツ・イベントを配給する別会社のサブスクリプション・テレビジョン・インクSubscription Television Inc.にも出資した。バートンの「ハムレットHamlet」に範囲を広げた後、サージェントの次のプロジェクトとして、国際的な非営利コンサートで音楽奨学金を募るために毎年開催することを決めた。このようにして最初のティーン・エイジ・ミュージック・インターナショナルTeen Age Music International(T. A.M. I.)ショーは考え出された。侵略するイギリス人やアメリカで流行している若い黒人がいたので、これを実施する完全なタイミングと思われ、サージェントSargentは、ジャック・ニッチェJack Nitzscheにスタディオ・バンドを結成させる一方で、自分はタレントを出演予約した。チャック・ベリーChuck Berryとそのバックを務めるリバプールのジェリー&ペースメーカーズGerry and The Pacemakers、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズSmokey Robinson and The Miracles、マービン・ゲイMarvin Gaye、レスリー・ゴーアLesley Gore、ジャン&ディーンJan and Dean、ビーチ・ボーイズThe Beach Boys、英国のビリー・ジェイ・クラマー&ダコタスBilly J. Kramer and The Dakotas、スプリームスThe Supremes、ドラマーが片手しかなく他方のスティックは義手の鉤で持っているボストンのバーバリアンズThe Barbarians、そしてクライマックスとしてサージェントはローリング・ストーンズThe Rolling Stonesにトリを務めさせた。これにはストーンズもビビッてしまったのだが、それはもっともな話で、トリの直前はジェームス・ブランJames Brownなのだが、精力的なショーを特徴とし、袖なしマントをまとった得意の演目など4曲にまとめた。ブラウンはそれを圧倒的迫力で演奏した。10月28日、29日の2日間、サンタ・モニカ公会堂で収録し、「TAMIショー T.A.M.I.show」は11月14日ロサンゼルスの映画館で封切され、翌月には全国上映されて、イギリスでも「ティーン・エイジ・コマンド・パフォーマンスTeen Age Command Performance」、または、「ギャザー・ノー・モスGather No Moss」として上映された。ほどなくして、この仕組みは資金源、権利に関するつまらない口論、そしてショーがあまり儲からないという事実のために何もかもつぶれた。ティーン・エイジ・コマンド・パフォーマンスのことはそれ以来全く聞かれることは無くなったが、映画の「TAMIショー」が素晴らしいという噂は消えることがなかった。2009年にDVDがリリースされ明らかになったことは、ビリー・ジェイ・クラマーBilly J. Kramerは素晴らしい演奏をしたということだった。チャック・ベリーは、演奏する前に出演料を現金で要求したため制作費が赤字になったという噂があった(当時もその後も、長年にわたる方針だったが、プロデューサーを驚かせたようだ)が、まだ才能が有った。レスリー・ゴーアLesley Goreは、男女同権論者としての最初の賛歌「ユー・ドント・オウン・ミーYou Don’t Own Me」が素晴らしかった。モータウンMotownのアーティストのバックは、モータータウン・レビューthe Motortown Revueだけでなく、スタディオで頼りになるグレン・キャンベルGlen Campbellとレオン・ラッセルLeon Russellはギターとピアノ、ベースはジミー・ボンドJimmy Bond、ドラムはハル・ブレインHal Blaine、フィル・スペクターのテノール・サックス奏者のティーネージ・スティーブ・ダグラス”Teenage” Steve DouglasなどニッチェNitzscehのクルーもいた。そしてジェームス・ブラウンJames Brownのバンドはとても激しかったので、映画の中で、グレン・キャンベルがいったい何事が起きているのかを見ようと首を伸ばしているところを捉えた。ストーンズは緊張に打ち勝って立派にトリを務めあげ、ストーンズに対して悪い印象を持っていないことを示そうとして、ブラウンはストーンズを翌週末のアポロ・シアターにおける自分のショー全部を見せるために招待し、ストーンズは賢明なのでその申し出を受けた。

 

ポップ・ミュージックは、自らを守るためにブリティッシュ・インベージョンに対して何をしていたのか?たいていはいつも通りに続けていた。賢いビジネスマンは、イギリス人が若い女の子にターゲットを絞っていることに気づいた。若い女の子たちはビートルズの中で自分の一番好きなメンバーを思い描くが、男の子たちは自動車に夢中で、ホットロッド・レコードの名盤の一つ、ジャン&ディーンJan and Deanの「デッド・マンズ・カーブDead Man’s Curve」はサンセット大通りSunset Boulevardという実在する道路のことを歌った。共同作曲者のジャン・ベリーJan Berryは、ここで1966年に危うく死にそうになる自動車事故を起こすことになる。

もう一つ大流行したのがいわゆる「ガール・グループ」レコードで、すべての種類のカテゴリーにまたがった。モータウンMotownのマーベレッツThe MarvelettesとベルベレッツThe Velvelettesは確かに優れていたし、シレルスThe Shirellesやフィル・スペクターPhil Spectorが当時送り出したクリスタルズThe Crystals、ロネッツThe Ronettes、ダーレン・ラブDarlene Love等ほとんどが素晴らしかった。

ティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyはニューヨークの若きソングライター達で、ほとんどがアルドン・ミュージックAldon Musicに所属し、曲と演奏者を供給し、デモを録音するクッキーズThe Cookiesはグループやソロとしてヒット曲を出した。リトル・エバLittle Evaはクッキーズのメンバーだったし、アール・ジャンEarl-Jeanの「アイム・イントゥ・サムシング・グッドI’m into Something Good」はハーマンズ・ハーミッツThe Herman’s Hermitsがカバーした。ソロの女性シンガーもいて、レスリー・ゴーアLesley Goreは1964年に「ユー・ドント・オウン・ミーYou, Don’t Own Meを出し(6月には高校を優等で卒業した)、グループに所属してはいなかったが「ガール・グループ・サウンド」っぽいところがあった。しかし、その中で最も奇妙なのはシャングリラスThe Shangri-Lasだった。ロングアイランド出身の二組の姉妹(そのうち二人は双子)で、謎めいたスペクター崇拝者のジョージ・シャドー・モートンGeorge “Shadow” Mortonがプロデュースした。最初の2枚のシングルは語り部分と効果音が有名で、「リメンバーRemember(Walking in the Sand)」にはカモメが登場し、「リーダー・オブ・ザ・パックLeader of the Pack」は、暴走族のリーダーがリード・シンガーの両親を怖がらせる話だ。クライマックスは彼の死を目撃する時で、オートバイが長く横滑りして、ガールフレンドが(強いロングアイランドなまりで)「危ない、危ない、危なーい」と言い、強烈な衝突音が続く。年間のチャートに載り、最もアクションの詰まった2分52秒だったことはほぼ間違いないだろう。

1964年は、「ルイ・ルイLouie Louie」スキャンダルの年でもあった。1957年にロサンゼルスのベテランR&Bシンガーのリチャード・ベリーRichard Berryは、チャチャのブームに乗って、別れたカップルの悲しい歌を、シンプルなスリー・コードにのせて偽のジャマイカなまりで歌ってみた。あらゆる種類のバンドでギターを演奏し、イースト・ロサンゼルスのバンドで演奏していた「エル・ロコ・チャ・チャEl Loco Cha Cha」をもとに自分の歌に自由に合わせたが、この曲はルネ・トゥーゼRene Touzetのレコードで覚えた。ベリーのレコード会社は賢明にも、「ルイ・ルイ」を「ユー・アー・マイ・サンシャインYou Are My Sunshine」の別バージョンのB面にしたために、ベリーはヒットするまでもう少し待たなければならなかった。一方で、このレコードは太平洋岸北西部で神のように崇められ、そこではベンチャーズの成功によって拍車をかけられたギター・バンドが出現し始めて、中にはボーカルの入ったバンドもあった。オレゴン州ポートランド出身のキングズメンThe Kingsmenはそういったバンドの一つで、ジャーデン・レコードJerden recordsという地元の小さなレーベルから出した「ルイ・ルイ」はとてもよく売れ始めたので、セプター・レコードScepter recordsの子会社のワンド・レコードWand recordsが使用権を獲得した結果、1963年11月になんと2位まで上がった。しかし、ギタリストのジャック・イーリーJack Elyは目立ったボーカリストではなく、曲を押し上げたのはインストゥルメンタルのパワーだった。レコードを買った少年たちは歌詞を理解しようと懸命に努め(バンド初心者にとってはよくあることだ)、あらゆる種類の音楽を聞いたと考えた。インディアナ州知事は他に心配することはないとばかりに、州内のラジオ局に「エロい」レコードを禁止させ、曲の出版者は歌詞の中に性的な内容を見つけられた人には1,000ドルを提供することにした。結局FBIが関与することになったが、もちろんレコードとキングズメンのアルバムは、ビートルズ・ファンがいたにもかかわらず、売れに売れまくった。キングズメンのライバルであるポール・リビア&レイダースPaul Revere and The Raidersは、自らもルイ・ルイをレコーディングしていたが、3月に「ルイ・ゴー・ホームLouie Go Home」をリリースした。

普通のポップ・ミュージックもまだヒットしていて、ブロードウェイの「ハロー・ドーリーHello, Dolly!」のサウンドトラックはよく売れ、ルイ・アームストロングLouis Armstrongの同名のレコードはビートルズThe Beatlesを、一週だけではあっても、首位の座から降ろした。どこからでも聞こえてくるバーブラ・スレイサンドBarbra Streisandの「ピープルPeople」は、主流の大ヒットだったし、ダスティ・スプリングフィールドDusty Springfieldとディオンヌ・ワーウィックDionne Warwickは、バート・バカラックBurt Bacharachなどの偉大なライターと一緒に仕事をしていた。ナッシュビルも素晴らしいポップ・ミュージックを供給したが、ロイ・オービソンRoy Orbisonは、オペラのような「イッツ・オーバーIt’s Over」とロックがかった「プリティ・ウーマンPretty Woman」の2曲がトップ・テンに入るヒットになった。ウィリー・ネルソンWillie Nelsonの長い相棒でレイ・プライスRay Priceのバンドにおけるネルソンのような間抜けなベテラン、ロジャー・ミラーRoger Millerは、「ダング・ミーDang Me」や「チャガラグChug-a-Lug」、そして大儲けした「キング・オブ・ザ・ロードKing of the Road」などのノベルティ・ソングでチャート入りし始めた。11月にキャピトル・レコードCapitol Recordsは「ティーン・アンダーグラウンド運動Teen Underground movement」を発表したが、それは、「ロックンロールの友達に、自分が良い音楽を聞いていると言ってはいけない」というキャンペーンだった。入会すると、サイト・&サウンドSight and Soundという、レコードとオーディオのチェーン店で割引を受けられる「秘密の番号」の入ったキーホルダーがもらえた。しかし、どれだけ応募があったかは分からない。

状況はおおむね落ち着いてきて、1964年11月7日付のビルボード誌Billboardには、この年初めてビートルズThe Beatlesの曲がシングル・チャートに載らなかったことが注目された。ブリティッシュ・インベージョンが終わったということではなく、11月にはローリング・ストーンズThe Rolling Stonesによるアーマ・トーマスIrma Thomasの「タイム・イズ・オン・マイ・サイドTime Is On My Side」のカバーが初のトップ10シングルになり、そのすぐ後にチェス・スタディオChess Studiosでレコーディングした曲も少し入ったアルバムの「12×5」が続いた。この年の後半に出たもう一つの重要なアルバムはアナザー・サイド・オブ・ボブ・ディランAnother Side of Bob Dylanで、これには1曲もプロテスト・ソングが含まれず、フリーホイーリンFreewheelin’というアルバム・カバーの女の子、Suze Rotoloとの別れを映し出しただけでなく、もっと抽象的で不可解な曲がいくつか入っていた。シングルはなかったが、ディランの熱狂的ファンであるジョニー・キャッシュJohnny Cashは、上記ディランのアルバムの中の1曲、「イット・エイント・ミー・ベイブIt Ain’t Me Babe」のカバーを妻のジュン・カーターJune Carterとデュエットしてリリースした。カントリーのトップ10には入ったが、ポップ・ラジオでかかることはあまり無かった。

1964年はチャック・ベリーが刑務所から出てきた年でもあった。チェス・レコードChess recordsは、数枚のアルバムだけでなく、以前に録音してあった数曲をリリースし、活動を保っていたし、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesがシカゴにいるときは、ストーンズの称賛を浴びていた。しかし、ラジオはまだベリーのことを害悪だと考え、出獄後最初のシングルの「ナディンNadine」はトップ10に入らなかった。次作の「ノー・パティキュラー・プレース・トゥ・ゴーNo Particular Place to Go」はギリギリでチャート入りし、『10代の結婚』の歌、「ユー・ネバー・キャン・テルYou Never Can Tell」はそこまで上らず、黒人として国中をドライブする物語を暗号化した「プロミスト・ランドPromised Land」は、全くダメだった。この時点で、彼のキャリアはほぼ終わってしまったかに見えた。他のパイオニアのうち、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisは、苦しみながら時間をかけて自分をカントリー・シンガーとして改革し、一方で扇動的なショーで演奏していたが、それにはビートルズが昔よく行っていたハンブルグのスタークラブthe Star-Clubで録音したものも含まれ、ルイスのバックにはリバプール出身のThe Nashville Teensもいて、そのアルバムは何年もアメリカでリリースされずにいた。リトル・リチャードは神学校から出てきて、自分のヒット曲をビージェイ・レコードVee-Jayで再録音したが、ほとんどだれも関心を示さず、カール・パーキンスはジョニー・キャッシュと旅をしていた。ファッツ・ドミノは数か月ごとにレコードを発売したがチャートの底の方にいた後消えた。エルビス、そう、エルビスは映画を製作しサウンドトラックをリリースして、クリスマスには、昔のアーネスト・タブErnest Tubbの名作「ブルー・クリスマスBlue Christmas」の情熱的バージョンが、ブレンダ・リーBrenda Leeの「ロッキン・アラウンド・ザ・クリスマス・トゥリーRockin’ Around the Christmas Tree」と、ホリデー向けヒットを目指して競った。伝統的レコード・レーベルに関しては、ジェームス・ブラウンJames Brownのレコードをスマッシュ・レコードSmash recordsがリリースし続けことに対する差し止め命令を、キング・レコードKing recordsが勝ち取った(ジェームスは、スマッシュ・レコードから「アウト・オブ・サイトOut of Sight」のヒット曲を出した)ものの、結局はスマッシュ(そして最も重要なことは、「フィーバーFever」や「ザ・ツイストThe Twist」などの曲を保有している、音楽出版部門のロワ・ミュージックLois Musicも一緒に)が売りに出されたことだ。キング・レコードKing records創設者のシド・ネイザンSyd Nathanはフロリダに住んでいて、もっとたくさん釣りをするのを楽しみにしていると言った。海遊びが流行っているようで、ビートルズは次の映画をバハマで撮影すると発表した。

英国人は侵略をやめない。アーティストの名前がだんだん奇妙になってきた。最初はキンクスThe Kinksから始まったが、これはロンドンのバンドでそのドラマーは短期間ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesにいたことがある。キンクスは1964年9月に「ユー・リアリー・ガット・ミーYou Really Got Me」というタイトルの極めて攻撃的な曲が最初のヒット曲でトップ・テン入りし、クリスマスのあと間もなく、ほぼ劣らずに粗野な「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイトAll Day and All of the Night」を出して再びトップ10に入り、春には「タイヤード・オブ・ウェイティング・フォー・ユーTired of Waiting for You」で3曲続けてトップ・テン入りした。キンクスは片足をビートルズの荒々しい作品に入れ、別の片足を「ルイ・ルイLouie Louie」系の粗野なロックの陣営に入れていたように思えた。大成功間違いなしだったのだが、バンドを立ち上げたレイとデイブのデイビス兄弟Ray and Dave Daviesはいつもお互いに、そして他のミュージシャンとけんかしていて、その暴力行為のために、春遅く、アメリカ音楽家連盟から米国追放となり、その後数年間はレコードでしか活動できなかった。

次の奇妙な名前はゼムThemといい、ベルファースト出身の乱暴者集団で、最初のシングルの「グロリアGloria」は、それほどうまくいかなかったが、結局はバンドを始めたばかりの連中の耳に入った。次のシングル「ヒア・カムズ・ザ・ナイトHere Come the Night」は彼らのプロデューサーのバート・バーンズBert Bernsが書き、かなり良かった。バンドのフロントで、友人からはバンVanと呼ばれていたイバン・モリソンIvan Morrisonは、演奏者として不気味なほどのすごみがあった。そしてもしゼムが大して混乱を招かない名前だとしても、ロンドンのもう一つのバンド、フーThe Who?はどうだろうか。「エニウェイ・エニハウ・エニホエア​Anyway, Anyhow, Anywhere」は全然ヒットしなかったが、「アイ・キャント・エクスプレインI Can’t Explain」は1965年3月にチャートの100位ギリギリに食い込んだ。噂ではライブのショーが素晴らしいとのことだったが、ヒットが出るまでは海外にはいかず、それまでにはしばらくかかった。それからゾンビーズThe Zombiesがいて、「シーズ・ノット・ゼアShe’s Not There」、「テル・ハー・ノーTell Her No」などの陽気な曲はビートルズっぽさがあり、トップ10に飛び込んだ。ビートルズとストーンズは国際収支の不均衡を解消するのにも貢献した。ストーンズは、ステープル・シンガースThe Staple Singersの「ザ・ラスト・タイムhe Last Time」をリリースし、その著作権を自分のものだとすることによって、イギリスのバンドがそのような主張を続けた残念なトレンドの始まりとなった。

そしてそれから、本物のブリティッシュではないブリティッシュ・インベージョンがあった。ヒューイPモー Huey P. Meauxはヒューストンに本拠を置くプロデューサーで、テキサスとルイジアナのアーティストをチャートに入れ、そのバンドが大物になり過ぎてしまって自分のレーベルでは扱えないときに、貸出契約をマーキュリー・レコードMercury recordsと結ぶという儲かる商売をしたが、すっかり落ち込んだ。「私のところにいたデール&グレースDale and Graceが1位になり、ポール&ポーラPaul and Paulaがトップ10に入り、バーバラ・リンBarbara Lynnはどんどん上昇したが、ビートルズThe Beatlesがヒットしてぶち壊した。私は廃業した。」と、数年後に成功を誇張して思い出話をしたのが特徴的だった。その話をしながらビートルズのレコードをたくさん抱え、ケース入りの安いワイン、ポータブル・レコード・プレイヤーを持ってモーテルを3部屋借り、隣の人の邪魔にならないように真ん中の部屋に泊まった。「数日間飲んでそのレコードを何回も何回も聞いたら、思いついたんだ。そのビートは調子が合っていた!まさに、俺の親父がよく演奏していたケイジャン・ミュージックそっくりだった!」これを論理的に説明するのは難しいのだが、モーには解決策があって、それはモーをしつこく悩ませていたサンアントニオ出身の子供だった。今度この子がヒューストンに来てレコーディングを頼むときのヒューイの回答は、「そのひどい髪をもう少し伸ばして、バンドを見つけてきたら、このとんでもない曲をレコーディングしよう」だ。こうしてサンアントニオのクラブで頭角を現し、カントリー、ブルース、R&Bを人種的、文化的に差別しないバンドで演奏していた複数楽器演奏者のダグ・サームDoug Sahmは、多少なりとも同じ素性の4人の男を捕まえて、車でヒューストンにやってきた。モーは喜んだのが、なぜなら、見た目も良く、サウンドも良く、テキサス/メキシコ流のビートは求めていたものだと直感し、演奏する曲も準備していたからだ。ベストな曲は「シーズ・ア・ボディ・ムーバーShe’s a Body Mover」だったが、モーはこのタイトルを拒絶し、「シーズ・アバウト・ア・ムーバーShe ‘s About a Mover」になった。このタイトルは意味不明だったが、このレコードは当時としては完璧だった。ブリティッシュ・インベージョンを利用して、モーはこのグループを、イギリス風にしようと考えて、サー・ダグラス・クインテットThe Sir Douglas Quintetと名付けた。このレコードは売れ、1965年の春にトップ10間近まで上昇し、このバンドのイギリス風の偽装は、ロサンゼルスの熱狂的フォーク歌手のトリニ・ロペスが司会を務めるテレビ番組に出演予約をするまで、うまくいった。ロペスは彼らを紹介し、イギリス人だと思っていたと言ったが、楽屋で話していると、自分と同じテキサス出身だと分かった!このことはたいして重要ではなかったが、次のレコードは大して売れず、1966年の麻薬の手入れによって、この話は一時的に終了した。テキサス出身で騒ぎを起こしたのは彼らだけではなく、ボビー・フラー・フォー The Bobby Fuller Fourはエルパソ最大のアーティストで、地元レーベルで地域的ヒットを出していた。この町に閉じこもっているにはあまりに小さいと感じてロサンゼルスに移ったところ、ビートルズの騒ぎに間に合った。身だしなみが良く全員ギターを演奏して歌い、誰もが望んだ4人組で、間もなくサンセット・ストリップで最も人気のあるナイトクラブ、ザ・ウィスキー・ア・ゴー・ゴーthe Whisky a Go Goのハウス・バンドになった。リバティ・レコードLiberty recordsで、「レット・ハー・ダンスLet Her Dance」、B面「アナザー・サッド・アンドロンリー・ナイトAnother Sad and Lonely Night」は素晴らしかったが大失敗に終わった後、ムスタング・レコードMustang Recordsを設立し、元クリケッツのソニーカーティスex-Cricket Sonny Curitsの書いた「アイ・フォート・ザ・ローI Fought the Law」がトップ10に入った。その次にカーティスの元雇用主であるバディ・ホリーBuddy Hollyによる「ラブズ・メイド・ア・フール・オブ・ユーLove’s Made a Fool of You」をアップデートして出した。フラー・フォーはテレビに進出して、ザ・ゴースト・イン・ザ・インビジブル・ビキニThe Ghost in the Invisible Bikiniで映画にも出演し、もしボビー・フラーが1966年7月に母親の自動車の中でガソリンまみれで死んでいなかったら、イギリス人に真剣に挑んでいたかもしれなかった。ちゃんとした検死は21世紀になるまで試みられなかったし、その時でさえ結果はうやむやにされ、それが自殺だとは誰も信じなかったということだけ言えば十分だろう

1965年3月ビルボード誌のトップ10シングルは、ビートルズThe Beatlesの「エイト・デイズ・ア・ウィークEight Days a Week」、テンプテーションズThe Temptationsの「マイ・ガールMy Girl」、スプリームスThe Supremesの「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブStop! In the Name of Love」、ゲーリー・ルイス&プレーボーイズGary Lewis and The Playboys(ゲーリーはジェリー・ルイスJerry Lewisの息子)の「恋のダイヤモンド・リングThis Diamond Ring」、ジュウェル・エイケンズJewel Akens(ヒューストン出身のワンヒット・ワンダー)の「ザ・バーズ・アンド・ザ・ビーズThe Birds and the Bees」、ロジャー・ミラーRoger Millerの「キング・オブ・ザ・ロードKing of the Road」、ジェリー&ペースメーカーズGerry and The Pacemakersの「マージー河のフェリーボートMerry Cross the Mersey」、ハーマンズ・ハーミッツThe Herman’s Hermitsの「ハートがドキドキCan’t You Hear My Heartbeat」、キングズメンThe Kingsmenの「ザ・ジョリー・グリーン・ジャイアントThe Jolly Green Giant」、リトル・アンソニー&インペリアルズLittle Anthony and The Imperialsの「ハート・ソー・バッドHurt So Bad」だった。この年のチャートは、当時のアメリカン・ポップ・ミュージックの好みを表す見本だった。とてつもない混乱がちょうど起ころうとしていて、その週にリリースされたシングルの中には、ボブ・ディランBob Dylanの「サブテレイニアン・ホームシック・ブルースSubterranean Homesick Blues」があり、バックにはエレキ・バンドがいた。これが、ディランにとって初めてのロックンロールへの冒険ではなく、1962年に「ミックスト・アップ・コンフュージョンMixed Up Confusion」という曲をリリースしたが、フォーク・スターがエレキを演奏するのは良くないと考えたコロムビア・レコードColumbia recordsは早々に撤収した。ほとんどのファンはそれを聞くチャンスはなかった。しかし、シングル・コードでとても抽象的な歌詞を歌っているこの曲は、全くの別物だった。「サブテレイニアン・ホームシック・ブルース」は、ディラン自身が4月30日から5月10日にかけて、忙しい日程のソロ・アコースティック・イングランド・ツアーの荷造りをしている間にチャートを上がった。映画製作者のドン・アラン・ペネベイカーD.A.Pennebakerを連れて、ツアー中のステージとそれ以外を撮影させた。その映画「ドント・ルック・バックDon’t Look Back」は1967年5月17日まで上映されなかった。

その時までに状況は大いに変化していた。

 

 

第2章 

驚異の年Ⅱ 友人からの助け

 

プレファミリー・ドッグのレッド・ドッグ・サロンの退役軍人が慈善活動、

1965年クリスマス

(著者のコレクション)

 

 

1965年6月には実にたくさんのことが起き、その説明を占星術師に相談した方が賢明ではないかと思わせるほどだ。発生するまでに数十年かかること、数年しかかからないこと、時のはずみのことがあった。しかし今にして思えば、この月が極めて重要な月であったことにはほとんど間違いがない。

その出来事の一つが、ネバダ州レノの真南のネバダ州シルバーシティに位置し、廃坑になった銀鉱山に佇む小さな山小屋に友人3人がいたある晩に起こったのだが、この山小屋は持ち主のドン・ワークスDon Worksが、鈴木俊隆の人気のある禅へのいざないZen Mind, Beginnera’s Mindをもじってゼン・マインと、おそらく名付けたのだろう。ワークスは数年前、自らが信仰する宗教を信ずるパイユート族やワショー族の生活様式実践者たちの近くにいるためにそこに引っ越した。その宗教はペヨーテ・セッションなどを行うネイティブ・アメリカン・チャーチである。この時代の帽子をいくつもかぶったミラン・メルビンMilan Melvinは、先住民と若い白人たちの参加したワークス家におけるペヨーテ・セッションを覚えている。その人たちの中には、フォークを支援するコーヒーハウスの興行主で、漫遊の旅をするチャンドラー・ラフリンChandler Laughlinもいて、今生まれつつあるコミュニティをまとめるイベントに参加していた。しかし1965年初めのこの夜、ゼン・マインであまりスピリチュアルなことは何も起こらなかった。そこには、ワークス、ラフリン、マーク・ウノブスキーMark Unobskyという金持ちの子しかいなくて、テーブルに集まってリスクというボード・ゲームに興じ、マリファナを吸って猛吹雪に閉じ込められていたのを気づかなくなった。

ウノブスキーはメンフィスを出てサンフランシスコに向かい、フォーク・クラブで演奏して、いかがわしい連中と知り合いになった。父親は息子がもう自立して良い時だと考え、小遣いを止めるが、5,000ドルを貸して事業運営の手助けをすると言った。その晩、雪に閉じ込められて暇をつぶしている間に、ウノブスキーは自分の状況を説明すると、ワークスは北へ4マイル行ったところにバージニア市のゴースト・タウンがあり、そこにはコムストック・ロード銀鉱山狂乱のもう一つの残骸となった大きなビルがあると話した。それは本物の開拓時代の米国西部の建物で、1階にたくさん収容できるバーがあってステージが備わっていた。サンフランシスコから車でわずか4時間しかかからないため、バケーションのためには理想的な目的地で、ワークスはほとんどただで手に入るだろうと考えた。ラフリンとウノブスキーは突然、ツアーをするフォークソング歌手にとって素晴らしい場所のビジョンを描き、そこにはもちろんその歌手たちと共に行動するサンフランシスコの観客もいた。ウノブスキーはそのビルを買い、大工と配管工を雇い赤く塗って、レッド・ドッグ・サロンRed Dog Saloonと名付けた。フランスで修業したシェフのジェンナ・ワーデンJenna Wordenを雇って料理の準備をさせ、ラフリンをサンフランシスコに行かせて装飾品を選ばせた。運の良いことに、フォックス・シアターthe Fox Theatreという豪華な映画館が廃業したばかりで、ベルベットのカーテンやその他の備品が安く売りに出されたのだ。

ラフリンは町でパイン・ストリートにいる友人を訪ねた時に、とても長いブロンドヘアでエドワード王様式の服を着た男に会ったが、その服を買ったのは自分の住む静かな地域にあるたくさんのリサイクルショップの一つで、その辺りはゴールデン・ゲート公園の端にあるヘイトストリートの最後尾にあった。その若者はジョージ・ハンターGeorge Hunterで、バンドを持っているがフォーク・バンドではなく、シャーラタンズThe Charlatansという名前のロックンロールのバンドだった。バンドのピアノ奏者、マイケル・ファーグソンMichael Fergusonは最近マジック・シアター・フォー・マッドメン・オンリーMagic Theater for Madmen Onlyという店を経営し、時代物の服、時代のついた変わった物、そして多分他のものも売っていただろう。ハンターがラフリンに言わなかったことは、このバンドが一度も演奏をしたことがなく、実は練習さえ一度もしたことがないということだったが、ラフリンはレッド・ドッグに建築中のビルの風景にぴったり当てはまると魅了されていた。夏にやることはあるのかと尋ねたところ、計画がないと言ったので、ハウス・バンドとして一も二もなく雇った。

一方、バージニア市では物事が忙しく動いていて、ラフリンにいる昔からの友人であるエレン・ハーモンEllen Harmonが食器洗い担当として配置され、その友人で長年政治活動をして砂糖の収穫のためにキューバに行っていたルリア・カステルLuria Castellは経理を担当した。アーティストのアルトン・ケリーAlton Kellyが建設の監督になり、シアトル出身であちこち渡り歩いたフォーク・シンガーのリン・ヒューズLynne Hughesは、ドン・ワークスDon Worksがバー・テンダーをしている間、テレビドラマ「ガンスモークGunsmoke」のミス・キティMiss Kittyの服を着て、いろいろな仕事の手助けをした。6月21日、お粗末ながら一般の人に向けて開店し、入る途中にはシルクハットをかぶったワショー・ジョーWashoe Joeがいて、彼は175㎏のインディアンでベルベットのサッシュ帯には、レインボー・ガールズThe Rainbow Girls(それはいったい何者か?)の所有と書いてあった。ジョーは用心棒だが、用心棒の仕事を頼まれることはほとんどなかった。開店の夜、保安官が訪問し地元の慣習に則ってバーまで行き、ワークスにピストルを確認したいと言った。ワークスは取り出し、天井に向けて引き金を絞り、発砲した。「使えるようだ」と困惑した保安官に言った。

その夏、レッド・ドッグthe Red Dogで何が起きたかについていろいろな話が語られてきたが、その多くはドン・ワークスDon Worksの娘マリーMaryのドキュメンタリー映画、「ロッキンズ・アット・ザ・レッド・ドッグRockin’s at the Red Dog」の中で再現されている。まぎれもなく起こったことは、シャーラタンズThe Charlatansが本物のロックンロール・バンドになり、たくさんの人々が生涯にわたる絆を結んだことだ。また、9月後半には猛吹雪をもたらす風が吹き始めたように、アルトン・ケリーAlton Kelley、ルリア・カステルLuria Castell、エレン・ハーモンEllen Harmon、リン・ヒューズLynne Hughesが、夏の熱情を保ち続けたいと思ってサンフランシスコに車で戻った。実際に、そのためのチャンスが彼らを待っていた。本当に。

ロンドンは活気がみなぎっていた。今から振り返れば、これは予想できたことで、1954年までイギリスは食糧配給が終了せず、そのころビートルズの世代は10代初めで、ブリティッシュ・インベージョンの連中は、イギリスが長年楽しめなかった、選択をして生きる世界の中で成長したし、同時に選択する権利があるということを感じていた。国が繁栄するにつれて余暇が急増し、芸術にも大いにかかわるようになった。これには詩も含まれ、1950年代のアメリカン・ビーツthe American Beatsに刺激された若い詩人がロンドンやリバプールに出現し、ロンドンのシェアリング・クロス・ロードにあるベター・ブックスBetter Booksという本屋が集合場所の一つとなった。ここのペーパーバック・コーナーはビル・バトラーBill Butlerというモンタナ出身の詩人が運営し、1965年1月に、単にマイルズMilesとしてみんなに知られるバリー・マイルズBarry Milesにこの仕事を譲った。マイルズはイギリスとアメリカのアングラ文化によく調和して、すぐにガリ版刷りの奇妙な詩の雑誌がこの店に出始め、それを書いた人たちも必然的に来るようになった。マイルズは詩の朗読を始めていたので、6月にアレン・ギンズバーグAllen Ginsbergが現れたとしてもあまり驚きはしなかった。速やかに朗読会が開催され、お店は混雑し、ほとんどの聴衆は側道から聞き、スコットランドのディランを自認するドノバンDonovanは朗読が始まるまで大道芸をした。ギンズバーグは、不品行が理由でキューバから追い出されてチェコスロバキアに行き、そこで大成功して『King of the Mayの栄冠』を受け、それからロンドンに行った者であり、注目に値する出来事だった。ボブ・ディランBob Dylanのアコースティック・ツアーの最後のために到着した(映画、ドント・ルック・バックDon’t Look Backの中の初期ロック・ビデオ、「サブテレーニアン・ホームシック・ブルース」のために宗教指導者の服を着て現れ)が、マイルズMilesとその妻スーSueの家に泊まった。ギンズバーグは6月3日に39歳になるところだったので、マイルズがパーティーを開き、そこにはジョン・レノンJohn Lennonとジョージ・ハリソンGeorge Harrisonも姿を現した。数日後にギンズバーグは、仲間のビート詩人のローレンス・ファーリンゲッティLawrence Ferlighettiが町に来ること、そして、やはりビート詩人のグレゴリー・コーソGregory Corsoがパリにいることを知った。反体制派のソビエト詩人アンドレイ・ボズネセンスキーAndrei Voznesenskyも来る予定なので、みんなで詩の朗読会をするのに良い機会だ。

どう見ても、集会場所のベター・ブックスBetter Booksは50人しか収容できないので、ギンズバーグの友人のバーバラ・ルビンBarbara Rubinが「この町で最大の会場はどこ?」と尋ねた。スー・マイルズは「ロイヤル・アルバート・ホールRoyal Albert Hallだと思う」と答えるとすぐに、ルビンが店の前にある電話まで走って予約した。賃料400ポンドという問題はあったが何とか調達できて、1965年6月11日に開演し、イギリスでは、これまで一つ屋根の下に集まった最もワイルドな人々の集団が、一斉に会場に入り席に着いた。コベント・ガーデンCovent Gardenのフローラル・ストリートFloral Streetに行った者がいて、売れ残った花をすべて買い取って朗読会に持ち込み、舞台に巨大な花束を飾っただけでなく、入る途中で観客は花を手渡された。ワイン・ボトルとマリファナの巻きタバコが回し飲みされた。過激な精神科医のRDレイング R. D. Laingは、自分の患者を大勢引き連れた。インド人の若いインディラ・ガンジーIndira Gandhiも出席し、ノーベル賞受賞者のパブロ・ネドゥーラPablo Nerudaも出席していた、ギンズバーグがイベントに参加させようと試みたがうまくいかなかった。誰もががっかりしたのは、ボズネセンスキーVoznesenskyが、KGBの管理者が監視したために朗読を断ったことだ。それでも問題はなく、イギリスやアメリカの詩人がたくさんいて、観客の中にはイングランド中、あるいはそれより遠いところ(スコットランドのインバーネスからヒッチハイクで来たと分かっている人達もいた)から来た人が周りを見渡して、同じような人がたくさんいるのに驚いた。こんなことを誰が想像できたろう?そして次には何が起きるのだろう?

 

これに対する答えは、これら両方のイベントの背景と同様に、1943年4月16日、スイスのバーゼルにおけるサンドス・ファーマスーティカルズSandoz Pharmaceuticalsで働いていた37歳の化学者、アルフレッド・ホフマン博士Dr. Alfred Hofmannが難産を助ける植物性化合物を探求していた時に始まった。ライムギの上で生長する麦角に存在するリセルグ酸派生物を数多く調査するうちに、その日の終業間近に、25番目の派生物をたまたま少量摂取してしまい、仕事を終え、自転車に乗って家に帰った。数分のうちに陶酔した感じが増し、さらに進んで、自分が周りのものと一体になって大洋にいるような複雑な体験を感じた。効果は夜遅くまで続き、翌日目覚めた時には気分が良くなった。ホフマン博士は最初のLSD幻覚体験をしたのだ。精神薬理の可能性があると思い、会社宛てに報告書を書いたところ、会社はプラハ、サスカチュワン州ウェイバーン、マサチューセッツ州ケンブリッジ、カリフォルニア州パロアルト等にいる研究者のために一定量の化合物の製造を始めた。

薬の効果に関する研究はそれぞれの場所でまちまちだった。ハーバードの宗教の教授が非公式に研究者になったものの、プラハとハーバードでは精神医学の補助として使用することに集中した。カリフォルニアのスタンフォード大学では、CIAの秘密のMK-Ultraチームが、敵の軍隊に吹きかけて動けなくさせると考え、この薬を武器にしようとした。サスカチュワンの研究は事実上精神薬理学であって、慢性アルコール患者の治療に集中し、この薬を使った治癒率は驚いたことに80%で、アルコール中毒者厚生会の共同創設者、ビルW Bill Wは、厚生会の中心的な教科書であるビッグ・ブックのアイディアを固めることができたのはLSDを経験したおかげだとした。必然的に、この強力で一見無害に見える化学物質のうわさは広まった。メディアでたくさん取り上げられたのは、奇抜で裕福な発明家、アル・ハバードAl Hubbardのおかげで、彼はサスカチュワンのハンフリー・オズモンド博士Dr. Humphry Osmondを説得して、薬物を供給しないように説得し、オズモンドの言葉によれば、「産業のリーダーと教会の実力者」に広めることとなった。タイム・ライフTime-Life出版会長のヘンリー・ルースHenry Luceは初期の賛同者で、ケーリー・グラントCary Grantの精神科医はグラントにいくらか投与したので、ハリウッド・スターのグラントが賛同することになった。ハバードは、まだ合法だったLSDをブリーフケースいっぱいにして、プライベート飛行機で駆け回った。言うまでもないが、ハーバードとスタンフォードの様々な学生は自発的に研究に参加して、すぐに賛同者になった。いくらか手に入れる方法があればよいのだが!

えーと、あるんだ。自分で作るんだ。主な問題は分子が複雑なことだ。自家製ビールを醸造するような手軽さで1回分を作ることはできない。正確に測る器具、研究器具が必要だし、マイクログラムまで計った1回分の量を注意深く観察しなければならない。これは、ケンタッキー州の著名な家系出身のオーガスタス・オウズリー・スタンレーⅢ Augustus Owsley Stanley Ⅲにとっては難問だが、彼はバークレーの大学生で科学者の性向があり、自宅で作り始めた。幸運なことに、使える資金があり、科学の大学院生のガールフレンドがいた。彼の研究設備は最先端で、そこのLSDは純粋で混じり物がなかった。冒険好きのバークレー学生達が使い始め、噂はパロアルトまで届いて、MKウルトラ計画という洗脳実験のベテランたちがこの薬物を楽しんだが、入手先は知らなかった。オウズリー(いつもこの名前で知られていた)は、これに熱中している小説家のケン・キーシーに会った。すぐにキーシーはオウズリーの周りに友人グループを集めて、メリー・プランクスターズthe Merry Prankstersと名付け、それが保守的なスタンフォード社会にちょっとした驚愕を引き起こしたが、このドラッグはまだ合法なので、たいしたことができなかった。LSDの使用は、サンフランシスコ自体の大学生にも広がり、彼らのほとんどはシャーラタンの地域に住んでいたが、1965年の夏にはバージニア・シティーへと広がった。

LSDは、メキシコ人や西インド諸島の住民だけでなく、ジャズの世界で長い間使われていたマリファナ(ルイ・アームストロングLouis Armstrong は表立って擁護していた)をすでに良く知っていた人たちの間で広まった。効果はずっとマイルドだが、聞く音楽やセックスを良くし、あるいは、単に元気になるために使われた。マリファナやその派生物のハシシは、西インド諸島やインド亜大陸の人口が多いために、イギリスの反抗的な若者の間でも人気があり、ビートルズも最初のマネジャーであるアラン・ウィリアムスの助手であるロード・ウッドビンLord Woodbine(西インド諸島出身)を通して使うようになったのは明らかだ。ビートルズは最初、アルコールやアンフェタミンの方に関心があったが、1965年4月、ジョン・レノンJohn Lennon、ジョージ・ハリソンGeorge Harrisonとその妻達が、ハーレーストリートに高級な診療室を持ち、イギリスの悪名高い歯の治療の後遺症を手当てしていた美容歯科医のジョン・ライリーJohn Rileyと夕食を共にした。ライリーはシカゴで研究をし、そこでLSD擁護者であるアル・ハバードAl Hubbardの仲間の一人で、素性がよくわからない人と出会ったようだった。食事の時の結論として、ライリーがLSDを少量作り、全員のコーヒーに入れた。LSDを使っていた人たちなら気付いたように、これは賢く用心深い方法ではなく、ビートルズの2組のカップルがロンドンの夜にすごいスピードで突進した時、何が起きたかほとんど分からなかった。すぐに何が起きたかを悟り、トリップを乗り切る(結局ジョージの家にたどり着いた)ために正確に認識する本能のおかげで、ビートルズが取り掛かり始めた新作映画のタイトル・ソングが生まれたのは、間違いなさそうだ。もはや、「エイト・アームズ・トゥ・ホールド・ユーEight Arms to Hold You」ではなく、「ヘルプ!Help!」になった。(ビートルズ・ファンが言っているのとは異なり、後の楽曲「ドクター・ロバートDr. Robert」は、有名になりたがっていた別の医者だった。)

 

1965年のもう一つの重要な出来事は、ローリング・ストーンズの新しいシングルのリリースで、R&Bの過去の影響から脱却するという決定的な動きだ。キース・リチャーズKeith Richardsは寝ている間にこの曲を書いたらしく、「フィリップス社のカセット・プレイヤーに感謝するだけだ」と自伝に書いている。「奇跡は朝、カセット・プレイヤーを見ると、昨夜真新しいテープを入れたことが分かっているのに、それが最後まで来ていたのだ。それで、巻き戻しボタンを押すと、『サティスファクションSatisfaction』があったのだ。ラフ・アイデアだったが。」フロリダでツアーをしている間に、ミック・ジャガーMick Jaggerがプールサイドで歌詞を書き、数曲をレコーディングするためにチェス・スタディオChess Studiosまで急いで行ったが、「サティスファクション」はあまり良くなかった。2日後、LAのRCAスタディオで、リチャーズはなぜかエレキ・ギターをギブソンのファズトーンGibson fuzztoneに通したが、これはサーフィンのミュージシャンが最初から使っていたボックス型エフェクターだ。イギリスに戻ると、マネジャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムAndrew Loog Oldhamは、それを聞いて大いに喜び発売した。リチャーズはそれをデモ用だと思い、管楽器にファズトーン部分を演奏させたがった。しかし、イギリスではリリースの10日後に1位になったので喜んだ。

そしてボブ・ディランBob Dylanは5月のイギリス・ツアーのために急いで出発し、あとに残したのは、用心深くエレキを入れたヒット・シングルの「サブテレイニアン・ホームシック・ブルースSubterranean Homesick Blues」と、アルバムの「ブリンギング・イット・オール・バック・ホームBringing It All Back Home」、そして同時に、全部エレキのA面のうち、最初のトラックをシングルにした。ファン達(即座にエレキ的な曲を駄目だと見限ることをしなかったファン達)は魅了されたのだが、その理由は、抽象的だが強力な歌詞だけでなく(「イッツ・オール・オーバー・ナウ・ベイビー・ブルーIt’s All Over Now, Baby Blue」で、いったい誰に、さようならと言っているのか?)、アルバム・ジャケットは、ネイビー・ブルーのヨーロッパ風スーツとフレンチ・カフスの付いたドレス・シャツを着たディランが、グレーの子猫を抱き、後ろには赤いパンツ・スーツを着た優雅な女性(マネジャーの妻のサリー・グロスマンSally Grossman)がカメラを見つめながら、フェインティング・カウチ・ソファにゆったり座っている。散らかっているのは、ロッテ・レンヤLotte Lenya、エリック・ボン・シュミットEric von Schmidt、ロバート・ジョンソンRobert Johnson、ロード・バックレーLord Buckley(さらに暖炉には、アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディランAnother Side of Bob Dylan)のLP、とりわけ、放射能隔離避難所の看板とリンドン・ジョンソンLyndon Johnsonが表紙に載ったタイム誌Timeがあった。裏面は、ディランやジョーン・バエズなどの写真によって意識の流れを表している。

「サブテレイニアン・ホームシック・ブルースSubterranean Homesick Blues」は39位止まりだったが、ディランの音楽は、ロサンゼルスの新しいバンド、バーズThe Byrdsの力を借りてチャートを上昇していた。バーズはフォーク・クラブのトルバドゥールthe Troubadourで結成され、このバーは昼間、地元のフォーク・タレントが良く行くお気に入りの場所だった。ジム・マクギンJim McGuinnはシカゴのフォーク歌手で、後にボビー・ダーリンBobby Darinやジュディ・コリンズJudy Collinsの音楽ディレクターとして働いてコリンズのアルバム「」に登場し、トルバドゥールの前座としてアコースティック・ギターでビートルズの曲を歌ったが、それはニューヨーク・シティのフォーク・クラブで演奏している間に考えたアイデアだった。マクギンは別のレギュラー、ジーン・クラークGene Clarkから、ピーター&ゴードンPeter and Gordonのようなデュオを始めないかと話を持ち掛けられた。曲をやり取りしたりハーモニーで歌ったりしている間にそれを聞いていた別のレギュラーがいた。デビッド・クロスビーDavid Crosbyはショービズの家族出身で、つい最近レス・バクスターが運営する極めて堅苦しいフーテナニー・バンドを辞めたばかりだったが、バクスターは自分の名前で演奏するコンボを数種類持っているビッグ・バンドのリーダーだ。クロスビーは既にマネジャーのジム・ディクソンJim Dicksonと組んでいて、ディクソンはクロスビーを完璧なソロ・アーティストだと考え、いつでも自由にレコーディングできる契約をしたワールド・パシフィック・スタディオスWorld Pacific Studiosでデモを録音していた。トルバドゥールで会った後、クロスビーはマクギンやクラークと一緒に現れ、この連中は将来成功するだろう、と思ったディクソンは興奮した。グループ名をいくつか検討し、ビーフイーターズThe Beefeatersは十分にイギリスっぽかったが、バンドはまだ発展途上だった。「ア・ハード・デイズ・ナイトA Hard Day’s Night」を見た後、マクギンは答えを見つけた。映画でジョージ・ハリソンGeorge Harrisonが演奏していたような12弦エレキ・ギターだ!このギターは希少で、製造しているのはリッケンバッカーRickenbackerただ1社だったが、マクギンが持っていたのだ。若いブルーグラスのミュージシャン、クリス・ヒルマンChris Hillmanと、フォーク・クラブでアフリカの曲、コンガcongaを演奏していたマイケル・クラークMichael Clarkeがバンドを完成させた。エレクトラ・レコードElektra Recordsはビーフィーターズのシングルに挑戦してみたが、実はこのレコード会社はシングルのビジネスを未だしたことがなかった。ディクソンが頑張って、今バーズThe Byrdsと呼ばれているバンドは、1964年にコロムビア・レコードColumbia recordsと契約した。ピーター・ポール&マリーPeter Paul and Maryがディランのアコースティックな曲を演奏したのに対し、バーズはディランのエレキによる新曲に取り組み、1965年6月までに、アルバム、「ブリンギング・イット・オール・バック・ホームBringing It All Back Home」のうち、12弦ギターの演奏による「ミスター・タンブリン・マンMr. Tambourine Man」がチャートのトップになった。

しかし、ボブ・ディランとしても何もしなかったわけでもなく、次の手として、数年前にシカゴで会ったギタリストに接触した。マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldは裕福な子供で、レストラン用品を供給する大きな会社の跡継ぎだったが、ギターにしか関心がなかった。ブルースに没頭し(シカゴで生活していたのだからそれもそのはず)、すぐに、やがて同じような感覚を持つ白人の若者たちの輪の中に入り込んでいった。ほとんどの子たちはシカゴ大学で毎週開かれるパーティーによって、周りの者に導かれていったが、それは最終的に二人の学生のポール・バターフィールドPaul Butterfieldとエルビン・ビショップElvin Bishopに仕切られた。学生でないニック・グラベナイツNick Gravenitesとノーマン・ダイロンNorman Dyronも参加し、時にはリトル・ウォルターなどの地元のスターも加わった。シカゴのフォーク・シーンでは、エレキの楽器を演奏することは決して不名誉なことではなく、フォーク歌手の中には、たとえば、ブルームフィールドのように、忘れ去られてしまった1930年代のブルース・スターを探し出すことに関心のある者もいた。バターフィールドとビショップは、ジェローム・アーノルドJerome Arnoldとサム・レイSam Layという二人と組んだが、この二人はハウリン・ウルフHowlin’ Wolfのリズム・セクションを担当し、ポール・バターフィールド・ブルース・バンズThe Paul Butterfield Blues Bandとして町の辺りで演奏した。白人が率いるこれほど正統性を持ったエレキのブルース・バンドは全くの掘り出し物で、エレクトラ・レコードElektra Recordsは契約した。バンドは、1965年4月のセッションにブルームフィールドがピアニストとして参加するように頼んだが、うまくいかなかった。ブルームフィールドはディランから電話を受けた。「どこで僕の電話番号を手に入れたか分からないが、彼は『レコードを作るんだ。演奏しないか』と声を掛けた」とブルームフィールドは言った。そこで6月15日、ブルームフィールドは、ニューヨーク・シティのコロムビア・スタディオA Columbia Studio Aに一団のセッションマン(そこにはアル・クーパーAl Kooperもいたが、彼は、ギタリストとして呼ばれたものの、ブルームフィールドがウォーミング・アップを始めたのを聞くと、ハモンドB3オルガンの裏に座って、コード演奏以外頼まれないことを願った)やプロデューサーのトム・ウィルソンTom Wilsonともに入り、ディランは「BBキング B.B.Kingのクソみたいなのは演奏するな」としか指示せずに、「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」をレコーディングした。コロムビア・レコードColumbia recordsはすぐにリリースし、ビルボード誌Billboardの全面を2枚使って広告した。「6分のシングル?いいんじゃない?ボブ・ディランの6分間の素晴らしい新曲『ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone』コロムビア・レコードCOLUMBIA RECORDSから」。7月初めに45回転(もちろん、赤いプラスチック)で2パートに分けてリリースされ、あまり勢いが出なかったが、初めから終わりまで一度に全部まとめてかけるべきだというラジオリスナーの要求にコロムビアが応じて、まぎれもないヒットになった。

「フォークの流行に乗り、ロック・グループは礼儀正しくなった」とビルボード誌Billboard 6月12日号の見出しに書かれ、記事はディランDylan、バーズThe Byrds、ライジング・サンズThe Rising Sons、ソニー&シェールSonny and Cher、「リビング・スプーフルThe Living Spoonful」を証拠として挙げた。ライジング・サンズはフォーク・クラブ、トルバドゥールthe Troubadourのヒーローであり、移住してきたボストンのフォーク歌手、タージ・マハルTaj Mahal(本名はヘンリー・フレデリクス)と10代のギターの達人であるライランドPクーダー Ryland P. Cooderをフィーチャーしていた。時流の波に乗っている非凡なソニー&シェールSonny and Cherは、スペシャルティ・レコードSpecialty Recordsの元タレント・スカウトであるソニー・ボノSonny Bonoと、とても若い妻のシェリリン・サーキシアンCherilyn Sarkisianの二人で、過去にほかの名前(シーザー&クレオCaesar and Cleo)でレコードを出していた。

ニューヨーク市に拠点を置いていたラビン・スプーフルThe Lovin’ Spoonfulは、一流のハーモニカ・スタディオ・ミュージシャンの息子であるジョン・セバスチャンJohn Sebastianが率いた。セバスチャンは、壺を楽器にしたジャグ・バンド音楽に影響を受けた素敵な曲を書き、ニューヨークのフォークソング人脈作りの女王、カス・エリオットCass Elliotのアパート兼サロンで偶然出来上がったバンドによって支えられていた。エリオットは、自分のフォーク・グループのマグワンプスThe Mug WumpsにいたセバスチャンSebastianとカナダ人フォーク歌手のザル・ヤノブスキーZal Yanovskyを引き合わせ、このバンドはすぐにグリニチビレッジのナイト・アウル・カフェthe Night Owl Cafeで演奏するようになった。もしレーベルに力があれば、ビルボード誌Billboardはリチャード&ミミ・ファリーナRichard and Mimi Farinaの記事を書いたのだろうが、二人のバンガード・レコードVanguard recordsからのアルバムはアコースティックとライト・エレキを曲のバックに交えていた。リチャードは作詞家・小説家であり、ミミはジョーン・バエズJoan Baezの妹だ。

もちろん、誰もがフォークの流行に乗ったわけではなかった。イギリス人はまだ侵略していて、ゼムThemはすぐに名曲となる「グロリアGloria」を、キンクスThe Kinksは「セット・ミー・フリーSet Me Free」を、フ―The Whoは「エニウェイ・エニハウ・エニウェアAnyway, Anyhow, Anywhere」をリリース (このうち後の2曲をプロデュースしたのは、アメリカ人のシェル・タルミーShel Talmyで、1964年に現場を確認することを友人から説得されてロンドンに来て、ヒット曲をプロデュースしながら17年以上も滞在した)し、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの最初のマネジャーのジョルジオ・ゴメルスキーGiorgio GomelskyのプロジェクトであるヤードバーズThe Yardbirdsが「フォー・ユア・ラブFor Your Love」をリリースした。元祖侵略者であるビートルズの出した「ビートルズⅥ BeatlesⅥ」は、イギリスでリリースした2枚とシングルの1、2曲のごちゃ混ぜで、「ヘルプ!Help!」の8月リリースを発表した。

ソロモン・バークスSolomon Burkeは、ディランの「マギーズ・ファームMaggie’s Farm」を変な形で中傷したが、黒人音楽もフォークの流行には便乗しなかった。夏に向けて驚くほどゆっくりした曲が準備されていた。オーティス・レディングOtis Reddingのキャリアを決定づける「アイブ・ビーン・ラビング・ユー・トゥー・ロングI’ve Been Loving You Too Long」は、ジェリー・バトラーJerry Butlerと共同で書き、デルズThe Dellsは叙事詩のような「ステイ・イン・マイ・コーナーStay in My Corner」をリリースし、チェス・レコードChess recordsのナイト・ブラザースThe Knight Brothersは「テンプテーション・バウト・トゥ・ゲット・ミーTemptation ‘Bout To Get Me」を発表し、一方、同じレーベルのビリー・ストゥワートBilly Stewartはクラシックなボーカル・グループのサウンド「シッティング・イン・ザ・パークSitting in the Park」を出し、マンハッタンズThe Manhattansは「サーチン・フォー・マイ・ベイビーSearchin’ for My Baby」を「アイム・ザ・ワン・ラブ・フォーゴットI’m the One Love Forgot」をB面にして出した。テンポの速い曲はウィルソン・ピケットWilson Pickettが「ミッドナイト・アワーMidnight Hour」を、話すような感じでコースターズThe Coastersが「マネー・ハネーMoney Honey」を出し、ボビー・ロビンソンBobby Robinsonのエンジョイ・レコードEnjoy recordsは最初に1957年にリリースされたエルモア・ジェームスElmore Jamesの「イット・ハーツ・ミー・トゥーIt Hurts Me Too」で何とかヒットを出した。しかし、ジェームスは2年前に死んだので、ツアーには行かなかった。「ザ・コンプリート・モータウン・シングルスVol.5:1965 The Complete Motown Singles, Vol.5:1965」の曲名リストは、無名の曲も少しあるが今となっては最高のヒット曲のアルバムで、モータウンはミラクルズThe Miraclesの「トラックス・オブ・マイ・ティアーズTracks of My Tears」とカントゥアーズThe Contoursの「ファースト・アイ・ルック・アット・ザ・パースFirst I Look at the Purse」を6月に発売し、テンプテーションTemptationsの両面大ヒットの「シンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビーSince I Lost My Baby」とB面の「ユーブ・ゴット・トゥ・アーン・イットYou’ve Got to Earn It」がリリースされたのは7月1日だった。ジャッキー・デシャノンJackie DeShannonのサウンドトラック、「世界は愛を求めているWhat the World Needs Now」(必要なのは「愛、やさしい愛」)はちょうど6月のことだった。

 

夏はフェスティバルのシーズンで、フォーク・フェスティバルはバークレー、デンバー、シカゴ、フィラデルフィアで催されたが、すべてニューポートの大きなフェスティバルの陰に隠れた。ニューポート・フォーク・フェスティバルthe Newport Folk Festivalは、ニューポート・ジャズ・フェスティバルthe Newport Jazz Festivalを起源として発見され、あるいは再発見された伝統的演奏者も含めて、新しいアーティストがステージに上り、その数は増えていた。ここではベテランが称賛の栄誉に浴し、毎晩、老いも若きも大合唱に参加するとき、繋がっていると感じられる。この年、エレクトラ・レコードElektra recordsは何とかしてポール・バターフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Bandを7月22日のプログラムに参加させるよう、フェスティバルの団体を説得したのだが、その日の早い時間にマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldがブルースのワークショップを主催し、年長者に対する尊敬の念を示していたにもかかわらず、理事の一人アラン・ロマックスAlan Lomaxはその決定に不満だった。バターフィールドを紹介しながら、ロマックスはためらいの気持ちがあった。「僕たち白人はいつも遅れてやって来たが、追い付こうと努力した。今回の組み合わせは追い付いただけではなく、試験に合格したと理解している。それが今聞いている音楽で、真実かどうかを知りたい・・・。とにかく、これがシカゴの本当に新しいブルースだ。」そしてバンドが演奏を始めた。アルバート・グロスマンAlbert Grossmanは、この頃バターフィールド・バンドをマネージングしていたが、かんかんに怒って言った。「ミュージシャンの紹介の仕方が酷いじゃないか。恥を知れ。」それからロマックスはグロスマンを殴ってやると言った。聴衆が理解できず、慎重に仕組まれた娯楽ではないかと思っている中で、殴り合いがあった。エレキのブルースは本物のブルースか?白人はブルースを演奏できるのか?あるいは、演奏して良いのか?確実に言えることが一つあって、それは、彼らはローリング・ストーンズよりも良い仕事をして、ストーンズは100万年経ってもニューポート・フォーク・フェスティバルthe New port Folk Festivalに呼ばれることは無いだろうということだ。そこには別の世界があり、とにかく、「サティスファクションSatisfactionは、プロテスト・ソングではない」ということを理解したフォークソング・ファンもいた。

バターフィールドは午後になって出演し、グロスマンAlbert Grossmanの最も物議を醸した顧客であるボブ・ディランBob Dylanがフェスティバル会場に到着したのはそれ以降のことだった。エレキの新曲を演奏することに決めたので、バンドをその場で雇わなければならなかった。ディランとグロスマンは、フェスティバル会場にある、演奏者がぶらぶらしている豪邸のネザークリフNethercliffに行ったが、その途中でアル・クーパーAl Kooperに出くわした。ディラン、グロスマン、ブルームフィールドの3人は、日曜の夜にディランのバックを務めるバンドを結成し始めた。

バターフィールド・バンドThe Butterfield Bandは、日曜の午後に再び演奏する予定だった(雨で中止になりディランの直前に再スケジュールされたのだった)が、ブルームフィールド・バンドBloomfield をギターに、クーパーKooperとバリー・ゴールドバーグBarry Goldberg(バターフィールドの仲間でシカゴの友人)をキーボードに、バターフィールド・バンドButterfield Bandのジェローム・アーノルドJerome Arnoldとサム・レイSam Layをベースとドラムスにするのが自然だった。日曜の夜に練習を始めると、最初リズム・セクション、特にアーノルドが楽曲と合わなかった。しかし、次の日の夜までには、全員がかなり準備でき、バターフィールドが短い演目をまとめた後、多少の遅れが生じ、ピーター・ヤーローPeter Yarrowがディランを紹介したが、ディランは水玉模様のついたピスタチオ・カラーのシャツを着て、既にギターをコンセントにつないであった。聴衆は明らかに興奮し、様々な音を出した。「レイディース・アンド・ジェントルメン、今登場する出演者の時間は限られています。名前はボブ・ディラン!」バンドは「マギーズ・ファームMaggie’s Farm」を始め、ブルームフィールドは早く大きな音で演奏し、キーボード奏者の演奏は聞こえず、ジェローム・アーノルドJerome Arnoldはまだコード・チェンジをうまくできなかった。バンドが演奏した次の曲「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」はどのラジオでもかかっていたけれど、こんなのを誰も聞いたことは無かった。最後に、ディランが最近レコーディングしたアルバムの「ファントム・エンジニアPhantom Engineer」( アルバムの中のタイトルは「イット・テイクス・ア・ロット・トゥ・ラフ・イット・テイクス・ア・トレイン・トゥ・クライIt Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry」だった) で幕を閉じた。そろそろ聴衆は悲鳴を上げ、たいていは熱狂した。実はブーイングもあったが、ディランが大きな音のロックンロールを演奏したというよりは、全く受け入れられないサウンド・ミックス(忘れないでほしいのは、ステージ・モニターが登場する以前の時代だということ)に対してだと、その場にいた人たちは主張した。

ピート・シーガーは楽屋でエレキの侵略に対して激怒していた。何とかしなければならなかったので、ショーは予定より遅れていたが、ディランはアコースティック・ギターを持って出ていき、「イッツ・オール・オーバー・ナウIt’s All Over Now」と「ミスター・タンブリン・マンMr. Tambourine Man」を演奏した。そんなことがあって、ボブ・ディランBob Dylanとマイケル・ブルームフィールドは、ディランが始めたアルバムを完成させるためにニューヨークに向かったが、今度はボブ・ジョンストンBob Johnstonという新しいプロデューサーが加わり、8月末に「ハイウェイ61リビジテッドHighway 61Revisited」としてリリースすることになった。トム・ウィルソンTom Wilsonはプロジェクトから外れ、引き続きディオンDionと一緒に「キッキン・チャイルドKichin’ Child」というアルバムの仕事をしたが、これは2017年までリリースされなかった。ニューポートで引かれた、越えてはいけない一線は、将来も残った。

トップ40はラジオでかかるために当り障りのない者にする必要があったにせよ、すぐに反骨精神を示し、ビルボード誌Billboard 8月21日の第1面の見出しには「ロック+フォーク+プロテスト=噴出する新しいサウンド」とあった。1週間前、このくず雑誌は『物議を醸した』ニュー・シングル、バリー・アマクガイアーBarry McGuireの「イブ・オブ・デストラクションEve of Destruction」を記事に取り上げたが、この曲を書いたPFスローン P.F. Sloanをビルボード誌は元サーファーと書いていた。この曲は、アコースティック・ギターとハーモニカを使ったディラン風のサウンドで、怒りとフラストレーションを表現したが、特定の意味はなく、スローンは50年後に、いくつかの言葉の意味が分からなかったことを認めている。このシングルに対応して、すぐに、実体が何者であれ、『ザ・スポークスメンThe Spokesmen』の「ドーン・オブ・コレクションDawn of Correction」というアンサー・レコードを出したが、これもまた意味の通じない右翼の曲だった。もっと的を射ていたのは、ボニー&トレジャーズBonnie and The Treasuresの「ホーム・オブ・ザ・ブレイブHome of the Brave」で、長髪のために学校で困った少年のこと、ソニー・ボノSonny Bonoのメロドラマ風の「ラフ・アット・ミーLaugh at Me」も髪の毛をからかわれたこと(からかう人間に祈りをささげるのだが)、バフィー・セントマリーの「ユニバーサル・ソルジャーUniversal Soldier」のたくさんのレコーディング(ドノバンDono-vanとグレン・キャンベルGlen Campbellはこの曲によってチャート上で競った)をしたこと、ジョーン・バエズJoan Baezがフィル・オックスPhil Ochsの敬虔な「ゼア・バット・フォー・フォーチュンThere but for Fortune」を朗読したこと、そしてほぼ間違いなく社会に最大のインパクトを与えたのは、ティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyのソングライターのバリー・マンBarry Mannとシンシア・ワイルSynthia Weilが書いた、アニマルズThe Animalsの「ウィー・ゴッタ・ゲット・アウト・オブ・ディス・プレイスWe Gotta Get Out of This Place」が、東南アジアの小国のベトナムに送り込まれるアメリカの軍事『参与』の数が増える中ですぐにヒットしたことだった。この曲は数年間、兵士たちの間だけの『チャート』に残り続けた。そして、ビルボード誌Billboardの流行を捉える力を証明するかの如く、サイモンとガーファンクルSimon and Garfunkelが登場した。かつて1957年、ニューヨーク州クイーンズ出身の二人の子は自分たちをトム&ジェリー Tom and Jerryと名乗り、「ヘイ・スクールガールHey, Schoolgirl」がヒットしたけれど、その後はさっぱりだった。突然フォークの人気が出たころ、ポール・サイモンPaul Simonはイギリスにわたり、最近書いた曲のうち、いくつかを携えてフォーク・クラブに行き着いた。コロムビア・レコードColumbia Recordsの何者かがポールを聞き、「ザ・ポール・サイモン・ソング・ブックThe Paul Simon Song Book」というアルバムをイギリスで録音したが、アメリカの事務所はそれを見送った。それでもサイモンはやる気を失わず、アメリカに戻ると、大学院に行っていたアート・ガーファンクルArt Garfunkelに電話をして、フォーク活動について話し、二人はコロムビアと契約した。「水曜の朝、午前三時Wednesday Morning, 3AM」という苦悩するアコースティックなアルバムをレコーディングし、大学の聴衆を惹きつけたが、キャリアを築く土台としては不十分だった。その後、トム・ウィルソンTom Wilsonはひらめいて、何曲かあるうちの一曲「ザ・サウンド・オブ・サイレンスThe Sound of Silence」に、「ブリンギング・イット・オール・バック・ホームBringing It All Back Home」に使ったような、軽いエレキ・バンドをかぶせたのだ。11月末までにチャートのトップになり、デュオはウィルソンがやったことを知って怒ったのを忘れた。それどころか、アルバムの残りの曲もエレキにして、二人が別の曲を書くのに忙しくしている間、「サウンズ・オブ・サイレンスSounds of Silence」としてリリースした。

二人が9月末にサンフランシスコに戻ってくると、レッド・ドッグ・サルーンThe Red Dog Saloonのベテラン4人は、ポップスの状況が変わっていることに気づいた。一つには、サンフランシスコが新たなバンドをたくさん輩出しているようだった。シャーラタンThe Charlatansのハウスと同じブロックに、スタンフォード大学周辺から出た変わった連中が入り込んできたのだ。ブルーグラス・バンドから発展してジャグ・バンドになったマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピョンズMother McCree’s Uptown Jug Championsの構成メンバーは、バンジョー/ギター奏者のジェリー・ガルシアJerry Garcia、ハーモニカ奏者で父親がR&Bディスク・ジョッキーのロン・ピッグペン・マカーナンRon “Pigpen” McKernan、ガルシアに教えてもらったギター奏者のボブ・バイヤーBob Weir、そしてロバート・ハンターRobert Hunterだった。ある日、これは進みたい方向ではないと決め、ハンターを外し、ドラマーのビル・クロイツマンBill Kreutzmannを加えて、エレキ楽器を使用した。自らをウォー・ロックスThe Warlocksと名乗り、ダウンタウンのパロアルトにあるピザ・パーラー店マグーMagooで交渉してライブのレギュラーになったが、週6日、一晩5回公演で、チャック・ベリーのナンバー、ジャグバンドの曲をアレンジしたものや、ブリティッシュ・インベージョンの曲を演奏した。地元の高校の生徒たちの間で、マグーにかっこいいバンドがいるという噂が広がり、ウォーロックスは毎晩数百人を引き寄せ始めた。

ウォーロックスより数歳年上のフィル・レシュPhil Leshという変わった大学生が、前衛的なクラシック音楽を書いていたのだが、1965年5月8日、どんな具合か見に来ると、このバンドを聞いて潜在的なものを感じた。その後ガルシアに話をしたら、ガルシアが「君は僕たちと一緒にベースを演奏すべきだ」と言ったのでレシュは驚いた。突然、ウォーロックスのサウンドは格段に良くなった。

文化的に最も前衛的な勢力が、町でお互いを知り合うことはたぶん当然だったのだろう。ケン・キーシーKen Keseyは自分の書いた小説「カッコーの巣の上でOne Flew Over the Cuckoo’s Nest」が売れ、その儲けを使って、自らをメリー・プランクスターThe Merry Prankstersと名乗るLSDに熱心な友人たちと、古いスクールバスを買ってカラフルなデザインに塗り、ジャック・ケルアックJack Kerouacの旅仲間であるニール・カサディNeal Cassadyがほとんど運転して、全国を旅した。戻ってくるとすぐに、正確にはパーティーではなくイベントを開催することを決め、「アシッド・テストを通過できるかCan You Pass the Acid Test?」と書いたポスターが町中に貼られた(イーストコーストのLSDの連中にとって困ったことは、ウェストコーストの連中が、「酸」をリセルグ酸の意味で呼んでいたことだ。)初回は彼らの共有している建物で催され、ウォーロックスThe Warlocksはバンドとして雇われたので、理想的なお膳立てとなり、「アシッド・テストをしに来たけど僕らを見るために来たわけじゃなかった」とガルシアは後年楽しそうに思い出した。彼らは何が起こるのかを確かめるために、やりたいだけやれたし、実際にやった。

キーシーズの仲間は、ヘルズ・エンジェルスThe Hells Angelsのオートバイ・ギャング地方支部と友達になり、このギャングはLSDも楽しんでいて、オウズリーOwsleyは大量に製造し、彼らとプランクスターズThe Pranksters、ウォーロックスThe Warlocksは、みんな知り合いになった。ついに、ウォーロックスは一流を目指す時期だと決め、それは彼らの場合、大都市サンフランシスコを意味し、ヘイトストリート近くの木造ビクトリア朝の家に無政府主義の若者たちが住むようになった。デモテープを作るためにライブからお金を出し合ったが、11月初めにゴールデン・ステート・スタディオスGolden State Studiosに行くまでには、別のウォーロックスがイーストコーストにいてレコード契約をしていることが分かった。新しい名前は必須だった。ゴールデン・ステートでレコーディングしたテープは「イマージェンシー・クルーThe Emergency Crew」という名前にしたが、それは一時的なものだった。そのすぐ後に、誰かがファンク&ワグノルズ出版社の分厚い辞書を本棚から引っ張り出して、ランダムに開けた。指をさすと神話研究で使われる言葉に当たったのだが、その神話ではヒーローが冒険の旅をする中で、彼を愛する死者の魂がヒーローを助ける、ザ・グレイトフル・デッドthe Grateful Deadという話だった。それに決まった。ガルシアが後で説明したように、「その名前は、好奇心の強い野次馬を排除するのに十分だった」。

もう一つの新グループは、別のフォークソング歌手を中心に結成され、幸運にもサンフランシスコに自分たちのクラブを持ち、それはフィルモア・ストリートの端にあるマリーナのそばに有った。シンガーソングライターのマーティ・バリンMarty Balinとその友人数人は、フィルモア通りとランバード通りの交差点に、元ピザ店を借りる(お酒の免許も受ける)ことができ、マトリックスthe Matrixと名付けた。8月に開店しバーリンのバンドがメインのアトラクションとなった。グレイトフル・デッドThe Grateful Deadと同じように、変わった人間が集まり、プランクスターに関連するフォーク歌手2名、地元のフォーク・スター2名のほかに、ギターを演奏するドラマーがいて、ドラマーのように見えるとバーリンが考えたのでドラマーに指定した。彼らの名前は、カントリー・ブルース演奏者の名前をもじったフォーク歌手風の名前だった。ボブ・ディランはキャリアの早い時期にこうしたことを行い、この時は他の人のレコードにブラインド・ボーイ・グラントBlind Boy Gruntとして登場した。このバンドは自分たちを、ブラインド・トーマス・ジェファーソン・エアプレインBlind Thomas Jefferson Airplaneにちなんで名付けた。レッド・ドッグThe Red DogがシャーラタンズThe Charlatansにとって、そしてマグーthe MagooがデッドThe Deadにとって活躍できる場所だったように、マトリックスThe Matrixはジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneにとって音楽の方向を決める実験の場だった。もし、エアプレインが持っていたようなクラブを持たずとも、練習に人を呼ぶことはできたし、アルビンAlbinという二人兄弟はデトロイトから逃れてきたジェイムス・ガーリーJames Gurleyとバンドを組みかけていた。チェット・ヘルムズChet Helmsは見た目が変なテキサス人で、マリファナ合法化運動のレマールthe LEMARで働いていて、ヘイトストリートに隣接した辺りの1090ページ・ストリートに、地下室がビクトリア調音楽室の付いた豪華な家を彼らのために見つけてやった。彼は観客数を抑えるために50セントの入場料を取り、このバンドは自分たちをビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brother and The Holding Companyと呼んだ。

グレート・ソサイアティThe Great Societyは、既婚カップルのダービー&グレース・スリックDarby and Grace Slickが率い、インド音楽に関心を持っていて自分たちの書いた楽曲に組み込み、ガレージ・ロック・バンドのThe Mystery Trendは、サンフランシスコ芸術大学San Francisco Art Instituteの学生が中心で、その大学のピアニストであるロン・ネーグルRon Nagleは軽妙な曲を書いた。(バンド名は、ディランの「ミステリー・トランプmystery tramp」に関する詩をネーグルが聞き間違えたことにちなんでいる。)

マリン郡の金門橋を超えて、エレキ・ギタリストのジョン・シポリナJohn Cipollinaはフォーク歌手のデビッド・フライバーグDavid Freibergと出会い、一緒にジャム・セッションをした。この二人は、偶然出会った他の二人のミュージシャンとバンドを組み、お互いのことを知るにつれ、一人以外乙女座生まれで、そのうち二人は誕生日が一緒だったので、乙女座の守護星の水星にちなんでクイックシルバー・メッセンジャー・サービスThe Quicksilver Messenger Serviceを名乗った。オックスフォード・サークルOxford Circle、ファイナル・ソリューションThe Final Solution、PHファクター・ジャグ・バンドThe P.H.Phactor Jug Band、マーブルスThe Marblesdatta等のバンドは降って湧いたようにどんどん誕生した。

10月半ばまでに、レッド・ドッグThe Red Dogの4人はショーを開催する時だと考え、いくらかお金を借りて、サンフランシスコノース・ビーチ地区組合施設のロングショアマンズ・ホールLongshoreman’s Hallに手付金を払った。ポスターを数枚掛け、大量のチラシを配って、10月16日の「トリビュート・トゥ・ドクター・ストレンジTribute to Dr. Strange」のイベントを宣伝したが、フィーチャーしたのは、シャーラタンズThe Charlatans、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplane、マーブルスThe Marbles、グレート・ソサイエティThe Great Societyだった。興行主は自分たちをファミリー・ドッグThe Family Dogと名乗ったが、この奇妙なイベントがどうなるかは分からなかった。アルトン・ケリーAlton Kelleyはとても不安で、チケットを握ってホールの外に立ち、それを売っていた。ふたを開けてみれば、いたるところから数百人の観客が現れ、6月に行われたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールRoyal Albert Hallの詩の朗読会に匹敵するベイエリアのイベントになり、誰が考えたよりもたくさんの変わった人たちが来たことを知って「これらの人々はいったい何なのだ」と思った。この時にシポリナCipollinaとフライバーグFreibergは、バンドに合ったもう一人のおとめ座生まれと出会った。観客はこの夜の終わりに立ち去る前に後片付けをした。翌日、サンフランシスコ・クロニクル紙the San Francisco Chronicleのジャズ・コラムニスト、ラルフ・グリーソンRalph Gleasonは褒めたたえた。誰も気が付かなかったことは、このイベントはダンスの許可をとっておらず、違法だったということだ。しかし繰り返し起こることは無いよね?いや。何事も初めてというのは一回だけだが、彼らは翌週に「ア・トリビュート・トゥ・スパークル・プレンティA Tribute to Sparkle Plenty」でもう一度やって、ラビン・スプーンフルLovin’ SpoonfulとともにシャーラタンズThe Charlatansをフィーチャーした。ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは出席したが演奏はせず、グレートフル・デッドThe Grateful Deadのフィル・レシュPhil Leshは、エレン・ハーモンEllen Harmonのところまで歩いて行き、「お嬢さん、この小さな会に必要なのは僕達だ!」と話した。

バンド以外にも、ベイエリアには演劇集団が新たに生まれ、エンターテインメントの限界を試していた。こういったグループは常に猥褻行為で脅され、逮捕されていた。最もひどいのは、しばらくの間活躍していたリビング・シアターThe Living Theaterと、サンフランシスコ・マイム・トゥループThe San Francisco Mime Troupeの2つで、後者は公の場で無料上演されていたが、平和主義と性的自由というテーマが体制派をイライラさせていた。10月末までにマイム・トゥループはお金が無くなり、自分たちのための募金興行を開催することを決めた。キャデラックを借り運転して回り、11月6日の募金興行「ザ・アピールthe Appeal」のチラシを配った。これは全部、しかめ面で不愛想なビル・グラハムBill Grahamというビジネス・マネジャーがまとめた。ウォルフガング・グラジョンカWolfgang Grajonkaは、ポーランドで生まれ、ナチがポーランドに侵攻した後、姉妹とともにヨーロッパを歩いて、最終的にニューヨークまで行き、そこでグラハムに改名してビジネス・マネジメントを学んだ。結局なぜかサンフランシスコに行き、良い報酬の仕事をやめて、マイム・トゥループと働くことになった。「ザ・アピールThe Appeal」というイベントが、組織力と宣伝力の両方においてビル・グラハムの力を完璧に引き出し、出演するアーティストに電話をかけたが、その中には、アレン・ギンズバーグAllen Ginsbergや、ファグズThe Fugsというおんぼろバンドを持つニューヨーク出身の詩人の友達もいた。ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは、「ザ・アピール」が開催されたマイム・トゥループの屋根裏部屋で練習したのだから、断るわけにはいかずに演奏し、グラハムはファミリー・ドッグをアーティストだと思い込んでしまったため、エンターテイナーを獲得する手助けをすると言うしかなかった。最後には、同じ夜にロングショアマンズ・ホールthe Longshoreman’s Hallで自分たちのショーを上演したのを見て、グラハムは彼らを芸をする動物だと思った。ザ・アピールは大成功をおさめたので、12月にもう一度「ザ・アピール」を開催することになった。むしろ退屈なポスターだったが、すべての中で最高の広告だったのは、ボブ・ディランBob Dylanがラルフ・グリーソンRalph Gleasonの「ジャズ・カジュアルJazz Casual」のテレビジョン・ショーで称賛したことだった。ただし、ディランは行きたいけどその場にはいないだろうと話していた。グリーソンは開催場所を見つけるのに役立った。フィルモア公会堂the Fillmore Auditoriumは長年にわたってサンフランシスコのジャズ界、R&B界の中心で、ジョニー・オーティスJohnny Otisが1950年代初期にエタ・ジェームスEtta Jamesを見い出したが、聴衆は立ち去ったので空席だった。そこはサンフランシスコ黒人社会の端にあり、ヘイトストリートから行き易い場所にあった。

2回目の「アピール」で分かったことは、ロックのダンスで潜在的に儲かる聴衆がたくさんいたということで、生まれ変わったファミリー・ドッグ(もともといた二人が脱退し、チェット・ヘルムズChet Helmsが円満に加入した)とビル・グラハムBill Grahamは、フィルモア公会堂で週毎に交代した。その数週間後、グラハムはフィルモア公会堂を完全にコントロールすることを決め、ファミリー・ドッグThe Family Dogは、サンフランシスコのポスト通りとポーク通りの角にあるアバロンthe Avalonというダンスホールが空いていることを見つけた。両会場を毎週埋めるのに十分なバンドがいるし、バンドの数はさらに増えた。それどころか、ベイエリアだけでも、どちらの会場でも演奏していないバンドがたくさんあり、あまり流行していると思われていないが地元でレコードを出していた。町で人気のある新レコード会社は、二人のディスク・ジョッキーの提携により誕生したオータム・レコードAutumn recordsで、その二人は、トップ40KYAのトム・ビッグ・ダディ・ドナヒューTom “Big Daddy” Donahue(そして、彼は実際にも大きく、400ポンド、181㎏あった)と、1964年にイースト・ベイにあるソウルの有力なラジオ局KSOLでスライ・ストーンSly Stoneという名前を使っていたシルベスター・ストゥワートSylvester Stewartだった。この会社は、1958年に「ドゥ・ユー・ウォナ・ダンスDo You Want to Dance」をヒットさせ、それ以来クラブで演奏していた地元のシンガー、ボビー・フリーマンBobby Freemanを起用して、すぐにヒットを出した。スライが現在流行っているダンスをもとにした曲を書いてあげると、フリーマンは突然「クモン・アンド・スイムC’mon and Swim」でトップ10に戻ってきた。これで、ドナヒューとストゥワートDonahue and Stewartは、もともとはカリフォルニア州サンマテオでアイリッシュ・ダンスを演奏していたボー・ブランメルズThe Beau Brummelsと契約し、1964年末に全面広告をビルボード誌Billboardに載せるのに十分なお金を得た。その広告の中で彼らは山高帽をかぶり雨傘を持ち、サー・ダグラス・クインテットThe Sir Douglas Quintetと同様にイギリス人ではなかったが、クインテットとは違ってイギリス人っぽく聞こえた。というのは、コンサートでビートルズThe BeatlesやサーチャーズThe Searchersの楽曲を演奏し、そういったグループが使っていた洗練されたハーモニーを自分たちのものにし、1965年にギタリストのロン・エリオットRon Elliottは、「ラフ・ラフLaugh Laugh」、「ジャスト・ア・リトルJust a Little」、「ユー・テル・ミー・ホワイYou Tell Me Why」、「ドント・トーク・トゥ・ストレンジャーズDon’t Talk to Strangers」というヒット曲を次から次へとたたき出した。カリフォルニア州エルサリート市にあるイースト・ベイ郊外のゴリウォグスThe Golliwogsは、ビートルズのようなバンドを探していた好調のジャズ・レーベルであるファンタジー・レコードFantasy Recordsが付けた名前にイライラしていた。しかし、アルバム1枚分の楽曲をレコーディングし、シングルとしてリリースしたものの、主要ソングライターでリード・シンガーのジョン・フォガティJohn Fogerty等、バンドの中の2人が軍隊に加わることになったために広告宣伝は無駄になった。サウスベイには、ベジタブルスThe Vejtablesというオータム・レコードAutumn recordsのアーティストがいて、その売りは歌う女性ドラマーのジャン・エリコJan Erricoだったが、結局は、モウジョウ・メンThe Mojo Menという別のオータム・レコードのバンドに移った。オータム・レコードAutumn recordsも少しダンス・ミュージックを手掛け、グレート・ソサイアティThe Great Societyと契約して系列のノース・ビーチ・レーベルNorth Beach labelから45回転レコードを数枚出した。

 

しかし、サンフランシスコはメディアの中心地ではなかったし、街から外れると、ボー・ブラメルズThe Beau Brummelsのレコードをかけるラジオ局以外、注目されることはなかった。一つ言うと、いまいましいイギリス人は侵入を続けていた。ヤードバーズThe Yardbirdsは流行っていて、2曲のポップ・ヒット(「ハート・フル・オブ・ソウルHeart Full of Soul」と「フォー・ユア・ラブFor Your Love」)の後にリリースしたボ・ディドリーBo Diddleyの「アイマ・マンI’m a Man」には、「レイブ・アップrave-up」というセクションを含み、そこではバンドがリズミカルな即興伴奏を挿入し、新しいギター奏者のジェフ・ベックJeff Beckが、流行していたギターのリックを演奏した。バンドを創設したギタリストのエリック・クラプトンEric Claptonはポップスの曲のことで辞めたのだが、ブルースにしか興味がなく、ハーモニカ奏者のジョン・メイヨールJohn Mayallが率いるブルースブレーカーズThe Bluesbreakersという無名バンドに加わった。イギリスのブルース純粋主義者がすべて融通の利かないわけではなく、非常に早い時期にローリング・ストーンズThe Rolling Stonesから独立したプリティ・シングズThe Pretty Thingsは、ポップ・ソングを書こうとしたが自国以外では実績を残せなかった。ローリング・ストーンズに関しては、「サティスファクションSatisfaction」の後、ポップスをシングルでリリースし、ブルースやR&Bのカバー・バージョンはアルバムに収めるという両面作戦に出た。突然、リリースしたシングルがすべてチャートのトップに上った。この件に関しては、ハーマンズ・ハーミッツHerman’s Hermitsやデーブ・クラーク・ファイブThe Dave Clark Fiveでさえ同じである一方、ゼムThemとホリーズThe Holliesもアメリカで地位を確立した。

それからビートルズ、そうだ、ビートルズだ。映画「ヘルプ!4人はアイドルHelp!」は8月に予定通り公開され、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! A Hard Day’s Night」の明るく自発性を追求したものを目指して努力していて、リンゴRingoが「東洋の鳥」からもらった人身御供の神聖な指輪をめぐって展開される、半ば支離滅裂な筋に翻弄されるという変わった映画だ。21世紀の基準からは信じられないような人種差別的で、アルプスやバハマにおいてカラーで撮影された。実は大して面白くないが、音楽は良く、サウンドトラック・アルバムは4人が手旗信号をしているのを映していて(H-E-L-Pのスペルを思い浮かべるだろうが、英国・米国バージョンのジャケットによってN-U-J-VかN-V-U-Jだった)、チャートを駆け上がり、タイトル曲のシングルと同様に、アルバムも数週間連続で1位を続けた。9月にキャピトルはシングルをリリースしたが、その広告はとても変わっていて、「イエスタデイYesterday」を『ポールPaulのソロ』、「アクト・ナチュラリーAct Naturally」を『リンゴRingoのソロ』と宣伝し、それは多少なりとも真実だった。ポールのバックは弦楽四重奏団で、一方、リンゴは、バック・オーエンスBuck Owensが1963年にカントリーで1位になった曲を、グループの他のメンバーと一緒にカバーした。リンゴがかつて所属したバンドは、リンゴにソロをさせるときはカントリー音楽を好きにやらせていた。その後、ビートルズは別のシングル(「涙の乗車券Ticket to Ride」、B面は「デイ・トリッパーDay Tripper」)を、12月には「ラバー・ソウルRubber Soul」というとても変わったアルバムを出した。よりアコースティックなインストルメンタルを用いた内省的な曲があり、ポールは静かなバラード「ミッシェルMichelle」の中でフランス語の歌詞を1、2行歌い、「ノルウェーの森Norwegian Wood」では不思議なビュンと謎の音を使ったが、それはジョージGeorgeが持ち込んだばかりのシタールというインド楽器だということが分かった。ファンの中には当惑した者もいたがみんな購入し、1965年12月6日、アルバム「ラバー・ソウル」は、最初の9日間で120万枚売れ、ビートルズのセールス・レコードを塗り替え、キャピトル・レコードCapitol recordsは200万枚のレコード・プレス割り当てに大きな負担をかけることになった。

それでも、アメリカのバンドはビートルズに抗った。ギター・バンドはあらゆるところに生まれ、12弦トゥワンギー・ギターを用いピート・シーガーの「ターン!ターン!ターン!Turn! Turn! Turn!」で、ディラン以外のフォークソング分野に参入したバーズ The Byrdsと、所属レーベルが『良き時代の音楽』を支持し、筋の通った方針を貫いて『フォーク・ロック』を避けるように留意していたラビン・スプーンフルThe Lovin’ Spoonfulが、先頭に立っていた。スプーンフルはジャグ・バンドを復活させようとする人たちに影響を受けていたので、ファンの中でジム・クウェスキン・ジャグ・バンドThe Jim Kweskin Jug Bandに移った者もいた。1965年には、インディアナ州のマッコイズThe McCoysが「ハング・オン・スルーピーHang On Sloopy」を「ルイ・ルイLouie Louie」のコードで最新型にして反復演奏し、ストーンズはこのコードを「ゲット・オフ・オブ・マイ・クラウドGet Off of My Cloud」で演奏した。ボビー・フラー・フォーBobby Fuller Fourは、「レット・ハー・ダンスLet Her Dance」を出した。単発ヒットの、キャスタウェイズThe Castaways (「ライアー・ライアーLiar Liar」)、ニュービーツThe Newbeats(「ラン・ベイビー・ランRun Baby Run」)、ナイトクローラーズThe Nightcrawlers(「ザ・リトル・ブラック・エッグThe Little Black Egg」)、ニッカーボッカーズThe Knickerbockers(このグループの「ライズLies」は、不思議なほどビートルズ風だった)はこの年の後半、チャートをにぎわせた。ギターがとても人気だったので、バック・オーウェンスBuck Owensはポップの成功を狙っていたわけではなかったが、インストゥルメンタル曲の「バカルーBuckaroo」がヒットし、それは少なくともT-ボーンズによる薬品のアルカセルツァーAlka-Seltzerのコマーシャルである「ノー・マター・ホワット・シェイプNo Matter What Shape(Your Stomach’s In)」の編曲と同じくらいキャッチーだった。年配の聴衆はエレクトラ・レコードElektra recordsからデビューしたポール・バターフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Bandのデビューに驚愕したが、このマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldの非常に魅力的なギター・ワークによって、たくさんのフォークソング歌手がエレキ・ギターに駆り立てられた。ウエストコーストでは異なる種類のボーカル・グループがフォーク時代を経て育ちつつあるように見え、フランク・ワーバーFrank Werber(キングストン・トリオThe Kingston Trioの立案者)のマネージしたウィー・ファイブWe Five が、「ユー・ワー・オン・マイ・マインドYou Were on My Mind」をヒットさせ、ママス&パパスThe Mamas and The Papasは男女二人ずつで、ロサンゼルスに移る前にバージン・アイランドのリゾートで夏に演奏を完成させ、「イブ・オブ・デストラクションEve of Destruction」で大金を手にしたダンヒル・レコードDunhill recordsと契約した。ママス&パパスはニューヨークで書いた「夢のカリフォルニアCalifornia Dreamin’」が直ぐにヒットした。1965年の最終週に、偽英国バンドのサー・ダグラス・クインテットThe Sir Douglas Quintetが麻薬の押収で捕まったが、その指揮は、麻薬局のサンアントニオ地域所長を務めていた野心家の若き法執行者のジョー・アーパイオJoe Arpaioが執った。ダグ・サームDoug Sahm、フランク・モリンFrank Morin、オージー・メイヤーAugie Meyer、そして友人のチャーリー・プリチャードCharlie Prichardは、それぞれ「死」の草が詰まったたばこの金属製の缶を所有していたのを発見された。彼らの弁護士は、彼らがしばらくの間、州を離れてトラブルにかかわらないことを提案した。4人はロサンゼルスに、ダグ・サームはサンフランシスコに行った。

ソウル・ミュージックも黄金時代に入りつつあった。スタックス・レコードStax Recordsは主流に躍り出て、アトランティックAtlantic recordsが配給し、オーティス・レディングOtis Reddingは自ら書いた「リスペクトRespect」で注目の新人となり、「お前をはなさないI Can’t Turn You Loose」を出した。「サティスファクションSatisfaction」のバージョンをリリースしたが、キース・リチャーズKeith Richardsは、たぶん信じられないといった様子で首を振っただろう。スタックスのバンドはファズ音のラインに管楽器を入れるというレディングの気持ちを察したのだ。フロリダのデュオ、サム&デイブSam and Daveも成功しそうで、年末には最初のヒット曲、「ユー・ドント・ノー・ライク・アイ・ノーYou Don’t Know Like I Know」で締めくくり、マッド・ラッドMad Ladの「ドント・ハブ・トゥ・ショップ・アラウンドDon’t Have to Shop Around」は、南部でもボーカル・グループが成功するということを示した。それどころか、このジャンルはほとんど不滅であり、ジャイブ・ファイブThe Jive Fiveは、「アイム・ア・ハッピー・マンI’m a Happy Man」で、そしてもちろんモータウン・レコードMotown recordsのテンプテーションズThe Temptationsは「マイ・ベイビーMy Baby」をヒットさせた。サウスカロライナのシンガーでアトランティックと契約したドン・コベイDon Covayは、「ハブ・マーシーHave Mercy」が初ヒットとなったが、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesのカバー・バージョンにはとてもかなわず、「シーソーSeesaw」をリリースし、復帰しようとしていた友人のリトル・リチャードLittle Richardに「アイ・ドント・ノー・ホワット・ユーブ・ガットI Don’t Know What You’ve Got (But It’s Got Me)」という素晴らしい曲を提供した。この曲は忘れられてはいるが、リチャードの飛び抜けてすばらしいゴスペル演奏と、コベイとリチャードが新たに雇った空軍を出たばかりの左利きのジェームス・マーシャル・ヘンドリックスJames Marshall Hendrixというギタリストのおかげで名曲であった。コベイはヘンドリックスがとても気に入ったので1966年の自分のセッションで数回使い、リチャードのツアーについて行かないとき、ヘンドリックスはニューヨーク市、グリニッチビレッジをぶらぶらしていた。

1965年後半のソウル・ミュージックにおける、もう一つのビッグ・ニュースは白人だった。フィル・スペクターPhil Spectorは、ウエストコーストのアーティストで、長いことヒットを出そうとしていたライチャス・ブラザースThe Righteous Brothersと短期の契約を結んだ。スペクターは1964年後半に「ふられた気持ちYou’ve Lost That Lovin’ Feeling」というナンバーワンヒット曲を書き、この年を通してさらにヒット曲をプロデュースし、最も有名な曲は「アンチェインド・メロディUnchained Melody」だった。この曲の中で、ブラザースはスペクターの壮大なアレンジにぴったりの、非常にゆっくりした演奏を行った。この2曲は白人だけでなく黒人の顧客にも同じように良く売れた。ヒューストンでは、ドン・ロビーDon Robeyがロイ・ヘッドRoy Headという常軌を逸した人間と契約したが、ヘッドの「トリート・ハー・ライトTreat Her Right」は上演したワイルド・ショーを暗示するものだった。アーカンソー州出身の鶏農家、チャーリー・リッチCharlie Richがサン・レコードSun Recordsにやってきたのは遅く、3レーベル目で、ジャズ、カントリー、R&Bを巧みにブレンドしてラジオを賑わせ、「モヘア・サムMohair Sam」は多少ヒットしたが、ほとんどの人にとってはあまりに先進的すぎだった。アトランティック・レコードAtlantic recordsはヤング・ラスカルズThe Young Rascalsに大きな賭けをし、そのメンバーのほとんどは「ペパーミント・ツイストPeppermint Twist」の時代にジョイ・ディーズ・スターライターズThe Joey Dee’s Starlitersに所属し、アトランティックが発掘して契約するまでは、昔居たニュージャージーのクラブに戻っていた。黒人の聴衆の間で流行るまでには時間がかかったが、ついに流行ったのだ。黒人の聴衆は白人ソウル・ボーカリストのミッチ・ライダーMitch Ryderを受け入れなかったが、彼は自分の一流バンド、デトロイト・ホイールズThe Detroit Wheelsと一緒に、リトル・リチャードLittle Richardの「ジェニ・ジェニJenny, Jenny」とチャック・ウィリスChuck Willisの「シー・シー・ライダーC. C. Rider」を融合させた「ジェニー・テイク・ア・ライドJenny Take a Ride!」をヒットさせた。

ソウル・ミュージックの最初の革命は法廷で行われたのだが、それは、ジェームス・ブラウンJames Brownが一方的にマーキュリー・レコードMercury Recordsに離脱し、それに対して最初に所属したキング・レコードKing recordsが異議を申し立てたからだ。噂はあらゆるところに広がり、マーキュリーが露骨にキングを買収し、キングの短気なボスのシド・ネイザンSid Nathanはプレス工場のジェム・プラスティックスGem Plasticsのボスとしてとどまった。キングの出版権をすべて所有しているロイス・ミュージックLois Musicが売却される。このようなことが実際に起こった一方で、ブラウンは若者の新バンドやいくつかの新しいアイデアを持っていた。ブラウンは、今やノース・カロライナのシャーロットにレコーディング・スタディオを所有しているアーサー・ギター・ブギ―・スミスArthur “Guitar Boogie” Smithにどういうわけか話しかけ、そこでレコーディングできるかどうかを尋ねた。スミスはできると言い、1965年2月にブラウンはバンドを連れて行って取りかかった。マイクに近づいて「ヒットだ!」と叫び、バンドは必要最小限のリズムで始め、ベースを前面に押し出した。歌詞はほんの少しで、ダンス名を列挙してギターを早くかき鳴らすことにつなげ、「パパズ・ゴット・ア・ブランド・ニュー・バッグPapa’s Got a Brand New Bag」に移る。彼らは、7分間演奏しマセオ・パーカーMaceo Parkerのサクスフォーンが長く続き、その兄弟であるドラマーのメルビンMelvinがサックスの最後をまとめ上げた。7月にキング・レコードと新規契約を結び、この大作を2分6秒にまとめて残りをB面にすると、チャートのトップに返り咲き、ポップ・チャートでもトップ10入りした。それが下降すると、5月にフロリダで制作した多少なりとも同じタイプの曲、「アイ・ガット・ユー I Got You (I Feel Good)」を引っ張り出した。どちらの曲も、他の人が演奏したようには聞こえないものだった。マイルス・デイビスMiles Davisは友人たちのために走り回って演奏した。革新的な曲だった。

 

明けて1966年になると、ヒッツビルUSA Hitsvill U.S.A.がゆっくりと息をし始めた。ヒッツビルUSAの最も驚異的な年となり、モータウンMotown recordsや関連するレーベル(タムラTamla、ソウルSoul、V.I.P)が、ナンバーワンのポップ・ヒットを5曲、トップ20のヒット曲を19曲出した。いつも名前の出るスプリームスThe Supremes、テンプテーションズ、The Temptations、ミラクルスThe Miraclesは好調だったが、いつかはやるとベリー・ゴーディBerry Gordyが考えているアーティストがまだ成功していないという問題があった。既にリトルではなくなったスティービー・ワンダーStevie Wonderが声変わりしたのだ。甲高い声は、ソウルフルな霧笛のような音に変わり、誰もが新曲の「アップタイトUptight」に注目した。しかしこの曲がチャートを上がると、モータウンMotown全体が落ち着いて仕事に戻り、1966年には会社のシングルの75%がいずれかのチャートか複数のチャートに載るという前例のない成績を収めた。1月に入ってから少し経って、「アップタイトUptight」が他ならぬスリム・ハーポSlim HarpoによってR&Bのトップの地位から落とされるとはだれも思わなかったが、ハーポは5年ぶりに全米の舞台に「ベイビー・スクラッチ・マイ・バックBaby Scratch My Back」で戻ってきて、ポップのラジオでも取り上げられた。これはちょっと変わったことで、ブルースはポップ・チャートにはほとんど登場しなかったものの、実は新たな黄金期を迎えていた。

15年かけてBBキング B.B.Kingは、苦労してモダーン・レコードModern recordsのビハリBihari兄弟から離れ、ABCレコード ABC recordsでレイ・チャールズRay Charlesと一緒になって、もっと耳に心地よいレコード作りを目指した。シカゴでは新世代が自己の存在を主張したが、ジュニア・ウェルスJunior Wellsとバディ・ガイBuddy Guyのエネルギッシュなチームがいたり、ココ・テイラーKoko Taylorが最近のハウリン・ウルフHowlin’ Wolfの曲「ワン・ダン・ドゥードゥルWang Dang Doodle」をうなって道を切り開いた。一方、ベテランのソニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamsonはロンドンに立ち寄ってアルバムを録音したが、そのバックはヤードバーズThe Yardbirdsで、彼らについてソニーは、イギリスの子たちはとてもブルースを演奏したがるが、実際に演奏するととても下手だ、と皮肉を言ったのが印象的だった。クスクス笑える。しかしブルースについて笑っていられない者もいて、老舗ブルース・レーベルのビージェイVee-Jayは、フォー・シーズンスThe Four Seasonsや、キャピトル・レコードCapitol recordsが見送った初期ビートルズThe Beatlesでポップスを出す前はソウル・ミュージックの開拓者でもあったが、深刻な問題を抱えていた。1月末までには破産に直面し、夏までにはほとんど消滅しようとしていた。

二つの新語がちょうどこの頃、言葉の仲間入りをしたが誤解されていた。最初に、キャンプcampという言葉が現れたが、これは同性愛者の中で長い間使われていた複雑な言葉で、ある特定の皮肉を意味していた。大衆文化はこれを、笑いのためにまじめなものを演奏することだと解釈し、ポップ・アートを扱うものとだとして、「バットマンBatman」の新しいテレビ番組は、ガツン、バシッ、ズバッ、という説明を格闘シーンの漫画の吹き出しに入れて、キャンプの極致になった。ニール・ヘフティNeal Heftiが作った「バットマンのテーマBatman Theme」は、ばかばかしいほど単純で、ポップ・カルチャーの一つとすぐに分かるので、「ドラグネットDragnet」や「デイビー・クロケットDavy Crockett」とともにテレビ主題歌の殿堂入りを果たした。もちろん、真似をするものはすぐに出てきて、みじめなスーパーマンSupermanのブロードウェイ・ショーやグリーン・ホーネットthe Green Hornetも登場した。もう一つの言葉はサイケデリックpsychedelicで、イギリス人心理学者のハンフリー・オズモンド博士Dr. Humphry Osmondが、60年代前半に友人のアルダス・ハクスリーAldous Huxleyと文通している中で生み出したものだ。サイケデリックは、変わったフォーク・デュオのホリー・モーダル・ラウンダーズThe Holy Modal Roundersのせいで、ハクスリーとケネディ大統領が死ぬ前日に広まった。このデュオはスタディオで自分たちのやりたいように、「ヘジテーション・ブルースHesitation Blues」をレコーディングするに際し、「サイケデリックな足がサイケデリックな靴を履き/怖いママのもとを去ってサイケデリック・ブルースに行く」という歌詞で、昔懐かしいフォークソングを上手にアレンジして演奏した。ラウンダーズが歌ってもそれには誰も注意を払わなかったが、子供たちがドラッグを使っていることにアメリカはぼんやりと気付いていたし、さらに悪いことには、それを歌っていたのだ。バーズThe Byrdsは「エイト・マイルス・ハイEight Miles High」をレコーディングしてリリースし、歌詞はハイの状態についてではなく、ロンドンまで乗る飛行機のことであり、このため、「スモール・フェイセス」と言う歌詞になったと主張した。というのは、バーズと一緒にツアーしていたスモール・フェイセスThe Small Facesというバンドは、品行正しいイギリスの数バンドの一つだったが、アメリカにはたいした印象を与えていなかったからだ。ヤードバーズThe Yardbirdsの「シェイプス・オブ・シングズShapes of Things」も麻薬と関係がありそうだったし、フーThe Whoの「サブスティテュートSubstitute」もそうだった。バーズThe Byrdsの次作は「5D(フィフス・ディメンション)」で、これも疑わしかった。ポール・リビア&レイダースPaul Revere and The Raidersはこの時、ボーカリストがマーク・リンゼイMark Lindsayで、バリー・マンとシンシア・ワイルBarry Mann and Cynthia Weilの作った曲「キックスKicks」を取り上げたが、その曲は薬の強い効果を求める少女に手遅れになる前に足を洗うことを促している。ストーンズThe Stonesは「ナインティーンス・ナーバス・ブレークダウン19the Nervous Breakdown」で薬物使用をほのめかし、1年後の「マザーズ・リトル・ヘルパーMother’s Little Helper」ではもっと具体的になった。次に来たのがボブ・ディランBob Dylanの騒々しい曲で、ナッシュビルで新しいアルバムのためのセッション中にレコーディングされ、「レイニー・デイ・ウイメン#12&35 Rainy Day Women #12 & 35」は大騒ぎした。ディランはどうやら歌詞をその場で作り、実際に腹を抱えて笑い、スタディオにいる誰もが、「みんな、酔っぱらわなけりゃ駄目だ」と叫ぶ中で、それぞれの歌詞が絶頂になった。まじめな道徳家たちはメディアに赴いて、『雨の日の女a rainy day woman』は10代のスラングで『リーファーreefer』つまりマリファナたばこだということを『誰でも』知っていると説明したが、アメリカのティーンエイジャーはこのレコードをポップ・チャートの2位に押し上げた。1か月後、ヘロイン問題を抱えていることが知られていたレイ・チャールズが、若い作家コンビのニコラス・アッシュフォードNickolas Ashfordとバレリー・シンプソンValerie Simpsonが書いた「レッツ・ゴー・ゲット・ストーンドLet’s Go Get Stoned」をレコーディングした時には、覚醒の意味だとは誰も気づかなかった。もちろん、これを買った多くの人は、アッシュフォードやシンプソン(そしてディーン・マーチンDean Martinやフランク・シナトラFrank Sinatra)の意味する言葉は、少し飲みすぎくらいに思っていた。

ディランとしてはこんなことは超越していた。ナッシュビル・セッションでは、ボブ・ジョンストンBob Johnstonがプロデューサーとしてまだ組んでたくさんの曲を残し、4月半ばにオーストラリアとニュージーランドで始まり、月末にはほとんどがイギリスで連日となるヨーロッパに向かう過酷なツアーに出かけた。ディランと組んでいたのが、しばらくロニー・ホーキンスRonnie Hawkinsのバックを務めて一緒にいたバンドのホークスThe Hawksであり、アーカンソー州出身の狂人で、ロカビリーから出発し常軌を逸したロックンロールに突き進んだ。ドラマーのレボン・ヘルムLevon Helmはただ一人アメリカ出身のバンド・メンバーで、残りはホーキンスがカナダで選んだ。ディランによるバンド結成の申し出をマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldが断った後、ディランはホークスを奪い、リード・ギタリストのジェイム・ロビー・ロバートソンJaime “Robbie” Robertsonはナッシュビル・セッションで加わった。ヘルムはこのツアーに加わらないと決めたので、ディランはヒューストンのドラマーであるミッキー・ジョーンズMickey Jonesを迎え入れて、ディランの頭の中にあった映画「イート・ザ・ドキュメントEat the Document」撮影隊とともに出発した。映画が上映されることは無かったが、ツアーは忠実に録音され、7月にその一部が流出し始めた時、ディランのニュー・シングル「アイ・ウォントゥ・ユーI Want You」は、B面がダブリン時代の「ジャスト・ライク・トム・サムズ・ブルースJust Like Tom Thumb’s Blues」の完全に輝くようなライブ・バージョンだった。それは6分以上の長さだったのでラジオにはかからず、コレクターの間でやり取りされた。すぐに、このバンドによるコンサート全体が、高品質の密造アルバムに現れた。(ディランは、自分のレーベルが「ザ・ブートレッグ・シリーズThe Bootleg Series」として、本物の密造品のリリースを開始するまで、ずっと非正規版で損害を受け続けた。)アルバムのタイトルは「ディラン・ライブ・アット・ザ・アルバート・ホールDylan Live at the Albert Hall」で、マンチェスター・フリー・トレード・ホールthe Manchester Free Trade Hallにおける 5月17日のショーで、観客が興奮し、エレキの曲にブーイングしたり喝采したりしていることが分かり、「バラッド・オブ・ア・シン・マンBallad of a Thin Man」と、ショーを締めくくる「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」の間の中断に、一人のファンが裏切者だとして「ユダ」と叫んだが、そのファンは後にキース・バトラーKeith Butlerだと分かった。ディランは一瞬びっくりして、観客には決して話しかけないアーティストだが、「お前を信じない。おまえこそ嘘つきだ」と返し、それからバンドに向かって「とてつもなく大きな音を出せ」と言った。バンドはそれに従った。引き続き2日間ロンドンのアルバート・ホールthe Albert Hallで演奏し、その後、ディランと新妻のサラ・ローンデスSarah Lowndesは元気を回復しようとスペインに飛んだ。それから『小説』タランチュラTarantulaの出版のためにニューヨークに戻り、6月初め、ニューヨーク州北部ウッドストックのアッパー・バードクリフ地区にあるキャメロット・ロードの新居に引きこもって楽しんだ。この本は、それまでアルバムのライナー・ノーツに載った抽象的でまとまりのないものをまとめ、あまりパッとしないものを除いた非常に薄い本だ。

 

この曲がラジオでかかりチャートに載っていた期間の長さから判断すれば、全国の他の場所では、夢のカリフォルニアが流行っていたのかもしれないが、そこで何かが起こっていたのは間違いない。必ずしも良いことばかりではなく、4月、ジャン&ディーンJan and Deanのジャン・ベリーJan Berryがサンセット大通りの悪名高い場所をドライブしていると、スピンして制御不能となり、停車していたトラックに猛スピードでぶつかった。ベリーは頭にひどい障害を負い、正常機能を取り戻すには何年もの治療が必要となった。しかしレコード会社は、ロサンゼルスで何かが起こっていることについに気づき、5月になるとエレクトラ・レコードElektra recordsはエレキ音楽への第一歩を踏み出した。バーズThe Byrdsは、バンド結成前にビーフイーターズThe Beefeatersと一緒になるチャンスを逃したので、アーサー・リーArthur Leeという男が代表の多民族バンドと契約した。リーは友人のジョニー・エコルスJohnny Echolsと一緒にサーフィンのレコードを2枚出したが、リーとエコルスの二人とも黒人でカリフォルニア州ワッツ市出身だという点だけが異色だった。リーは、ロサンゼルスに新たに出現したサンセット通りでよく演奏するバーズに心を奪われた。シロスCiro’sというサンセット大通りのナイトクラブでバーズByrdsがライブをした後、ツアー器材スタッフの一人、ブライアン・マクリーンBryan MacLeanに話しかけたが、マクリーンは過去にバーズのオーディションを受けたものの参加を認められなかった。二人はバンドを思い描き、エコルスとリズム・セクションを仲間に入れて練習を開始した。あっという間に、ラブLoveという名前で、クラブで演奏をしていた。リー、エコルス、マクリーンは全員、曲を書き歌ったが、エレクトラ・レコードはリスクを回避するために、ディオンヌ・ワーウィックDionne Warwickの一連のヒット曲を手掛けたチーム、バート・バカラックBurt Bacharachとハル・デビッドHal Davidに書かせた「マイ・リトル・レッド・ブックMy Little Red Book」をラブの最初のシングルとして発売した。ラブはサンセット大通りにあるクラブに群がって踊る人達(クラブからクラブへずっと踊るビトーVitoという年配の不気味な男の後を追う集団等)のためにライブ演奏し、この地区の他の多くのバンドと同様に「ヘイ・ジョーHey Joe」という曲を演奏したが、これはガールフレンドを殺してしまう嫉妬深い男の話で、書いたのはディノ・バレンティDino Valentiという名前を時々使う不愛想な作家のチェスター・パワーズChester Powersだ。

ダンスする人達に人気のあるもう一つの集団は、カリフォルニア州ランカスターの高地砂漠出身で背の高いひょろっとしたイタリア系の男が率いる緩やかな集まりで、その男のポップ・アート名はフランク・ザッパFrank Zappaと言い、大通りの別のたまり場であるユニコーンというコーヒーハウスthe Unicorn coffeehouseのオーナーであるハーブ・コーヘンHerb Cohen傘下にいた。在学中にザッパともう一人のはみ出し者のドン・バン・ブリートDon Van Vlietは、一緒に演奏をし始め、ザッパはすぐに次々とブルース・バンドを作ったが、人種差別を全くしなかった。ザッパは、軍隊で電気を学んだポール・バフPaul Buffの経営する、クカモンガにあるレコーディング・スタディオに出入りし、たちまち熱心に観察してマルチトラッキング(アンサンブルで同時に演奏するのではなく、音楽の層を重ねることによってレコーディングすること)とマイクロフォンの位置決めを学んだ。結局バフBuffからスタディオを買い取り、スタディオZ Studio Zと名付けた。すぐに問題が発生した。地域の保安官事務所はこのスタディオをポルノ映画の隠れみのだと判断し、仮にわいせつな映画でないにしても、少なくともわいせつな録音テープ制作のためのマルチトラッキングについてザッパと話すために、覆面捜査官を送り込んだ。ザッパと当時のガールフレンドのロレイン・ベルチャーLorraine Belcherは、きしむベッド・スプリングのようなノイズを録音し、それを取りに男が現れた時に、約束した300ドルのうち50ドルしか持っていなかった。ザッパは動きを止めて状況を理解したが、すぐに「ポルノ素材制作の共謀と性倒錯の疑い」で起訴された。その後裁判が行われ、ザッパは6か月の刑期のうち10日間服役した。この経験によって決して元に戻らないスイッチが心の中で入ったのだが、それは苦しんでいる間、ほとんどすべてのことに反対しているということだった。ロサンゼルスに移り、そこですぐにミューサーズThe Muthersというバンドを引き継いで、音楽仲間と拡張した後、マザースThe Mothersに改名し、コーヘンCohenの力を借りてサンセット大通りthe Sunset Stripで仕事を始めると、すぐにレコード契約を探し始めた。ある日ザッパは、ボブ・ディランの元プロデューサーであるトム・ウィルソンTom Wilsonがコロンビア州を出てMGMレコード MGM Recordsで仕事を始め、ロサンゼルスに出てきてアニマルズThe Animalsと一緒にいると聞いた。ザッパはウィルソンがクラブにいるのを見つけ、すかさずマザースのコンサートに連れて行ったところ、ウィルソンは熱狂した。すぐにニューヨークに連絡した。上司たちは、自分たちの望んでいるものかどうか確信が持てなかったけれど、ウィルソンは、バンド名は変わっているが、マザースはブルース・バンドだというしらじらしいウソをついたので、上司たちは承諾した。この結果、今やマザース・オブ・インベンションThe Mothers of Inventionというバンドによるダブル・アルバム、「フリーク・アウト!Freak Out!」で7月にデビューした。タイトル名(興奮するための麻薬の一般的スラング)にもかかわらず、ザッパは他の多くの物にも反対していたのと同様に、厳格な反ドラッグ派だ。

ウィルソンは、1966年春にロサンゼルスで別のバンドもプロデュースしていた。ウォーロックスThe Warlocksという別のバンドがいて、レコード契約をしていたということを、ジェリー・ガルシアJerry Garciaと友人たちはちゃんと聞いていた。そのマネジャーはバンド名が気に入らなかったのだが、まず、そのマネジャーがいたからこそMGMが契約したのであり、そのマネジャーとはミスター・ポップ・アートMr. Pop Artであるアンディー・ウォーホールAndy Warholその人だった。ウォーホールはこの変わり種集団を雇ったが、その中にはロングアイランドの儲け第一主義レコード会社の契約作家、ウェールズ出身のレナード・バーンスタイン若手作曲賞受賞者Leonard Bernstein Young Composers Award、ニューヨーク州ロチェスター出身のイギリス文学専攻学生、マルチメディアの派手なショーの中でドラムを演奏するために誰かの妹がいた。この派手なショーは、ウォーホールの慢性的財源不足の派手なショーとして有名な、エキスプローディング・プラスチック・イネビタブルthe Exploding Plastic Inevitableであり、このショーの中でライブ演奏するバンド、映像、ダンサーは『感覚過負荷』を引き起こした。その時までに、バンドはベルベット・アンダーグラウンドthe Velvet Undergroundと改名したが、これはマイケル・レイという人(本物の医師であると序文に書き正当化している!)による自堕落なペーパーバックにちなんでいて、郊外で夫婦交換やセックス・パートナー交換を暴露している。ウォーホールは、ミュージシャンが誰一人、本物のスターとしての魅力を持っていないと考え、自分のサークルの一人で、イギリスにおいてシングルを2枚作りフェデリコ・フェリーニFederico Felliniの映画「ラ・ドルチェ・ビータLa Dolce Vita」の中で通行人役をしていたモデルを、フロントにした。ケルンのビール醸造者の名家に生まれたクリスタ・ペーフゲンChrista PaffgenはニコNicoと名乗るようになった。マザースThe Mothersのために使ったのと同じスタディオで、ウィルソンは1966年4月、ある程度の時間をかけてベルベット・アンダーグラウンドのレコーディングを行った。MGMレコード MGM recordsは7月に「オール・トゥモローズ・パーティーズAll Tomorrow’s Parties」というシングルをリリースし、その中で、ニコが単調に呪文を唱え、その後、「ウェイティング・フォー・ザ・マンWaiting for the Man」、「ヘロインHeroin」、そして8分近いノイズだらけの「ヨーロピアン・サンEuropean Son」など他のテープも多分気になっていたが、翌年3月までアルバムはお蔵入りだった。シングルがヒットしたわけでもないのに、である。

そして、カリフォルニアの太陽のようなイメージを持った、ザッパ以外のカリフォルニアの人間はどうなのだろうか?1966年初め、ブライアン・ウィルソンBrian Wilsonの「キャロライン・ノーCaroline, No」とそのB面「サマー・ミーンズ・ニュー・ラブSummer Means New Love」はビルボード誌Billboardで取り上げられたが、2度と記事になることは無かった。代わりに、ビーチ・ボーイズの新しいシングルの「スループ・ジョンB Sloop John B」は、3月に発売されチャートを上昇した。バハマで生まれたこの曲は、フーテナニー・バンドの陽気な定番曲で、スローでバロック風のアレンジを施し、本来のもの悲しさを強調した。その後、5月になってこの曲はビーチ・ボーイズThe Beach Boysの最新アルバム、「ペット・サウンドPet Sounds」に現れた。この曲は、同時にリリースされたシングルの「素敵じゃないかWouldn’t It Be Nice」と同じように、何か全く違うものだった。フィル・スペクターPhil Spectorは、壮大な「ユーブ・ロスト・ザット・ラビン・フィーリンYou’ve Lost That Lovin’ Feeling」を追い求めて、方向を失い、もがき苦しんでいたが、それを目の当たりにしたブライアン・ウィルソンはスペクターがやたら気になっていた。また、ますます複雑化するビートルズにもひきつけられ、そちらも気になっていた。ウィルソンはLSDを摂り始め、それどころか、ビーチ・ボーイズThe Beach Boysの最も象徴的な曲の「カリフォルニア・ガールズCalifornia Girls」は最初の幻覚体験から戻った時に書いた曲であり、神から直接届いたと感じたメロディだった。1966年に他のバンド・メンバーがツアーに行っている間、ブライアンはいつも通り他のミュージシャンに代わってもらい、トニー・アシャーTony Asherという作詞家と組んで、「スループ・ジョンB Sloop John B」以外のアルバムの曲を一緒に書いた。ブライアンが、フィル・スペクターPhil Spectorのバック・ミュージシャン(後にレッキング・クルーThe Wrecking Crewとして知られるようになった)とスタディオ(ゴールド・スターGold Star)を使ってオーケストラを編成している間に、バンドの残りのメンバーがツアーから戻って、自分たちのパートを録音するために加わった。マイク・ラブMike Loveはこのニュー・アルバムが気に入らず、「ブライアンはおきて破りをした」とまで言い放し、キャピトル・レコードCapitol recordsもほぼ同時に「ベスト・オブ・ザ・ビーチ・ボーイズBest of the Beach Boys」をリリースすることで、この作品を潰しかけた。しかし、ペット・サウンドPet Soundsはファンにそこそこ売れ、今までファンで無かった人たちにもある程度売れるとともに、ポール・マッカートニーPaul McCartneyの気持ちを大いにかき乱し、ロックンロールのせめぎあいが始まっていると受け止めたのはうなずける。大オーケストラを引き連れてアルバムの曲のツアーをすることはできなかったので、ブライアンはスタディオに居残って、ライブで演奏できるよう別の曲「グッド・バイブレーションズGood Vibrations」に取り組んだ。これが幕開けとなって大きなことが起きた。

ブライアンが間違いなく認識したのはフィル・スペクターの没落だ。どんどん奇妙な行動をとるようになり、自分の大邸宅にガールフレンド、つまり、ロネッツThe Ronettesのリード・シンガー、ベロニカVeronicaと一緒に、囚人同然で閉じこもっていた。ライチャス・ブラザースThe Righteous Brothersは、ロネッツThe RonettesやクリスタルズThe Crystalsとは違って、彼の所有物ではなく、他のレーベルが契約を申し込んでいる間はレコードをリリースし続けた。スペクターはレニー・ブルースLenny Bruce、フランク・ザッパFrank Zappaなどの風変わりな連中と一緒に、ロサンゼルスのカンターズ・デリカテッセンCanter’s Delicatessenのテーブルで一緒に過ごし、そこでの議論の話題はいたるところに広がった。それは新たな世界だったが、チャートに戻るときが来た!チャートに戻るために変わった方法をとった。その頃、彼らは誰のためのレコーディングもしていなかったので、アイク・&ティナ・ターナーIke and Tina Turnerを捕まえ、エリー・グリニッチ&ジェフ・バリーEllie Greenwich and Jeff Barryと一緒に書いた曲を渡して、もしこれが上手くいかなかったら、永遠に音楽ビジネスを辞めると世間に公表したのだ。これから生まれた45回転シングル盤の「リバー・ディープ-マウンテン・ハイRiver Deep-Mountain High」は彼の公表通りどこもかしこもおおげさであり、ティナは、しれっとしておかしな歌詞を口パクで歌い、アイクは相変わらず姿を見せず、アレンジは明確にワーグナー風だった。4週間後の5月には88位になったものの、イギリスを除いて姿を消したが、イギリスではよく売れた。スペクターはまるっきり消え失せたのでなく、自身のレーベルであるフィレス・レコードPhilles Recordsからさらに数枚のシングルを出したが、他の人がプロデュースしたものだった。8月には、ビルボード誌Billboardの半分を使って、アルバム「レニー・ブルースが死んだ。警察の過剰摂取で死んだのだ。LENNY BRUCE IS DEAD.He died of an overdose of police.」の宣伝をした。ブルースは、演奏の一部である『下品な』言葉で逮捕された後、審判手続きの読み上げなど、自分にとって都合の悪い行為の朗読へと移っていった。スペクターはこれら最近のショーの一つをレコーディングしてリリースしたが、ブルースが過剰摂取したのはヘロインだった。警察の嫌がらせはブルースの死を後押ししたのだった。

ペット・サウンズPet Soundsは、1966年夏の幕を切って落とした。レッド・ドッグThe Red Dogは、再びビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brother and The Holding Companyをハウス・バンドにして開店した。ファミリー・ドッグThe Family Dog とビル・グラハム・プレゼントBill Graham Presentsは両方とも毎週ダンス・コンサートを催して、テキサス州のサーティーンス・フロアー・エレベーターズ13th Floor Elevators(熱狂的な「ユア・ゴナ・ミス・ミーYou’re Gonna Miss Me」で少しヒットした)やシアトルのデイリー・フラッシュDaily Flash(マリファナ「アカプルコ・ゴールドAcapulco Gold」のコマーシャルでヒットがある)など、町の外の風変わりなミュージシャンだけでなく、地元の才能ある者たちも開花させた。二人の興行主のために、初代のドッグ・アルトン・ケリーDog Alton Kelley、そのスタディオ・パートナーでホット・ロッド雑誌の世界に現れたデトロイト出身のスタンレー・マウスStanley Mouse、元サーフィン漫画家のウェス・ウィルソンWes Wilson、サンフランシスコ美術学校講師のビクター・モスコソVictor Moscoso等が描いた、驚くほど素晴らしいポスターの力もあって、サンフランシスコの音楽天国のうわさは広まり始めた。

ボー・ブラメルズThe Beau Brummelsは、ワーナー・ブラザースWarner Bros.と契約をしてディランの曲をレコーディングしたが、その次に、スタディオに入ったのはジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneで、RCAレコード RCA recordsと契約をしてシングル「カム・アップ・ザ・イヤーズCome Up the Years」を6月にリリースした。この曲はサンフランシスコなどいくつかのマーケットで演奏され、それに続いて秋にはアルバム「ジェファーソン・エアプレイン・テイクス・オフJefferson Airplane Takes Off」が出た。このアルバムのために巡業公演を行うのは、リード・シンガーのシグネ・トリー・アンダーソンSigne Toly Andersonが新婚で第一子を妊娠していたので問題があった。彼女がこのバンド(すでにドラマーのスキップ・スペンスSkip Spenceはスペンサー・ドライデンSpencer Drydenと交代していた)に出演した最後のステージは、10月15日フィルモアだった。翌日、エアプレーンThe Airplaneの新しい顔ぶれには、新しいリード・ボーカリストとして、夫のバンドから逃げてきたグレース・スリックGrace Slickがいた。他のバンドは地元で人気があっても、誰も急いで契約しなかった。

とにかく世間には流行する良い音楽が十分に出回っていた。ラビン・スプーンフルThe Lovin’ Spoonfulは、素晴らしい曲を発表し、「ディドゥ・ユー・エバー・ハブ・トゥ・メイク・アップ・ユアー・マインドDid You Ever Have to Make Up Your Mind」は夏に大ヒットした一方で、LA出身のタートルズThe Turtlesはスプーンフルズの「ヤンガー・ガールYounger Girl」からヒット曲を作ろうとしたが、実際にはしなかった。ロサンゼルス出身の緩やかな集団であるアソシエーションThe Associationによる最新の曲は、麻薬に関する噂があって、このグループの「アロング・カムズ・マリーAlong Comes Mary」は確かに十分楽しい曲だった。ビートルズThe Beatlesは「ペーパーバック・ライターPaperback Writer」と「レインRain」をリリースしたが、このうち「レイン」には、ジョン・レノンJohn Lennonの憑りつかれた薬物による幻覚体験が、バックのテープのサウンドに入っていた。もう少し単純なもの、あるいは、はるかに単純なものとしては、チップ・テイラーChip Taylorというカントリーのソングライターがニューヨークにあるディスコのハウス・バンドのために書いた曲、「ワイルド・シングWild Thing」をトロッグスThe Troggsが取り上げたが、昔の「ルイ・ルイLouie Louie」のコードがその中に生きづいていた。もっとスムースなサウンドはレフト・バンクThe Left Bankeのおかげで生まれ、その「ウォーク・アウェイ・ルネWalk Away Renee」はとてつもなくメロディアスで、新たにエピック・レコードEpic recordsと契約し、バロック・ロックのトレンドを継続しているドノバンDonovanが「サンシャイン・スーパーマンSunshine Superman」を提供した。この曲は元スキッフル・スターのミッキー・モストMickie Mostがプロデュースし、ヤードバーズのメンバーであり、筋金入りのスタディオ・ミュージシャン、ジミー・ページJimmy Pageのギターによる。スプーンフルが、夏をテーマにした曲「サマー・イン・ザ・シティSummer in the City」を携えて登場したが、本当にいかしてた。特にいかしてたのは、このような曲が収録されたアルバムが何枚も出て、そのうち、ボブ・ディランBob Dylanのニュー・アルバムは、「ブロンド・オン・ブロンドBlonde on Blonde」という謎のタイトルの2枚組で、ほとんどがエレキだった。マザースThe Mothersの「フリーク・アウトFreak Out!」も2枚組だったがディランのものほどは売れなかった。ビートルズが最新ツアーを始めると、アルバム「リボルバーRevolver」が発売になり、なんと、サイケデリックだった。文字通りそうだった。マッカートニーMcCartneyは、お決まりのストリング入りバラード(「エリノア・リグビーEleanor Rigby」)のほか、たくさんの新しいサウンドを入れ、ギターを巧みに操った「タックスマンTaxman」で始まり、元気いっぱいの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフGot to Get You into My life」、ジョージGeorgeがインドの影響を受けた「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユーI Want to Tell You」、そして最後のトラック「トゥモロー・ネバー・ノウズTomorrow Never Knows」は、ザ・サイケデリック・エクスペリエンスThe Psychedelic Experienceという書籍から直接引用した曲だった。この書籍は、LSD(あるいは一人の人間から見たLSDというもの)の使用方法マニュアルで、元ハーバードLSD実験者で今はLSD使用のショービズにおける教祖的存在になったティモシー・レアリー博士Dr. Timothy Learyによるものだ。

キャピトル・レコードCapitol recordsは、アメリカで発売されたビートルズThe Beatlesのアルバムから、今までずっと曲数を減らしてきたので、「リボルバーRevolver」は、『本物』のアルバムだ。イギリスとアメリカでは印税の仕組みが異なっているので、イギリスのアルバムはアメリカより収録曲数が多いのが一般的だ。このことはビートルズだけでなく、ストーンズThe Stones、キンクス The Kinks、フー The Whoなどのグループにも当てはまった。アメリカのレーベルは、曲数を減らしたバージョンを発売し、アルバムに入れなかったシングルやEP版でリリースした楽曲を集めて、アンソロジー・アルバムとしてリリースするのだ。キャピトルは6月の最新英国版ビートルズ作品の巻き返しを図るために、「イエスタデー・アンド・トゥデーYesterday & Today」というアルバムを出して論争を引き起こしたのだが、そのジャケットには、食肉処理者の血の飛び散った作業服を着た頭がもじゃもじゃの憎めない人と、いくつかの生肉、ばらばらになった赤ん坊の人形が一緒に写っていた。ぞっとしたキャピトル・レコードは代わりのジャケットを試しにレコードへ糊付けして販売しようとしたが、色の濃いオリジナルのカバーが透けて見えたので25万枚のカバーを回収して処分した。くそっ、と思ったのはビートルズだ。コストはビートルズの利益にかけられ、払うことができたのだった。もっと厄介な事件は、リボルバーのリリースと新ツアーの直前に、ジョン・レノンJohn Lennonがロンドン・イブニング・スタンダードthe London Evening Standard向けに、記事を書いていたモーリン・クリーブMaureen Cleaveにペラペラしゃべったことだ。「僕らは今、キリストより有名だ。どちらが先に廃れるか分からない。ロックンロールかキリスト教か」と彼女に話した。この発言は、イギリスではちょっとポップなスターの誇張だとしてほとんど気付かれなかったが、アメリカでは全土に広がって非難や教会における反ビートルズの説教を引き起こし、アラバマ州とテキサス州ではビートルズのレコードが焼却された。しかし、8月13日にテキサス州ロングビューでラジオ局KLUEがスポンサーとなった焼却は、神のお気に召さなかったかもしれず、KLUEの塔が翌日落雷を受けて送信できなくなった。ビートルズ・ツアー出発地のシカゴに着いたとき記者会見を行い、浮かないジョンは発言を撤回しようとしたが、全米中をついて回った。ローマ法王さえビートルズを非難し、ワシントンDCでク・クラックス・クランthe Ku Klux Klanは脅しただけでなく、正装でピケを張った。ビルボード誌Billboardの9月3日号は、かなり人の不幸を露骨に喜ぶトーンでツアー開始の記事を書き、ニューヨークのシェイ・スタディアムShea Stadiumでは55,000人収容できる場所なのに45,000人しか入らなかった。ビルボード誌は、ビートルズの人気が落ちてきたと述べた。

7月、エレクトラ・レコードElektra recordsは「ワッツ・シェイキンWhat’s Shakin’」というアルバムをリリースし、ラビン・スプーンフルThe Lovin’ Spoonful、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Band、アル・クーパーAl Kooper、エリック・クラプトン&パワーハウスEric Clapton and The Powerhouseという4グループをフィーチャーした。パワーハウスはジャック・ブルースJack Bruce、ポール・ジョーンズPaul Jones、ピーター・ヨークPeter York、スティービー・ウィンウッドStevie Winwoodから成り、ウィンウッドはほんの15才で、「キープ・オン・ラニングKeep On Running」で小ヒットを出したスペンサー・デイビス・グループThe Spencer Davis Groupからの借りものだった。バターフィールド(ニューポート以前の最初のセッションの曲)とクラプトンの録音との間には、ある傾向が生まれていて、それは名人のリード・ギタリストがいる白人ブルース・バンドが台頭したことで、今までの現代音楽にはなかったものだった。ブルームフィールド&ビショップBloomfield and Bishop、そして元ヤードバードYardbirdで現在ブルースブレーカーBluesbreakerにいるエリック・クラプトンEric Claptonは、グループから離れてソロで演奏する場合は複雑だが親しみやすい演奏をした。それからバターフィールド・バンドThe Butterfield Bandは2枚目のアルバム「イーストウェストEast-West」をリリースしたが、これは挑戦的だった。このアルバムは普通のシカゴ・ブルースをフィーチャーしているが、その中心的存在は両面の長い2曲、タイトル曲とキャノンボール・アダリーCannonball Adderleyの「ワーク・ソングWork Song」バージョンで、バンドの誰もが長々とソロを演奏できる余裕があった。彼らは確かにそれに応えていた。「イーストウェストEast-West」という曲は、ニック・グラブナイツNick Gravenites(ほとんどボーカリストとして演奏した)の曲「イッツ・アバウト・タイムIt’s About Time」がもとになっているので彼のクレジットとなっているが、その出来栄えはブルームフィールドとビショップが手法とインド音楽に関して発見したことにかかっていて、ジョージ・ハリソンGeorge Harrisonやほかのイギリス人ミュージシャンが、料理ではなく味付けとして扱っていたのに比べて、はるかに深く理解していた。そして突破口はこの年明けに、二人のギタリストが一緒にLSDを摂った時に起こった。クラプトンClaptonに関しては新しいものを探していたが、筋金入りのブルースに根差し、これまた新しいものを探していたドラマー、ジンジャー・ベイカーGinger Bakerの影響を受けて、マンフレッド・マンのベーシストであるジャック・ブルースJack Bruceを加えてバンドを結成した。彼らはロンドンのブルース・シーンにおける選び抜かれた精鋭たち、すなわちクリームだったので、それを英語で表して自分たちをクリームCreamと呼んだ。彼らは練習を始めると、ロンドンの壁に『クラプトンは神だ』という落書きがされるようになった。

これとは逆に、夏の終わり、モンキーズThe Monkeesのじらし広告がビルボード誌Billboardに載り始めた。これは、プロデューサー、ドン・カーシュナーDon Kirshnerの次の大勝利だった。カーシュナーKirshnerとパートナーのアル・ネビンスAl Nevinsは自分たちの会社であるアルドン・ミュージックAldon Musicを、1963年にコロムビア・ピクチャーズColumbia Picturesへ一連の十代作家と一緒に売却し、今やカーシュナーはコロムビアの出版会社、スクリーン・ジェムズ・コロムビアScreen Gems-Columbiaを通じて映画やテレビに参入することができるようになった。バーズThe Byrds、ポール・リビア&レイダースPaul Reverer and The Raiders、アニマルズThe Animalsのような新グループのためにヒット曲を書くティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyのソングライター達と一緒にいたカーシュナーは、ビートルズThe Beatlesの映画が成功しているのだから、毎週テレビ番組を持ち、それに出演する作り上げられたグループは、ソングライターの作った曲を完璧に演奏するだろうと考えた。そこで、1965年にザ・ハリウッド・レポーターThe Hollywood Reporterデイリー・バライアティーDaily Varietyに「テレビ・シリーズで演技する配役のためのフォーク・アンド・ロールのミュージシャン・シンガーFolk & Roll Musicians-Singersを求む。17-21歳のばかげた少年たちの役。元気なベン・フランクBen Frankのレストラン(サンセット・ストリップSunset Stripのたまり場)に似合うタイプ。勇気を持って働いてくれ。面接に来たれ」という求人広告を出した。もちろんハリウッドには有望な候補者がたくさんいて437人が現れ、4人が選ばれた。ブロードウェイのオリバーOliver!のスターで、ビートルズがデビューしたのと同じ日にエド・サリバン・ショーEd Sullivan’s showに出演したデイビー・ジョーンズDavy Jones、マイケル・ブレッシングMichael Blessingという名前を使って町中で演奏していたテキサス人のマイケル・ネスミスMichael Nesmith、ショービジネス一家出身のミッキー・ドレンツMicky Dolenz、ニューヨーク出身のフォーク歌手だがハリウッドに流れ着いたピーター・トークPeter Torkだった。彼らは番組撮影や渡された歌の練習で忙しくなったが、カーシュナーは、バンドを一から育てれば、そのイメージをコントロールできるし、テレビで初披露すれば毎週待った視聴者を確保できるので、まさに黄金期と考えた。また、ビートルズに間に合わず、周りのサイケデリックな騒音で混乱している若いティーンエイジャーにとっては、きちんとしているが変わった子たちが、実績のある職人の作った曲を演奏していると受け止めた。番組は1966年9月12日に放映を始めたところ、すぐにヒットした。モンキーズの初シングル「恋の終列車Last Train to Clarksvill」はすごい勢いでナンバーワンに上り詰め、数週間後に発売されたアルバムも同じように上昇した。

「プレハブの4人組」に関する派手な宣伝や雑音がある中で、トミー・ボイスTommy Boyceとボビー・ハートBobby Hartが書きプロデュースした「恋の終列車」は、もう一晩ガールフレンドと一緒にいたいという男が「必ず帰ってくる」かどうか分からないので、反戦歌だと捉えることもできるとは誰も気づかなかったようだ。若者たちが新しい考えを取り入れ、創造的なエネルギーを作り上げたが、暗さも不気味に現れていた。アメリカはベトナムへの軍事的関与を強め、若者が18歳になると徴兵の有資格者となり、たぶん戦闘のために送り込まれ、ひょっとしたら死ぬかもしれない。ロビン・クックRobin Cookは小説ザ・グリーン・ベレーThe Green Beretsを書いたが、そのような状況においても任務を熱心に遂行する内容なのだが、奇妙なことに、RCAレコードはそれに基づいた曲をリリースする決定をし、クックと、本物のグリーン・ベレーで重傷を負って退役したバリー・サドラー軍曹Staff Sergeant Barry Sadlerの共作だった。RCAはこのレコードの広告を打ちまくり、1966年初めにチャートのトップになったので、戦争を支持する曲をたくさん誘発したが、大部分はカントリーの演奏者によるもので、実際の戦闘を見た者はおらず、たいしてヒットしなかった。バフィー・セントマリーBuffy Sainte-Mrieの「ユニバーサル・ソルジャーUniversal Soldier」のように漠然としたものでない限り、反戦歌もあまり放送されなかった。それどころか状況はまだのんきで、リンゴRingoがイエロー・サブマリンの中の生活を歌ったり、キンクスThe Kinksが「サニー・アフターヌーンSunny Afternoon」でおいしい紅茶を飲んでいると災難に直面したりした。

そしてモンキーズThe Monkeesについて文句を言う人もいたが、彼らは単にヒット曲を工場で生産していることを率直に認めていただけだった。モータウン・レコードMotown recordsはしばらくそれを実践していて、1966年に実際にその効果が現れた。その理由は、留まるところを知らない作家・プロダクションチームになった3人の若者のおかげであり(そのうちの一人は何年か前に歌手として多少のヒットを数曲出し)、エディ・ホランドEddie Holland、ブライアン・ホランドBrian Holland、ラモント・ドジャーLamont Dozier、まとめてホランド・ドジャー・ホランド、略してHDHがこの年の信じがたい連続ヒットの陰にいた。彼らだけがすべてではなく、スモーキー・ロビンソンSmokey RobinsonもテンプテーションズThe Temptationsと一緒に高みを目指し、1965年の2枚のアルバム、「ザ・テンプテーションズ・シング・スモーキーThe Temptations Sing Smokey」と「テンプティン・テンプテーションズTemptin’ Temptations」にロビンソンが書いた曲を入れてヒットさせた。しかし、かつての「ヒットのないスプリームスno-hit Supremes」に責任があるのはHDHであり、ついにはヒットに次ぐヒットを出した。HDHはジュニア・ウォーカーズ&オール・スターズ Jr. Walker &The All Starsが、1965年の変わったインストゥルメンタル・ヒット「ショットガンShotgun」に続く曲がパッとしなかった後、「ロード・ランナー(I’m a )Road Runner」を書いて、復帰の道を探す手助けをした。そして特に、フォー・トップスThe Four Tops(モータウンと契約する前は中西部のサパー・クラブをずっと巡業していた)を指導して個性を発見させ、ボーカリストのレビ・スタッブスLevi Stubbsを前面に出し、1964年の「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラビングBaby I Need Your Loving」を書いたのを皮切りに、1965年に入ると「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフI Can’t Help Myself」、「イッツ・ザ・セーム・オールド・ソングIt’s the Same Old Song」を出し、そして、モータウン史上最も革命的な曲「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼアReach Out I’ll Be There」で頂点に達した。この曲にフォー・トップスは最初当惑し、スモーキー・ロビンソンSmokey Robinsonは気に入らず、発売したくなかった。しかし、ベリー・ゴーディBerry Gordyには何かが聞こえ、それは、オーボエ、誰かが置いたアラビアの太鼓、詩の部分でシャウトするディラン風のボーカルだ。「アイル・ビー・ゼアI’ll Be There 」のフレーズは、ディランの歌い方を聴いたのがきっかけだった」とラモント・ドジャーは認めた。「彼ならそんな歌い方をするだろうし・・・そこでフレーズを伸ばすだろう。そこが好きなんだ。」曲が進むと「ちょっと、後ろを振り返って!」とスタッブスStubbsは叫び、その瞬間、偉大なモータウン・レコードMotown recordsがさらに偉大になった。それは危険なことだが、現実のソウル・ミュージックに近づくように方向転換し、そうなることをゴーディは避けようとしたけれど、ロビンソンが反対したときに「これは・・・そこらへんにあるものとは違うんだ」と言った。確かにそうだった。

しかしディランのコメントは聞けなかった。それどころか、居場所も分からない。ディランの影響は突然いたるところに現れ、若いソングライター達は遠慮せずに、抽象的、文学的、個人的な詩を書き、そこに意味があったとしても自分にしかわからないものだった。ディランは、ジョーン・バエズJoan Baezと一緒にどこかのフェスティバルに出演すると発表されたが、現れなかった。春にツアーが終わると、ウッドストックに戻り、どうやら消えてしまったようだ。夏の間、ディランは死んだとか、少なくとも自動車事故で大けがを負ったという噂が広まった。朗報は、死んでいなかったということだ。しかし、健康状態はとても良いとは言えなかった。マネジャーのアルバート・グロスマンAlbert Grossmanは秋のツアーを望み、マクミラン出版社Macmillan Publishersは彼の著書、タランチュラTarantulaの販売促進をさせたかったし、ABC放送は前回ツアーのテレビ番組を放送したかった。

ディランが後にロック・ジャーナリストのベン・フォングトーレスBen Fong-Torresに語ったところによると、ある晩ウッドストックで、空を見上げると、「何かが変わらなければいけない」と言う声が頭の中で聞こえた。それは事実となった。7月29日午後、ディランはグロスマンの家から自分の家に、トライアンフ社製オートバイに乗って向かった。どうやら太陽がまぶしくてパニックになりブレーキをかけたところ、後輪が完全停止してバイクから投げ出された。幸いにも妻のサラSara Dylanが後ろのファミリー用ステーション・ワゴンにいて、ディランを連れてグロスマンの家まで戻り、サリー・グロスマンSally Grossmanが、このことを電話に出た夫に知らせた。どうやら、アルバート・グロスマンAlbert Grossmanは、妻に、近くのミドルタウンにいるエド・セイラー医師のもとへディランを連れて行くよう指示したらしい。その医師は、グロスマンの他のクライアントたちも診ていた人物だった。

オートバイ事故によるけがはたいしたことはないが、どうも肉体的、精神的に衰弱していたらしく、少なくとも10日間はセイラー医師家族と一緒に過ごした。ウッドストックに戻ってくるまでには、グロスマンがツアーをキャンセルし、ABC放送とマクミラン出版社を寄せ付けなかった。ディランのバンド、ホークスThe Hawksは、既にグロスマン傘下にあり、ニューヨークでぶらぶらしながらツアーの指示を待っていた。いったんキャンセルになると、アレン・ギンズバーグAllen Ginsbergがトラックで運んできた本の箱にディランはまみれたが、ニューヨーク州北部にホークスを招待したところ、自分たちの育った田舎のオンタリオ州に似ていたので気に入った。ホークスのうち、ガース・ハドソンGarth Hudson、リック・ダンコRick Danko、リチャード・マニュエルRichard Manuelの3人は結局、ウエストソーガティズ近くに大きなピンクの家を共同で借りて居座った。ディランはゆっくりと回復し、プレッシャーから解放されて人前に出ることが好きだということに気付いた。死ぬどころか、活気を取り戻したのだ。

他に、カナダにおけるロックンロールのニュースとしては、ジョン・イートンJohn Eatonというカナダ人ビジネスマンが、モータウン・レコードMotown recordsに、レコーディングしたがっているマイナ・バーズThe Mynah Birdsの話を持ち掛けたところ、ベリー・ゴーディBerry Gordyは関心を示した。一つには、このグループは人種が混ざっていて、黒人リード・シンガーのリッキー・マシューズRicky Matherwsは、間違いなく人をひきつけるものを持っていたのだ。バックアップ・バンドも非常にしっかりしていたので、ゴーディはバンドをスタディオに入れて出来栄えに満足した。彼らはちょうど「イッツ・マイ・タイムIt’s My Time」とそのB面「ゴー・オン・アンド・クライGo On And Cry」のシングルをリリースする間際だったが、その時マネジャーがゴーディに、リッキーは15才で米国海軍に入隊したと告白した。リッキーは自分のしたことが急に怖くなり、無許可離隊して軍警察が探していると分かると、カナダに逃亡した。もしリッキーが捕まれば何もかもぶち壊しになるので、リッキーをそばに呼び、自首して服役し、刑期を終えたらモータウン・レコードMotown recordsが受け入れると話した。リッキーはその通りにし、ブルックリンにある海軍矯正施設で1年間を過ごした。

マイナ・バーズThe Mynah Birdsは、トロントにおけるフォーク界のスターであるニール・ヤングNeil Youngをリード・ギタリストに迎え、今度はヤングがロサンゼルスに行き、別のフォーク歌手を探す時期だと考え、それがニューヨークのフォーク巡回公演で出会ったスティーブ・スティルスSteve Stillsだった。どうも、スティルスは西部に行き、トラバドール・バーThe Troubadour barにたむろしていて、モンキーズのオーディションを受けたが落ちたらしい。ヤングとベーシストのブルース・パルマーBruce Palmerはマイナ・バーズの霊きゅう車を奪い取って立ち去り、数日かけてスティルスを探したが見つからなかった。イライラするし、霊柩車は壊れかかっていたので、サンフランシスコにはもっと良いチャンスがあるかも知れないと思って、車が持ちこたえることを祈りながら、サンセット大通りをフリー・ウェーに向かって走り始めた。サンセット大通りの反対側を行くのは、二人のソングライター、リッチー・フレイRickie Furayとあのスティーブ・スティルスを乗せた白いバンだった。バンはすぐその場で何とかUターンして追い付いた。ベン・フランクBen Frankの駐車場に車を入れて、事情を理解した。夏の終わりまでに、バンクーバー出身のドラマー、デューイ・マーチンDewey Martinが加入し、プロダクション・マネジメント・チーム(ソニー&シェールSonny and Sherと同じチーム!)が付き、アトコ・レコードAtco Recordsと契約し、バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfieldという名前が付いた。彼らの最初のシングルは、ヤングがスティルスにニューヨークで教えた「ナウアデイズ・クランシーキャント・イーブン・シングNowadays Clancy Can’t Even Sing」であり、発売されてもチャートの110位どまりだった。しかし、彼らは復活するだろう。

そして、ついにベリー・ゴーディが、たぶんザ・サウンド・オブ・ヤング・アメリカThe Sound Of Young Americaを完成させている一方で、1966年はより素朴なソウル・ミュージックの名作が、次々とアメリカの白人十代の耳に届いた年だった。メンフィスでは、スタックス・レコード Stax Recordsが一連のスターに、以前のモータウンのシンガー、メーブル・ジョンMable Johnを加え、その「ユア・グッド・シングYour Good Thing(Is About to End)」の管楽器部分はすごみがあった。カーラ・トーマスCarla Thomasは「コンフォート・ミーComfort Me」、「レット・ミー・ビー・グッド・トゥ・ユーLet Me Be Good to You」そして生涯最大のヒット曲「ベイビーB-A-B-Y」で真価を発揮し、サム&デイブSam and Daveは「ホールド・オン!アイム・カミングHold On! I’m Comin’」から「ユー・ガット・ミー・ハミンYou Got Me Hummin’」まで驚くべき連続ヒットを放ち、エディ・フロイドEddie Floydは「シングズ・ゲット・ベターThings Get Better」と「ノック・オン・ウッドKnock on Wood」のヒットを放ち、シカゴをベースにするブルース・ギタリストのアルバート・キングAlbert Kingまでも「ロンドロマット・ブルースLaundromat Blues」と「クロスカット・ソーCrosscut Saw」でR&Bチャートにヒットを出した。アトランティック・レコードAtlanticはアラバマ州マッスルショールで、パーシー・スレッジPercy Sledgeが「男が女を愛するときWhen a Man Loves a Woman」、「イット・ティアーズ・ミー・アップIt Tears Me UP」、「ウォーム・アンド・テンダー・ラブWarm and Tender Love」をレコーディングするときに、ほとんど白人のメンバーを存分に使い、ウィルソン・ピケットWilson Pickettはスタックス・レコードStax recordsでのレコーディングを一時止めて、「ムスタング・サリーMustang Sally」を近くのフェイム・スタディオスFame Studiosで録音した。ニューオーリンズでは、アーロン・ネビルAaron Nevilleの「テル・イット・ライク・イト・イズTell It Like It Is」で、新しいサウンドが打ち出され、リー・ドーシーLee Dorseyは、アレン・トゥーサンAllen Toussaintのプロデュースで、アーロンAaron兄弟や親戚などから成るバンドをバックにして、「ゲット・アウト・オブ・マイ・ライフ・ウーマンGet Out of My Life , Woman」、「ワーキング・イン・ザ・コール・マインWorking in the Coal Mine」、「ホリー・カウHoly Cow」という一連のクロスオーバー・ヒットを出した。フィラデルフィアはモータウンが荒らしていて、アークティック・レコードArctic recordsという小さなレーベルが、才能のある新人、ケニー・ガンブルKenny Gambleと契約する方法を見つけ出そうとしたが失敗に終わり、その時、当人はガンブル・レーベルを立ち上げた。

ソングライターでプロデューサーでもある白人の若者、ジェリー・ラゴボイJerry Ragovoyは、過去にティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyと密接につながり、「エイント・ノーバディ・ホームAin’t Nobody Home」や「ルック・アット・グラニー・ラン・ランLook at Granny Run Run」でキャリアを始めたかつてのゴスペル・シンガー、ハワード・テイトHoward Tateと良好な関係にあった。ラゴボイも、ワーナー・ブラザースがソウル・アーティストをニューヨーク・オフィスに集めるのを手伝い、ワーナーが契約した別の元ゴスペル・シンガー、ロレイン・エリソンLorraine Ellisonのための楽曲を書くのに忙しかった時、上司から電話があった。フランク・シナトラFrank Sinatraが72時間後の、7月22日に予定されていたセッションをキャンセルしたとの話だった。このセッションには大オーケストラが予約してあって、組合の規則によってシナトラが現れても現れなくても、料金を支払わなければならず、そこでラゴボイはこのチャンスに飛びついて、デビッド・ウェイスと一緒に書き上げた楽曲「ステイ・ウィズ・ミーStay with Me」を手に取り、手書きでアレンジを書いた。電話があってから一睡もせずにふらつきながらスタディオ入りし、楽譜を渡して(オーケストラはまだフランクが来ると思っていた)から4分後に、フィル・スペクターPhil Spectorの「リバー・ディープマウンテン・ハイRiver Deep-Mountain High」でやり残したことをすべてやって、レコードが誕生した。エリソンEllisonが歌詞をしくじった最初の8小節以外はぶっつけ本番の初テイクになった。R&Bトップ10に迫る11位止まりだったが、素晴らしいバックと名作のボーカルを伴うソウルの大傑作になり、将来への方向性を示した。

この年の秋、米国議会はアメリカのティーンエイジャーを脅かしている麻薬の脅威を食い止める時だと考え、10月6日、LSDをA級麻薬のリストに加え、マリファナ、ヘロイン、コカインと共に、重罪となるドラッグとして扱われるようにした。所有者と使用者に対する罰則が重くなることを除いて、ほとんどの者は既にマリファナを吸っていて、違いはほとんどなかった。オウズリー・スタンリーOwsley StanleyはまだLSDを作っていて、サイケデリックという言葉はあらゆる種類のものを描くのに使われ、恐ろしいことに、多くの者がサンフランシスコのカウンター・カルチャー・ムーブメント発祥の地、ヘイトアシュベリーに押しかけようとして次の夏をひたすら待っていた。

ロックンロールにとって、18か月間にわたる2回目の驚異の年が終わり、ポピュラーミュージックとして世界的に定着するきっかけとなった。クリスマスが近づいて小売店の売れ行きが伸びる季節になると、レコード・ビジネスは過去最高の利益をあげることになり、ビルボード誌Billboardの様々な記事がステレオ・テープ・カートリッジの将来について予想した。「現在アメリカで販売されているフィリップス社製カセットはもっと使いやすいのではないか?」「フォー・トラック・カートリッジを使うことになるのか?」「エイト・トラックか?」12月3日号でぎりぎりになってねじ込まれた小さな写真には、にこやかなジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerが、コロムビア・レコードColumbia recordsで失敗したジャズ/サパー・クラブのシンガーのアレサ・フランクリンAretha Franklinを、アトランティック・レコードAtlantic recordsと契約させるところが写り、それは、本当に長い間彼が待ち望んでいたことだった。写真のフランクリンはとても幸せそうで、マネジャーで夫のテッド・ホワイトTed Whiteもそうだった。ウェクスラーはフランクリンに、楽曲を見つけなさいという一方で、自分でも探した。彼女は自分でも曲を書いていたので、それは全く問題なかった。しかし、休暇で空港からデトロイトの自宅に帰るために車に乗っている間、市内ではなかなか良いロックンロールバンドの一つであるレイショナルズThe Rationalsのローカル・ヒットがカーラジオから流れていた。後に手本としたストーンズThe Stonesと同様に、ソウルの曲をカバーするのが好きだった。レイショナルズの最新ヒットは、オーティス・レディングOtis Reddingの「リスペクトRespect」のカバーで、1965年にはポップであまりヒットしなかったが、彼女の耳に留まった。フランクリンはこれで行こうと決めた。

 

 

第3章 

みんなは愛の群衆だよね?

 

 

ロック・フェスティバルの観客(ウッド・ストック)

(写真:バロン・ウォルマンBaron Wolman)

 

 

何かが起こりつつあったが、ボブ・ディランの歌詞に出てくる不幸なジョーンズさんのように、レコード業界は状況が分からなかった。現状に注意を向けるべき時だった。最初は大学ラジオ局の研究で、ロックンロールはもはや10代に限ったものではなく、ラジオ放送を分析した結果、ロックンロールはキャンパスの音楽番組においてナンバーワンの座をフォークから奪ったのだ。「ティーンエイジャーの考えやスタイルが、大人やヤング・アダルトの両方に影響を与えつつある。音楽に関しては年代格差が狭まっている。」と、コロムビア・レコードColumbia Recordsの匿名の幹部が、ビルボード誌Billboardに話した。この直後に大学レコード店の調査が、まさにこれを裏付けていた。4月にサンフランシスコで「ポップ・ミュージック談話会」があり (おそらくサンフランシスコの特集を準備していた同誌が主催)、登場したのは、オータム・レコードAutumn Recordsを解散して当時はワーナー・ブラザースWarner Brosで働いていたトム・ドナヒューTom Donahue、サンフランシスコ・クロニクル誌the San Francisco Chronicleでジャズと(当時は)地元のロック・ミュージックのコラムニストだったラルフ・グレソンRalph Gleason、レコードのプロデュースをやめていたフィル・スペクターPhil Spector、フィルモア・オーディトリアムFillmore Auditoriumの出演契約の仕事以外に当時ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneのマネージングをしていたビル・グラハムBill Grahamだった。ビルボード誌Billboardによると、「若者がレコード産業を支配していること、アンプで増幅された音楽や、ビートルズThe Beatles、ボブ・ディランBob Dylan、ドノバンDonovan、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの抒情性ある歌詞を聞いたからには、自分たちを刺激してくれるどんな音楽も受け入れることに賛同した」のだという。

そうだね、どうも、どんな刺激かによるんじゃないかな。数ページ後ろには、ラジオ放送局のマクレンドンMcLendonグループのオーナーで、トップ40形式を早々に取り入れたゴードン・マクレンドンGordon McLendonが、全面広告を載せ、そこには彼の番組ディレクターたちが提案を受けた音楽に対して彼が嫌悪を感じたことを語っている。「この1か月間に、全国チャートに載った6枚のレコードは品位の限界をはるかに踏みはずしているので、禁止せざるを得なかった」と明言した。彼の解決策は、マクレンドンMcLendon放送局でかけるレコードは放送局に歌詞を書いた書類を提出しなければならず、そうしなければ検討の対象とはならないというものだった。すぐに効果が出た。一方では、父親がひどい騒音の音量を下げろと言ったようなものだった。もう一方では、マクレンドン系列に曲が採用されることは、放送回数やレコードの売上という点では、ものすごい追い風だった。これを支援する手紙が届き、電報まで来た。ある放送局のオーナーはマクレンドンに感謝したが、まだ問題があると言った。というのは、その放送局は「LSDの英国スラング」を表すレコードも加えたのだった。(エリック・バードンEric Burdonは「ア・ガール・ネイムドゥ・サンドA Girl Named Sandoz」というタイトルのB面を出しただけなのに、この曲はひどい出来なので誰が演奏しているかを想像することは難しく、この曲が何なのかも分からなかった。もちろんサンド社Sandozは合法のLSDを製造するスイスの会社だった。)スラングに後れずについていくことは難しいとは認めながらも、マクレンドンは、まだ汚い言葉にまみれているので、「売春婦、元売春婦、麻薬常習者、元中毒者」から成る委員会を作って、提出された歌詞を審査すると発表した。ポール・リビアPaul Revereは、自分のグループのレイダースThe Raidersがディック・クラークDick Clarkの「フエザー・ザ・アクション・イズWheree the Action Is」というテレビ番組のハウス・バンドの仕事を失ったばかりで、ドラッグを薦める歌詞を書いているのは、「クズ野郎」グループだけだと不機嫌に意見を述べた。「キックスKicks」という曲をレコーディングしたが、この曲はドラッグ撲滅を強く訴えていた。そして、この曲は、なんと、ポール・リビア&レイダース・ザ・グレーティスト・ヒッツPaul Revere and The Raider Greatest Hitsのアルバムに入った。

どんなに間抜けな言い方をしたとしても、大事な点がある。ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの最新ヒット「ルビー・チューズデーRuby Tuesday」がチャートのトップに上ったのだが、その理由は、A面にしようとした「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザーLet’s Spend the Night Together」がどんなに素晴らしい曲であろうとも、確かに露骨過ぎたので、ラジオ番組制作者の間で非難が広まったからだ。(しかし、ストーンズはエド・サリバンEd Sullivanショーに出演した時、歌詞の最後を「夜を過ごそう」から「一緒に過ごそう」に代え、ブライアン・ジョーンズBrian Jonesが頭をスタディオのドアにぶつけたために、どでかい包帯をしたという点で屈服した。)ミッチ・ライダーMitch Ryderには「ソック・イット・トゥ・ミー・ベイビーSock It to Me, Baby」というドキドキするシングルがあり、「お前がキスするたびに、パンチのように感じる」という歌詞で、最後の言葉はボソボソと言ったが、母音ははっきりしていた。トミー・ジェームス&ションデルスTommy James and The Shondellsの「アイ・シンク・ウィアー・アローン・ナウI Think We’re Alone Now」はちょっと挑発的だが、そのアルバム・カバーは少し性的行為を意味するハンキー・パンキーに見える足跡をいくつかフィーチャーした。そういえば、ジェームスの最初のシングルはハンキー・パンキーだった。麻薬に関しては、ほのめかすような曲もいくつかあるが、同時にサイモン&ガーファンクルSimon and Garfunkelの「59番ストリート・ストリート・ブリッジ・ソング 59the St. Bridge Song(Feelin’ Groovy)」のように、ニューヨークで今流行っているクラブ、スティール・ポールズ・シーンSteve Paul’s Sceneの通りの向かいでマリファナたばこを吸うという曲で、このクラブは「グルービンGroovin’」をリリースしたばかりのヤング・ラスカルズThe Young Rascalsがハウス・バンドをしていた。サイモン&ガーファンクルは「59番ストリート・ブリッジ」をB面にしたが、カリフォルニア州出身でサンタクルーズ出身のソフトロック・ボーカル・グループのハーパーズ・ビザールHarpers Bizarreは、この曲をチャートの上位に上らせた。このグループは、かつてのボー・ブラメルThe Beau Brummelsのメンバーと、間もなくワーナー・ブラザースの重要なプロデューサーになるテッド・テンプルマンTed Templemanをフィーチャーしていた。(ザ・ベルベット・アンダーグラウンド・アンド・ニコThe Velvet underground and Nicoは、「ゆっくりむいて、見る」半ば卑猥なカバー(バナナの皮をむくと、傷んだピンクの果実が現れる)と「ヘロインHeroin」と「ビーナス・イン・ファーズVenus in Furs」という曲が入っているが、あまり語らない方が良いだろう。このアルバム・ジャケットの初版は、ウォーホルWarholの共同経営者のエリック・エマーソンEric Emersonがライトショーを撮影したもので、正式に許可されていない写真を使用しているという理由で回収されたので、見つけることができなかった。しかし、最終的には出回った。)

確かに何かが起こっていて、できるだけ早くそれを捕らえて制御する責任があった。昔のスタイルのシンガーはまだアルバムを売っていたが、新しいシンガーの中にもそういう者が突然現れた。一例としてママス&パパスは、シングルも良く売れていたが、シングルと同じだけアルバムを売ったようだった。そして、もちろん同じことがビートルズやストーンズにも言えた。この傾向はしきりに続き、イギリス出身のニュー・ボードビル・バンドThe New Vaudeville Bandによる風変わりなヒット曲の「ウィンチェスター・カシードラルWinchester Cathedral」は、現代のスタディオ技術を利用したおかげで、懐かしい78回転のように聞こえ、風変わりなドゥワカドゥ・レコードがたくさん出るきっかけとなった。最も成功したのは、カリフォルニア出身で、ドクター・ウェストのメディスン・ショー&ジャンク・バンドMedicine Show and Junk Bandによる「ザ・エッグプラント・ザット・エイト・シカゴThe Eggplant That Ate Chicago」であり、続いて、麻薬のスラングや非常に不愉快な駄じゃれを詰め込んだアルバム 、腹ペコの中国人に関する「ハウ・ルー・シン・エイトHow Lew Sin Ate」を出した。

アメリカはルイ・アームストロングLouis Armstrong以来トランペット・スターが途絶えたことは無く、アル・ハートAl Hirtの魅力が消えていくと、ハーブ・アルパートHerb Alpert&ティファナ・ブラスTijuana Brassが現れ、その演出はアルパート(たぐいまれなレコード会社幹部であり、熟練のミュージシャンでもある)が主役のマリアッチ・スタイルにしたアンサンブルで、おしゃれで少しロックっぽいビートに合わせて、まずは自分をオーバーダビングした。アルパートは自分のA&M(アルパート&モスAlpert and Moss)レコード A & M Recordsにセルジオ・メンデス&ブラジル’66 Sergio Mendes&Brasil ’66、ジュリアス・ウェッチャー&バジャ・マリンバ・バンドJulius Wechterthe and Baja Marimba Bandを引き入れたが、全員がシングルもアルバムも良く売れ、サンドパイパースThe Sandpipersもソフトなボーカル・グループで、ポピュラー・ソングをスローに歌って、「ガンタナメラGuantanamera」、そして驚いたことに「ルイ・ルイLouie Louie」のヒットがある。それから、新しいMORというジャンル(ビルボード誌Billboardが導入したイージーリスニング等の新カテゴリー)は一つの行き方だった。もう一つの行き方は、カリフォルニアのクラブやダンス会場に群がる狂った大勢の子達や、ビートルズやストーンズに触発されて、わけのわからない方へと向かっていた後期ブリティッシュ・インベージョンのバンドの中に、鼻をつまんで飛び込むことだった。

後者の選択はまだ本当の意味でうまくいっていない。エレクトラ・レコードElektra recordsは、ラブLoveというバンドの2枚目のアルバムである「ダ・カーポDa Capo」を勇敢にも出したが、B面は「レブレーションRevelation」というまとまりのない曲だったので、プロデューサーのポール・ロスチャイルドPaul Rothchildは、このバンドを辛辣に批評して出て行けと言い、このグループとはもう組まないだろうと思った、と後に語った。ロサンゼルスのサンセット大通りで観客を惹きつけていた奇妙なバンドとも契約したが、惹きつけていた主な理由はカリスマ性を持つリード・シンガーがいたことであり、ドアーズThe doorsはUCLA映画学科学生の集団で、アルダス・ハックスリーAldous HuxleyのLSD体験を本にした、知覚の扉The Doors of Perceptionにちなんでグループを名付けた。このグループにはベース演奏者がいなかったが、キーボード演奏者のレイ・マンザレックRay Manzarekは演奏の際バス・ペダルを使い、リード・シンガーのジム・モリソンJim Morrisonは自分のことを詩人ではないと思っていたが、女の子たちは心を奪われていた。

サンセット大通りでは他に、カリスマ性を持った別のリーダーで自称スカイ・サクソンSky SaxonがシーズThe Seedsを率いていたけれど、LAジャズ・プロデューサーのジーン・ノーマンGene NormanがGNP クレッセンド・レーベルGNP Crescendo labelのために引き抜いて、「プッシン・トゥー・ハードPushin’ Too Hard」でマイナー・ヒットを放ち、続いて、シングルやアルバムを数枚出した。その後大衆が、実を言うと彼らはコードを二つしか知らないと馬鹿にした。3つあれば何とかやり過ごせるので、キングズメンThe Kingsmenはレコードを出せていた。サンセット・ストリップはまだ去年11月の『暴動』から立ち直る途中にあり、その暴動とは、パンドラズ・ボックス・クラブthe Pandora’s Box clubが、市の道路拡張と交通整理の邪魔になり、デモが暴動になって、結果として300人が逮捕されたことだ。『ザ・マンthe Man』 に関しては不平や憤慨があり、その後にかなりひどい営利目的の「ライオット・オン・サンセット・ストリップRiot on Sunset Strip」という映画が続いたが、そのサウンドトラック・アルバムは、オートバイ・バンドを装ったサーフ・バンドが演奏し、テーマ曲はスタンデルスThe Standellsが演奏した。しかし、この事件のおかげで結局は、バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfieldにとって、ステフェン・スティルスStephen Stillsの作った「フォー・ファット・イッツ・ワースFor What It’s Worth」という曲がヒットして、曲の詩はちょっと耳障りだったが十分キャッチーだったので全国トップ10に入った。

出自不明のグループ、イドthe id(格好いい!全部小文字だ!)を使って、RCAレコードが試したことをやってみることができた。「夢中になって何かをひき起こす、興奮したサウンドで流行の先端を行くグループ」だと褒めちぎり、「どこからともなくやって来て、そこに留まる」というレコード会社の決まり文句の詰め込み度で、新記録を樹立した可能性がある。自分の町にはビートルズっぽいお気に入りのバンドがいて、それがエピック・レコードEpic recordsにとってはボストンのリメインズThe Remainsだった。この時代のアメリカには既にいなくなったが、素晴らしいバンドで、ビートルズの前座としては十分うまかったものの大勢の中で傑出する能力はなかった。あるいは、ワーナー・ブラザース社長ジョー・スミスのように、グレイトフル・デッドと契約して、数年後に『サンフランシスコにこのシーンがあることは知っていたし、コンタクトを取る必要があった。ただ、そのライフスタイルを理解していたわけではない』と認めるという、まったく正直なやり方もあった。RCAはすくなともジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneと一緒に試そうという知恵があって、ロサンゼルスで2枚目のアルバムをレコーディングし、そのタイトルは流行の最先端を行きサイケデリックな「サーリアリスティック・ピローSurrealistic Pillow」だった。最初のシングルはカリフォルニアらしいサウンドであることを強調し、「マイ・ベスト・フレンドMy Best Friend」はエアプレンThe Airplaneと同じくらいママス&パパスThe Mamas and The Papasに近いサウンドで、彼らのかつてのドラマーだったスキップ・スペンスSkip Spenceが書いた曲だった。2枚目のシングル「サムバディ・トゥ・ラブSomebody to Love」は、新しいシンガーのグレース・スリックGrace Slickが以前いたバンドから持ってきた曲で、この方がいくらか良さそうだった。

イギリスでは下り坂にあったモッズ族と、元モッズ族が多かった麻薬中毒者との亀裂から興味深いものが生まれたように思えた。モッズ族は、ファッション、アンフェタミン、リズム&ブルース、熱狂したダンスを中心にして集まった若者連中だが、それ以上のものではなかった。チャートに載ったモッズのバンドはフーThe Whoで、平均的モッズ族よりは少し芸術家気取りで、実際に当時としては非常に変わったレコードを出していた。チャートに載ったもう一つのモッド・バンド、スモール・フェイシスThe Small Facesはこの動きを幸運だと思い、服装はきちんとしていて、次々とヒット曲を出したのだが、それはどういうわけかアメリカではなく、当初、アメリカではどのレコード会社も手を出さなかった。他のモッド・バンドも試みたが、彼らのカルチャーは廃れかけていたが、1967年3月にイギリス・チャートでジョンズ・チルドレンJohn’s Childrenの一時的上昇があって、そのリーダーはマーク・ボランMarc Bolanという異様な顔をした、とてつもなく野心的な若い男だった。しかし、ザ・フー等ほとんどのモッド・バンドは、状況が変わりつつあることを認識していて、キンクスThe Kinksはダークな暗示はあるものの、元気でとてもイギリス的な家庭生活に特徴づけられる奇妙な領域に向かったが、アメリカにおける中程度のヒット、「サニー・アフターヌーンSunny Afternoon」があり、「デッド・エンド・ストリートDead End Street」や「ビッグ・ブラック・スモークBig Black Smoke」など、辛辣な社会的主張という特徴もあった。フーの芸術家気取りの探検に匹敵するように見える別のバンドは、ベースを利かしたバーミンガム出身のザ・ムーブThe Moveで、LSDによる幻覚状態に関する露骨な曲「ナイト・オブ・フィアーNight of Fear」、「アイ・キャン・ヒア・ザ・グラス・グローI Can Hear the Grass Grow」でイギリスのチャートに登場した。クリエーションThe Creationは美術学校中退者が多く、モッドのような服装で、演奏中にアクション・ペインティングをしたりテレビをこわすのが好きだった。もっと変わっていたのはピンク・フロイドPink Floydで、二人のジョージア出身者のPink Andersonとフロイド・カウンシルFloyd Councilにちなんで名付けたにもかかわらず、捉えどころがなく暗いサウンドをデビューシングルの「アーノルド・レインArnold Layne」に盛り込んだ。

こうした動きが次々と起こっている一方で、最初の波の一部は変化したり崩壊した。ヤードバーズThe Yardbirdsはいつもギタリストが変動していて、最初にエリック・クラプトンEric Claptonを失った後、その代わりにジェフ・ベックJeff Beckが自分のグループのリーダーになって出てゆき、元フォーク歌手のロッド・スチュアートRod Stewartがリード・ボーカルになった。ジミー・ページJimmy Pageは、十代で天才と言われ、最初に声のかかる一流エレキ・ギターのスタディオ・マンで、今やバンド唯一のギタリストになった。アニマルズThe Animalsは、レコードが突然「エリック・バードン&アニマルズEric Burdon and The Animalsによる」として現れたのでますます不穏な状態になった。最初に出て行ったのはキーボード・プレイヤーのアラン・プライスAlan Priceで、アニマルズは元々プライスのバンドだったが、プライスはアラン・プライス・セットThe Alan Price Setを結成して、「サイモン・スミス・アンド・ヒズ・アメイジング・ダンシング・ベアSimon Smith and his Amazing Dancing Bear」と「ザ・ビゲスト・ナイト・オブ・ハー・ライフThe Biggest Night of Her Life」などのヒットを出した。二曲ともLAのプロのソングライターであるランディー・ニューマンが書いた。ベーシストのチャス・チャンドラーChas Chandlerも辞めて、次の行動を企てるためにニューヨークに行った。グリニッジビレッジをうろつき回ると、いろいろなところで演奏する素晴らしいギタリストの話を聞いたが、それによると最近はジョン・ハモンド・ジュニアJohn Hammond Jr.と共演し、マクドゥーガル・ストリートのカフェ・ファthe Café Wha?でまあまあのバンドと一緒に、独自のライブを催していた驚異的なギタリストのことを聞いた。最終的に興味を抱いたチャンドラーがその場に行って確認したところ、リトル・リチャードLittle Richardのバンドにいたギタリストのジミ・ヘンドリックスJimmy Hendrixで、聞いていた通りの人物だった。マネジャー、レコード・プロデューサーとして音楽業界に再び入るというチャンドラーの長期計画に適合した人物だった。チャンドラーはすぐに行動に移し契約を申し出たが、その内容は、イギリスに来てくれれば、リズム・セクションを提供するので、レコード契約を結べば有名になる、というものだった。結局、クラプトンClaptonは自分のバンド、クリームCreamと一緒にヒット・シングルを作るのだが、タイミングが良かった。1967年初めまでに、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスThe Jimi Hendrix Experienceは、フーThe Whoのマネジャーが始めたレーベル、トラック・レコードTrack recordsと契約し、シングル(古いヒット曲の「ヘイ・ジョーHey Joe」とヘンドリックスが書いた曲「パープル・ヘイズPurple Have」)がイギリスのチャートに載った。海の向こうでは、フランク・シナトラFrank Sinatoraのワーナー子会社、リプリーズ・レコードReprise recordsがヘンドリックスを取り上げ、ソウル・シングルだと言って「ヘイ・ジョーHey Joe」を宣伝した。褒められた対応ではなかったが、取り返しがつかないわけではなかった。

 

レコード業界が見逃していた新しい現象を知る手がかりがもう一つあった。1966年後半のある日、小説家のノーマン・メイラーNorman Mailerと二人の友人が1955年に創立し、グリニッジビレッジをカバーする新聞、ビレッジ・ボイスthe village Voiceがハワード・スミスHoward Smithの「シーンズScenes」というコラムの中で記事を載せたが、それは「6番アベニューのドアの向こうで、18歳のエゴが燃え上がる」で始まった。これは、分厚い眼鏡をかけたもじゃもじゃの金髪で、神経質なやせっぽちのポール・ウィリアムスPaul Williamsをからかうことを意図している。ウィリアムスはマサチューセッツ州ケンブリッジからニューヨークに移っていたが、その理由は、クロウダディCrawdaddy!という雑誌を発行し続けるためにうってつけの場所だったからで、1966年晩春に第1号が出版された。ウィリアムスはもともとサイエンス・フィクションのファンで、その同人誌は1930年代にさかのぼり、ガリ版刷りの批評とニュースの雑誌だった。当時すでに、ジャズがダウンビート誌Downbeatなどの雑誌でファンから真剣な敬意をもって論じられていたのと同じような扱いを受けるに値する、本格的な音楽が作られていたのだ。1967年1月末までに、ウィリアムスは3人のスタッフのボスになり、アル・クーパーAl Kooperの最新バンド、ブルース・プロジェクトthe Blues Projectなどの演奏者がぶらりと立ち寄ったり、エレクトラ・レコードElektra recordsはドアーズThe Doorsの全アルバムをリリースすべきかどうかについて、ポール・ロスチャイルドPaul Rothchildと協議することを頼まれた。エレクトラはリリースし、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」を思いだして、7分間のシングル「ハートに火をつけてLight My Fire」を2枚目としてカットし、この夏にチャートの1位になった。ドアーズはふざけたつもりだったのかもしれないが、ビレッジ・ボイス紙the village Voiceも、リチャード・ゴールドスタインRichard Goldsteinなどが執筆したまじめな記事をすぐに印刷し始め、エスカイヤ―誌Esquireはロバート・クリストゴーRobert Christgauというロングアイランドのジャーナリストが書いた「セキュラー・ミュージックSecular Music」というコラムを始めた。ニューヨーカー誌the New Yorkerでさえ、フェミニストでエッセイストのエレン・ウィリスEllen Willisの書いた常設コラムに載せた。そしてボストンでは、クロウダディー誌Crawdaddy!の空隙をすぐにジョン・ランドーJon Landauなど以前の寄稿者を使って、フュージョン誌Fusionが穴埋めした。ビレッジ・ボイスthe Village Voiceにも後続の出版物ができ始め、1964年に登場したロス・アンジェルス・フリー・プレス紙Los Angeles Free Press、1965年の始めたバークレー・バーブ紙the Berkeley Barb、1966年のニューヨークにおけるイースト・ビレッジ・アザー紙East Village Otherがあり、政治や文化をカバーする代替の「アングラ新聞」を始めた。

ここで起こっていることは夜明けの始まりであり、ネズミが蛇の中に入るところはおぞましいが、このことを考えるにあたってうってつけのイメージであり、ネズミの体がゆっくりと飲み込まれていくにつれ、蛇の形に瘤ができる。1945年に第2次世界大戦が終わると、多くのアメリカ人男性が戦場から戻った。ほとんどの男性は妻帯者だったか妻をめとり、政府のプロジェクトは仕事、住宅、教育を得る支援をした。それに伴って好景気に沸いたこともあって、妻が働きに出なくても家族を養えたので、その間たくさんの赤ん坊が生まれ、たくさんの子供が生まれた。一人か二人余計に生む余裕があった。ビートルズThe Beatles、ストーンズThe Stones、ビーチ・ボーイズThe Beach Boysがラジオに登場するまでには、これらの赤ん坊はティーンエイジャーになっていて、自分たちより少し年上の子達がこの音楽を作り、自分たちのために作ったと思われるものを聞いた。そして今度は彼らが音楽を作る番だ。音楽業界が注目した理由は、そこに潜在顧客がいたからで、この子供たちが年をとるにつれ、簡単に仕事を見つけたり大学に行って、仲間たちが作った音楽(たいていは、どんどん増えるフォークやロックンロールの一つ)を消費した。彼らにはしばらくの間、フランキー・アバロンFrankie Avalonか、ニュー・ボードビル・バンドNew Vaudeville Bandか、イドthe idoを試しに聞かせることができる。聞くかもしれないし、趣味に合わなければもう聞かないかもしれない。

当初、レコード業界にはこういった人はほとんどいなかった。フィル・スペクターPhil Spectorは年齢や成功の面で傑出していたが多くの人が彼のようではなかった。その後、突然登場した人たちがいる。ブライアン・エプスタインBrian EpsteinはビートルズThe Beatlesより数歳しか年上でなかったし、アンドリュー・ルーグ・オールダムAndrew Loog OldhamはストーンズThe Stonesのほとんど全員より若かった。観客はサンセット大通りのアバロン・ボールルームthe Avalon Ballroomやウィスキー・ア・ゴー・ゴーthe Whisky a Go Goなどの場所でステージに上がった。これらの観客は、みんなと同じ言葉を話し、同じ薬物を吸い、同じ服(あるいは着たいかもしれない服)を着て、エンターテイナーだけでなく、みんなのパートナーや友人と同じように見えた。ビル・グラハムBill Grahamのようにたまたま現れた天才(1967年に36歳になったが、チェット・ヘルムズChet Helmsはその時25才だった)を除けば、20代半ばよりずっと年上の音楽関係者は、この年齢層にどう話しかけたらいいのか、全くわかっていなかった。エレクトラ・レコードElektra recordsのジャック・ホルズマンJac Holzmanやポール・ロスチャイルドPaul Rothchild、トラック・レコードTrack recordsのキット・ランバートKit Lambertやクリス・スタンプChris Stamp、ワーナー・ブラザース・レコードWarner recordsのジョー・スミスJoe Smithはこのことが分かっていたが、今まで見たことのない目的地を探して目隠しで運転していることも知っていたし、もちろん聴衆も同じだった。この業界にいるのはワクワク、ビクビクする時だった。潜在的なリスクは大きいものの、現実を直視すれば、リスクはかなり小さく、いつも代わりのグループはいた。突然たくさんの若者が現れた。

もちろん、このことには影の側面もあり、アメリカの少年は18才になると義務兵役に登録する必要があって、このことは戦後、重荷ではあったがたいしたことではなかった。入隊して、行進したり敬礼したりするなど馬鹿な事をしろと言われるのを我慢するのだが、日本やエルビスがいたドイツなど異国情緒ある遠い場所や、ひょっとするとルイジアナやカリフォルニアに行って、自動車や電気機器の職業に就くかもしれない。それから帰国してガールフレンドと結婚した。しかし、ますますベトナムにおける宣戦布告なき戦争が恐ろしい存在となり、誰も英語を話さず、戦場となるジャングルは濃く深く、死ぬ可能性がとても高かった。この戦争に対する抵抗はあり、フォーク歌手から始まって、当初はベトナムにおける不当に多数のアメリカ兵が黒人だったので、ソウル・ミュージックも反応し始めた。例えば、モータウン・レコードMotown records子会社、V.I.PレコードのモニターズThe Monitorsによる「グリーティングスGreetings(This is Uncle Sam)」など、あまり強烈にプロテストしない曲があった。一方で、ベトナム戦争に従軍した兵士マイティ・ハンニバルMighty Hannibalの、自分は生きて帰れないと思っているかのように歌う「ヒム・ナンバー・ファイブHymn No.5」など、全国的にはあまり目立たずとも、ジュークボックスに登場する曲は増えて行った。

この新しい「若者マーケット」に進出する場合のもう一つの問題は、人種差別をしないことと地域的であるということだった。白人の子達はソウル・ミュージック(大量に売れるちゃんとしたモータウンの商品だけでない)をたくさん聞いていて、イギリスのブルース・バンドに刺激を受けていたので、消えつつあったエレキ・ブルースマンの音楽キャリアを支えるのに役立った。米国南部で生まれたサザン・ソウルも主流派に近付き始めていて、スタックス・レコードStax recordsはこの分野における初期パイオニアで、オーティス・レディングOtis Redding、カーラ・トーマスCarla Thomas、エディ・フロイドEddie Floyd、ブッカーT&MG Booker T. and The M.G.’s、サム&デイブSam and Daveがたくさん売れたということは、こういった音楽に全国的に食いついてきたのが黒人のティーンエイジャーだけではなかったということを示した。ここでも、この人達は同年代で、例えばオーティス・レディングは1967年に26才、カーラ・トーマスは25才だった。しかし、これは全国レベルの話でしかない。大都市、特に南部中で、白人の子たちは長い間忘れられていた地元のソウル・レーベル(フリスコFrisco、キャッシュCash、マーコMurco、シルバー・フォックスSilver Fox、アークティックArctic)が地元でプロデュースしたレコードに反応し、この結果レコード・コレクターは21世紀に向けて探索し続けている。これらのレコードの多くは、ミュージシャンも人種差別されておらず、The M.G’sの半分は白人で、フェーム・スタディオFame studio、後のマッスル・ショールズ・サウンド・スタディオMuscle Shoals Sound studioのハウス・バンドはそのほとんどが白人で、オーティス・レディングのマネジャーのフィル・ウォールデンPhil Waldenは10代の白人で、レディングのキャリアの最初から務めていた。このソウル・ミュージックは彼らとともに成長し、カントリー・ミュージックをしようという考えは彼らにはほとんど生まれなかった。そして、それから1967年最大のソウルの新現象が起きた。アレサ・フランクリンAretha Franklinだ。彼女をどう説明すればよいのだろう。

コロンビア州では上品ぶらなければならなかったが、それから解き放たれたアレサ・フランクリンは1967年に爆発した。最初のシングル「アイ・ネバー・ラブドゥ・ア・マンI Never Loved a Man(The Way I Love You)」はリリースまでに議論を巻き起こしたものの、レコーディング・セッションは関係者全員の心に刻まれた。ビルボード誌Billboard用の写真を撮った時には、ジェリー・ウェクスラーJerry Wexler、テッド・ホワイトTed White、アレサ・フランクリンAretha Franklinは用意ができていたのかもしれず、1月後半に彼らがフェーム・スタディオFame Studiosに到着した時には、スタディオ・バンドのフェイム・ギャングThe Fame Gangが準備万端整えていた。この曲は彼らには大した曲には聞こえなかったが、これから起こることに興味がわいた。アレサ・フランクリンはピアノのところに座ってコード(その構成は今となっては分からない)を弾き、セッションに出席するように言われていたスプーナー・オールダムSpooner Oldhamはすぐに自分に代わりにアレサを使うよう申し出た。代わりにオールダムはフェンダー・ローデス・エレキ・ピアノFender Rhodes electric pianoのところに座り、みんながアレンジを完成させようとした。最終的に、オールダムは暫定的な曲にしか聞こえないものをフェンダー・ローデスthe Fender Rhodesで演奏してツボにはまり、アレサは、彼らの言い方によれば「礼拝をした」。バックのボーカルを多重録音する必要はまだあったが、さらに曲作りをすべきかどうかは、議論が分かれた。この時までにウィスキーをたくさん飲み、気持ちが荒れて来た。スタディオの持ち主だったリック・ホールRick Hall、テッド・ホワイトTed White、トランペット奏者の間に対立が生じたため、テッドとアレサが足を踏み鳴らして出ていき、その上ホワイトとホールの間に生じた対立がホテルで蒸し返されて、ウェクスラーはテープを持ってニューヨークに戻って行った。問題があった。完成していたのは1曲だけで、B面用の曲もまだ作りかけの状態だったのだ。その曲は「ドゥー・ライト・ウーマン-ドゥー・ライト・マンDo Right Woman-Do Right Man」と言い、ダン・ペンDan Pennとチップス・モーマンChips Momanの共作だった。ウェクスラーは、セッションを完成させるためにフェーム・ギャング・メンバーのほとんどを飛行機でニューヨークまで来させなければならず、そして、面白がって、次の数週間にわたって、もっとたくさんレコーディングしたので、シングルだけでなく、アルバムを作成できることになった。リック・ホールRick Hallは、自分の才能が、数日間でも好き勝手に使われたと知ると、「二度とウェクスラーとは仕事をしない」と激怒した。しかしアメリカのレコード購買者の反応も同じように強烈で、「アイ・ネバー・ラブドゥ・ア・マンI Never Loved a Man」は当然のようにR&Bチャートの第1位まで急上昇し、ポップ・チャートでも上位まで行った。この徹底的に強烈な演奏を聞けば、女性の歌う黒人礼拝の最も深い感情を味わうことができるのだが、白人の若いレコード購買者の琴線に触れたことは驚きだった。ベリー・ゴーディBerry Gordyは、モータウン・レコードMotown recordsでリリースした演奏ではこの要素を極力抑えた(ただし完全に消し去ったわけではない)が、間違いなくすぐに夢中になった。そしてアレサはもう一度やって、「リスペクトRespect」をポップのナンバーワンにした(たぶん最もくだらない動きは、ラジオのゴードン・マクレンドンGordon McLendonの「きれいな歌詞」運動のせいで、アトランティック・レコードAtlantic recordsが「リスペクトRespect」を編集して、バック・シンガーが「一発やる」と歌うのを止めたことだった。修正済みの歌詞はお店で売るバージョンには行かなかったが、ラジオ局はアトランティックの宣伝担当に「きれいな」レコードを要求した。フランクリンの2番目のアルバムはその夏に発売され、「アレサ・アライブズAretha Arrives」という名前だった。アレサは既にデビューしていたのだから誤ったタイトル名だった。

 

アレサが現れたのと同じ頃に、ロックンロールには大きな変化が訪れていたが、アメリカでは次の10年間、あまり大きな意味をなさなかった。ビートルズはシド・バーンスタインSid Bernsteinが申し出たニューヨークのシー・スタディアムShea Stadiumにおける2回のショーの200万ドルをきっぱり断ったのだが、その理由はおそらく、ファンが期待しているライブ演奏(たとえば、リボルバーRevolverのほとんどの曲)をすることができないというもっともな理由からだったろう。ビートルズはまだアルバムに収録されていない2曲を、2月にリリースしようとしていて、ヒットするだろうと考えていた。問題はイギリスで最も人気のあるポップ・ミュージック放送、BBCテレビのトップ・オブ・ザ・ポップスTop of the Popsだった。毎週木曜の夜、イギリスのティーンはテレビの前に座り、アナウンサーは「ウィークエンドが始まる!」と叫び、全英トップの曲のカウントダウンが始まるのだが、レコードに合わせてバンド自身が口パクをするのが特徴だった。この頃になると、この番組をあまり真剣に取り組んでいない演奏者も出てきて、リード・ギタリストが自分のソロをチューバで真似したり、同じように馬鹿げたことをした。ビートルズはそんなことをしなかった。もちろん楽曲を提供したが、それは新しい方法であって、スウェーデン人テレビ・ディレクターのピーター・ゴールドマンが作った2本の実験的映画で、この映画は「リボルバーRevolver」のジャケットを描いたハンブルグにおけるビートルズの友人、クラウス・フォアマンKlaus Voormannが推奨した。「ペニー・レインPenny Lane」は、バスの終点があるリバプールの通りで、終着駅が「ペニー・レインPenny Lane」となっている2階建てバスの映像もあったことを考えると、いくらか分かり易かった。最後は、ビートルズが馬に乗って、野外ステージのセットされている場所に来たけど演奏は無く、紅茶を楽しんだ後、テーブルをひっくり返した。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバーStrawberry Fields Forever」はもっと前衛的で、大きな枯れ木を中心にケトルドラムが散乱する野原を、ビートルズが駆け回るのだが、その枯れ木の前には壊れたピアノが弦を木につながれている。時間は昼から夜へと変わり、ビートルズの顔が映し出されて、ポールの顔は木の中にあり、電球らしきものを調整し、他のメンバーはピアノをペンキで塗っていた。こちらも演奏は無く、さらに「ペニー・レインPenny Lane」と違って、ジョン・レノンが子供の頃にいた家のそばにあった救世軍の児童養護施設、ストローベリー・フィールズStrawberry Fieldsを描くこともなかった。最初、イギリスのティーンは当惑したに違いなく、このシングルがチャートを上昇するにしたがって更に2回見ることになるが、この曲はイギリスで1位に届かなかった最初のシングルとなった。しかし、アメリカではビートルズがエド・サリバンEd Sullivanと契約を締結したので、この映像を一度見たアメリカの視聴者はもっと驚いた。ビートルズをもう一度見たいなら、家庭用ビデオテープの出現を待たなければならなかった。

5月、ママス&パパスThe Mamas and The Papasのレーベルで、「イブ・オブ・デストラクションEve of Destruction」をリリースしたダンヒル・レコードDunhill Recordsは、スコット・マッケンジーScott Mckenzieの「花のサンフランシスコSan Francisco(Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)を夏に向けて頑張っていた。マッケンジーはこの曲を書いたパパ・ジョン・フィリップスPapa John Phillipsと、かつて一緒に歌っていた。サンフランシスコの牧歌的な絵を描いたが、現実とはますます乖離していた。1967年の夏までには、メディアが『ヒッピーhippie』と名付けた文化のリーダー達は、サンフランシスコ、特にヘイトアシュベリーから去った。

1967年1月14日、様々のコミュニティ勢力が『ヒューマン・ビー・インHuman Be-In』のために集まったが、このイベントは特定の目的を持たず、そして特にスケジュールもなかった。ステージはゴールデン・ゲート・ブリッジのポロ・フィールドに設営され、大勢の文化の偉人たち(アレン・ギンズバーグAllen Ginsberg、詩人のゲーリー・スナイダーGary Snyder、ティモシー・リアリーTimothy Leary、レノア・カンデルLenore Kandel(性愛詩集ザ・ラブ・ブックThe Love Bookの詩人で、ヘイトストリートにあるお店は彼の卑猥な文学を売っていたとして摘発された)、哲学者アラン・ワッツ等)は、この「仲間たちの集まり」を主宰した。バンドが出演し演奏したが、その中にはクイック・シルバー・メッセンジャー・サービスQuicksilver Messenger Service、グレイトフル・デッドThe Grateful Dead、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplane、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーThe Big Brother and the Holding Companyもいて、オーディオ・エンジニアのオーズリー・スタンレーOwsley StanleyはLSDを配り、ヘルス・エンジェルスThe Hells Angelsは静かに座っていたが頭の中ではトリップしていた。最後には浜辺に行く者がいたり、アレン・ギンズバーグの指示でゴミを拾う者もいた。全体としてみれば、公園は平穏で素晴らしい日だったが、ヘイトアシュベリーの住人は、戻ってくる時に通りへ溢れ出て通行を妨げたので、大量に逮捕された。この地域の住民は危機感を抱いた。年の半ばに学校が休みになると、都市が何かを与えてくれると考える大勢の子供たちが押し寄せ、何か月にもわたってポツポツと確実に家出人が出てくる。ヒッピーの集会であるビーインのうわさが立った後は、ディガーズthe Diggersなどの反体制文化組織の提供するわずかな資源(無料の服や無料の食事)が、ますます必要になった。グレイトフル・デッドThe Grateful Deadは既にマリン郡へ、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneはファルトン・ストリート沿いの屋敷へさっさと立ち去った。スコット・マッケンジーScott Mckenzieのヒット曲「花のサンフランシスコSan Francisco(Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」は4位になったが、サンフランシスコの人には不人気だった。

それでもみんなが活動しなくなったわけではない。既にパパ・ジョン・フィリップスPapa John Phillipsとダンヒル・レコードDunhill recordsのトップになったルー・アドラーLou Adlerは、ビートルズの元広報担当デレク・テイラーDerek Taylorが企画した「ポップ・ミュージック・フェスティバルはどうだろうか?」というアイデアを聞いた。ロサンゼルスとサンフランシスコの中間にある都市のモンテレーはフェスティバルを開催する会場であり、そこではすでに重要なジャズフェスティバルが開催され、両都市で人気のあるバンドが揃っていた。ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは昨年のモンテレー・ジャズ・フェスティバルMonterey Jazz Festivalで演奏し、もちろんボブ・ディランBob Dylanはニューポートのフォーク・フェスティバルに出演した。ポップが独自のフェスティバルを開催したらどうだろう?誰も知らないうちに、アドラーLou AdlerとフィリップスJohn Phillipsは連絡を取って5月に第1回モンテレー国際ポップ・フェスティバルMonterey International Pop Festivalを公表したが、この二人が陣頭指揮を執る非営利財団法人が運営し、役員会にはドノバンDonovan、ミック・ジャガーMick Jagger、ポール・マッカートニーPaul McCartney、ジム・マクギンJim McGuinn、レコード・プロデューサーのテリー・メルチャーTerry Melcher、ジョニー・リバースJohnny Rivers、スモーキー・ロビンソンSmokey Robinson、ポール・サイモンPaul Simon、ブライアン・ウィルソンBrian Wilsonなどがいると発表した。収益はチャリティーに行くが、名前は明らかにされていない。この考えの一部は希望的観測で、リストに上がっても全く連絡を受けていないと主張する者もいたが、フィリップスとアドラーは先に進め、フェスティバルは6月16-18日にジャズ・フェスティバルの場所で開催されると発表した。

北のサンフランシスコでは、機械によってできた作り物のポップスLAバンドが、はたして、コミュニティによって支持されている、有機的なサンフランシスコのバンドと競えるのか、ラルフ・グリーソンには懐疑的だった。しかし、一生懸命に取り組んで、左派のサンフランシスコの雑誌であるランパーツ誌Rampartsからイベントを報道する仕事を受けた。主催者は、費用を支払うために間もなく上演するボブ・ディランBob Dylanのドキュメンタリー・フィルムを、制作者であるDAペネベーガー D.A.Pennebakerに、モンテレーで映画製作させた。出演者の顔ぶれは変わり続け、契約していないバンドが出演予定リストに載ったので、契約したがっていたレコード会社やマネジャーは喜んだ。注目を集めたバンドには、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brothers and The Holding Companyがいて、その新しいリード・シンガーになったジャニス・ジョプリンJanis Joplinは、テキサス出身のチェット・ヘルムズChet Helmsの旧友で、ジョプリンが生まれ故郷のポート・アーサーPort Arthurに戻ってチャンスを待っていたところ、ヘルムズが現れて西部へ連れて行ったのだ。バークレーのジャグ・バンド、カントリー・ジョー&フィッシュCountry Joe and The Fishは、左翼的政治活動をしてエレキ楽器を使いLSDをやっていた。他にはクイックシルバー・メッセンジャー・サービスQuicksilver Messenger Serviceやバッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfieldがいた。そしてマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldの新プロジェクト、エレクトリック・フラッグThe Electric Flagは『アメリカン・ミュージック・バンドAmerican music band』でビッグ・ホーン・セクションがあり、ものすごく大きな10代の黒人ドラマー兼ボーカリストのバディ・マイルズBuddy Milesはウィルソン・ピケットWilson Pickettに引き抜かれた。イギリスからは、一回限りの出演にしては旅行費用が高いのでそれほどの出演は無かったが、フーThe Whoが出演する予定だったのは、戻ってくるアメリカ人のジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixや、エリック・バードンと新たに結成したアニマルズEric Burdon and Animalsのように、フーはとにかくアメリカに居ようとしたからだ。ジャズ界からの出演は南アフリカのトランぺッターのヒュー・マセケラHugh Masekelaだった。ディオンヌ・ワーウィック&インプレッションズDionne Warwick and The Impressionsが直前になって参加しなくなった後、ソウル・ミュージックのフェスティバルへの唯一の出演者は、待望のオーティス・レディングOtis Reddingだった。最終日はラビ・シャンカーRavi Chankarが徹底して演奏できるように充てられ、ジョージ・ハリソンGeorge Harrisonが支援したおかげでアルバムの売り上げに拍車がかかったので、彼の人気は上昇していた。ビーチ・ボーイズThe Beach Boysは企画の後半でキャンセルし、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズSmokey Robinson and The Miraclesはそもそも出演予約するかどうかが不確定だったし、スモーキーがフェスティバルのディレクターとして何をするかも不確定だった。聴衆は、成果物として得られた映画の中で、ハイになった若い女性が端的にまとめたように「全く新しい波が来るのを待たなければならないような感じだし、その後に一連の新しいロックンロールバンドが来て、全く別のものを作り出す」、(そしてここでぴったりの言葉を探そうと一呼吸おいて)「でたらめ」なものを。

でたらめかどうかにかかわらず、ショーは続いた。DAペネベイカー D.A.Pennebakerのカメラ・クルーの中には、著名なスチール写真家のバリー・ファインスタインBarry Feinstein、後にドキュメンタリー作家になるアルバート・メイスルズAlbert Maysles、ジョーン・バエズの義理の兄で絵描きのブライス・マーデンBrice Mardenがいたし、一方でステージ・マネジャーは画家でありディランの身内であるボブ・ニューワースBob Neuwirthだった。全員を撮影する十分な量のフィルムもなかったし、すべてのステージを映すのに十分なフィルムもなかった。撮影はされたが結果として映画に登場しなかったバンドには、アソシエーションThe Association、ブルース・プロジェクトThe Blues Project、バファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfield、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Band、エレクトリック・フラッグThe Electric Flag、ローラ・ニーロLaura Nyroがいた。週末にはアングレイトフル・デッドThe “Ungrateful” Deadと呼ばれるグループが、映画撮影を拒否するだけでなく、ロサンゼルスの偽物の金儲け主義者と戦う自分たちのフェスティバルをすると脅し続けた。しかし、いつまでも心に残る演奏の中には映画になったものもある。ジャニス・ジョプリンJanis Joplinが熱心に歌っていたので、それを見たキャス・エリオットCass Elliotは驚いて「わー、すごい」と叫び、ピート・タウンシェンドPete Townshendは、フーのステージの最後に自分のギターを壊し、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixは負けじとばかりに爆発的勢いでステージに飛びあがり、演奏の最後にはギターにライターのオイルを浴びせて膝まづいて、おさらばしながら燃やし、オーティス・レディングOtis Reddingは、オープニング・ナンバーであるサム・クックSam Cookeの「シェイクShake」の後に一息ついたところで、全く新しい群衆の前で指導権を握って、「みんなは愛の群衆だよね?」といったところ、観客からものすごいどよめきが沸き起こった。「僕らはみんな愛し合ってるよね?」自分の今流行っている曲「アイブ・ビーン・ラビング・ユー・トゥー・ロングI’ve Been Loving You Too Long」を熱唱するとさらに歓声が上がった。これらはすべて忘れられないことであるけれど、フェスティバルを取材していたベテランのジャズ写真家ジム・マーシャルJim Marshalが、数年後に「モンテレーのステージ上でたくさんのアクションがあったが、本当のアクションはバーの中の楽屋でレコード会社の幹部が、誰が誰と契約するかの戦いをしていた」と語ったことは、単なる皮肉ではなかった。コロムビア・レコードColumbia recordsからは、ゴダード・リーバーソンGoddard Lieberson、野心的な若き弁護士のクライブ・デイビスClive Davis等3人の幹部が、RCAからはトップが来ていて、ジェリー・ウェクスラーはアトランティック・レコードAtlantic recordsとスタックス・レコードStax recordsを代表していた。ビル・グラハムBill Grahamも出席し、プロデューサーのアンドリュー・ルーグ・オールダムAndrew Loog Oldham、ジョン・サイモンJohn Simon、トム・ウィルソンTom Wilsonは綿密に観察していた。175,000人の群集は思い出を胸に去り、コロムビアはビッグ・ブラザーBig Brother、エレクトリック・フラッグElectric Flagと契約し、ローラ・ニーロのオプションを獲得して帰った。売り上げは50万ドル。悪くない。

その月のトップ10を見れば、間違いなく新世代が自分たちを印象付けたことが分かる。アソシエーションThe Associationの「ウィンディWindy」、ヤング・ラスカルズThe Young Rascalsの「グルービンGroovin’」、ミュージック・エクスプロージョンThe Music Explosionの「リトル・ビット・オ・ソウルLittle Bit O’ Soul」、マッケンジーの「花のサンフランシスコSan Francisco」、タートルズThe Turtlesの「シードゥ・ラザー・ビー・ウィズ・ミーShe’d Rather Be with Me」、アレサArethaの「リスペクトRespect」、フォー・シーズンスThe Four Seasonsの「君の瞳に恋してるCan’t Take My Eyes Off of You」、グラス・ルーツThe Grass Rootsの「今日を生きようLet’s Live for Today」、エブリ・マザーズ・サンEvery Mother’s Sonの「Come On Down to My Boat」、ペトラ・クラークPetula Clarkの「Don’t Sleep in the Subway」。その週は、珍しくモンキーズThe Monkeesがチャートにいなかった。そして、チャートに入っていた「作られたグループ」は、グラス・ルーツThe Grass Rootsとエブリ・マザーズ・サンEvery Mother’s Sonだけだった。グラス・ルーツは実在はしていたものの、実質的にはスティーブ・バリSteve BarriとPFスローン P.F.スローンの曲を売るための“器”のような存在だった。一方、エブリ・マザーズ・サンは、レーベルのMGMが寄せ集めた、ワン・ヒット・ワンダーだった。アルバム・チャートはあまり新しいものに飛びつく感じではなく、当時のアルバムは10代のレーダーに引っかかって来なかった。モンキーズの「ヘッド・クォーターズHeadquarters」と「モア・オブMore Of」、アレサ・フランクリンAretha Franklinのファースト・アルバム、そして「サーリアリスティック・ピローSurrealistic Pillow」しかトップ10に入らなかった。そして、なんと、ビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドSgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandとかいうものが、数週間前にリリースされて以来、ほぼトップに居座り続けた。

ブライアン・エプスタインBrian Epsteinは、「ペニー・レインPenny Lane」と「ストロベリー・フィールズ・フォーエバーStrawberry Fields Forever」がとても良いが、ビートルズの新アルバムによって、彼らが世界最高のバンドだということを証明したと言った。今や、どの大学の寮や高校生のベッドルームの窓から、ロンドンのキングズ・ロードやニューヨークのマクドゥーガル・ストリート、そしてもちろんサンフランシスコのヘイトストリートのあちこちから、大きな音で鳴るのが聞こえた。今から思えば、このアルバムはラバー・ソールRubber SoulやリボルバーRevolverと首尾一貫したもので、ジョン・レノンJohn Lennonの曲、リンゴRingoのボーカル、ストリングス入りのポールPaulのバラード、ジョージGeorgeのカレー風味の異国風の曲、そしてさらに何曲かがとてもきちんと配置され、最後にはまじめな謎の曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフA Day in the Life」が、「君をその気にさせたい」という有名なセリフで締めくくり、いくらか前衛的なオーケストラの演奏を特徴とした。エンジニアリングは素晴らしく、ビートルズがプロデューサーのジョージ・マーチンGeorge Martinと協力して考え出した音は前例がなく、そして最も重要なことは、このアルバムが正に最もふさわしい時にできたことだった。夏であり、モンテレーの後であり、素晴らしいシングルのすぐ後に続いていて、今までよりも多くの若者たちがマリファナやLSDをやったちょうどその時だった。気まぐれなジャケット・デザインであって、本物のビートルズが軍楽隊の衣装を着て、有名無名の人の写真やマダム・タッソー館Madame Tussaudsのろう人形のビートルズの前でポーズを取り、アルバムの名前をエドワーディアン・バンドEdwardian bandの『記念品』(架空だが)に書き込んだ。少しの間、ベトナム戦争、デトロイトとニューアークにおける人種暴動、そしてその他すべての悪いニュースが脇に退いた。

これに対して、ビーチ・ボーイズThe Beach Boys、ローリング・ストーンズThe Rolling Stones、ボブ・ディランBob Dylanは何を考えついたのかと思った人もいた。これに対する答えは複雑だ。ローリング・ストーンズはパーティーを開いた。よくあることだが、ストーンズはレコードをたくさん売り、狂ったようにツアーに行った。2月になると休みに入った。何人かは、常に揺れ動くロンドンを離れたところに立派な家を買って、パーティーで盛り上がった。1967年2月11日、ミック・ジャガーMick Jagger、キース・リチャーズKeith Richards、ジャガーのガールフレンドで歌手のマリアンヌ・フェイスフルMarianne Faithfull、そしてその他様々な人間が、ロンドンの南のサセックス州レッドランズにあるリチャーズの新居に来て、誰かがアメリカから持ち込んだ新しいLSDを飲み、数台の車に乗り込んで浜辺に行った。この数時間後、パーティー参加者は疲れて家に戻った。2月12日の早朝、マリアンヌ・フェイスフルはお風呂を入りに上の階に行ったが、数名が家の外に集まっていることに階下の誰かが気付いた。これはLSDによる幻覚症状(リチャーズは、侵入者が小人であると最初に考えたことを覚えているが)ではなく、タブロイド紙はイングランドの時と同様にストーンズを困らせ、ついにはニュース・オブ・ザ・ワールド紙the News of the Worldはやり過ぎてしまって、ブライアン・ジョーンズBrian Jonesによるつじつまの合わない薬物の話をジャガーのせいにし、ジャガーは弁護士を呼んで裁判所の令状で対抗した。これは宣戦布告も同然で、その日のレッドランズの家の外にいたのは、ウェストサセックス州警察官とニュース・オブ・ザ・ワールド誌the News of the Worldレポーターという組合わせで、午前3時にレッドランズの家から謎めいた電話で警告を受けていた。警察は署員をグループに分けて探していると、突然、毛皮の毛布をまとったマリアンヌが降りて来て、騒動を目の当たりにした。すべてを知り、理解した。様々な錠剤(中でもジャガーが合法的にイタリアで買ったアンフェタミンもあったが、常用者として登録されている客人の一人のためのヘロインもあった)と茶色っぽい塊の大麻が分析のために押収され、それ以外に、お土産用のホテルの石鹸、糖尿病とぜんそくの薬、たばこの吸い殻、誰かがテークアウトの食べ物を注文した際に持ってきたマスタードのパックも少しあった。裁判は6月に設定され、直接ストーンズに結びつく薬物(ほとんどは大麻の残留物)の量はわずかだったが、ジャガーとリチャーズの二人は投獄させられた。すぐに騒動となり、ニュース・オブ・ザ・ワールド紙the News of the Worldオフィスの前で自然発生的にデモが起こり、フーThe Whoは同情してジャガー・リチャーズの2曲をレコーディングして、48時間後にリリースした。いずれにしても弁護士は自分の役割を果たして異議を申し立て、二人は保釈金で解放された。ロンドンのタイムス紙Timesのエディターのウィリアム・リースモッグWilliam ReesMoggは、「些細なことに強大な権力を行使したのは誰だ?」という見出しの社説を書き、他の数紙が転載した。ファンに感謝する方法として、ストーンズはオリンピック・スタディオに乗り込み、「ダンディライオンDandelion」、B面が「ウィー・ラブ・ユーWe Love You」をレコーディングして、B面は刑務所の扉をバタンと締める音や刑務所長の足音を入れ、言うまでもなくバックのボーカルはジョン・レノンJohn Lennonとポール・マッカートニーPaul McCartneyだった。ほぼ無償だった。この逮捕劇に加え、ブライアン・ジョーンズBrian Jonesの精神不安定と肉体的健康状態の悪化(最近の麻薬逮捕のこともあったが、この件はそれほど大きく報じられなかった)によってアルバムは遅れ気味だったが、ストーンズは走り続けた。

ビーチ・ボーイズThe Beach Boysは違っていた。昨年秋の「グッド・バイブレーションズGood Vibrations」以来沈黙が続き、噂によればブライアン・ウィルソンBraian Wilsonは、「神へのティーンエイジ・シンフォニー」となる予定の「スマイルSmile(SMiLEという名前で有名だが) 」というタイトルのアルバム作成のためにスタディオで生活していた。新しい作詞家で小柄な南部出身のバン・ダイク・パークスVan Dyke Parksと一緒に仕事をし、そのパークスはしばらくLAでぶらぶらして、刺激的だがむしろ風変わりな歌詞を書いていた。ビーチ・ボーイズとキャピトル・レコードCapitol Recordsは新契約に関する訴訟にかかりきりだったが、7月後半のプレス・リリースで「ビーチ・ボーイズが運営するブラザーBrotherという新しいレーベルに流通させることでキャピトルが合意した」と発表した。その後、「スマイルSmile」アルバムにとってのじらし広告となる「ヒーローズ・アンド・ビレインズHeroes and Villains」というタイトルのビーチ・ボーイズの新しいシングルを出したが、すぐに、より保守的なグループ・メンバー(特にマイク・ラブMike Love)が、複雑すぎてあまり「楽しく」ないと言った。パークスParksの歌詞は刺激的(ブライアンがレオナード・バーンスタインLeonard Bernsteinテレビ・スペシャルで演奏した「サーフズ・アップSurf’s Up」ほどは不可解でなかった。ただし、「円柱状の廃墟ドミノ」とはどういう意味なのか?)だが確かに謎めいていて、このシングルは12位にまで上がるのがやっとだった。ブライアンはこの時点で要素(大地、風、火、水)に関するインストゥルメンタルの組曲を書いていて、「ファイヤーFire」をレコーディングする間は、スタディオ・ミュージシャンに子供用のプラスティック製消防士ヘルメットをかぶらせたのだが、そのあと近くのビルが夜間に燃え、過労で、発見できない何かを追い求めていたブライアンは倒れ、「スマイルSmile」を完成させないまま自宅に引きこもり、再び姿を現したのは1976年だった。「スマイルSmile」は、オリジナル・テープから慎重に再構成され、2011年に出た。

ボブ・ディランにとっても、引きこもりはとても意義のあることだった。ウッドストックに自宅を持ち、妻のサラと二人はお互いによく知るようになるとともに、彼のバンドは町の周りに落ち着いていたが、最も有名だったのはニューヨーク州ウェストソーガティズにある大きなピンクの家だった。オフィスに通う郊外居住者のように、ディランはその家にふらりと立ち寄り始め、フォークソング、ジョニー・キャッシュJohnny Cashの曲、そして良いと思った曲は何でも、様々なコンビネーションでバンドと即興演奏を楽しんだ。そのうちにキーボード奏者のガース・ハドソンHarth Hudsonが、自分のウォレンサックWollensak製テープレコーダーを地下に持ち込んでテープを回した。ディランはいくつか自作の新曲を持ち込み始め、リック・ダンコRick Danko等ほかの何人かが手伝って数曲を形にした。10月になると、アルバート・グロスマンAlbert Grossmanはハドソンに頼んで、このインフォーマルなセッションで作ったベストと感じた10曲を編集し、デモ・テープを様々なパフォーマーに送ってそれを録音してもらい、発生する多少の著作権料を払ってくれるようにした。しかし、これらの曲をプロがレコーディングし始めるまでには少し時間がかかったし、多くの曲はレコーディングされなかった。

サージェント・ペパーSgt. Pepper」は画期的なアルバムで、メディアの注目を大いに集めた一方で、画期的なシングルがほとんど同じ日にリリースされた。パラマウンツThe Paramountsはロンドンの真西のエセックス郡にある海辺の町、サウスエンド出身のバンドであり、そこにはたくさんのバンドがいて、ほとんどがアメリカR&Bのカバー・バージョンを演奏して音楽の腕を磨く場所があった。パラマウンツは上昇志向が強かったが、レコード契約などの試みはうまくいかず、バンドは解散した。しかし、ピアニストのゲーリー・ブルーカーGary Brookerはあきらめるつもりが全くなく、魅力的で変わった歌詞を書くキース・ライドKeith Reidを見つけた後は特にやる気になって、ミュージシャンを求める広告をメロディ・メーカー誌Melody Makerに出し、すぐに何人か見つかった。マネジャー兼プロデューサーでブルーカーの旧友、デニー・コーデルDenny Cordellと一緒にスタディオに入り、今までに作った曲の中で最高だと考えた曲「青い影A Whiter Shade of Pale」をレコーディングして、プロコル・ハルムProcol Harumの名前で発売した。この曲名の意味や由来、誰かの猫の血統書かどうか、『これらの物とは全く異なっている』か、ラテン語で『とんでもない』とたぶん誰かが考えたのだろうが、そのラテン語を取り違えたものかどうか、は誰にもわからない。ライドの詩はとても神秘的で、バッハの管弦楽組曲第3番のコード進行をブルーカーが当てはめたことで、堂々とした感じになり、マシュー・フィッシャーMatthew Fisherによるクラシックなサウンドのオルガン演奏とスロー・テンポによって、忘れがたい曲となった。そのリリースはタイミングも良く、チャートに載り、特にアメリカではゆっくり上昇したので、新学期における夏のスロウ・ダンスとしてうまくヒットした。当時は誰も分からなかったが、新ジャンルの先触れとなり、その後数年かけてゆっくり上昇して『プログレッシブ・ロック』という名前になった。それに合わせてダンスすることはたいていできない(特にスロウ・ダンスでは)が、すごい曲になっていった。プロコル・ハルムについては、アルバムと次のシングル(「ホンブルグHomburg」であり、かなり良かった)をリリースしてキャリアをスタートさせ、10年間続いた後1990年代初期に復活した。

もし聴衆がヒット曲を作るのであれば、ヒット・メーカーをダメにしてしまうことも有る。6月にギタリストのザル・ヤノフスキ―Zal Yanovskyがラビン・スプンフルLovin’ Spoonfulを辞めたが、ちょうどその時バンドはトップ10ヒットが8曲になったところだった。このことで、アメリカの最も人気あるバンドをあっけなく崩壊させることになった。何が起こったかというと、どうやら、ヤノフスキーとベーシストのスティーブ・ブーンSteve Booneがサンフランシスコにおいて1966年のある日、マリファナのために逮捕されたということだったらしい。麻薬逮捕した取締官は、マリファナを売った人間を明かせば放免してやると持ち掛けた。二人が躊躇していると、誰でも良いから麻薬の売人を見つけて、そこからいくらか買って密告するよう求められた。そこで友人のそのまた友人のところへ行ってマリファナを買い、警察に届け出て名前を告げた。音楽評論家ラルフ・グリーソンによれば、弁護費用として2,500ドルの入った封筒がその売人に届けられ、バンドと警察の間で取り決められた合意書のコピー数枚がマスコミにそっと渡された。誰かがロサンゼルス・フリー・プレスLos Angeles Free Pressに全面広告を出して、スプーンフル、そのレコード、コンサートをボイコットし、女の子たちにはセックスしないことを求めた。ブーンは有罪にひどく苦しみ、密売人の刑罰を免れることを願って自分たちの行ったことを認める宣誓供述書を提出したが、ザルZal Yanovskyはカナダ人だったので送還されることを恐れた。ボイコットは功を奏し、ジョン・セバスチャンJohn Sebastianはザルの代わりにLAのフォーク歌手、ジェリー・イエスターJerry Yesterを雇ったが、バンドは終わった。ヤノボブスキーのソロ・レコードは売れず、すぐにセバスチャンはグループから離脱した。グループは、本質的にドラマーのジョー・バトラーJoe Butlerとスタディオ・ミュージシャンたちが、バンドとしてMGM/Kama Sutraに提示していた内容を履行した。しばらくして、ソロ・アルバム「ジョンB. セバスチャン John B. Sebastian」はMGMとワーナー・ブラザースWarner Bros.の両レーベルから発売になったが、全く同じアルバムだった。弁護士以外は誰もこの件で儲からなかった。

才能あるバンドを潰すのにミュージシャンの失敗は不要で、レコード会社やマネジャーの無能と欲深さだけで十分だった。1967年にサンフランシスコのダンスホールで、更に人気のある新しいバンドの一つがモビー・グレープMoby Grapeだったが、このバンドには、ジェファーソン・エアプレインJefferson Airplaneの後期ドラマー、スキップ・スペンスSkip Spenceと3人のギタリストという面白い連中がいた。5人のバンド・メンバー全員が様々なスタイルで素晴らしい歌を書いた。モンテレーだけでなくダンスルームでよく演奏し、このころまでには既にコロムビア・レコードColumbia recordsが契約済みだった。レコーディングしきれないほどたくさんの曲に恵まれて、すぐにアルバムを作った。6月初めまでにすべては整った。コロムビアは、このアルバムにはヒット曲が目白押しだと踏み、宣伝に一切金を惜しまなかった。6月6日にアバロン・ボールルームAvalon Ballroomを借りてすべて紫の飾りつけをし、ケータリングまでも紫の食べ物を用意した。マスコミは「モビー・グレープMoby Grape」というタイトルのアルバムを受け取ったが・・・、すべてが瓦解した。パーティーの後、未明に、ピーター・ルイスPeter Lewis、スキップ・スペンスSkip Spence、ジェリー・ミラーJerry Millerが、ティーンエイジャーの女の子と一緒に、ワゴン車の後部でマリファナを吸っているところを警官に見つかった。翌日、コロムビア・レコードは前例のない愚かなことをしたのだが、それは、アルバムと一緒にシングル5枚を一緒にリリースしたのだ。それは、このグループには5人のソングライターがいることを示す方法だった!ラジオ番組制作者は推薦する1曲を見つけるために10曲をかけなくても構わないし、あるいは、もし仮にかけた場合に、どの1曲が良いかに同意しなくても構わない。そうだ、それからアルバムのジャケットを見てから、アルバムについてくるポスターを見ると、グループがもっと大きく見える。ピーター・ルイスPeter Lewisの指に注目!出回っているアルバムを回収して、突き出した中指を修正するしかない。信じられないことだが、これはこのバンドの悲惨な経歴の始まりで、その特徴はドラッグ、暴力であるとともに、スキップ・スペンスSkip Spenceは何度も精神病院に入って消え(そして1969年に今までで最も奇妙なアルバム「オールOar」)、分裂、再結成、偽のモビー・グレープスMoby Grapesの全国ツアー、などなど。劇的な事件があったものの、素晴らしい音楽を生み出し、特に最初のアルバムは素晴らしかった。

 

ヒッピーの放埓な世界に比べると、ソウル・ミュージックは正気の世界で、日の出の勢いだった「ディープ・ソウル」と呼ばれるようになったものは、アレサ・フランクリンAretha Franklin、オーティス・レディングOtis Redding、サム&デイブSam and Dave、パーシー・スレッジPercy Sledgeが先頭に立ち、小レーベルにはパーラメンツThe Parliamentsなどがいた。このグループはニュージャージー州北部にあるバーゲンフィールドの床屋の裏部屋で結成され、そこからデトロイトに行き、ヒッツビルUSA Hitsville U.S.Aオフィスの前までガタガタのバスを運転して行って、オーディションを受けたいと願って車を停めた。ついにオーディションを一回受けたが、採用されなかったので、最高の曲「テスティファイ(I Wanna)Testify」を、ベリー・ゴーディBerry Gordyに採用されなかった曲を扱うデトロイトのレーベルの一つであるレビロット・レコードRevilot recordsに持ち込んだ。すべてのディープ・ソウルのように、この曲は演奏も歌詞も教会色が強かった。次の曲の「オール・ユア・グッディーズ・アー・ゴーンAll Your Goodies Are Gone」は少し変わっていたが、これも良く売れた。その後、レビロットは消滅し、倒産の過程でバンド名の権利を失った。彼らは将来復活する。

ディープ・ソウルの優位性に疑いの余地はなかったが、黒人音楽のチャートには他に二つのことが起こっていた。ジェームス・ブラウンJame Brownは、新しいバンドに取り組んでいて、前のグループにいたメイシオ・パーカーMaceo Parkerを残し、ホーン・セクションに加えたが、そこにはリチャード・クシュ・グリフィスRichard “Kush” Griffith、フレッド・ウェズレーFred Wesley、ピー・ウィー・エリス”Pee Wee” Ellis、セント・クレア・ピンクに―St.Clair Pinckneyもいた。リズム・セクションをしっかりさせるのは極めて重要だ。ボビー・ブランドBobby Blandのドラマー、ジョン・ジャボ・スタークスJohn “Jabo” Starksを引き抜き、ずっと若いドラマーのクライド・スタブルフィールドClyde Stubblefieldをセカンド・ドラマーの座に据えた。スタブルフィールドは主要なレコーディング・ドラマーになるのだが、スタークスとスタブルフィールドの二人は一緒になってブラウンのライブ・ショーを盛り上げた。ブラウンはよくシングルのために長いジャムを録音し短縮して、ノーカット版をアルバムでリリースしていたが、1967年には停止と起動を繰り返す曲「コールド・スウェットCold Sweat」を出し、R&Bの第1位、ポップでもトップ10になった。

以前はソウルの中心地とは知られていなかったアリゾナ州フェニックスで、さらに過激なバンドが進化していた。オハイオ出身のベテラン・ボーカル・グループ、オージェイズThe O’jaysは60年代初頭から活動しており、ツアーでは十分に成功していたが、レコード購買層との相性は悪かった。彼らはフェニックスに落ち着いたのだが、そこで彼らのスポンサーである地元DJ、エディ・オージェイEddie O’Jayにちなんで名前を変更した。オージェイは何らかの形でバッファローにおいてこのグループ、カールラルー&クルーCarl LaRue and The Crewのことを聞き及んでいたのだろう。オージェイは、オージェイズを盛り立てていくために、ソウル・ファンは多いがバンドが少ないフェニックスにオージェイズを招いて支援したが、ラルーはこの地が気に入らなかったので出て行った。オージェイズは、演奏が上達しツアーを始めると、自分たちも出て行くことに決めた。残ったクルーThe Crewのメンバーはスリー・ブレイザーズThe Three Blazersと改名し、ブロードウェイ・ストロールのフェニックス版を歩いて探し、ついに出演したいというクラブを見つけた。感謝の気持ちから「ファンキー・ブロードウェイFunky Broadway」という曲を書き、シンプルな歌詞で1コードしか使っていないのに、ダンサーたちが気に入った。それを補ったのがベーシストのアルビン・バトルAlvin Battleとドラマーのウィリー・アールWillie Earl(彼はこの曲を最大10分まで延ばした)による信じられないようなリズム・セクションと、元ベーシストで現在リード・シンガーのアーレスター・ダイク・クリスチャンArlester “Dyke” Christianの喘いで、吠えるようなボーカルだった。「オールディーズ・バット・グッディーズOldies but Goodies」シリーズで大もうけしたアート・ラボ―Art Laboeがどうしてそれを聞いたか、あるいはなぜ、これが次の大ブームになると判断したかは分からないが、1967年の夏、「ファンキー・ブロードウェイFunky Broadway」は二つのパートに分かれ、ラボーLaboeが所有するレーベル、オリジナル・サウンド・レコードOriginal Sound recordsからシングルとして派手に宣伝し、チャートを上り始めた。実際よりももっとうまいやりようは確かにあっただろうが、ウィルソン・ピケットWilson Pickettはそれを聞いてレコーディングし、アトランティック・レコードAtlantic recordsのはるかに洗練された宣伝機構が彼のために頑張り、R&Bチャートのトップとポップ・チャートのトップ10に押し上げた。しかし、ブレイザーズThe Blazersはレコードづくりのエキスパートであり、後に残した33曲(その中にはもっと大ヒットした「ウィー・ゴット・モア・ソウルWe Got More Soul」、「レット・ア・ウーマン・ビー・アウーマン――レット・ア・マン・ビー・ア・マンLet a Woman Be a Woman——Let a Man Be a Man」もあった)をダンサーやミュージシャンが熱心に聴いた。ここには何か新しいことが起きている。ジェームス・ブラウンでさえダイクDykeをステージ上の脅威と考えていたが感動し、確かに関心を持って聞いていた人の中にはスライ・ストーンSly Stoneがいて、ストーンはオータム・レコードAutumn Recordsにおけるトム・ドナヒューTom Donahueの元パートナーで、サンフランシスコのヒッピー精神を十分に吸い込んでいた。彼がファミリー・ストーンThe Family Stoneと名付けた性別も人種も混合のバンドを結成し、このバンドは秋にエピック・レコードEpic recordsから最初のアルバムの「ア・ホール・ニュー・シングA Whole New Thing」を発売した。もし、1971年にダイクDykeがわずか28歳の時、ブロードウェイにおいて麻薬取引で撃ち殺されなければ、何が起きていたかは誰にもわからない。

伝統を守り、まどろんでいるカントリー・ミュージックの世界にさえ、新しいことが起こっていた。ポピュラー・ミュージックの他の分野と同じように、カントリー・ミュージックも若い演奏者が入ってきたが、窮屈なナッシュビルの機構は多くの創造性ある者にとって息苦しいものだった。それはカントリーに限ったわけではなく、他も同じで、MGMはロイオービソンRoy Orbisonとの契約を1965年に買い取り、オービソンが全国を回ってバスの中で生活している間、3週に1枚ずつ、駄作のシングルを発売していた。しかし、風変わりなクロスオーバーのシンガーソングライター、ロジャー・ミラーRoger Millerを皮切りに、新しい血もこの業界に入りつつあった。ウィリー・ネルソンWillie Nelsonは他の人のために書いたヒット曲のアルバムを作るのをやめて1965年にRCAと契約し、必ずしもカントリー・チャートを賑わすほどではなかったが、「ワン・イン・ア・ローOne in a Row」、「ザ・パーティーズ・オーバーThe Party’s Over」などの荒涼として重苦しい曲で名を馳せるようになった。ツアーにたくさん行ったが、そこにいつもいたのが、ファウストに登場する悪魔のメフィストフェレスのようなドラマーであるポール・イングリッシュPaul English(ネルソンの名作「ミー・アンド・ポールMe and Paul」の中で称えられている)で、ベーシストのビー・スピアーズBee Spearsともよく一緒にいた。コンサートのメイン出演者になることもあったし、レイ・プライスRay Price(そのバンドには自身やロジャー・ミラーRoger Millerが在籍していたこともあった)のような友人の前座を務めることもあったが、自身が支持していてかなり一般的なカントリー曲(普通だが大して魅力のない曲)を演奏する新人のカントリー・タレント、チャーリー・プライドCharley Prideが自身のショーで前座を務めた時は騒動になった。『カントリー』という部分は必要で、なぜならプライドは…黒人だったからだ。ネルソンはプライドがRCAと契約するために骨を折った人の一人で、プライドは1967年に「ダズ・マイ・リング・ハート・ユア・フィンガーDoes My Ring Hurt Your Finger」を編曲し、何百万ドルも稼いでキャリアをスタートさせ、1980年代初期までにわたって、驚くほどの長い間、ナンバーワン・カントリーのヒット曲をプロデュースすることになる。

ビルボード誌Billboardは1967年10月、「C&Wの危機、若手アーティストがロックの世界に向かう」という見出しの時評を掲載した。それはトラック運転という新しいサブジャンルにデーブ・ダドレーDave Dudleyが火を点けたということだった。また、ウェイロン・ジェニングスWaylon Jenningsは、バディ・ホリーBuddy Hollyの弟分で、死者の出た飛行機墜落事故で自分の席を譲った人間だったが、今や、ナッシュビル・ソウル(ジョー・サイモンJoe Simonの「ザ・チョーキン・カインドThe Chokin’ Kind」)、フォークソング(ゴードン・ライトフットGordon Lightfootの「ザッツ・ホワット・ユー・ゲット・フォー・ラビン・ミーThat’s What You Get for Lovin’ Me」)、そして数曲はナッシュビルタイプの難解な歌(メル・ティルスの「メンタル・リベンジMental Revenge」)をカバーしていたが、テキサス恐怖症のナッシュビルではまだ受けいれられなかった。もう一人の若きタレント、メルル・ハガードMerle Haggardは、サンクエンティンで仕事をした後、カリフォルニアのベーカーズフィールドで安酒場から這い上がって、「ブランデッド・マンBranded Man」や「シング・ミー・バック・ホームSing Me Back Home」などの、自伝的な反逆の歌を書き、LAのキャピトル・レコードCapitol recordsでレコーディングしたので、ナッシュビルが自分について何を考えているかはあまり気にしなかった。この記事には、ナッシュビルはジョニー・キャッシュJohnny Cashやジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisを追い出し、「ゴールデン・アイドルGolden Idol」というシングルのチャンスを逃したと書いてあった。この曲は元セシル・ロードス奨学生が書いた数曲をキャッシュが聞き、その時に清掃員として働いていた人間をキャッシュが契約したのだったが、それがクリス・クリストファーソンKris Kristoffersonだった。

しかし、1967年最大のカントリー・クロスオーバーは、ボビー・ジェントリーBobbie Gentryの「ザ・ヒッピー・フロム・ミシシッピーThe Hippie from Mississippi」で、彼女は、自作の謎の名作物語「ビリー・ジョーの唄Ode to Billie Joe」について説明を拒否したので、夏のほとんどをポップ・チャートのトップにいた間、リスナーはじらされた。曲作りを物語風に取り組むことも、トムTホール Tom T. Hallのキャリアを後押しして、1967年に最初のシングルを出し、翌年の「ザ・バラード・オブ・フォーティー・ダラーズThe Ballad of Forty Dollars」で本領を発揮し、この曲を皮切りに20年間、ほとんど物語風の曲を続けた。

しかし、ナッシュビルにおける古いやり方は、直ちに成功したわけではなかったものの、何とか新しい女性スターを誕生させた。大物男性スターが女性シンガーを自分のショーに連れて行くのは伝統で、デュエットを歌い、スポットライトを渡してソロ・ナンバーを数曲歌わせ、その曲がヒットすることを願ってレコーディングするものだった。ポーター・ワゴナーPorter Wagonerはノーマ・ジーンNorma Jeanと一緒に活動したが、弾みがつかないので、RCAの新契約歌手のドリー・パートンDolly Partonがワゴナーに加わった。パートンはモニュメント・レコードMonument recordsでぱっとしないレコードを連続して出した後、1967年初めに「ダム・ブロンドDumb Blonde」(キャリアは実質的に1959年に13歳の時、調子はずれの「パピー・ラブPuppy Love」で始まっていた)で少しヒットし、ワゴナーとのデュエットとソロのキャリアを開始し、パートンの運勢がワゴナーを超えるまで10年以上続いた。

8月27日、ビートルズThe Beatles関係者、そしてそれどころかイギリスのポップ業界は、マネジャーのブライアン・エプスタインBrian Epsteinが、自宅で死んでいるところを発見されたというニュースにショックを受けた。この知らせが届いたのは4人組のキャリアにとって非常に奇妙な時で、ジョージ・ハリソンGeorge Harrisonの妻、パティPattiの影響で、インド人教祖のマハリシ・マヘシュ・ヨギMaharishi Mahesh Yogiに関心を持っていた時だった。ヨギは、超越瞑想Transcendental Meditationと名付けたヒンドゥー教の大衆版を普及させていた。指示を受け、その最後に短い言葉、つまり真言を授かって、あるものを成就するためにそれを使う。ほとんどのヒンドゥー教信者は、その商業主義のために軽蔑していた(西洋人はお金のかからない悟りは評価に値しないというのがマハリシの考えだった)が、信奉者の商才のおかげで、教祖のセールス講義に出席し、少なくとも自分たちには超越瞑想が効くという話を広めた。エプスタインが死ぬ数週間前、ビートルズはロンドンでの講義に参加し、即座に契約した。真言を受ける準備のために、ノースウェールズのキャンプに行き、そこでパティは何かあるといけないので、全員が泊まる宿舎に一つだけある電話の番号をロンドン・オフィスに伝えた。グループへの教えが始まり、新たな瞑想の修業をどうやるかについて考えようとしていた時に、その知らせを伝える電話が鳴った。

一体何が起きたかは、良く分からなかった。ブライアン・エプスタインBrian Epsteinは特に陽気な人間というわけでは決してなかった。ビートルズなど最も近親の人間しか知らない秘密があった。ゲイだった。当時のイギリスでは(特に経済規模が大きくショービジネスの世界では)同性愛は大いに注目を浴びると同時に、守らなければならない秘密で、しかもエプスタインの場合のように、荒っぽい取引や若い男娼が好みの場合にはなおさらで、完全に違法で刑罰は投獄なのだから。罪の意識とストレスが徐々にエプスタインをむしばみ、マネジメント会社のネムスNEMSが新たなクライアントを付け加えるにつれ、そして、ビートルズがツアー・バンドからレコーディングだけのバンドに変化するにつれて一層悪化した。そして、エプスタイン帝国が成長するにつれ(人気の出始めたスターのクリームCreamやオーストラリアから来た3人兄弟のビージースThe Bee Geesなどをクライアントにしていた別のパートナー、ロバート・スティグウッドRobert Stigwoodを連れてきたのは最近だった)、ストレスは募るばかりだった。最初エプスタインは1年前に自殺を図ったが、友人たちが間一髪で発見し、病院に入れないことによって新聞沙汰にならないようにした。彼はメモを残し、ある薬をたまたま1錠多く飲み過ぎただけだという主張したけれども、内部関係者はそれが本当でないことを知っていた。今度は違っていた。週末に田舎の邸宅へ友人数名を招き、友人たちは彼の行動が注意散漫であることに気付いたが、それは今に始まったことではなかった。彼はパーティーのために若い男娼を数人寄せ集めようとしたが遅すぎて、祭日と重なる週末のために、彼の使っている慎重な代理店はすべて予約済みだった。ディナーを食べ、ワインをかなり飲んだ後、ドライブに行ってくると告げ、友人たちを残して出て行ったが、しばらくしても戻ってこないので、お客たちは心配になった。ロンドンの彼のアパートに電話すると、執事のアントニオAntonioから、エプスタインは到着してまっすぐ床に入り今は寝ていると言われた。土曜の午後、エプスタインは電話をかけ、運転して戻ると言ったが、意識がもうろうとしているようだったので、お客たちは電車に乗った方が良いと諭した。彼は同意した。彼は現れなかったので翌日には心配になり、ブライアンの秘書に、主治医ではなく近くに住む別の医者に電話するよう注意を呼びかけた。厚いオーク材でできた寝室のドアには錠がかかっており、医師が到着した時に医者とアントニオが強く叩いて中に入った。ブライアンはベッドの上で死んでいたが、死因は抗てんかん薬のカルバトロールの度重なる過剰摂取であることが分かり、これは致死量に至るまで体内に蓄積された睡眠薬の中にあった化学物質だった。

ジョージの妻のパティ・ボイドPatti Boydの残した電話番号を誰かが見つけ電話した。ポールがこの知らせを最初に聞き、なぜか報道が気づいたので警戒しろとも言われた。4人はマハリシと秘密会議を開き、ブライアンの死は単に物理的なものに過ぎないということをマハリシは4人に確信させるとともに、花を渡して押しつぶし、生物は水と物質に過ぎないことを確かめるように指示した。彼らはそれから出て行って報道陣に会い、どんなにショックであったかというありきたりのコメントを言ったが、ジョージだけは死が現実ではないと繰り返した。現実は、ビートルズにはもうマネジャーがいないということであったが、それに対処してはいなかった。ニューヨークではアレン・クレインAllen Kleinという会計士が長期間待っていた時がついにやって来たと思った。友人と一緒にジョージ・ワシントン・ブリッジを車で渡っているときに、ラジオでこのニュースを聞き、指を鳴らして「俺のもんだ!」と言った。

クレインKleinは勢いに乗っていた。1931年生まれで、未払いの印税を明らかにしてそれを支払わせることのできる恐れを知らない男として有名になり、百万ドルを支払ってくれるマネジャーとして契約を結ぶのだ。ルーレット・レコードRoulette Recordsの社長でマフィアとの関係があるモーリス・レビーMorris Levyを脅して、顧客の金をせしめ、1963年には、最初のビッグ・スターであるサム・クックSam Cookeを顧客に加え、クックとRCAレコード RCA Recordsとの関係を解決した。クックの会計士になったばかりかマネジャーにもなり、クックの死後に遺産管理人になった。次はデーブ・クラーク・ファイブDave Clark Fiveで、この関係のおかげでクレインは英国税法を学び、面倒な仕事でも自信をもって片付けた。その仕事をこなしたので、アニマルズThe Animalsに取り掛かった。1965年までにローリング・ストーンズThe Rolling Stonesのマネジャーのアンドリュー・ルーグ・オルダムAndrew Loog Oldhamはパートナーのエリック・イーストンEric Eeastonが嫌になり、「サティスファクションSatisfaction」でスターダムにのし上がったストーンズにアドバイスしてくれる人間を探していた。クレインはぴったりの人間だった。契約書を精査すると、穴だらけだということが分かり、仕事に取り掛かった。ごたごたが解決すると、ストーンズは百万長者への道を突き進んだ。ポール・マッカートニーPaul McCartneyは詳細についてブライアンのところに行き、自分たちの売っているレコード枚数がストーンズより多いのに、なぜ同様の契約を結ばないかを尋ねた。クレインは、キンクスThe Kinks、ドノバンDonovan、ミッキー・モストMickie Most、フーThe Whoとの取引がまとまるようにどんどん推し進め、英米両国の知識を使ってアーティストに金を儲けさせた(そして、もちろん、彼自身も)が、大きな獲物であるビートルズThe Beatlesから目を離すことは無かった。ブライアン・エプスタインBrian Epsteinが死んだために、ネムスNEMSは弟のクライブCliveのところに転がり込んだが、クライブは、バンドの財務顧問が提示したアップルAppleという節税構想にかかわるよりもネムスを存続させる方に関心があった。しかし、クレインに適用される形容詞(非情な、残忍な、道徳心がない、傲慢な、不愛想な、悪党のような)の中で、忍耐強いをいやいやながら付け加えなければならない。ほぼ、彼の手中に入ったのは事実だが、どう取り組むか?チャンスが来るのを待った。

 

秋が近付いていたが、秋ということは夏が終わったことを意味する。1967年夏は、後にヒッピーの絶頂期となるサマー・オブ・ラブとして銘打たれ、ヘイト通りとアシュベリー通りの交差点にあるノスタルジックな絵の道路標識、顔を塗ったヒッピー、ライブハウスのフィルモアFillmore やAvalonアバロンにおける恍惚としたダンス等くだらないものがあふれた。現実は全く違っていて、ヘイトアシュベリーはまだ麻薬を手に入れて、のみやすい場所で、メタンフェタミンやヘロインはマリファナやLSDと同じように簡単に見つけられるし、アルコール、特に安いワイン・ベースの製品は混合された状態でとても簡単に手に入った。この界隈で最も重要なお店は格好の良いブティックではなく、7月7日にちょうど良いタイミングで開院したヘイトアシュベリー・フリー・クリニックHaight-Ashbury Free Clinicだった。開院したのは、丘を登ったサンフランシスコ・ジェネラル・ホスピタルでインターンをしたデビッド・スミスDavid Smithという名前の、若く理想主義者の医学生だった。このクリニックだけでは、扱っている過剰摂取、レイプ、幻覚状態に対して大したことはできなかったが、大いに害を低減した。

それでもバンドはサンフランシスコに来続け、スティーブ・ミラー・ブルース・バンドThe Steve Miller Blues Bandを始めたのは、若いダラサイトDallasiteであり、医師である彼の父親は、Tボーン・ウォーカー T-Bone Walkerやレス・ポールLes Paulなどのミュージシャンを値引きした料金で治療し、ポールは若いミラーMillerにギターを教えることで治療費を払ったこともあった。ミラーはシカゴ経由でサンフランシスコにやって来て、バリー・ゴールドバーグBarry Goldbergと一緒にバンドを持ったが短命に終わり、すぐに幼馴染のウィリアム・ボズ・スキャッグスWilliam “Boz” Scaggsと再結成した。カリフォルニアに着くとすぐに、キャピタル・レコードCapitol Recordsからの契約したいという熱意にほだされ、伝えられるところによればロックバンドが受けた中では最高の前払い金だったので、名前から『ブルースBlues』を外した。最初のアルバムのジャケットは、アングラ漫画家でポスター・アーティスト、そしてサンフランシスコ・アート・インスティチュートSan Francisco Art Institute教官であるビクター・モスコソVictor Moscosoが作成した。

サンフランシスコに来たもう一人のテキサス人は、最近までサー・ダグラス・クインテットSir Douglas Quintetにいたダグ・サームDoug Sahmで、1966年のマリファナの手入れのために元のバンドは解散した。サンフランシスコに向かい、そこで新たなバンドと一緒にレコーディングし、一緒に州内を演奏して回り、グレイトフル・デッドThe Grateful Deadと友達になった。マザー・アースMother Earthは、カリフォルニアにやって来たのであれ、あるいはそこで結成されただけなのであれ、かつては力強いフォーク・シンガーで、カントリーとブルースを歌えるアルトのトレーシー・ネルソンTracy Nelsonがリーダーのバンドだった。もう一つのバンド、マッド・リバーMad Riverはオハイオ州アンティオーク大学で結成され西部に移ると、自分たちでEPを作った後、タイミング良くキャピトル・レコードCapitol recordsが熱心に口説いてすっかりその気になり、同じくキャピトルと契約したヒッピー詩人のリチャード・ブローティガンRichard Brautiganは彼らのファンだった。ヤングブラッズThe Youngbloodsは、ボストンのフォーク・シンガー、ジェシー・コリン・ヤングJesse Colin Young、ジェリー・コービットJerry Corbitt、ローウェル・バナナ・レビンジャーLowell “Banana” Levingerを中心にしたバンドであり、RCAでアルバムを作り始めたが、故郷よりもカリフォルニアでの人気が高かったようなので、マリン郡に行くことにした。このことは、ソロのキャリアを選んだコービットにとって納得できなかった。そこでヤングブラッズは、ニューヨークにいるボストン・フォークソングのバンド、オートサルベージThe Autosalvage(RCAからアルバムも出していた)から数人を好条件で転籍させようと説得したが失敗した。このバンドは、リーダーのリック・ターナーRick Turnerとトム・ダナハーTom Danaherがマリン行きに大賛成だったが、リズム・セクションを説得することができなかった。彼らのアルバムはこの時代のヒットしなかった名作の一つで、結局ターナーはカリフォルニアに行ってグレイトフル・デッドThe Grateful Deadなどのために最高級のギターを制作した。マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldのグループ、エレクトリック・フラッグThe Electric Flagは、最初、ロジャー・コーマンRoger CormanのB級映画ザ・トリップThe Tripのサウンドトラックを制作したが、その主役は自分の人生を問いなおす(フラッグの担当はほとんどがブルースの即興演奏だった)ところから始める広告担当重役としてのピーター・フォンダPeter Fondaで、その後、長いこと待ち望んでいたLP、「ア・ロング・タイム・カミンA Long Time Comin’ 」を制作したが、最初のシングル「グルービン・イズ・イージーGroovin’ Is Easy」をヒットさせることはできなかった。ツアーが始まろうとする前に、バンドはドラッグ問題で分裂してしまい、可能性があったのにそれが無駄になったという悲しい物語が残った。そしてビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brother and The Holding Companyは、グループ名と同じタイトルのアルバムをメインストリーム・レコードMainstream Recordsから出した。これはバンドがツアー中にシカゴで立ち往生したときレコーディングされたもので、地元のレーベルはサンフランシスコに戻るための十分なお金を稼ぐために大量に作った。このレコードは冷たくあしらわれた。

カリフォルニアの他の場所で、ママス&パパスThe Mamas and The Papasは1年間にわたる長期休暇を発表し、「フェアウェル・トゥ・ザ・ファースト・ゴールデン・エラFarewell to the First Golden Era」というアルバムをリリースしてヒットさせたが、これは厳密には最後の作品ではないものの、そう感じられた。そしてドアーズThe Doorsは2番目のアルバム、「ストレンジ・デイズStrange Days」を出し、ビルボード誌Billboardアルバム・チャートで100位に入り、翌週は4位になった。ビーチ・ボーイズThe Beach Boysは大問題を抱えていて、ブライアン・ウィルソンBrian Wilsonが自宅に閉じこもり寝てばかりいて、演奏しているときにビーチを感じることができるように、砂場にピアノを設置したのだ。一方、キャピトル・レコードCapitol recordsが彼らに与えたレーベル、ブラザー・レコードBrother Recordsは、レコードを世に送り出していなかった。8月に、「スマイルSmile」の数曲の完成品のうちの1曲を出したが、それはブラザーのカタログナンバー1001、「ヒーローズ・アンド・ビレインズHeroes and Villains」という複雑だが素晴らしい曲で、12位になった。9月には、断片を組み合わせて「スマイリー・スマイルSmiley Smile」という待望のアルバムを制作したが、このアルバムはブラザー9001 Brother 9001で商業的には失敗だった。ブライアンはあまり調子が良くないと分かって、他のメンバーが主導権を取り、ブラザー・レコードBrother recordsを一時休止してキャピトル・レコードCapitol recordsに戻り、自分たちは今ソウル・ミュージックに影響を受けていると発表した。「ワイルド・ハニーWild Honey」は確かにソウル・ミュージックのようには聞こえなかったが、次作の「ダーリンDarlin’」と同様に、マイク・ラブMike Loveとブライアン・ウィルソンBrian Wilsonの共作だった。どちらもたいして良くなかったが、ワイルド・ハニーWild Honeyのアルバムは24位になった。バンドは少し見直しするのが適切で、しばらく表舞台には出なかった。

モンキーズThe Monkeesはこの頃、自分たちのインストゥルメンタル演奏をしたいと言って、年末のアルバム、「ピシーズ・アクエリアス・カプリコーン・アンド・ジョンズPisces, Aquarius, Capricorn and Jones」を、ニール・ダイヤモンドが作った「デイドリーム・ビリーバーDaydream Believer」と一緒に発売した。しなければいけないことはテレビ契約の更新と、来るべきシーズンのために、前衛的なフォーク歌手のティム・バックレーTim Buckleyやフランク・ザッパFrank Zappaなどのゲストをフィーチャーすることだったが、問題はなかった。LA最高のバンドの一つのバッファロー・スプリングフィールドThe Buffalo Springfieldはアルバム「アゲイン・Again」をリリースしたが、今度は彼らの全才能を披露し、その中には、ステファン・スティルStephen Stillのヒット曲一歩手前の「ロックンロール・ウーマンRock ‘n’ Roll Woman」と、ニール・ヤングNeil Youngの曲をフィル・スペクターPhil Spectorのアレンジャーであるジャック・ニッチェJack Nitzscheがアレンジした2曲「ブロークン・アローBroken Arrow」と「エクスペクティング・トゥ・フライExpecting to Fly」があった。

1967年10月3日、ウディ・ガスリーWoody Guthrieは、10年間活動できない原因だった神経疾患についに倒れた。享年55歳。月末に息子のアーロArloが初のアルバム、「アリスズ・レストランAlice’s Restaurant」をリリースしたが、そのタイトル曲はガスリーがごみのポイ捨てで犯罪者になることによって、徴兵を逃れた方法についての遠回しのコミック・ソングだった。19分なのでシングルにはならなかったが、ますます型破りになってきたFMラジオでヒットし、サンフランシスコだけでなくニューヨークでも、由緒あるWOR放送局が自由形式の番組を実験したところFM放送でかなり成功した。マレー・ザ・ケー・コーフマンMurray “the K” Kaufmanやスコット・マニScott Muniのような保守派AM放送のディスク・ジョッキーをフィーチャーして、WOR局はロスコRoskoと言う黒人ディスク・ジョッキーをスターにしたが、ロスコはカーリル・ギブランKahlil GibranのプロフェットThe Prophetを読んで、深夜の大麻常習者の気持ちを落ち着かせた。経営者は臆病だったので年末に打ち切り、その番組構成はWNEW-FMによって引き継がれた。ビルボード誌Billboardは今や、レコード会社が新発売の変わったレコードをどこの誰に送るのがよいか分かるように、『進歩的』放送局のリストを毎週掲載した。

南部も変なことになっているようだったのが、1967年の驚きのヒット曲の一つがジョン・フレッドと彼のプレイボーイ・バンドJohn Fred and His Playboy Bandの「ジュディのごまかしJudy in Disguise(With Glasses)」で、ビートルズThe Beatlesの「ルーシー・イン・ザ・スカイズ・ウィズ・ダイアモンズLucy in the Skies with Diamonds」の歌詞を真似しただけでなく、ナンバーワンに上るにつれて、バンドを南ルイジアナと東テキサスのショーバンド巡業から全国のスターダムへと成長させた。もう一つのショーバンド、ボックス・トップスThe Box Topsのリーダーは、メンフィスの名だたる家系の17才の息子、アレックス・チルトンAlex Chiltonで、「あの娘のレターThe Letter」も1位となったが、プロデューサーのダン・ペンDan Pennによれば、OKが出るまで30テイク以上かかった。その甲斐はあった。そしてフロリダから来たのが、リバティ・レーベルLiberty Labelのサイケデリック・バンドといった感じのアワー・グラスThe Hour Glassで、元のオールマン・ジョイズThe Allman Joysだった。リーダーはオールマンの二人の兄弟で、ニューヨークのナイトクラブ、トゥルード・ヘラーズTrude Heller’sで演奏し、絶賛されていた。しかしアルバムは、売れなかった。

10月6日、ヘイト通りで厳粛なパレードが行われ、ビーズのネックレスやその他身の回り品を入れた特大の棺桶が運ばれた。それはデス・オブ・ヒッピーthe Death of Hippieの祭事で、ヒッピーの夢の終焉とLSD違法化1周年を、コミュニティのメンバーがある意味、自発的に記念したものだった。コミュニティ組織が大勢参加し、フリー・クリニックFree Clinic(その医療部門は当時閉鎖していた)、スイッチ・ボードthe Switchboard(住宅と通信の組織であり、使い込みと無収入で10,000ドルの借金があった)、サイケデリック・ショップthe Psychedelic Shop(6千ドルという大金の借金があったが、ほとんどが裁判費用だった)、そして、壊れたドアを蹴り、押し入って略奪するずる賢い連中がいた時から、住宅法規違反をしていたトリップ・ウィズアウト・ア・チケットTrip Without a TicketというディガーズDiggersのフリー・ストアもいた。葬式はコミュニティの他の人達からはあざけられたが、もともとあったユートピアへの強い勢いが無くなったことは否定できない。もちろん誰も音楽業界にはそのことを語らなかった。

イギリスではロバート・スティグウッドRobert Stigwoodが、まだNEMSを存続させていた。彼が直近に契約したビージースThe Bee Geesは、謎の歌を書いていて英米ともにチャート入りし、キンクスThe Kinksは優れたシングルを発売し、クリームCreamは「サンシャイン・オブ・ユア・ラブSunshine of Your Love」のような素晴らしいポップ・ソングでシングル・ヒットを出していて、この曲はエリック・クラプトンEric Claptonにソロで演奏させたが放送時には完全にラジオ放送に適した形に編集した。フーThe Whoのアルバム、ザ・フー・セル・アウトThe Who Sell Outはポップ・アートの見事な作品だった。レコード・ジャケットには、豆の缶詰ハインツ ベイクドビーンズHeinz Baked Beansや体臭防止剤のオドロノOdorono(訴訟を起こされた)等の製品をバンド・メンバーが『推薦』している様子が描かれ、アルバムは曲に偽のコマーシャル(ダラスのジングル会社で録音された)やラジオ・ロンドンRadio London(海賊放送局で、この会社も訴えた)の放送局IDを曲中に挿入したが、アメリカ最初のトップ10ヒット、「アイ・キャン・シー・フォー・マイルズI Can See for Miles」も収録してある。バン・モリソンVan MorrisonはゼムThemを辞めてバート・バーンズBert Bernsのバン・レーベルBang Labelと契約し、すぐにプロデュースしたのがメジャーヒットになった「ブラウン・アイド・ガールBrown Eyed Girl」と「ブローイン・ユア・マインドBlowin’ Your Mind」というとても変わったアルバムで、その中心的楽曲が死に行く友達について10分にわたって長々と歌う「TBシーツ T. B. Sheets」だった。ドノバンDonovanはもっと陽気で、「ウエア・ユア・ラブ・ライク・ヘブンWear Your Love Like Heaven」などの曲を出したり、業界誌のレコード会社広告に「ドノバンのレコードは感動的で収益性が高く、ただ聴くものではなく“体験するもの”だ」と載せたりした。ビートルズThe Beatlesは、「ハロー・グッドバイHello Goodbye」、B面が「アイ・アム・ザ・ウォーラスI Am the Walrusという謎の2曲を出したが、これは12月半ば封切りと公約したマジカル・ミステリー・ツアーMagical Mystery Tourという映画のじらし広告だった。そしてローリング・ストーンズThe Rolling Stonesは、サージェント・ペッパーSgt. Pepperのアンサー・ソングとして、ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエストTheir Satanic Majesties Requestを出したが、これは3D(ピンボケではあるが)を模して、見る角度によって絵柄が変わるレンティキュラーが特徴で、そこそこ良い曲が数曲と、「シング・ディス・オール・トゥゲザーSing This All Together(See What Happens)」にのせた多くの無目的な即興演奏と、彼らのキャリア史上最悪の「ゴンパーGomper」というタイトルで、幻覚状態のパーカッションがあった。このアルバムはサージェント・ペッパーSgt. Pepper程よくないと、当時は広くから馬鹿にされたが、ビートルズがついにマジカル・ミステリー・ツアーMagical Mystery Tourを出すと、驚くほど素人ぽくてビートルズもあてにならないのは明らかだった。

ソウル・ミュージックは、ポップのクロスオーバーがたくさんあった当たり年であり、特にどちらかというとまだ地域的販売をしていたサザン・ソウルにとって最高の年だったが、モータウンの作品(グラディス・ナイト&ピップスGladys Knight and The Pips’の突然のヒット曲の「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレープバインI Heard It Through the Grapevine」、マービン・ゲイMarvin Gaye&タミ・テレㇽTammi Terrellの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフAin’t No Mountain High Enough」、フォー・トップスThe Four Topsの「バーナデットBernadette」、スティービー・ワンダーStevie Wonderの「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラブ・ハーI Was Born to Love Her」、テンプテーションズThe Temptationsの「アイ・ウィッシュ・イット・ウッド・レインI Wish It Would Rain」)は、1966年のものほどの勢いはなかった。たぶんモータウンが最も自慢できる手柄は、「サージェント・ペパーSgt. Pepper」を、19週間いたアルバムのトップの座から、スプリームスThe Supremesのグレーテスト・ヒッツGreatest Hitsで蹴落としたことだ。アレサはヒットを連発し、ジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonはどこからともなく「ハイヤー・アンド・ハイヤーHigher and Hight」で復活し、ジョー・テックスJoe Texはナッシュビルで苦労しながら、半分説教半分楽曲のレコードで何とかうまく行きそうなところまで行き、結局は「スキニー・レッグズ・アンド・オールSkinny Legs and All」でやっとのこと、成功した。エタ・ジェームスEtta Jamesはキャリアを決定付けるヒット「テル・ママTell Mama」を出し、スタックス・レコードStax records以外ではメンフィスがエクセントリックな元ゴスペル・シンガーのジェームス・カーJames Carrなどの新しいタレントを輩出した。デトロイト出身のアル・グリーンAl Geenは、「バック・アップ・トレインBack Up Train」という曲でデビューしてR&Bのトップ10入りし、ツアーに行った先でメンフィスのバンド・リーダー、ウィリー・ミッチェル&彼のバンドWillie Mitchell and his band の演奏を聞いた。翌晩、家に戻りたいので50ドルを稼ぐために一緒に曲を演奏してもらえるか尋ねたところ、ミッチェルは感動した。「俺たちと一緒にメンフィスに戻れば良い。君をスターにできるよ」とミッチェルが言った。「どのくらい長くかかるの?」グリーンは聞いた。「18か月だ。」「えー、そんな時間はない。」しかし、グリーンはミッチェルのバスに乗ってメンフィスまで行って、ミッチェルから1,500ドル借り、それを使って契約を解消して消えた。ミッチェルは不満だった。

一方、オーティス・レディングOtis Reddingとマネジャーのフィル・ウォールデンPhil Waldenは、モンテレーMontereyでレディングが成功する方法を考えていた。明らかに彼の時代が来たが、ポップ・チャートにおける最初の取り組みはうまくやらなければならない。オーティスは作曲能力を伸ばすのに時間を要したが、ある日、カリフォルニア州サウサリートで友人のハウスボートに泊まっているとき、ヒットしそうな曲を作った。ツアーを離れるとすぐにスティーブ・クロッパーSteve Cropperに電話して、これからスタディオに行くところだと伝えた。クロッパーは喜び、オーティスはツアーばかりしていてあまり会っていなかったが、その夏に声帯を手術をしたので声が少し変わった。小さなアコースティック・ギターを引っ張り出して、クロッパーのために新曲を演奏すると、クロッパーは間奏を書くのを手伝い、レコーディングした。「『ドック・オブ・ザ・ベイDock of the Bay』をレコーディングした日、おたがいに目を合わせ『ヒットする。やったあ』と言った。この曲は、レディングが今まで作った曲とは全く違い、ミッドテンポで、自分を振り返り、アコースティック・ギターをフィーチャーして、ポップ・チャートの大ヒットは間違いない。完成までには6テイクかかったが、どこに音響効果が欲しいかを示すためにクロッパーはカモメのノイズをファースト・テイクで入れ、メロディを口笛で最後に少し入れたところ、オーティスは「君は口笛吹きとして成功することは無い」と言ったので、全員が大笑いした。彼らは何度も練習し、12月8日金曜日にオーティスは、オーティスのバックを務めるスタックス・レコードStax recordsで成長中のバンド、バーケイズBar-Kaysといくつかの日程をこなさなければならなかった。ナッシュビル、クリーブランド、ウィスコンシン州マディソンの3回で、それからスタディオに戻ってくる。クロッパーは多重録音のミキシングを行い、レディングは「また、月曜に」と言った。これが、友人でありメンターでもあったスティーブ・クロッパーSteve Cropperに言った、オーティス・レディングの最後の言葉となった。マディソン空港に近づくと、オーティス、その付き人、バーケイズの何人か(2人は別の飛行機に乗っていた)が乗っている小型飛行機に不具合が生じて、モノナ湖に墜落し、トランぺッターのベン・コーリーBen Cauleyを除く全員が死亡した。バーケイズは全員が18、19歳だった。レディングの付き人のマシュー・ケリーMatthew Kellyは17歳だった。オーティス・レディングは26歳だった。

社会現象の「サマー・オブ・ラブ」の時期だったが、ベトナム戦争やら夏の人種暴動やらで、この年はしばらく暗い方に進んでいった。レディングの死はそれを決定的なものにした。そして、さらに続く。

 

 

 

第4章 

1969年だ、OK

 

イギー・ポップIggy Pop (写真:バロン・ウォルマンBaron Wolman)

 

 

1967年10月後半、サンフランシスコの工業地帯にあるブラナン通り746番地のギャレット・プレス印刷所が、新聞風雑誌の創刊号を発行したが、通りの向かいは船具屋で、編集オフィスは2階にあり、その隣には植字職人がいた。これがローリンス・ストーン誌Rolling Stoneであり、ジャンSウェナー Jann S. Wennerの発案によるが、ウェナーはUCバークレー校出身の野心的学生で学生新聞のコラムニストを務め、この年の初めにモンテレー・ポップ・フェスティバルMonterey Pop Festivalで宣伝係のデレク・レイラ―Derek Taylorの手伝いをしていた。ウェナーはフェスティバルが開催されたその週末に音楽を楽しんだだけではなく、ニュースとしてイベントを報道したいと思っていた。ニューズウィーク誌Newsweekは、マイケル・ライドンMichael Lydonによる大きな記事を載せたが、報道よりも批判の方が長かった。ウェナーはクローダディー誌Crawdaddy!も読んだが、これも本当のニュースを掲載しておらず、ボストンのフュージョン誌Fusionほど凝ってはいなかったが、どちらかと言えばお高くとまっていた。新たに出現しつつある群衆、それは、ウェナーが窓の外で見ていたり、週末にはフィルモア・ミュージック・ホールThe Fillmoreにいる群衆だが、彼らは批評だけでなくニュースも欲しがり、自分たちが気にかけているスターに関して起こっていることを知りたがっていた。例えばローリング・ストーン誌創刊号の表紙はジョン・レノンJohn Lennonが第1次世界大戦の兵士の服を着ていたのだが、その時リチャード・レスターRichard Lesterの「ジョン・レノンの僕の戦争How I Won the War」の映画を撮っていた。第2号はライドンによる、モンテレーのお金の行方の調査特集で、まだ説明されていないことが多く、今までのところラビ・シャンカーRavi Shankerしか演奏の支払いを受けていないのだ。雇った経理担当のサンドラ・ビーブSandra Beebeが52,000ドルを着服したという推測を提示し、後にそれが正しいことが分かった。その号で、バーズThe Byrdsはデビッド・クロスビーDavid Crosbyをバンドから追い出したというニュースも載せた。次の号でこの話の続きとして、ジム・マクギンJim McGuinnがジーン・クラークJene Clarkにもバンドを辞めるように頼んだというニュースも載せた。A&Mレコード A&M Recordsは、古いチャプラン・スタディオChaplin Studiosの複合ビルを購入し、ボストンのダンスホールで人気だったバンド、ヤングブラッズThe Youngbloodsはボストンからサンフランシスコに移るところだった。これらの記事は他ではどこも報道しなかった。この新しい雑誌の流通はまだら状態で、おおむねサンフランシスコのレコード店や麻薬用品販売店に限られ、LAでは一部で流通していたが、ファンや業界から真剣に受け止められるだろうとウェナーが期待していたことは明らかだった。ビルボード誌1968年3月9日号は、ローリング・ストーン誌フォトグラファーのバロン・ウォルマンBaron Wolmanが撮ったスティーブ・ミラーSteve Millerの写真で全面広告を打ち、「キャピトル・レコードはこの男に5万ドル払ったが、あなたは誰だか多分知らないだろう」という挑発的な見出しを付けた。本文の文章も同様に挑発的で、「ほかのプロ芸術は、関係者、支持者、ファンのために定期刊行物があるが、ロックンロールには、これらすべての中で最も人気があるのに、まだない・・・。ローリング・ストーン誌Rolling Stoneにとって最も重要なものは、ビートルズ以来ロックンロールにおける変化(実際は、変化の一部)を映し出す無形なものの媒体だ・・・。そういうことが今起こっていることかもしれない。」

これは、既に変わりつつある業界の警告だった。映画製作会社のワーナー・ブラザース=セブン・アーツWarner Bos.-Seven Artsは、アトランティック・レコードAtlantic Recordsを買収すると10月に公表したが、その主な理由はアーメット・アーティガンAhmet Ertegunが、パートナーであるジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerの専門性に、自身のロックンロール人材を見抜く鋭い感覚を加え、クリームCreamと契約して大ブレイクさせた。自社内でも、アイアン・バタフライIron Butterflyやバニラ・ファッヂVanilla Fudgeなどのアーティストを見つけ出した。一方で、弟のネスヒNesuhi Ertegunはアトランティックのジャズ計画を遂行し、チャールズ・ミンガスCharles Mingusやオーネット・コールマンOrnette Colemanなどのジャズ・プレイヤーと、ハービー・マンHerbie Mannのような人気者とを両立させた。1か月後、ワーナー・ブラザースWarner Bros.はビルボード誌Billboardの提灯記事を利用して、「新しいタイプのミュージシャン」を探して契約し売り込むためにビルボード誌を使って人材を集め始めた。それは既に関連会社のリプライズ・レコードReprise recordsがキンクスThe Kinks、ジム・クウェスキン・ジャグ・バンドThe Jim Kweskin Jug Band、エレクトリック・プルーンズThe Electric Prunes、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix、アーロ・ガスリーArlo Guthrieで行っており、ワーナー・ブラザース自体も、グレイトフル・デッドThe Grateful Dead、ブライアン・ウィルソンの「スマイルSmile」の共同制作者のバン・ダイク・パークスVan Dyke Parksを売り込むための方法を模索していた。パークスの野心的な「ソング・サイクルSong Cycle」は、新年の幕開けとなり、1969年の「『ザ・アルバム・オブ・ザ・イヤーThe Album of the Year’』(Dammit)」が、どうして35,509.50ドルを失ったか」という広告につながった。RCAレコードRCA recordsは、ヤングブラッズThe Youngbloods、ローディング・ゾーンThe Loading Zone、オートサルベージAutosalvage等を宣伝する、個人ではなくバンドに焦点を当てた(驚くべきことに新しいコンセプトだ)「グループクェークGroupquake」キャンペーンをする一方で、「ヘアHair」というヒッピーを扱う変わった金儲け映画の権利を妨げた。このミュージカルはニューヨーク市のナイトクラブ、チータCheetahで10月に初演され、オフブロードウェイ、その後ブロードウェイへと移って突然大当たりしたのだが、その理由は単にキャストが服を脱いで観客の中を駆け抜けたからという理由だけではなかった。音楽のほとんどは模造のロックだったが、どのミュージカルとも同じようにヒット曲がサウンドトラックに仕掛けられていた。3月にビルボード誌Billboardは「レコード会社の広告宣伝費はアングラ出版誌に広く行きわたっている」と指摘し、名指しされた新興出版社は、クローダディー誌Crawdaddy!ローリング・ストーン誌Rolling Stoneバークレー・バーブ誌the Berkeley Barb、サンフランシスコのオラクル誌Oracleロサンゼルス・フリー・プレス誌Los Angeles Free Press、ヒューストンのラグ誌Rag、シカゴのシード誌Seed、ミルウォーキーのカレイドスコープ誌Kaleidscopeイースト・ビレッジ・アザー誌the East Village Other、ボストンのアバター誌Avatarワシントン・フリー・プレス誌Washington Free Pressだった。こうした報道や他の多くの新興出版社にとって、レコード会社の広告は生き残るための生命線となるだろう。ただし、その見返りとして、雑誌側はレコードやショーをきちんと取り上げ、そしてもちろん、ニューヨークやロサンゼルスにいる“音楽業界の人たち”に、自分たちの街では何が起こっているのかを教えてやる必要があった。これはうまくいかなかった。というのは、ボストンが力強く盛況なロック・シーンであることをMGMが固執したので、1月に『ボスタウン・サウンドBosstown Sound』宣伝キャンペーンを発表し、ビーコン・ストリート・ユニオンBeacon Street Union、オーファンOrphan、アルティメイト・スピナッチthe Ultimate Spinachの3バンドをフィーチャーしたが、ボストンに住む人は誰も聞いたことがなかった。(MGMを言いくるめて3人のクライアントを契約させたずる賢いマネジャーは結局町を離れ、ローリング・ストーン誌Rolling Stoneでは、礼儀正しいジョン・ランドーJon Landauがこの誇大広告を「あまりに未熟だ」と言う控えめな言い方をした。)

新しい音楽はビッグ・ビジネスで、前払金は高くなり、フィフス・ディメンションThe Fifth Dimensionはママス&パパスThe Mamas and The Papasの黒人軽音楽バージョンであって、ソウル・シティ・レーベルSoul City labelから4万ドルの前払い金を受けた。この会社の一部はシンガーのジョニー・リバースJohnny Riversが所有し、ワーナー・ブラザースはアソシエーションズThe Associationsに8万ドル払ったとのことだ。ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは、新アルバムの「アフター・ベイシング・アット・バクスターズAfter Bathing at Baxter’s」を仕上げた後、ずうずうしくもスタディオの時間を増やしてほしいと要求したのだが、そのアルバムの出来が良くなく、さらに修正を必要とする部分がいくつかあると感じたからだ。そしてそれは実現した。名前の分からないA&R担当者が、ビルボード誌に「一つのサウンドは次のサウンドにつながるので、再生して自分で聞く必要がある。求める音は、作り出した時にしか聞こえないことは多い」と語った。今日では、このことは当然と思えるかもしれないが、当時はニュースだった。ヒット・メーカーたちがスタディオに入り、A&Rが見つけてきた曲に3時間かけたセッションを行い、翌日の曲のための準備をすると言う時代ではなくなっていた。セッションは長く続き、このA&Rが言うように、実際に演奏する中で創り上げるジャズのような実験や即興演奏をして、もし結果として子供たちの望むものができれば、そりゃあ、時間とお金をかける価値がある。もちろん抵抗もあり、ディスカウント・チェーン代表者のEJコーベット E.J. Korvetteは、アーティストが要求する新たにリリースするジャケットの絵が「年配の消費者を遠ざけてしまうこともある」と愚痴を言った。至極ごもっともだ。アングラ出版社やローリング・ストーン誌が開発したような指針がなく、ほとんどのマーケットには『先進的』FM放送局がない中で、多くの子供たちは、単にジャケットが面白いという理由だけでアルバムを買った。子供達もこの件に関しては非常に優れた直観力を持っていたので、オーディオ・フィデリティ・レコードAudio Fidelity Recordsが、「ハウ・トゥ・ブロー・ユア・マインド・アンド・ハブ・ア・フリークアウト・パーティーHow to Blow Your Mind and Have a Freak-Out Party」で失敗したのかもしれない。(アルバムタイトルにあるように、驚いたり怖がるためにアルバムは必要ない。)

レコードそのものでさえ変わっていた。どこにでも持ち運びできるトランジスター・ラジオに触発されて、電機メーカーのフィルコPhilcoはヒップ・ポケット・レコーズHip Pocket Recordsを発表したが、これは今ヒットしている曲を片面だけに入れたしなやかなレコードで、トランジスター・ラジオよりわずかに大きな装置で演奏するものだ。ふたで保護され、その上、実際にポケットに入れて運ぶことができる。大きな紙クリップのように大きな丸いスプリング鋼のイアリングに、それぞれ最大20個をぶら下げられるもので、フィルコはそれを作ってディーラーが取り扱えるようにした。フィルコが想定していなかったことはもちろん、レコードがヒップ・ポケット用にプレスする価値があると分かるまでに、消費者がさらにその先に進んでいたことだ。もっと重要なことはモノ・アルバムそして、おそらくモノ・シングルの死に関する激しい戦いだ。しかしこれは単にハイファイだけの問題ではなかった。というのは、より多くの消費者が今やステレオ再生装置を持っていて、家庭用装置やジュークボックスのカートリッジや針を交換しなければならなかったが、例え2チャンネルに分かれずに混ぜ合わせた音であっても再生した。この戦いはいわゆる「テープ・カートリッジtape CARtridge」戦争によく似ていて、ジェット機のメーカー、リアジェット社Learjetから生じたものだ。機内でレコードの音を聞くことは不可能だということを認識した上で、テープが内部でエンドレスになった箱型のプラスチック・カートリッジを考案し、一定時間演奏し停止した後、別のチャンネルにしてアルバム全体を演奏する仕掛けだ。このカートリッジは4トラックと8トラックのフォーマットで入手可能だが、それぞれのチャンネルに音楽を収めるためには、アルバムの演奏順番を並べ替える必要が多く、そうするとクラシック音楽には使えないし、既定の順番でアルバムの曲を聴きたかったり、長い曲を途切れずに聴きたいというファンが増えてきたポップスにとって、カートリッジは役立たずになった。ところが、カートリッジは自動車にぴったりはまり、ダッシュボックスに組み込まれたプレイヤーは、いくつかの自動車モデルにオプションとして提示された。忍耐強く出番を待っていたのは、もっと良いフォーマットであるフィリップスのカセットで、2面しかないのでアルバムのようにさっとひっくり返すことができる。これは忠実性が劣り、かなり薄いのでもろいテープだったが、最大60分間演奏でき、ヨーロッパでは既にある程度採用されていた。1968年半ばまでには、録音済み製品のテープ売り上げは市場の丸10%になっていた。

そんなことはどうでも良い。ポップ・ファンはまだ45回転シングルと33 1/3 回転アルバムを買っていて、モノラル盤よりステレオ盤の方が1ドル高くても、それほど問題ではなかった。1968年初めには素晴らしいアルバムが何枚か出た。ラブLoveは、セカンド・アルバムをレコーディングした時にポール・ロスチャイルドPaul RothchildがB面は出せないだろうと恐れたバンドで、3枚目のアルバムをリリースした。1967年夏、リーダーのアーサー・リーArthur Leeが26歳の時、カリフォルニア州ローレル・キャニオンの辺鄙な場所にこもったが、その時、自分は死んでいくのだろうと確信した。ロスチャイルドは、数多くの楽曲にたいそう感銘したので、管弦楽器のための制作予算を割り当て、ヒット曲は無かったものの、フォーエバー・チェンジズForever Changesはこの時代の極めて重要な成果だった。このことも有って、バンドは解散し、ツアーもできず(する気にもなれず)、酒、LSD、ヘロインによってばらばらになり、歴史の中に消えたが、リーはラブ・バンドThe Love bandの機能を数年間残し、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixを説得して、後のアルバムの一つに何曲か演奏しもらうようにした。

もう一人の謎のロサンゼルス出身で黒人ロッカーは、元ライジン・サンズThe Rising Sonsのメンバー、タージ・マハルTaj Mahalで、コロムビア・レコードColumbia recordsにおいてアルバムをレコーディングしたがリリースされなかった。別のギター名手のジェシー・エド・デイビス(アメリカ先住民)など新たな異人種間バンドと一緒に演奏したマハルはおおいに話題となったので、コロムビア・レコードColumbia recordsは選択権を行使してアルバム、「タージ・マハルTaj Mahal」をリリースしたが、このアルバムは非常に魅力的なギター演奏で味付けされたエレキのブルースに乗せて、マハルのゆったりしたフォークの楽曲がたくさん入っていた。これもヒットしなかった。キャノンボール・アダーレーCannonball Adderleyの元アレンジャー、デビッド・アクセルロッドDavid Axelrodが作ったエレクトリック・プルーンズElectric Prunesのマス・インFマイナー Mass in F Minorもだめで、リプリーズ・レコードReprise recordsの発表によるとアルバム売上1.5万枚で放送はされなかったが、その理由はミサ曲であり、そのようにラテン語で歌われたからだ。(ローリング・ストーン誌は『ナンセンスだ』との意見を述べた。)

他にリプリーズ・レコードから出たのがジミ・ヘンドリックスのセカンド・アルバム、「アクシス:ボールド・アズ・ラヴAxis: Bold As Love」で、これはヒット・シングルがなかったにもかかわらずファースト・アルバムより売れた。そして、これまたヒット曲は無かったが今までで最高のアルバム、サムシング・エルス・バイ・ザ・キンクスSomething Else by the Kinksも、リプリーズから出て、最後の曲はレイ・デイビスRay Daviesの最も感動的な「ウォータールー・サンセットWaterloo Sunset」だった。他のレーベルの有名なリリース曲は以下の通り。グリ・グリGris-Grisは、ドクター・ジョン・ザ・ナイト・トリッパーDr. John, the Night Tripperの曲だが、このグループは、実はマク・レベンナック&AFOオールスターズ Mac Rebennack and the AFO All-Starsであり、1963年末にニューオーリンズから移住してきて、LAでスタディオ・ミュージシャンとして非常に成功した。スピリットSpiritによるファースト・アルバムは有名だが、このグループは変わったジャズ風グループで、リーダーは中年のジャズドラマーであり、一緒にいたのは坊主頭のギタリストで、彼の養子になった息子だった。ステッペンウルフのファースト・アルバムも有名で、このグループは以前サンフランシスコのダンスホールで演奏していたカナダのグループで、スパローThe Sparrowとして知られ、オートバイに乗る人、乗ろうとしている人の間でヒットしたシングル曲「ボーン・トゥ・ビー・ワイルドBorn to Be Wild」で、けたたましいハード・ロックを広めた。デトロイトのアンボイ・デュークスAmboy Dukesによる「ジャーニー・トゥ・ザ・センター・オブ・ザ・マインドJourney to the Center of the Mind」には、派手なリード・ギタリストのテッド・ニュージェントTed Nugentがいた。「テン・イヤーズ・アフター10 Years After」はイギリスのバンドのデビュー・アルバムで、さらに派手なリード・ギタリストのアルビン・リーAlvin Leeがブルースを試みた。「ホワイト・ライト/ホワイト・ヒートWhite Light/White Heat」は、ベルベット・アンダーグラウンドThe Velvet Undergroundのセカンド・アルバムで、ファースト・アルバムに比べてまとまりがあるが、凶暴性では負けていない。カナダ人小説家兼詩人レナード・コーエンLeonard Cohenのアルバム。インターナショナル・サブマリン・バンドThe International Submarine Bandもアルバムを出し、このバンドはバーズThe Byrdsの新しいギタリスト/ソングライターのグラム・パーソンズGram Parsonsをフィーチャーしたが、訴訟の混乱の中であっという間に消えた。デイズ・オブ・フューチャー・パストDays of Future Passedのムーディー・ブルースThe Moody Bluesは、ブリティッシュ・インベーダーで、1965年にベシー・バンクスBessie Banksのぱっとしない「ゴー・ナウGo Now」をカバーしてトップ10に入り、ヒット・シングルの「ナイツ・イン・ホワイト・サテンNights in White Satin」に続いて、弦楽器を盛り込んだアルバム(どういうものであれ、『ロンドン・フェスティバル・オーケストラLondon Festival Orchestra』のおかげ)で戻って来た。

この大量のリリースは始まりに過ぎなかったが、これらの音楽がホット100にほとんど登場しなかったのは興味深い。道は二つに分かれたのだが、その多くはどこからともなく現れたと思える小さなレーベルによって引き起こされた。ブッダ・レコードBuddah Records(後にBuddhaと変更したようにミススペリングはこの会社のトレードマーク)は、サイケデリックな曲に辟易としていたかなり若いレコード購買層の心に響くようなロックンロールの新しい試みを思いついた。最終的に『バブルガム・ミュージックBubblegum music』と名付け、単純なメロディを特徴として、ギター・ソロは無く、簡単な歌詞(ばかばかしいことさえ時々あった)、ガンガン鳴るリズムが特徴だった。ジェリー・カセネッツJerry Kasenetzとジェフ・カッツJeff Katzの作品で人気になり(トミー・ジェームス&ションデルスTommy James and the Shondellsやトミー・ローTommy Roeなどのアーティストによって予見されていた)、その試みはカセネッツ、カッツ、ブッダ会長のニール・ボガートNeil Bogartが、リスナーとして相手にされていなかったプレティーンを明確にターゲットにした。最初のヒットはレモン・パイパーズThe Lemon Pipers(オハイオ出身の実在するバンド)の「グリーン・タンブリンGreen Tambourine」と、オハイオ・エクスプレスThe Ohio Express(実在するバンドかどうか不明)の「ヤミー・ヤミー・ヤミーYummy Yummy Yummy」で、両者とも今後のリリースを契約ソングライターのK-K(Kasenetz-Katz)に従い、レモン・パイパーズの次作は「ライス・イズ・ナイスRice Is Nice」と「ジェリー・ジャングルJelly Jungle(Of Orange Marmalade)になった。この路線はますます進み、ヤング・アダルトをAMラジオから遠ざけ、おしゃれなFMラジオに押しやることになる働きをした。このため、モンキーズThe Monkeesは奇妙な位置に置かれることになり、ミュージシャンとして認められるために苦労して、テレビ番組やレコードで自分が楽器を演奏した結果、ニュー・サウンドにリスナーをとられてしまう。そんなことを意に返さなかったドン・カーシュナーDon Kirshnerは、モンキーズに起こっていることを見て、人気漫画をベースにした土曜日朝のアニメ漫画と手を組み、ティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyの大物、ジェフ・バリーJeff Barryと新人作家のアンディ・キムAndy Kimを使って、ついに1969年にアーチーズThe Archiesとともにヒットを生み始めた。最大のヒット曲「シュガー・シュガーSugar, Sugar」は1969年のチャートでトップになり、人もあろうにウィルソン・ピケットWilson Pickettがこの曲を録音して、やはりそこそこヒットした。

しかし、聴衆が少なくなって行くつらさを知っている演奏者もたくさんいて、サパー・クラブやラスベガスの巡業で夜会服やロングドレスを着た古風な人だけでなく(40歳過ぎの年配の大人向けにレコードを売っていた)、オリジナルのロックンローラー達もつらい思いをしていた。100枚以上のレコードをチャート入りさせた後、ファッツ・ドミノFats Dominoは1968年に契約が切れた。リトル・リチャードLittle Richardは、ドン・コベイDon Covayの素晴らしい曲「アイ・ドント・ノー・ホワット・ユーブ・ガット・バット・イッツ・ゴット・ミーI Don’t Know What You’ve Got but It’s Got Me」をジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixのギターにのせて1965年にレコーディングしたが、ビー・ジェイ・レコードVee-Jay recordsとともに消えた。リチャードは復活したオーケー・レコードOkeh recordsと契約したが、このレーベルはジョニー・ギター・ワトソンJohnny “Guitar”Watsonとラリー・ウィリアムスLarry Williamsのアドバイス(狐に鶏小屋を明け渡すとはこのことだ)を受けて、『エンジェル・タウン・サウンドAngel Town Sound』を作ることを決め、素晴らしいレコードを何枚か作ったが消えて行った。リトル・リチャードもひまだった。レイ・チャールズはヘロイン中毒に深くはまり、出したレコードはビートルズThe Beatlesのカバー(「イエスターデイYesterday」と「エリノア・リグビーEleanor Rigby」)なら売れたが、そうでなければあまり売れなかった。カール・パーキンスCarl Perkinsはジョニー・キャッシュJohnny Cashの前座を務め、エルビスはまだ健在でサウンドトラックの付いた映画を次から次へと作り、数か月ごとに業界紙の広告に登場して、呆然としたような表情の写真で最新映画の最新シングルを発表した。そのシングルはチャートの下の方に入り、その後、数週間で消えた。1月、エルビスのマネジャー、トム・パーカー大佐Colonel Tom Parkerは、1968年末にクリスマスのテレビ特別番組を放送すると公表したが、スポンサーはよりにもよってシンガー・ミシンSinger sewing machinesだった。ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisだけが生きている気配を示していた。一人でロックンロールのリバイバルに挑戦して失敗した後、ロック・マイ・ソウルRock My SoulというオセロOthelloのロック・ミュージカルの翻案で、イアーゴーIagoの役を演じ好ましい注目を浴びたが、レコーディングの仕事の方は3月まで行き詰っていた。その時たぶん、サム・フィリップスSam Phillipsがカントリー・アーティストとして信頼していてくれたことを思い出し、マーキュリー・レコードMercury recordsで最も好調なナッシュビルのプロデューサー、ジェリー・ケネディJerry Kennedyと組んで、「アナザー・プレース・アナザー・タイムAnother Place, Another Time」をレコーディングし、ポップ・チャートでは97位だったが、カントリー・チャートでは4年ぶりの登場で、どんどん上がって4位になった。次作の「ホワッツ・メイド・ミルウォーキー・フェイマスWhat’s Made Milwaukee Famous Has Made a Loser out of Me」は2位になり、その次作の「シー・スティル・カムズ・アラウンドShe Still Comes Around(To Love What’s Left of Me)」も2位になった。ポップ・チャートなんかクソ食らえだ。すごいのが戻って来た。

有能なプロデューサー、バート・バーンズBert Bernsは、死に至るかもしれない慢性心疾患だったことで常に知られていたが、12月に38歳で死去した。これは、ジェリー・ウェクスラーJerry WexlerやアーティガンErtegun兄弟と立ち上げたバング・レーベルthe Bang Labelの終わりを意味し、二人の大物アーティストが立ち去ることになる。バン・モリソンVan MorrisonはワーナースWarnersから誘われ、ニール・ダイヤモンドNeil Diamondはすぐにユニバーサル・スタディオUniversal Studiosが設立したハリウッドのポップ・レーベル、ユニ・レコードUni recordsとすぐに契約した。1968年のもう一人の重要な死はキング・レコードKing Recordsのシド・ネイザンSyd Nathan 64歳で、引退後間もなく死亡し、混乱が収まると、唯一残った成功しているアーティストのジェームス・ブラウンJames Brownは、自分達がキングの将来形成を手伝うと公表した。実際に、キングが存続している間、キング・レコードはジェームス・ブラウンそのものになった。

2月、フォーク界の名士たちがウディ・ガスリー・メモリアル・コンサートWoody Guthrie memorial concertのためにカーネギー・ホールCarnegie Hallに集い、彼の死因となった筋萎縮性側索硬化症ALS研究の募金活動をした。その晩のサプライズは、ショート・ヘアでひげを生やしたボブ・ディランが、『オートバイ事故』以来、初めて人前に姿を現し、数曲演奏したことだった。ほとんど同時に、ニューヨーク州ウェストソーガティズの大きなピンクの家で書かれた曲のうちの一つが披露され、演奏したのはアルバート・グロスマンAlbert Grossmanがマネジャーを務めるピーター・ポール&マリー Peter, Paul and Maryだった(彼らが「風に吹かれてBlowin’ in the Wind」を最初に世に出したときにディランを世に知らしめたのと同じように)が、その「トゥー・マッチ・オブ・ナッシングToo Much of Nothing」はかすりもしなかった。

サンフランシスコは最も豊かな才能の源泉だと考えられていた。アルバート・グラスマンAlbert Grossmanは、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brothers and the Holding Companyのメインストリーム・レコードMainstream Recordsの混乱を解決することを引き受け、このバンドを自分の強力なマネジメント下に収めた。最終的にはジャニス・ジョプリンをこのバンドから切り離すことを目指したが、当面は初期のアルバムを差し止め、コロムビア・レコードColumbia recordsと契約するためにできることをするだけで十分であり、そうすればモンテレーの後に誰もが語っていたものを、大勢のリスナーが聴くことができた。そのほかのローカル・バンドに関し、モビー・グレープMoby Grapeにとって良い知らせは、レコードのリリース・パーティの後に未成年の少女と一緒にいたところを見つけられた二人のメンバー(その少女たちは、高校の新聞のため、バンドにインタビューをしていただけだとのことだ)が、マリファナと犯罪の嫌疑が晴れたことと、その後、「ワウWow」というアルバムをリリースするという無鉄砲なことをしたことだ。このアルバムには、「グレープ・ジャムGrape Jam」というタイトルの2枚目のLPが入っていて、この中でバンドはアル・クーパーAl Kooperやマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldのような人たちと自由形式の即興演奏をして時間を無駄にした。そこには78回転で演奏しなければいけないアーダー・ゴッドフレイArthur Godfreyの歌をフィーチャーしたトラックもあった。そんな事情にもかかわらず、何とかビルボード誌LPチャートのヒット20に入った。そしてコロムビア・レコードColumbia recordsは、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneにいたグレース・スリックGrace Slickの人気を利用して、元いたバンドのグレート・ソサイアティThe Great Societyがレコーディングした2枚のLPをリリースしたところ、結構良かった。

オーティス・レディングの訃報により、ここしばらくで最高のソウルのクリスマス・レコードであるスタックス・レコードStax recordsの「エブリ・デイ・ウィル・ビー・ライク・ア・ホリデイEvery Day Will Be Like a Holiday 」は全然売れなかったが、ソウルだけでなくブルースでさえまだ良く売れた。BBキング B.B.Kingの名前は、ますます白人ファンに認められ(それはエリック・クラプトンEric Claptonの控えめなインタビューのおかげなのだが。と言うのは、彼のファン達にアドバイスしたことは、自分のギター・ワークをほめる前に、まずBBとアルバート・キングAlbert Kingを聴けと言うことだった)、「スイート・シックスティーンSweet Sixteen」が結構うまくいき、「ペイイング・ザ・コスト・トゥ・ビー・ザ・ボスPaying the Cost to Be the Boss」は、ものすごいソウル・ヒットになったのでメジャー・レーベルに移った。ボーカル・グループはまだ価値があることを示していて、フィラデルフィアのデルフォニクスThe Delfonicsは「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユーLaLa Means I Love You」をヒットさせ、別のフィラデルフィアのグループ、イントルーダーズThe Intrudersは「カウボーイズ・トゥ・ガールズCowboys to Girls」でヒットし、この曲は、できたばかりで好調なチーム、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフKenny Gamble and Leon Huffがプロデュースしたが、本人たちはベテラン・ボーカル・グループだった。パーシー・スレッジPercy Sledgeは「カバー・ミーCover Me」や「テイク・タイム・トゥ・ノー・ハーTake Time to Know Her」でバラードの力量があることを示し、アーチー・ベル&ドレルズArchie Bell and The Drells(歌詞の通り、「テキサス州ヒューストン出身で、ダンスは好きなだけでなくうまいんだ」)は、「タイトゥン・アップTighten Up」でクロスオーバーのヒットを出した。ベルはレコードがリリースされる前に徴兵され、足を負傷してドイツの陸軍病院で回復中にナンバーワンになったので悔しがった。幸いにもこのグループは勢いを失うことがなかった。ギャンブルとハフをプロデューサーに選び、ベルの除隊後も人々ができる限り上手に踊れるように支援し続けた。アレサ・フランクリンAretha Franklinのバック・シンガー、スイート・インスピレーションズThe Sweet Inspirationsは「スイート・インスピレーションSweet Inspiration」でチャート入りし、アレサ自身については、ビルボード誌が報道価値のあるものとして4月に連続5枚目のゴールド・ディスクを獲得し、『ガール・シンガー』が過去に成し遂げなかったことだと報じた。ジェームス・ブラウンHanes Brownは他に類を見ないレコードをまだ出していて、挑戦に見合う成果を得ていたし、スライ&ファミリー・ストーンSly and The Family Stoneはついに自分たちの得意なものを見つけ出し、最初のシングルを出した後、オープニング曲でもある「ダンス・トゥ・ザ・ミュージックDance to the Music」というタイトルのアルバムを出した。2番目のトラックは「アイ・ウォントゥ・トゥ・テイク・ユー・ハイヤーI Want to Take You Higher」だった。スターが生まれ輝くことになるが、短命だった。

しかし、ソウル・ミュージックの問題は、まさに浮き沈みがあることだった。アレサは別にして、稼ぎが多く長いキャリアを持つ者が誕生しそうに思えず、そのため、ロック部門を買収したことで、この人気ある『女性シンガー』のアレサが原則の例外であるように見えることに、アトランティックの新オーナーは安堵するのだった。「ドック・オブ・ザ・ベイDock of the Bay」の圧倒的成功があったにもかかわらず、スタックス・レコードは安定感のあるスターを生み出したわけではなく、スターへの道を歩んでいる者がいたり、2番目の成功者になりそうなバー・ケイズThe Bar-Kaysがいたが、二人とも死んでしまい(ただし、バー・キーズの生き残った2人のメンバーはグループ名を存続させ20年間成功し続ける)、将来は危うかった。挙句の果てに、ワーナース/アトランティック契約は、アトランティック/スタックスAtlantic-Staxパートナーシップの終わりを告げるものであることが分かった。スタックスはアトランティックにあらゆるヒット曲を提供したものの、自身ではマスター・テープを持っていないという恐ろしいことに、ジム・スチュワートJim Stewartは気が付いた。しかもワーナースWarners 売却の意味するところは、もしウェクスラーWexlerが自分のアトランティック株式を見放せば、スチュワートとジェリー・ウェクスラー間の再交渉を要求する契約条項が有効になり、そして、スチュワートには新しいビジネス・パートナーを探すために6か月の期間がある、ということだ。さらに状況を悪化させたのは、オーティス・レディングOtis Reddingよりも大きなヒットを出したサム&デイブSam and Daveを、アトランティックは直接契約するところだと、ウェクスラーが公表したことだ。これはひどい意思決定であることになるのだが、なぜなら、バックにいるスタックスのプロダクションとソング・ライティングのチームがいなければ、サム&デイブは困ってしまうからだ。ウェクスラーは、二人をマッスル・ショールズ・サウンド・スタディオ Muscle Shoals Sound Studioに連れて行ってレコーディングさせたが、二度とちゃんとしたヒットは出なかった。スタックス・レコードにとってどれほどひどい状況はない。事態を悪化させるのに必要なのは、一瞬の出来事だった。4月4日、ごみ収集作業員ストライキの緊張状態を冷ますためにメンフィスにやって来たマーティン・ルーター・キング・ジュニアMartin Luther King Jr.を暗殺者が殺したのだ。マーティンはロレイン・モーテルLorraine Motelのバルコニーに立っていたが、このモーテルは黒人旅行者のための人気ある宿屋で、そこのコーヒー・ショップはスタックスが定例ミーティングを行い、スティーブ・クロッパーSteve Cropperとエディ・フロイドEddie Floydが「ノック・オン・ウッドKnock on Wood」を書いた所だった。メンフィスの黒人地域社会は爆発した。商店は燃やされ、ウィンドーは壊された。スタックスのアーティストたちはラジオに出て落ち着くように嘆願し、その間にジム・スチュワートJim Stewartと姉のエステル・アクストンEstelle Axtonは自分たちのテープを車に積み込んで安全な場所に持って行った。レコード店とスタディオは1週間閉めた。スタックスの通りの反対側のクリーニング店や隣のビルの一つも焼かれた。スタックスはビルと駐車場の周りに金網フェンスを張った。サテライト・レコードSatellite Recordsは永久に閉鎖された。

スタックス・レコードStax recordsは物理的には無傷だったが、その一家は動揺した。スチュワートは、新人で博識のアル・ベルAl Bellを会社に入れたが、ベルは、カリスマ性のある若いメンフィス出身の黒人で、キング牧師と一緒に学んだことがあり、デトロイトにおける前途有望なラジオの仕事を辞め、自分の愛する町や音楽にもっとかかわることになった。ベルは白人の支配者層が唯一理解できるもの、つまりお金を通して、黒人が力をつける時代がやって来たと思い至った。彼自身は初めから人種融合されていた会社に首までどっぷり浸かっていたのだが、賢かったので、国中で話されている人種融合政策はほとんどの場合、話だけのことだということは分かっていた。それでもベルだけがメンフィスでお金によって力を手に入れようとした人間ではなく、最も差し迫った危険はベルのような知的能力を持たず、スタックスのタレントたちが使っている駐車場で泥棒をしようとする若者がいたことだ。ベルはM.G.のベーシスト、ダック・ダンDuck Dunnに銃を買えと言った。ハーレム出身でベルの旧友であるジョニー・ベイラーJohnny Baylorが新たに雇われたが、ベイラーはボクサーと一緒に働いて居たことがあり、米陸軍特殊部隊に所属していた。スタックスの警備を担当し、騒ぎを寄せ付けないほど十分に恐ろしかった。ベルには別の旧友関係があり、スタックスは突然、パラマウント・ピクチャーズParamount Picturesを前年に買収した巨大コングロマリットのガルフ・プラス・ウェスタンGulf +Westernからオファーを受けた。400万ドルのうち、一部は現金で、ほとんどは株式やほかの金融商品でスタックスに支払った。しかし、キング牧師暗殺が引き金になった全国の暴動のために、レコード業界における黒人と白人の安易な協力は崩壊し、悪意に満ちた黒人の反ユダヤ主義が台頭してきた。1968年のマイアミに於ける全米ラジオ・テレビ・アナウンサー協会National Association of Radio and Television Announcer大会の話が最も有名で、未確認の話として、白人幹部が脅かされたり、ピストルで激しく叩かれたり、身代わりの人形が縛り首にされたりしたということがあった。ウェクスラーが高座にいて表彰されるのを待っていると、キング・カーティスKing Curtisがやって来手「すぐに出ていくんだ」と言い、二人はビルディングを出た。カーティスは殺人の脅迫と思われる信憑性のある情報を聞き、ウェクスラーの命を救った可能性が高かった。

キング牧師暗殺による影響を受けたもう一人のソウルの有名人はジェームス・ブラウンJames Brownだ。彼とバンドは、前日にコートジボワ-ルのアビジャンにいて、最初のアフリカ・ツアーから戻って来たばかりだったが、全米の都市が騒然としている中で、翌日の夜にボストンで演奏することがブラウンに知らされた。会場である14,000席のボストン・ガーデンBoston Gardenは既にショーをキャンセルしていたが、チケットの一部は販売済みだった。地元のプロモーターと黒人の市会議員はボストン市長のケビン・ホワイトのところに行って、数千人にのぼる黒人の若者がその晩ボストンのダウンタウンに押しかけ、ショーがキャンセルされたことを知り、行き場がないという想定シナリオを説明した。ホワイト市長(白人)はジェームス・ブラウンを聞いたことは無かったが、問題は理解した。市長は、ショーをスケジュール通り行えと提案し、地元テレビ局がライブ放送し、テープ録画し、ショーが終わっても暴動の恐れが消えるまで夜通しそれを放送するように段取りした。ブラウンは決してキング牧師のファンで無く、同調することは拒否したが、過激な若い黒人政治家の中には牧師を白人に迎合する黒人と考えている者がいることを承知しており、そうするしかなかった。ショーは、金銭面の交渉がまとまると、実行されることになった。何が起こるのかは誰にもわからない。夜が始まると、ジェームスはマイクを取り、このショーはキング牧師への賛辞であると話して、ホワイト市長をステージに引っ張り出して紹介し、『いかしたやつ。仲間だ』と呼んだ。黒人のショーは最後まで当日券があるのが特徴だが、その晩は既にお金を払った人しか、恐れずにボストンのダウンタウンに来なかったので、ボストン・ガーデンにはわずか約2千人しかいなかった。二言三言ことばを発した後、ジェームズ・ブラウン・レビューのショーはフルに動き始め、バンドはステップを踏み、ゴーゴー・ダンサーは位置につき、ジェームスはヒット曲を次々と演奏した。ショーの勢いが増すと、ボストンの警察官がステージの両サイドに並んで(1968年、ボストンはまだとても人種差別があったので、言うまでもないが全員白人だった)、観客を監視していた。最後にケープをまとうお決まりのパフォーマンスのため手順を踏んでいると、たくさんの少年がステージに上がり、ジェームスを捕まえた。ドターン!入って来たのは警官だ。バンドは演奏をやめ、劇場の灯りが点いた。白人警官、黒人の若者、テレビの生放送。ジェームスはマイクを握り「最後までショーをやらせてくれ!みんな黒人だ。俺たちには自尊心がある。俺たちは仲間だ、そうじゃないか?」「そうだ、仲間だ。」と観客は叫び返した。ジェームスはドラマーに叩けと言い、ドラマーは叩き、ショーは最後まで続いた。その晩、ボストンで暴動は起きなかった。

しかし、革命が起きなかったと言っているのではない。この地域の数多くの黒人家庭だけでなく、その晩思い切ってライブ・ショーを自ら見に行かなかったが、自宅のテレビの前に座ってジェームス・ブラウンに陶酔した子供たちのいる近郊の中流白人家庭でも、革命は起きた。そしてショーが終わると、録画テープを再び見始めた。多くの視聴者の中にはブルースやソウルをかけるラジオ番組を担当する大学生もいた。ハルシネーションズThe Hallucinationsというバンドで演奏していたピーター・ブランクフィールドPeter Blank Fieldは、自分たちの進むべき道を考え、バンド・リーダーのジェローム・ゲイルズJerome Geilsもそれに同意した。その直後にJゲイルス・ブルース・バンドThe J. Geils Blues Bandが結成され、新たに改名したピーター・ウォルフPeter Wolfがリード・ボーカルになって、サイケデリック・ロックのボスタウン・サウンドBosstown Soundがまさに誕生した。ジェームス・ブラウンについては、政治家の間で注目を浴びたが、彼らが聞いたこともないような人物がどうやってコミュニケーションをとればいいのかわからない黒人の若者たちの心に、届くことができるという証明としてコンサートを見たのであり、彼はホワイト・ハウスに招待された。それでも、キング牧師とは異なり、政治家たちに近づきすぎることは無かった。9月に、次のナンバーワン・レコード「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウドSay It Loud, I’m Black and I’m Proud」をリリースした。いまだにジェームス・ブラウンのままだった。

このころ、政治的、社会的な革命に関する音楽がジェームスのおかげだと思うのは不公平な見方かもしれないが、彼がこの時代の精神に影響を与えたのは間違いないだろう。あからさまなプロテスト・ミュージックはチャート入りしなかったが、それを書く期待の星のボブ・ディランはカムバック・アルバム、「ジョン・ウェスリー・ハーディングJohn Wesley Harding」を昨年のクリスマスの後に出して、まだ謎の歌を書いていることを示し、最新アルバムの「ナッシュビル・スカイラインNashvill Skyline」は、キング牧師暗殺の数日後に発売され、カントリー調のラブ・ソングから成っていた。バークレー出身のカントリー・ジョー&フィッシュCountry Joe and The Fishはできるだけ政治色を打ち出していた。しかし、労働者に生産手段を引き渡すというマルクス主義は確かに非現実的だった。その頃、シングル「レディ・マドンナLady Madonna」は、アメリカでナンバーワンにならなかったが、そこから立ち直ったビートルズは5月にアップル・コアApple Corpsを作ると発表した。レディ・マドンナは、ファッツ・ドミノFats Dominoのおかげでできた変わった曲(この曲はファッツ自身がこの年の後半にカバーして、しばらくぶりのヒットになる)であり、B面の「ザ・インナー・ライトThe Inner Light」は、ジョージの作った特徴のないインド風の曲だった。これはレコード会社だ!映画/テレビ制作会社だ!ブティックだ!出版会社だ!電気製品の会社だ!(ジョン・レノンJohn Lennonが見い出してきた人物で、えーと、ちょっといかしたものを研究していたマジック・アレックスMagic Alexという名前で通っていた狂人に主に任されていた。)ほとんどがNEMSの後継会社だった!ロンドンのサビールローのビルを買い、いつでも事業を開始できる状況だった。

その後まもなく、ストーンズはいつものように、ビートルズが時々うんざりするほど型にはまっているのに対し、別の方向に行こうとして新しいシングルで挑戦した。「ストリート・ファイティング・マンStreet Fighting Man」は、キース・リチャーズKeith Richardsの新しいギターさばきを用い、元ロンドン経済スクール学生のミック・ジャガーMick Jaggerは間近に迫った革命に取り組む(だろう)ことを表したが、正直に言って、『ねぼけたロンドンの町』は、悪が新たにやるルールなしの喧嘩にはふさわしい場所でないと思った。自分たちは一体何をしていると思っていたのだろう?レコードを売っていたのはもちろんだし、とてもうまくいっていた。火遊びをしていた?たぶんそうだろうが、ロックンロールはいまだに危険だということを、明確に思い起こさせてくれた。しかしビートルズはアップルに対して真剣で、夏の終わりにブティックは閉鎖したが、その結果残った在庫をすべて捨て値で処分した。しかしアップル・レーベルは他のアーティストのための場所として維持し、契約交渉はすでに進んでいた。そういえば、4人は超越瞑想のマハリシとは関係を絶ったとローリング・ストーン誌は報じた。

都会の暴動やらエスカレートするベトナム戦争やらでアメリカは揺れていたので、対立ムードがカントリー・ミュージックに打撃を与えたことには驚かず、保守的で古いナッシュビルでさえも変化した。確かに、ロレッタ・リンLoretta Lynnは「ホワット・カインド・オブ・ガールWhat Kind of Girl(Do You Think I Am)?」がカントリーでトップ10ヒットになった後、もし自分の彼氏にちょっかいを出したらただじゃ置かないと警告する「フィスト・シティFist City」を出し、この曲は多くの人に共感されたので何週間もカントリー・チャートのナンバーワンになった。しかし、リンの彼氏も無事では無く、その後に来たのが「ユア・スクォー・イズ・オン・ザ・ウォーパスYour Squaw Is on the Warpath」で、新人のタミー・ワイネットTammy Wynetteが歌う「スタンド・バイ・ユア・マンStand By Your Man」とは大違いだった。ウェイロン・ジェニングスWaylon Jenningsは、結果的には彼にとって大成功となるアイデアを思いつき、荒っぽくてエネルギッシュなロック・ミュージックでポップ・ラジオがかけない「オンリー・ダディー・ザットゥル・ウォーク・ザ・ラインOnly Daddy That’ll Walk the Line」を発売した。ジェニングスは後に「口いっぱいに爆竹を加えても歌えない」と言ったが、このようなことはカントリーの観客以外から聞くようになった。ナッシュビルに侵入したフォークの影響もあったが、いつも周辺に限られていた。ボビー・ベアBobby Bareにもヒット曲を書き、とても洗練された曲作りをするトムTホール Tom T. Hallのほかに、ミッキー・ニューベリーMickey Newburyという若者は、人にカバーされる曲を広めたが、地元企業を足蹴にして、エレクトラ・レコードElektra recordsと契約した。

ロサンゼルスでは、トルバドゥール・バーthe Troubadour barはゴシップと噂でにぎやかだった。ジム・マクギンJim McGuinnはバーズThe Byrdsを再構成して、「ザ・ノートリアス・バード・ブラザースThe Notorious Byrd Brothers」を2月にリリースしたが、ジャケットの表紙はたった3人のバーズ・メンバーと馬の尻(解雇されたデビッド・クロスビーを表しているという噂だが関係者は全員否定している)だった。それは第1期バーズへの終焉を意味し、新しいギタリストでシンガーのグラム・パーソンズGram Parsonsとドラマーのケビン・ケリーKevin KelleyがナッシュビルでマクギンMcGuinnと合流し、伝えられるところによれば22曲録音した。(このうちの何曲かは、たぶんパーソンズがリード・シンガーとして録音したものを再録音して、リー・ヘーゼルウッドLee Hazlewoodのレーベル、LHIがうわさを耳にした時、パーソンズはまだインターナショナル・サブマリン・バンドThe International Submarine Bandのメンバーであり、LHIはこのバンドのアルバムを販売していると主張して提訴した。バーズのレーベルであるコロムビアは、それがヒットすると確信していたし、実際にヒットした。一方で、コロムビアはバーズのニュー・アルバムを欲しがり、「ザ・ノートリアス・バード・ブラザースThe Notorious Byrd Brothers」を手に入れた。)

トルバドゥールの他の住人は一緒になって、リンダ・ロンシュタットLinda Ronstadtがボーカルを取り、カントリー調でフォーク調のバンド、ストーン・ポニーズthe Stone Poneysを結成したが、リンダはアリゾナ州出身であり、2年間LAのフォーク・サーキットで注目を集めた。キャピトル・レコードCapitol recordsは5月に彼らと契約し、シングル盤「サム・オブ・シェリーズ・ブルースSome of Shelly’s Blues」を発売し、良いレコードだったが注目されなかった。作ったのはマイケル・ネスミスMichael Nesmithで、「ザ・ウィチタ・トレイン・ホイッスル・シングスThe Wichita Train Whistle Sings」という奇妙なオーケストラ・アルバムなど、モンキーズの仲間とは別個にプロジェクトを始め、ナッシュビルのスタディオで時間をかけて数曲録音したという噂だった。モンキーズのテレビ番組が6月に打ち切られても、ネスミスは彼らと一緒に演奏する日があったが、それよりもかなり多くの時間をモンキーズ後のソロの仕事に充てた。この急成長したカントリー・ロック・スタイルのバンドの一つがハーツ&フラワーズHearts and Flowersで、ストーン・ポニーズThe Stone Poneysと同様にニック・ベネットNik Venetを通じてキャピトル・レコード契約した。1967年、ハーツ&フラワーズは最初、アルバムをリリースし全く相手にされなかったが、今日ではLAのカントリー・ロック・シーンの真の始まりだと認められている。2枚目のアルバム、「オブ・ホーセース・キッズ・アンド・フォーゴットン・ウィミンOf Horses, Kids and Forgotten Women」は、新しいギタリストのバーニー・レドンBernie Leadonを起用したが、功を奏さずにこのバンドは消えていった。ニッティ・グリティ・ダート・バンドThe Nitty Gritty Dirt Band、ディラーズThe Dillards、様々な元バーズのメンバーもコンビを組もうとし、ディラーズは家族でブルーグラス・グループを形成し、主流のブルーグラスを避けて、エレキと調和していた。そしてダート・バンドは大勢のコロラド出身者から成り、最初は自分の好きなように面白くやってみたがうまくいかず、リバティと契約したところ、リバティは契約履行を望んだ。これは、サンセット通りで起きていたことをはるかに凌いでいたが、善かれ悪しかれ将来のLA音楽シーンを生み出した。

ニューヨークとボストンを軸とするフォークの動きはまだ健在で、最も注目すべきはサイモン&ガーファンクルSimon and Garfunkelだが、二人は大学生の苦悩を音楽に込めることに成功し、実際に、二人は単にとりとめのない攻撃演説という意味の「ア・シンプル・デザルトリー・フィリピックスA Simple Desultory Philippic」というタイトルを曲に付け、「アイ・アム・ア・ロックI Am a Rock」、「ザ・ダングリング・カンバセーションThe Dangling Conversation」、「ア・ヘイジー・シェイド・オブ・ウィンターA Hazy Shade of Winter」などのヒット曲を出した。1968年の大ヒット映画の一つ、「卒業The Graduate」は、主演のダスティン・ホフマンDustin Hoffmanが大学を出たばかりで将来に向き合っているのだが、誰かがサイモン&ガーファンクルにサウンドトラックの曲を提供してくれるように頼もうという素晴らしいアイデアを出した。「ミセス・ロビンソンMrs. Robinson」はサウンドトラック・アルバムに入り、二人の最新アルバム「オールド・フレンズ/ブックエンズOld Friends /Bookends」にも入って、シングルはゴールド・ディスクを獲得し、1969年グラミー賞Grammysのソング・オブ・ザ・イヤーSong of the Yearになるという素晴らしい名誉を受けた。この曲は徐々に流行したのだが、1967年を対象にした1968年のグラミー賞のレコード・オブ・ザ・イヤーRecord of the Year for 1967を獲得したのは、フィフス・ディメンション5th Dimensionの「アップ・アップ・アンド・アウェイUp, Up and Away」で、「サージェント・ペパーSgt. Pepper」がアルバム・オブ・ザ・イヤーAlbum of the Yearを獲得、アレサ・フランクリンAretha Franklinは最優秀女性R&Bソロ・ボーカル・パフォーマンスBest Female R&B Solo Vocal Performanceを取り、一方で、最優秀R&Bレコーディングは「リスペクトRespect」に与えられ、サム&デイブSam and Dave の「ソウル・マンSoul Man」は最優秀R&Bグループ・パフォーマンスだった。

ニューヨーク・フォーク・シーンでスターになったことによってすべての人を驚かせたもう一人のベテランは、タイニー・ティムTiny Tim、ステージ・ネームはハーバート・コーリーHerbert Khauryと言い、ストレート・ヘアの38歳になる奇抜なレバノン系アメリカ人で、ショーの初めに延々とウクレレを演奏して、1910年代〜1920年代に流行したポピュラー・ソングをファルセットで歌う。彼は若きボブ・ディランがニューヨークで始めるのを手助けし、ショービズ関係者に愛されていたので、「ローワン・アンド・マーティンのラフ・インRowan and Martin’s Laugh-In」という変わったテレビ番組に出演することとなり、リプライズ・レコードReprise recordsで出したアルバムがトップ10に入り、「ティップトゥー・スルー・ザ・チューリップTip-Toe Thru’ the Tulips」が思いもかけずトップ20に入った。ニューヨークと言ったらディオンの右に出る者はおらず、リンカーン、キング、ケネディに賛辞を表わす「「アブラハム・マーティン・アンド・ジョンAbraham, Martin and John」でヒットを出し、これまで知られていなかったディオンの才能を見せつけた。

ニューヨーク州北部にいるボブ・ディランBob Dylanが出したアルバムは最も変わっていて、ジャケットは奇妙だが下手ではない、数人のミュージシャンによる半抽象的油絵を特徴としていた。床に座り、頭の上に巨大なコーヒーカップのように見えるものを載せて、シタールのようなものを演奏している。頭飾りを付けたアメリカ先住民が不格好なベースを演奏し、別の男は他の人がピアノの後ろから身を乗り出すのを手伝い、はるか後ろの方にはドラマーがいる。わー、それから象がいる。ジャケットの裏は目立たないピンクの家と大きな文字でミュージック・フロム・ビッグ・ピンクMUSIC FROM BIG PINKと書いてある。アーティストの名前は記載されていない。見開きジャケットを開くと、「最近親者」と見出しの付いた写真にはあらゆる年代の人が庭に大勢立っていて、野原に5人の男が立っている写真、ピンクの家のもう1枚の写真があった。見出しには「ニューヨーク州ウェスト・ソーガティズにあるオーバールック山の朝日の中にあるピンクの家」と書いてある。「大きなピンクの家はこれまでこの音楽と楽曲を生み出した。まさしくこの壁の中で考えられ、作られたこのアルバムの最初の目撃者だ。」ミュージシャンは、ジェイム・ロビー・ロバートソンJaime “Robbie” Robertson、リック・ダンコRick Danko、リチャード・マニュエルRichard Manuel、ガース・ハドソンGarth Hudson、リーボン・ヘルムLevon Helm、そしてプロデューサーはジョン・サイモンJohn Simonが挙げられていた。レコードのレーベル自体には、これらの人々が実際にほとんどの曲を書いたが、2曲は共作、そして1曲だけはボブ・ディランBob Dylanによるものだと書いてある。彼は絵も描いたことが分かり、たぶん彼は部屋の中の象だったのだろう。しかし、ここで最後になるが、ディランが手掛けたもっとはっきりした証拠がある。それは彼が一緒にツアーに行ったバンドで、バンドの曲は彼の曲と同じように謎めいていた。共作(リチャード・マニュエルRichard Manuelとの「ティアーズ・オブ・レイジTears of Rage」、リック・ダンコRick Dankoとの「ディス・ホイールズ・オン・ファイアThis Wheel’s on Fire」)とアルバムの最後の曲であるディランの「アイ・シャル・ビー・リリーストは、ロバートソンRobertsonの「イン・ア・ステーションIn a Station」や「ザ・ウェイトThe Weight」、そしてマニュエルManuelの「ウィー・キャン・トークWe Can Talk」に引けを取らない出来だった。ハドソンのオルガンによるインストの「チェスト・フィーバーChest Fever」は多分プロコル・ハルムProcol Harumを恐怖で動転させただろう。「ザ・ウェイトThe Weight」はアルバムからシングル・カットされたがたいして成功せず、ロンドンのジャズ・グループのブライアン・オーガーBrian Auger、ジュリー・ドリスコルJulie Driscoll、トリニティーThe Trinityはシングル曲の「ディス・ホイールズ・オン・ファイアThis Wheel’s on Fire」をリリースしたが、当時はチャートにかすらなかった(しかし、ずいぶん後になってからカルトのテレビ番組、アブソリュートリー・ファビュラスAbsolutely Fabulousのテーマソングになった)。3月、数年前に「ドゥー・ワ・ディディーDo Wah Diddyが大ヒットになったイングリッシュ・インベージョンの一つであるマンフレッド・マンManfred Mannは、グロスマンGrossmanがハドソンHudsonのテープから取り上げた曲、「マイティ・クインThe Mighty Quinn(Quinn the Eskimo)」をヒットさせ、バーズThe Byrdsはディランのオリジナル・デモをもとに、彼らのために書いたと思われる「ユー・エイント・ゴーイン・ノウフエアーYou Ain’t Goin’ Nowhere」をたいしてヒットさせることはできなかった。ディランはツアーに出るつもりはないと明らかにしたが、多少復帰した。ローリング・ストーン誌Rolling Stoneのフォーク版のシング・アウト!誌Sing Out!で、質問者ニュー・シティー・ランブラーズThe New Lost City Ramblersのジョン・コーヘンJohn Cohenと一緒にインタビューをしたが、記事は全く不可解で雑誌はディランのもう一枚の絵を表紙に載せた。ともあれ、このバンドは自分たちをどう呼んだか?ローリング・ストーン誌は最初、彼らをビッグ・ピンクBig Pinkと言ったが、8月の表紙では「バンドThe Band」と載せ、それが名前になった。

アメリカのアーティストは実に好調だったが、スーパースターのビートルズThe Beatles、ストーンズThe Rolling Stonesや、新参のレッド・ツェッペリンLed Zeppelinは別として、イギリス人は全く低迷した。ところが、ここで、興味深い種類の実験が行われていた。スティーブ・ウィンウッドSteve Winwoodがスペンサー・デイビス・グループThe Spencer Davis Groupを出て、トラフィックTrafficと名乗る二人の男たちと田舎に身を隠し、「ミスター・ファンタジーMr. Fantasy」というアルバムを出したが、他のものは全く別物に聞こえた。もっとフォークっぽいのが、少女少年二人ずつのインクレディブル・ストリング・バンドThe Incredible String Bandで、アングロ・アイリッシュ・フォークの色を帯びて辛辣な曲であり、元ボストンのフォーク歌手で現在はロンドンに住んでいるジョー・ボイドJoe Boydがプロデュースしたデビュー・アルバム、「ザ・ハングマンズ・ビューティブル・ドーターThe Hangman’s Beautiful Daughter」は成功した。一方、別の角度から伝統に取り組んだのがアコースティック・グループのペンタングルPentangleで、ジャズ・ベーシストのダニー・トンプソンDanny Thompsonとボーカリストのジャッキ・マクフィーJacqui McPheeとともに、フォーク・ギターのスターであるジョン・レンボーンJohn Renbournとバート・ジャンシュBert Janschをフィーチャーした。もう一つのフォーク系バンド、フェアポート・コンベンションFairport Conventionは、エスニック・シャッフル・オーケストラThe Ethnic Shuffle Orchestraというバンド出身のアシュレー・ハッチングスAschley Hutchingsとサイモン・ニコルSimon Nicol、そして10代のギターの達人リチャード・トンプソンRichard Thompsonを中心に結成され、ボーカリストのジュディ・ダイブルJudy Dyble(元図書館員)とイアン・マシューズIan Matthewsが加わった。ボイドが次に発見したのはこのグループだった。イギリスでレコーディングしたジョニ・ミッチェルJoni Mitchellの最初の曲等、幅広い範囲の曲のおかげで、フェアポートはすぐにヒットしたが、ダイブルは早々に離れ、伝統的なイギリスのフォーク界にいた女性のサンディー・デニーSandy Dennyが加わった。1968年末、新たな顔ぶれはスタディオに行ってセカンド・アルバム「ホワット・ウィー・ディッド・オン・アワ・ホリデーズWhat We Did on Our Holidays」を作ったが、それには、今まで聞いたことのないボブ・ディランの最近の作品、「ミリオン・ダラー・バッシュMillion Dollar Bash」を入れた。(ディランの非常に初期の「言ってもいいぜIf You Gotta Go, Go Now」もフランス語でカバーしたが、理由は分からない。)イギリスのルーツとエレキ楽器のコンビネーションは、ブリティッシュ・フォークロック・ムーブメントが生まれつつある中で、彼らをリーダーにした。

イギリスの新しいバンドのほとんどが試みていたフォークの伝統は、残念ながらアメリカのブルースだった。エリック・クラプトンEric Claptonのトリオ、クリームCreamが大西洋の両側で成功したことで自信を持ち、ブルースっぽいバンドがイギリス中で現れたことで、ヤードバーズThe Yardbirdsはブルースをやりたがっていた、というソニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamsonの言葉を思い出す人もいた。唯一の例外はブルース・バンドのフリートウッド・マックFleetwood Macで、そこにいたかなり控えめで上品なギタリスト、ピーター・グリーンPeter Greenとジェレミー・スペンサーJeremy Spencer の二人は1969年にシカゴの数人と一緒にアルバムをレコーディングしたが、その間、「ブラック・マジック・ウーマンBlack Magic Woman」のようなブルース色を帯びたポップ・ソングも書いていた。もっと典型的なのは多分テン・イヤーズ・アフターTen Years Afterで、他の多くのイギリスのブルース・バンドと同じように、実際にブルースを理解しようとする代わりにスピードとボリュームを使い、もちろんとても人気になった。エリック・クラプトンEric Claptonは自分の書いた曲に心をかき乱され(これは2回目で、一回目はジョン・メイヨールJohn MayallのためにヤードバーズThe Yardbirdsを去った時だ)、クリームのアルバムがローリング・ストーン誌で散々な批評だったので落胆し、もう一枚アルバムを出してツアーをした後に脱退すると発表した。いや、ブリティッシュ・ロックはそのままで良かったのだ。クレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンCrazy World of Arthur Brownはまあまあのブルース・バンドだったのだが、奇抜なステージの豪華ショーに進化することによってそれを証明し、極め付けは「俺は地獄の火の神だ」と叫び、かぶっていたヘルメットに火を点けた時だった。タイニー・ティムTiny Timがトップ10に入ることができた年に、ブラウンの「ファイアFire」がアメリカでナンバー2になったのは驚きでない。

 

1968年はソウル・ミュージックにとって過渡的な年だったが、それは、スライ&ファミリー・ストーンSly and The Family Stoneが登場しジェームス・ブラウンJames Brownが引き続き実験を行っていたので、単にスタイル的にというだけでなく、ビジネスの面でもそうだった。スタックス・レコードStax recordsのパラマウントへの売却と、人々が耳を傾ける人間としてのアル・ベルAl Bellの支配的立場は、このレーベルのビジョンが広くなったことを意味した。ディージェイのキャリアの中で、ベルはデトロイト放送局ではメンフィスの人間であり、スタックスはモータウンでないことは良く知っていたが、スタックスが出していたレコードはブルースに基づくサウンドだけにしないという、商売の知恵があるということを理解していた。特にそのサウンドはフェーム・スタディオスFame Studiosやマッスル・ショールズMuscle Shoalsのグループから挑まれていたのだからなおさらだった。ベルは、スタックスがすでに成し遂げたレーベルをさらに大きくして、単なる地方レベルでなく全国的にもっとたくさんのレコードを売りたかった。その目的のために、かつてモータウンにいて自分のスタディオを開くためにヒッツビルを去ったドン・デイビスDon Davisを連れてきた。デイビスはデトロイトでレコードをプロデュースしていたがフリーランスのチャンス作りには前向きで、ベルはこちらに来てスタックスStaxで働かないかと声をかけた。最初のプロジェクトはカーラ・トーマスCarla Thomasで、案の定、彼女との初レコード「ピック・アップ・ザ・ピーセスPick Up the Pieces」は彼女をR&Bトップ20に返り咲かせた。次はジョニー・テイラーJohnnie Taylorで、サム・クックSam Cookeのようにゴスペルのソウル・スターラーズThe gospel Soul Stirrersと一緒に歌って、世俗の曲をクックのSARレーベルから出ししていた。デイビスはスタックスである程度成功したベティ・クラッチャーBettye Crutcherを見つけ、ベティは「フーズ・メイキング・ラブWho’s Making Love」を作曲したが、この曲は女を裏切る男たちをたしなめる曲で、男たちが女の尻を追いかけまわしている間に、誰か愛している人がいるのかどうかを露骨に聞く内容だった。露骨な歌詞とパンチの利いたアレンジによって、テイラーはR&Bチャートのトップに上り、ポップのトップ10にも入った。これは良かった!

モータウンの話に移ると、多くの問題があった。テンプテーションズThe Temptationsは主要メンバーのデビッド・ラフィンDavid Ruffinを首にしたのだが、デビッドはデートに行くために仕事をすっぽかし、そうしたことは最初ではなかったので辞めさせたのだった。代わりのデニス・エドワーズDennis Edwardsが演奏するようになるには年末までかかったが、レーベルの全アーティストに影響する別の深刻な問題があり、それは、次々とヒット曲をたたき出してきて留まるところを知らない、ソングライターでプロダクションチームのホランド・ドジャー・ホランドHolland-Dozier-Hollandが、印税とボーナスに関するいくつかの問題が解決されるまで、モータウンのための仕事はきっぱりと断ったのだ。ベリー・ゴーディBerry Gordyは1967年のデトロイト暴動後、もっと安全だと感じるウッドワード通りのビルにモータウンのビジネス部門を引っ越すのに忙しく、3人を訴えることで対応した(もちろん、スタディオは元のまま、ヒッツビルに残した)。法廷へと論争は持ち込まれ、突然モータウンは危機に陥った。このことは単にモータウンがHDHを疎外しただけではなく、ベリーがラスベガスやサンセット大通りのモータウン・ウェストコースト・オフィスで長時間過ごしていたということだ。昔ほどヒッツビル周辺にいなかったわけであり、3人が仕事をしていないことをゴーディは気にしなければいけなかった。これは、人任せにしない昔のゴーディでは決してない。ゴーディがスタートするのを手助けした人たちが着実に離れていた。アーティストだけではない。マリー・ウェルズMary Wellsはとっくにいなくなり、マービン・ゲイMarvin Gayeとデュエットをレコーディングした人気急上昇中のキム・ウェストンKim Westonは他のレーベルに移ろうとしているし、無限の力を持ったスプリームスThe Supremesのフローレンス・バラードFlorence Ballardは、なぜシンディ・バードソングCindy Birdsongがスプリームスと一緒に今演奏しているかを、結局ABCレコードに行って明らかにして、ひそかに解雇された。しかし、相変わらず活躍していたミッキー・スティーブンソンMickey Stevensonは、ゴーディに会社の株式を要求して断られると、スティービー・ワンダーStevie Wonderの初期メンターだったクレアランス・ポールClarence Paulを連れてMGMへと去っていった。ゴーディの義兄弟でムーングロウズThe Moonglowsの元メンバー、ハービー・フークアHarvey Fuqua は、妻でベリーの姉であるグウェンGwenと離婚してRCAに移りモダン・ソウルを持ち込んだ。Motown のアーティストに見事なダンスを付けて他と一線を画し、観客を驚かせてきたボードビルの伝説的振付師コリー・アトキンスでさえ、ラスベガスへ移ってしまった。そこで彼は、共に仕事をする相手を選べるようになり、その中には Motown のアーティストもいたが、全員がそうというわけではなかった。

奇妙なことに、このうちどれもモータウンが時代とともに変わらなかったからという理由ではなく、HDHは作曲を止めるその日までトップ10の曲を作り続けていた。去っていった3人の穴埋め仕事を、たくさんの新しいプロデューサーやソングライターがした。そのうち、一人だけはLAではなくデトロイトを本拠地としていたが、それがノーマン・フィットフィールドNorman Whitfieldで、流行が始まると、それをつかみ取る方法を知っていた無作法な若者だった。パーラメンツThe Parliamentsのリーダー、ジョージ・クリントンGeorge Clintonは、最終的にジョベット・ミュージックJobete Music Co., Inc.にソングライターとして契約していたが、パーラメンツのための曲をヒットさせるまで(結局しなかった)、ヒット曲を探すために自分のグループを持っていた。クリントンは若いころから吸っていた麻薬に加えてLSDも吸い、フィルモアthe Fillmoreのミュージック・ホールに相当するデトロイトのグランド・ボールルームthe Grand Ballroomのショーに通って(それは、ポスター・アーティストのゲーリー・グリムショーGary Grimshawのポスターいたるまで徹底して見倣い)、アップThe Up!、フルートFroot、ティーガーデン&バン・ウィンクルTeegarden and Van Winkle、ストゥージズThe Stooges、エムシー・ファイブ MC5などの地元バンドを見ていた。触発されたクリントンはリード・ギターの達人、エディ・ヘーゼルEddie Hazelなど2名の楽器演奏者をパーラメンツのシンガーに加え、ファンクバンドのファンカデリックFunkadelicとしてクラブ演奏を始めた。特に黒人大学生が彼らに夢中になった。「ノーマン・ホィットフィールドNorman Whitfieldはずーと俺たちを見に来てた」とクリントンは10年後に語った。「彼はこそこそすることさえなく、バカでかいテープ・レコーダーを持って、僕たちの真ん前のテーブルに設置して、ずーとニコニコしていた。」ホイットフィールドがクリントンをコピーしたというクリントンの主張は、テンプテーションズの次のレコード、「クラウド・ナインCloud Nine」を、ホイットフィールドWhitfieldが作ってプロデュースし発売されたとき、確かに違って聞こえたのだから、証明することはできなかった。ワウワウというギターの音から、ゲットー生活の歌詞、二つのコンガ・ドラムをバックにしてテンプツThe Temptsがア・カペラで歌う短いソロのブレーク、最後の『ブーム・ブーム・ブーム』まで、もし誰かが盗用で訴えるとすれば、それはスライ・ストーンSly Stoneで、エンディングはその時ヒットしていた「ダンス・トゥ・ザ・ミュージックDance to the Music」をもろにコピーしたものだ。コリー・アトキンスCholly Atkinsのお決まりの演目を、タキシードを着たたくさんの男たちが演奏しているようには確かに聞こえなかった。変化は功を奏したようで、1968年末までに、モータウンMotownはR&Bチャートのトップ10シングルのうち4曲を占めた。

 

他のレーベルのニュースとしては、ビートルズThe Beatlesのアップル・レーベルApple labelが、傘下にある他の様々なベンチャーと違って元気だった。最初はもちろんビートルズの「ヘイ・ジュードHey Jude」でB面は「リボリューションRevolution」だった。A面は、マッカートニーMcCartneyが書いて自分で歌った耳に快いミッドテンポの曲で、具体的ではないが慰めになる歌詞があるので、おそらくジョンの息子、ジュリアンJulianのために書いたが、曲の最後にグループで繰り返しコーラスを歌ったので、予想よりずっと長くて曲全体としてはなんと7分11秒だった。B面はストーンズThe Stonesの「ストリート・ファイティング・マンStreet Fighting Man」へのジョンJohnの反論で、最近の出来事に再び不満を表したが、若い自称革命家が変化を起こそうとするやり方を批判しているようにも見える。その前に出たのが、「イエロー・サブマリンYellow Submarine」の曲に基づいたビートルズの最新映画で、「マジカル・ミステリー・ツアーMagical Mystery Tour」の隠れた危険をアニメーション化によって回避した。本物のビートルズ・メンバーは自分たちの登場人物の声を吹き込んでいなくて、映画のサウンドトラックに新曲は4曲しか入っておらず、しかもそれらは本当の新曲ではなく、前回のセッションの残りとタイトル曲と、1967年7月の全世界放映の中で初演された「愛こそはすべてAll You Need Is Love」だった。しかし、最新のビートルズ・アルバムが最初のアルバムの5周年にリリースできるように、「イエロー・サブマリンYellow Submarine」のサウンドトラックLPは、発売を控えた。5周年のアルバムである「ザ・ビートルズThe BEATLES」にはタイトルが無いように見え、2枚組レコードだった。『ザ・ビートルズThe BEATLES』という言葉をジャケットにエンボス加工し、シリアルナンバー(少なくとも初期のものには)が入っていた。30曲納められていて、パッケージにはビートルズ全員のどちらかというとまじめな顔写真が入っていて、それぞれの裏面には歌詞が印刷され大きなポスター・コラージュが添えられていた。今から思うと、グループの写真がなく、誰もが自分の曲にかかりっきりのように見えたことが重要に思える。

最も急進的だったのはジョンの新曲だった。ジョンは、ニューヨークのダウンタウンの前衛芸術家集団に長いこと居座っていた芸術家のヨーコ・オノと結婚したが、それはジョンがロンドンのインディカ・ギャラリーthe Indica Galleryにおける彼女の個展で出会った後で、彼女に魅せられたのだった。そうして、レコードには「レボリューションRevolution」(「レボリューションⅠ RevolutionⅠ」という新タイトルを付けた)だけでなく「レボリューション9 Revolution9」も納めたが、この曲は音楽だけでなく身の回りの音も含めたミュージック・コンクレートの奇妙な試みで、白いリンゴ(B面のレーベルにはカットされたリンゴ、A面には緑の皮が描いてあった)がターンテーブルの上で回っているのを見ながら、ファンの間で訳が分からなくなるようなテーマだった。(「僕はポールを埋めたんだ」とジョンは本当に言ったのか?)しかし確かに音楽はビートルズらしさが十分あり、謎めいてはいたが、このアルバムを長い間ホワイト・アルバムと呼んでいたファン達を幸せにし、どんどん売れた。アップルApple recordsにとって次の件は、ジョン&ヨーコ John-and-Yokoのソロ・アルバム「トゥー・バージンズTwo Virgins」で、新婚夫婦が全裸になりジャケット両面で前と後ろのポーズを取った。キャピトル・レコードCapitol recordsはアップル・レコードApple recordsを流通させていたが、その考えにしり込みしたため、このレコードは結局ビル・コスビーBill Cosbyが一部を所有するテトラグラマトン・レーベルTetragrammaton labelに引き継がれて、茶色の包装紙に覆われ、二人の頭だけが外を覗いているジャケットになった。「トゥー・バージンズ」はアルバム・ジャケットのせいで、多くのデパート・チェーンから敬遠され、ローリング・ストーン誌がアルバムのリリース前にこの写真の写しを公開したところ、その号はニュース・スタンドから排除され、シカゴでは麻薬用品販売店の可哀そうな二人の男が、ウィンドーにアルバムを陳列したかどで逮捕された。そんな議論がある中で、中身は自由勝手に芸術を気取ったとりとめのない偽物の内容であふれていたことは、ほとんど注目されなかった。

ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesも、次のアルバム・ジャケットをお決まりのように発禁にさせてしまった。そこには汚いガソリンスタンドのトイレがあり、壁は落書きで埋まり、そのうちのいくつかはジャケットの裏にある曲名だった。このアルバムは「ベガーズ・バンケットBeggars Banquet」というタイトルで、アメリカのロンドン・レコードLondon Recordsは激怒して新しいジャケットを要求し、まるでディナーの招待状のように、銅板の筆記体でバンド名とアルバム名の付いた退屈な白いものになった。見開きページには、バンドのメンバーがごちそうの残骸を前にしてテーブルの周りにだらりと座っている様子が写っていた。しかし音楽の方は前作より大きく改善され、シングル「ストリート・ファイティング・マンStreet Fighting Man」だけでなく、この後彼らのテーマソングとなった「シンパシー・フォー・ザ・デビルSympathy for the Devil」も入っていた。この中でジャガーは自分を悪魔と同一視し、「誰がケネディ兄弟を殺したのか?」というような疑問を突きつけ(もともとは「ケネディを殺したのは誰」で録音していたが、ロバート・ケネディRobert Kennedy死亡のニュースを受けて変え)、「結局はお前らと俺だ」と言った。この曲は大胆な曲で、その後数か月にわたって、音楽イベントでもそうでない場でも繰り返された。シングルとしてリリースしなかったのは賢明だった。

 

この世も末という感じの混乱の中で、可哀そうだったのはエルビス・プレスリーElvis Presleyだった。1968年前半は、クリスマスにNBCで行うことになっていたテレビ特番を恐れながら過ごした。ステージでクリスマス・ソングを歌うだけになるのか?パーカー大佐はエルビスに対していったい何を考えていたのか?MGMはプレスリーの映画で多額の損失を出したので契約更新しないつもりだった。エルビスの人生は長年にわたって浮き沈みがあった。一方で、10代のガールフレンドのプリシラPriscillaをグレースランドGracelandに引っ越させ、彼女によれば、彼女が成人になって同意するのを二人で待っていたので、挿入なしの性行為をしていた。1967年、ついに二人はラスベガスで結婚し、そのすぐ後に娘が生まれ、リサ・マリーLisa Marieと名付けた。エルビスが映画の仕事をしている間、プリシラはほとんどロサンゼルスを離れていたが、撮影期間に何が起きているかの噂を常に耳にしていたので、二人の間には最初から緊張が走っていた。「ザ・トラブル・ウィズ・ガールズ(アンド・ハウ・トゥ・ゲット・イントゥ・イット)The Trouble with Girls (And How t Get into It) 」の撮影が5月に完了した後、クリスマス特別番組に本気で向き合う時期になった。RCAがサウンドトラックをリリースすることになったので、エルビスは良いものにする決意をした。パーカー大佐は、コンサート映画「T.A.M.I.ショー T.A.M.I.Show」の有名なスティーブ・ビンダーSteve Binderを監督に選んだ。ビンダーは本気になってやりたいと言うまでの気持ちにはなれず、やり手のレコード・プロデューサー、ボーンズ・ハウBones Howeやエルビスに加わっただけだった。なんといっても、エルビスの最後のゴールド・レコードは1960年(8年前)で、駄作の映画や失敗作のシングル、それよりもひどいアルバムを制作し、長い間ライブをしていなかった。しかし大佐はビンダーとハウを会議に招いて、そこで「何をすれば創造的なことができるかを君たちに話すつもりはない。なぜなら、創造的な仕事をしてもらうために雇ったのだが、もし勝手なことをするようなら、教えてやることになる。」それから彼らを驚かせるようなことを言った。「どんな曲を君たちが提案しても構わない。もしプレスリー氏が気に入れば演奏するだろう。しかし、プレスリー氏はその曲の出版者に相違なく、気に入らなければ出版者とコミュニケートして修正しなければならない。」これは厳しく聞こえたが、実は大いに譲歩した内容で、映画を作成していた間、エルビスの音楽が上手くいかなかった理由の一つは、サウンドトラックの曲は大佐がリベートをもらった曲の中からいいかげんに選んだもので、そんな状況ではほとんどの大物ソングライターが仕事をしたがらなかったのだ。それに、ビートルズThe Beatlesやカントリー界の新星とは違って、エルビスは自分の曲を書いていなかった。作ったこともなかったし、今から作り始めようとするつもりもなかった。

すぐにビンダーとハウがエルビスに会う時が来た。ショーを自由に形作れるのだから、エルビス・プレスリーとは何者かを表現するチャンスだと、ビンダーはエルビスに説得した。ボーンズBonesは、エルビスのキャリアのかなり早い時期、セッションに参加したことがあって、そこではエルビスを含めた全員が参加し、ヒット曲が組織的に作られたのだが、そのことをエルビスに思い出させた。ビンダーは、このショーを作れるのはエルビスを置いて他にいないと強調したが、エルビスはどう感じただろう?「死ぬほど怖い」とエルビスは冗談半分に言った。数日後、エルビスとプリシラはハワイにバケーションで行き、二人が戻ってくると全員が仕事に取り掛かった。直後にロバート・ケネディBobby Kennedyがロサンゼルスで殺され、共謀について、あるいはその年の別の暗殺であるマーティン・ルーター・キングMartin Luther King Jr.事件が、自分の故郷のメンフィスで起こったので、メンフィスが恐ろしく思えたことを、留まることなく話した。エルビスには分別があった。この特別番組は、メンフィス出身のエルビスは偏見のないことを社会に示すことができると提案した。現代のソングライターが書いた曲を歌うことを、エルビスはどう思っていたのだろう?もちろん良いさ!別の時には、プロダクション・オフィスから階下に降りてサンセット・ストリップをうろついた。民衆は通り過ぎたのだが、エルビスの存在に全く気が付かなかった。プレスリーは何が危機に瀕しているかをその時理解したのかもしれないが、それは、以前は自分が気づかれなかったことなどないということだった。よし。エルビスはそのことに対処することにした。

ショーを創り上げることは大仕事であって、様々な派閥があるので簡単ではなかった。一方で、NBCがいて同社の所有するレコード会社のRCAがいて、RCAはまた消えつつあるスターのエルビスElvis Presley、そのマネジャーの大佐the Colonel、それと組み合わさったビジネスの仕組みから恩恵を受けている。それから現場のプロダクション・スタッフがいて、トップは非常に神経質なスティーブ・ビンダーSteve Binderだ。ショーのコンセプトは、ジェリー・リードJerry Reedの曲「ギター・マンGuitar Man」をモチーフとしてショーの中に組み込み、一つの作品から次の作品へと聴衆を連れていくことだ。リハーサルが始まり、エルビスは自分が楽しみながら役割を果たして、毎日の終わりにメンフィス・マフィアが楽屋にいるエルビスのところに来て、曲と物語を通しでおさらいし、その日の仕事の緊張からエルビスを解き放った。ビンダーはこれらのセッションに際し脇にいて、エルビスを見つめ、後になって曲だけでなく会話のやり取りを聞いた。ビンダーも困っていて、エルビスには自身のアレンジャーがいて名前はビリー・ストレンジBilly Strangeと言ったが現れなかった。もう一人一緒にいたのが、別のビリーのビリー・ゴールデンバーグBilly Goldenbergで、ブロードウェイのショーで主な経験を積んだ。ビンダーはゴールデンバーグに、そこにいてくれと頼んだが、ゴールデンバーグは何をすべきか分からなかった。80人編成のオーケストラに対して実際にアレンジしなければならない時が近づき、ついにビンダーはゴールデンバーグに始めさせた。ゴールデンバーグは気乗りしなかったが、最初のリハーサルを一緒にしている間、こともあろうにベートーベンの月光ソナタの時に絆を築いたのだ。ゴールデンバーグが中に入ってきた時に、エルビスはピアノでそれを弾いていた。エルビスはこの曲の残りを覚えていなくて、演奏をやめた。「これ、知ってる?」と聞いた。ゴールデンバーグは知っていると答え、そこからどうなるかを教えた。エルビスはすぐに分かり、再び演奏を始めた。「最初のリハーサル期間の大半を使って月光ソナタの第1楽章を覚えた」とゴールデンバーグは後に語った。

その後、作業は続いた。今やフィナーレ以外は完成した。ビンダーは、大佐子飼いのソングライターの書く特注のクリスマス・ソングを心配していたし、正直に言うと、エルビスも心配していた。しかし大佐は新たに曲を入れないと頑固に言い張り、エルビスのヒット曲がずっと続くのだから、そんな必要はないだろうと言った。ビンダーはボーカルのアレンジをしているアール・ブラウンEarl Brownをそばに呼び、みんなの居る全体状況をまとめるような曲が必要だと言った。「ここには、エルビス・プレスリー、パーカー大佐、南部国旗、黒人振付師、プエルトリコ人振付師、ユダヤ人ディレクターがいる。舞台裏では、ショーの何もかもが統合されている・・・」すべてのものをまとめ上げて、エルビスがフィナーレで歌える曲をすぐにブラウンは書けるのか?ブラウンは家に帰り、翌朝7時にビンダーに電話して、すごいのができたと言った。二人はスタディオで会い、ブラウンは「イフ・アイ・キャン・ドリームIf I Can Dream」を演奏したが、それは国と人種の間の平和と調和の希望だった。ビンダーは「これだ!」と確信した。今度はエルビスを納得させる番だ。というのは、大佐を相手に演奏しても門前払いを食らうからだ。エルビスは繰り返し、6回か7回聞き、それから顔を上げて「これで行こう」と言った。大佐はもうほとんど反対できなかったので、しなかったし、特に誰かがリード・シートを音楽出版社に渡し、大佐のために出版権を100%獲得した後は、しなかった。それから数日経って、リハーサル後にジャム・セッションと雑談を見た後、ビンダーは素晴らしいアイデアをもう一つ思いついた。プログラムの一部をエルビスと数人の仲間(たぶんエルビスにとってオリジナルのギタリストとドラマーの、スコッティ・ムーアScotty MooreとDJフォンタナD.J. Fontanaを飛行機で呼ぶことができるかもしれない)だけにして、観客の前で親しいグループを再現するのはどうだろう?エルビスが大賛成したので、予定に組み込まれた。数百人という少人数の観客が集まり、最も容姿の良い女性を前に出して(大佐のアイデア)、四角いステージの周りに並ばされた。エルビスは数年ぶりにスコッティやD.J.と会った。緊張していたかって?手が震えていたのが分かる。衣装デザイナーのビル・ブルーBill Belewが急いで仕立てたしなやかで黒い革のスーツを着て、しばらくぶりにスリムになって、エルビスはみんなと冗談を言い合って、そっと「ローディー・ミス・クローディLawdy Miss Clawdy」に入り、リラックスし始めた。数曲歌った後、誰に対してというわけでもなく「久しぶりだな、ベイビー」と言った。緊張は完全に解けたわけではなく、これらの曲を最後に歌ってから音楽界は大いに変化したことをアドリブで話した時に、「でも僕はたくさんの新しいグループも好きで・・・ザ・ビートルズThe Beatles、ザ、えーと、ザ・ビアーズThe Beardsだっけ・・・」となってしまった。それからショーは、事前の予告通り、いくつかの振付と短いゴスペル・セクションに切り替わり、「フェアー・クッド・アイ・ゴー・バットゥ・ザ・ロードWhere Could I Go but to the Lord」と「アップ・アバウブ・マイ・ヘッドUp above My Head」の2曲のゴスペル曲を演奏し、締めくくりはラバーン・ベイカーLaVern Bakerの1961年のリーバー・ストラーLeiber/Stollerのヒット曲「セイブドゥSaved」で、多少皮肉がこもっていた。それから小さな四角いステージに戻って、特に、長いことレコーディングしたかったと思われるルーファス・トーマスRufus Thomasの「タイガー・マンTiger Man」を演奏し、最後に照明を落として、マック・デイビスMac Davisとビリー・ストレンジBilly Strangeのバラード、「メモリースMemories」で締めくくった。ショーの「立った演奏」部分が続き、エルビスの体調は良く、ゴールデンバーグの時々甲高い声を出すアレンジには閉口したが、「ギター・マンGuitar Man」の奇妙な一連のステージを踊り通し、「ビッグ・ボス・マンBig Boss Man」を撃退して、ガールフレンドにセレナーデを歌い、ふしだらな女にかどわかされ、ベリー・ダンサーの隣で演奏した。最近情熱を燃やして学んだ動きである空手を少し披露した。しかし、最後にショーは四角いステージにもう一度切り替わり、エルビスは新しい衣装に着替え、「イフ・アイ・キャン・ドリームIf I Can Dream」を歌ってショーを締めくくった。ロックンロールでは前例のないイベントであり、かつてのスターの復活であって、能力をフルに発揮してデビュー当時と同じことを観客の前で演奏でき、年内にはこれほど多くの人が見ることはないというタイミングで、全国放送を使ってクローズアップしたのだ。しかし、なんといっても33歳に過ぎないのだから、それほど驚くことではない。収録が終わり、「大佐に話がしたいと伝えて」と言ったところ、それに応じて大佐が入って来た。エルビスは「ツアーを再開したい。出かけて行って、ライブの観客と一緒にやりたい」と言った。そしてそうすることになった。大成功し復活したこの時、10年経たずに死ぬとは誰も思わなかった。

ロックンロールの黎明期から続くキャリアの一つが活気づいてくると、別のキャリアは、見事なフィナーレを伴いながらも終わりを迎えた。ビートルズThe BeatlesやストーンズThe Stonesのように自ら曲作りをするグループや、それをまねた多くのアメリカのグループが登場すると、ティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyが提供する曲の需要は減ってしまい、作家は書き続けたが輝きを失った。ゲリー・ゴフィンGerry Goffinとその妻のキャロル・キングCarole Kingは目に見える仕事をした最後の人物で、二人が作った「ワズント・ボーン・トゥ・フォローWasn’t Born to Follow」は、アルバム「ザ・ノートリアス・バード・ブラザースThe Notorious Byrd Brothers」に入ったが、それはガールフレンドと一緒にLSDのトリップから戻った後に、カリフォルニアの海岸、ビッグサーで書いたと、後年インタビューで語ったことから、ティーン・パン・アレーのキャロル・キングとのファースト・カップルはそれほど幸せではなかったことを示していた。彼らは無視できない電話を受けた。テレビ番組が打ち切りになったモンキーズは、プロデューサーのボブ・ラフェルソンBob Rafelsonと一緒に、奇抜なビートルズ風映画で大々的に打って出て、モンキーズの世界の偽善を徹底的にさらけ出すことを決めた。ラフェルソンは仲間のジャック・ニコルソンJack Nicolsonを巻き込んで、すぐに「ヘッドHead」という映画の撮影を始めた。本当に変わった映画で、例えば、「ザ・トリップThe Trip」やほかのハリウッドの麻薬幻覚状態の映画よりも不気味だった。あけすけに自分たちをさらけ出した内容で、テレビのテーマソングのパロディを「作られたイメージで哲学はない」と宣言して歌った。この映画で他に異常なところは、ベトナム将軍グエン・ゴクNguyen Ngocが白昼、ベトコンのスパイを処刑するNBCニュース報道を全部含み、フランク・ザッパFrank Zappaが牛を連れてスタディオの野外撮影場所を通り、デイビー・ジョーンズDavy Jonesが食堂の中でウェートレスを殴る場面があるのだが、彼はすぐに立ち上がって、「ファンはこれに決して賛成しないしフェアじゃない」と女性監督に苦情を言ったのだが、結局はもう一度やるように丸め込まれた。しかし殴り方が激しかったので、ウェートレスのウィッグが落ちてしまい、太ったハゲのスタントマンだということが暴露された。しかし、ほとんどの人達がこの映画で覚えていそうなところは、ミッキー・ドレンツMickey Dolenzが、そして最後には他の3人のモンキーズが橋から飛び降りるところだった。その次の映像は「ザ・ポーポワース・ソングThe Porpoise Song」と一緒に流れ、この曲はジャック・ニッチェJack Nitzscheがサイケデリックなアレンジをした7/4拍子の美しい曲だが、シングルでリリースされて62位にしかならず、チャートインしたゴフィン・キングGoffin/Kingの最後のヒット曲だった。作家カップルはこの年に離婚し、1967年にキャロルは新しいボーイフレンドでベーシストのチャールズ・ラーキーCharles Larkeyと、バンドのシティThe Cityと一緒に、ルー・アドラーLou Adlerの新しいオード・レコードOde Recordsでアルバムを出した。ヒットしなかった。

他にも変化の気配があり、バン・モリソンVan Morrisonはバング・レコードBang recordsとの契約が切れて「アストラル・ウィークスAstral Weeks」という長時間にわたる内省的な曲のアルバムを作り、バックにはモダン・ジャズ・カルテットThe Modern Jazz Quartet(その時点ではアップル・レコードApple recordsと契約していた)のジャズ・ベーシスト、リチャード・デイビスRichard Davisやドラマーのコニー・ケイConnie Kayがいた。また、エバリー・ブラザースThe Every Brothersはワーナー・レコードWarner Bros. recordsから「ルーツRoots」を発売し、これはこどもの頃の家族向けラジオ番組の場面や、マール・ハガードMerle Haggardの歌をフィーチャーしたがほとんど認知されなかった。アトランティック・レコードAtlantic RecordsはクリームCreamの成功で気を良くし、アーメット・アーティガンAhmet Ertegunがダスティ・スプリングフィールドDusty Springfieldの助言に基づいて、20万ドルを払ってジミー・ページJimmy Pageのニュー・ヤードバーズThe New Yardbirdsと契約した。元のバンドのマネジメントとの問題を避けるために、バンド名をレッド・ツェッペリンThe Led Zeppelinに変えた。(アトランティックは、スコットランドのバンド、カートゥーンThe Cartooneと6桁の契約金で契約したことをビルボード誌が報道し、最初のアルバムではページが演奏したが、2枚目はページがいないのでレコード会社がリリースを拒否した。)

もう一つの重要なレコードは、バーズThe Byrdsの出したスイートハート・オブ・ザ・ロデオSweetheart of the Rodeoで、当時は売れなかったが、6か月前に別のアルバムをリリースしたばかりで誰もが驚いた。これはナッシュビルで行われたセッションで作成され、ディランの地下室の曲の「ユー・エイント・ゴーイン・ノーフェアーYou Ain’t Goin’ Nowhere」と「ナッシング・ワズ・デリバードNothing Was Delivered」で組み立てられ、その間には、グラム・パーソンズGram Parsonsやスタックス・レコードStax recordsのソウル・シンガーのウィリアム・ベルWilliam Bell(「ユー・ドント・ミス・ユア・ウォーターYou Don’t Miss Your Water」)だけでなく、ルービン・ブラザースLouvin Brothers(カントリーにおける偉大な兄弟の伝統として、エバリーの先駆者だった)、ウディ・ガスリーWoody Guthrie、シンディ・ウォーカーCindy Walker、マール・ハガードMerle Haggardの曲が入っていた。元々のバーズThe Byrds(マクギンMcguinnはファースト・ネームをロジャーに変え、他には、クリス・ヒルマンChris Hillman、パーソンズParsons、そしてドラマーのケビン・ケリーKevin Kelley)に、ナッシュビルやベーカーズフィールドのもっと華やかな新しい数名のスタディオ・ミュージシャンが補充されたが、それは、スチール・ギタリストのロイド・グリーンLloyd Green、ジェイディー・マネスJayDee Maness、ジョン・ハートフォードJohn Hartford、アールPボール Earl P. Ball、エレキ・ギタリストのクレアレンス・ホワイトClarence Whiteだった。数曲はパーソンズのリード・ボーカルとしたが、LHIレコードの訴訟や、伝えられるところによるマクギンとパーソンズの勢力争いのために、マクギンで再レコーディングしなければならなかった。かなり敵意に満ちて迎えられたグランド・オール・オプリで演奏した後、バーズはイギリスの短期ツアーに出かけ、その時に会ったミック・ジャガーMick Jaggerとキース・リチャーズKeith Richardsは、予定している南アフリカ・ツアーについて、人種差別が厳しいので行かない方が良いとアドバイスした。バーズは帰国し、コロムビア・レコードColumbia recordsが「スイートハート・オブ・ザ・ロデオSweetheart of the Rodeo」をリリースし、その数日後、バンドの中で唯一生粋の南部人であるグラム・パーソンズが、南アには参加せず、バンドを完全に辞めると発表した。マクギンは急いでクレアレンス・ホワイトClarence Whiteを採用し、ツアーは続いた。ますます増える政治化が進む観客からは評判が悪くなり、カリスマ性のあるパーソンズがいなくなり、筋金入りのハード・カントリーだったことも有って、「スイートハートSweetheart」はビルボード・チャートで77位までしか行かなかったが、その影響は大きかったことが分かり、カントリーは次の目玉ではないが、少なくとも、その大きな構成要素だった。

1960年代終わりの大きなトレンドは、バンドの分裂と解散だった。1968年の末までには、どこでも解散し、バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfieldはアルバムが称賛されたのにマネジメントと個人間の問題で苦悩し、その年の終わりに分裂した。ニール・ヤングNeil Youngは既にバンドを離れ、ジャック・ニッチェから提供された曲のソロ・アルバムをリプリーズ・レコードReprise Recordsから出す準備をしていたし、一方、ジム・メシナJim Messinaとリッチー・フレイRichie Furayは録音済みの「ラスト・タイム・アラウンドLast Time Around」というタイトルのアルバムを仕上げていた。クリームはさよならコンサートを開き、アルバム「グッドバイGoodbye」をリリースした。ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーBig Brother and the Holding Companyは、9月にコロムビア・レコードColumbia recordsでのデビュー・アルバム、「チープ・スリルズCheap Thrills」がチャートのトップになったが、ジャニス・ジョプリンJanis Joplinが脱退し、彼女のマネジャー、アルバート・グロスマンAlbert Grossmanのアドバイスで新バンドを結成することを知り、12月1日に最後のコンサートを一緒に行った。マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldはエレクトリック・フラッグThe Electric Flagを去ったが、このグループはバディ・マイルスBuddy Milesのリーダーシップの下で長続きして2枚目のアルバムを出し、ジャムを一緒に行ったアル・クーパーAl Kooperと一緒にアルバムを出すことに同意した。ブルームフィールドが2日目のセッションに来なかったので、クーパーはアルバムの残りのためにスティーブン・スティルスStephen Stillsを呼び入れた。アルバム「スーパー・セッションSuper Session」としてリリースされ、バカ売れしたので、フィルモア・ウェストthe Fillmore West会場(興行主であるビル・グラハムBill Grahamの新しい会場で、以前はカルーセル舞踏会場Carousel Ballroomだったが、フィルモアthe Fillmore会場を手放してから借りた)で2日間のコンサートをするようにブルームフィールドを何とか説得した。そこで録音されたレコードは1969年に「ザ・ライブ・アドベンチャーズ・オブ・マイク・ブルームフィールド・アンド・アル・クーパーThe Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper」としてリリースされ、そのジャケットはノーマン・ロックウェルとのダブル・ポートレートだったが、ブルームフィールドはいよいよ引きこもりがちになった。グラハム・ナッシュGraham NashはホリーズThe Holliesを脱退すると発表し、スティーブ・ウィンウッドSteve Winwoodは、イギリスのバンド、トラフィックTrafficの評判は良かったが商業的にはさえなかったので、2枚のアルバムを出した後、解散すると発表した。個人の私生活レベルの話にはなるが、12月にアレサ・フランクリンが、夫でマネジャーのテッド・ホワイトTed Whiteと別れたと発表した。

こうして、ばらばらになった人たちから新しいグループができた。クリームが『スーパーグループ』というコンセプトのパイオニアだと考えると、エリック・クラプトンは誰もが注目する存在だったが、最初に登場したのはクロスビー・スティルス&ナッシュCrosby, Stills, and Nashで、1969年1月にレーベルを物色していて、そのすぐ後に(アトランティック・レコードAtlantic records)からファースト・アルバムを出す準備をしていた。同じ頃、リッチー・フューレイRichie Furayとジム・メッシーナJim Messinaが、ベーシストのランディ・メイズナーRandy Meisnerと一緒にバッファロー・スプリングフィールドの焼け跡から立ち上がって、カントリー・ロックのグループ、ポコPocoを結成した。そのすぐ後に、グラム・パーソンズGram Parsonsは、元バーズByrdsのクリス・ヒルマンChris Hillmanやクリス・エスリッジChris Ethridge、そしてグループに属さないLAのペダル・スティール・ギタリスト、スニーキー・ピート・クライナウ”Sneaky” Pete Kleinowと一緒に、自分自身のカントリー・ロック・バンド、フライング・ブリット・ブラザースThe Flying Burrito Brothersを結成した。彼らのデビュー・アルバム「ザ・ギルディッド・パレス・オブ・シンThe Gilded Palace of Sin」のジャケットでは、ナディーズ・ロデオ・テイラーズNudie’s Rodeo Tailorのスーツを3人が着ていた。このテイラーは、ノースハリウッドにあるカントリーの紳士服店であり、もっと派手なナッシュビル・スター(最も著名なのはポーター・ワゴナーPorter Wagoner)のステージ衣装も作ったことがあった。パーソンズのスーツは大きなマリファナの葉を表していたので、このグループがカントリー・ミュージック業界のナッシュビルで気に入られるようにはまずならないが、ターゲットの観客には好評を博した。

それでも、ナッシュビルは不本意ながらも、こうした新人と折り合いをつけるようになってきた。ボブ・ディランBob Dylanはアルバム「ブロンド・オン・ブロンドBlonde of Blonde」の大部分、それから「ジョン・ウェスリー・ハーディングJohn Wesley Harding」をナッシュビルでレコーディングし、そして今度はジョニー・キャッシュとのデュエットで口火を切った「ナッシュビル・スカイラインNashville Skyline」を市場に出した。ディランはジョニー・キャッシュJohnny Cashの新しいテレビ番組に出演し、「ナッシュビル・スカイライン」では、スティール・ギター奏者のピート・ドレイクPete Drake、フィドラーのチャーリー・ダニエルスCharlie Daniels、売れっ子の若いギタリストであるノーマン・ブレークNorman Blake等、最初に声がかかる一流スタディオ・ミュージシャンをバックにして分かり易いラブ・ソングを続けた。キャッシュは無韻詩の形でライナー・ノーツを寄稿した。それから、クラプトンClaptonが行動を起こして、5月に新しいスーパーグループのブラインド・フェイスBlind Faithが発表され、クラプトン、スティーブ・ウィンウッドSteve Winwood、クリームCreamのドラマーのジンジャー・ベイカーGinger Baker、アメリカでは大したことができなかったが自国では超人気の非常に変わったイギリスのグループ、ファミリーFamilyにいたリック・グレックRic Grechが加わった。記憶に残る曲がほとんどなく、やっと思春期に達したばかりの少女が裸で飛行機の形をしたクロムで覆われた装飾品を持ち(この写真はすぐに引っ込められ、バンドのセピア・トーンの写真と交換された)、アルバムはチャートを急上昇し、短いアメリカ・ツアーの後にメンバーは別々の道に進んだ。ギクシャクしていたのが、50年代の初めから一緒にやって来たレスター・フラットLester Flattとアール・スクラッグスEarl Scruggsだった。二人がペアを組んだ時、アール・スクラッグスはブルーグラス・バンジョーを変え、連続ホームコメディである「ザ・ビバリー・ヒルビリーズThe Beverly Hillbillies」のテーマソングを提供して以来ロック・スター寄りになって、特徴のあるインストゥルメンタルの一つ、「フォギー・マウンテン・ブレークダウンFoggy Mountain Breakdown」をヒット映画、「ボニー・アンド・クライドBonnie and Clyde」のテーマ曲にするために見直した。1968年9月、彼らの最後のシングルは「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」だった。ヒットには至らなかった。

それで良かった。全く新しいスター達が生まれつつあり、古いスター達も進化しつつあった。ダグ・サームDoug Sahmはサンフランシスコがとても好きになり、素晴らしいアルバム、「サー・ダグラス・クインテット・プラス・2・ホンキー・ブルースSir Douglas Quinte + 2 =Honkey Blues」をレコーディングしたが、これはフリー・ジャズ、カントリー、ブルース、サイケデリック音楽を組み合わせたものだった(そしてクインテットThe Quintetから参加したのはダグだけだった)。ダグは続いてシングルの「メンドシーノMendocino」を出し、アメリカではそこそこ売れたが、西ヨーロッパでは大ヒットになり、その結果生まれたのは、『アミーゴス・デ・ムジカAmigos de Musica』(この名前は普通、ダグと彼の元々のプロデューサーのヒューイ・P・ミオー Huey P.Meauxを指した)のプロデュースした同名のアルバムで、ある程度成熟した曲であふれ、オリジナルのクインテットThe Quintetをフィーチャーしていた。

レコード会社は良いタレントを獲得するやり方を見つけようとしていた。エレクトラ・レコードElektra recordsは、企業内ヒッピーとして雑誌のシックスティーン16で仕事をしていて、流行に敏感で内情に通じたニューヨークの業界人、ダニー・フィールズDanny Fieldsを選んだことは賢明で、彼はバンドと契約する権限を与えられていた。フィールズはデトロイトに行き、そこのグランド・ボールルームGrande BallroomでMC5が大音量で力強く政治的なショーをやっているのを見た。彼らはホワイト・パンサー・パーティー The White Panther Partyの表向きの顔で、工業を基盤として強力な労働者層のいる町だけに現れるちょっと混乱した政治グループだった。彼らの掟はひどいもので、「通りでマリファナ、ロックンロール、セックスすること」を求めることであり、詩人で民衆先導家のジョン・シンクレアJohn Sinclairがリーダーをするコミューンがその掟を統治していた。

シンクレアは、黒人コミュニティにおけるブラック・パンサーズThe Black Panthersの存在と同じように、ホワイト・パンサーズThe White Panthersは戦闘的な左翼の白人の若者だと彼は感じていた。彼はアン・アーバー・ブルース・フェスティバル Ann Arbor Blues Festivalの背後にいる実力者で、そのフェスティバルにアーチー・シェップArchie Sheppやサン・ラSun Raなどの前衛芸術家を出演させた。また、自分がマネジメントしていたエム・シー・ファイブ The MC5に政治的発言をさせたり、デビュー・アルバムに入ったラRaの「スターシップStarship」のような曲や、ファンが史上最も偉大なロック・インストゥルメンタルだと断言したが決してレコーディングされなかった「ブラック・トゥ・コムBlack to Comm」のような前衛的なインストゥルメンタルを、プログラムに入れるように促したりした。エム・シー・ファイブThe MC5は自分たちのショーをゴスペル演奏のように作り上げ、観客を駆り立てて熱狂させ、革命を起こすように熱心に勧め、デビュー・アルバム、「キック・アウト・ザ・ジャムKick Out the Jams」はグランドthe Grandeでのライブを録音し、オープニングはボーカリストのロブ・タイナーRob Tynerの言葉は、「さあ時間だ・・・やりたい放題やれ、くそったれども!」だった。このため、3月にタイナーTynerは最初にこの問題発言を「兄弟姉妹」とオーバーダビングしなければならず、5月に、バンドがツアーを多少行った後、カオス状態が拡散して、エレクトラ・レコードElektra recordsは、3か月間在籍した後、「プロとしてあるまじき行為」だとして契約を打ち切った。しかし、フィールズDanny Fieldsはグランドthe Grande Ballroomに出演したエム・シー・ファイブThe MC5の仲間の一つであるストゥージズThe Stoogesと契約した。ストゥージズは特に政治的ではなかった。それどころか、ほとんど演奏できないという者もいた。

実は、業界はまだ「子供達」の望んでいることが分かっていなかった。グループに関しては大丈夫で、誰もがグループのことを分かっていた。しかし毎週、ビルボード誌のニュー・アルバムのリストは大混乱していた。適任のメンバーを募集したようなグループもあり、おそろいの服を着た4~5人の長髪の男と女の子がいたり、プロデューサーを強調して業者向け広告をしていたところもあった。宣伝文句は、のどかな感じと陽の当たる漠然とした明るい見通しであって、作詞作曲や演奏ではない。こうしたバンドはあっという間に消えた。また、不機嫌で、どことなく敵愾心を持った顔つきの男女の若者たちで、カメラをちゃんと見ることなく、現代の問題を考えてる陰気な若者のサウンドを予想させていた。ピジョンPidgeonとはどんなグループか?リノセロスRhinocerosは?カクKakは?サーペント・パワーThe Serpent Powerは?ワイルド・フラワーThe Wild Flowerは?ザカリー・タクスZakary Thaksは?ハービンジャー・コンプレックスThe Harbinger Complexは?クロウCrowは?非常に多くのアルバムが発売されたので、多少興味深くても、忘れられ、放置されたままのものもあった。カップ・レコードKapp Recordsは大手の文化的勢力とはとても言えないが、原始的な自作シンセサイザーを演奏したニューヨークのデュオ、シルバー・アップルスSilver Applesによるアルバムを出した。彼らがスイサイドSuicideやイギリスにおけるニュー・ウェーブの数多いシンセ・デュエットに影響を与えたというのは魅力的に聞こえるだろうが、そのデュエットを聞いた人はいない。コロムビア・レコードColumbia recordsは、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカThe United States of Americaと言うグループにある程度の資金を投入したが、このリーダーは前衛的な作曲家で大学院生のジョセフ・バードJoseph Byrdと、そのガールブレンドのドロシー・モスコウィッツDorothy Moskowitzから成り、シンセサイザーとパーカッションで左翼のプロテスト・ソングを大げさに演奏したが、大衆にはちょっと高尚すぎた。ギターの名手であるデビッド・リンドレーDavid Lindleyの出発点として後に伝説になったカレイドスコープKaleidoscopeもいたが、ウード、サズ、フラメンコ・スタイルのギター、エキゾチックなパーカッション等たくさんの変わった楽器に熟達したメンバーもいた。彼らは古典的なトルコ音楽、昔懐かしいカントリー、昔のブルースを前衛的に詳しく分析した曲を演奏し、LAのクラブで数年人気者になったものの、十分なキャリアを積むことに関心がなく、バンドができたばかりの頃、モントレー・ポップ・フェスティバルに演奏することになっていたが出演し忘れた。もう少しだけ焦点が絞られていたが、同じように多様性に富んでいたのが、ウィリアム・バローズWilliam Burroughsの小説に出てくる団体名にちなんだメンフィスのインセクト・トラストInsect Trustで、このグループには過去にカントリー・ブルース(ギタリストのビル・バースBill Barthはスキップ・ジェームスと一緒に古い曲の再発見を一緒に行い、メンフィス・ブルース・フェスティバルMemphis Blues Festivalにも関係していた)、前衛ジャズ(管楽器奏者のロバート・パーマーRobert Palmerとバリトン・サクスフォン奏者のトレバー・ケーラーTrevor Koehler)、昔懐かしいフォーク(ルーク・ファウストLuke Faust)を経験した者もいた。このバンドには、インスピレーションに富んだ組み合わせを生む作詞作曲の才覚があり、トマス・ピンチョンThomas Pynchonが自分の小説Vに入れた詩「アイズ・オブ・ア・ニューヨーク・ウーマンEyes of a New York Woman」や、ケーラーの6歳になる息子が書いた詩(レコ―ディングに当たってはエルビン・ジョーンズElvin Jonesがドラムを演奏した)に音楽も付けた。

しかし、これらの変わったバンドの中でおそらく最も成功した(成功と言う言葉を緩く使った場合)のは、キャプテン・ビーフハート&ヒズ・マジック・バンドCaptain Beefheart and His Magic Bandだったろう。『ビーフハートBeefheart』はドン・バン・ブリエットDon Van Vlietのことで、フランク・ザッパの幼友達であり、若いころ二人ともブルースが好きだった。ドンは絵画にも才能があり、芸術を愛しているためにホモになることを恐れた両親はLA郊外の砂漠(ここでザッパと出会う)に家族で引っ越した。バンドを結成するためにLAに戻ると、ザッパと彼のマネジャーのハーブ・コーヘンHerb Cohenが始めたレーベルの一つであるストレート・レコードStraight recordsにザッパがドンを契約させ、調子っぱずれのブルージーな曲を二つレコーディングした。郊外の辺鄙な家に自分のバンドを集め、ビーフハートは8か月間徹底的に練習して、ついに「ネオン・ミート・ドリーム・オブ・アン・オクタフッシュNeon Meate Dream of an Octafish」、「フェン・ビッグ・ジョーン・セッツ・アップWhen Big Joan Sets Up」、「ホボ・チャン・バHobo Chang Ba」といったタイトルの、武骨でしばしば耳障りな変わった28曲を作って現れ、演奏はズート・ホーン・ロロZoot Horn Rollo(元ビル・ハークルロードBill Harkleroad)、ウィンジド・イール・フィンガーリングWinged Eel Fingerling(元エリオット・イングバーElliot Ingber)のような名前に変えたバンド・メンバーが演奏した。それらのレコードの中で、数オクターブの声域に亘ってビーフハートの声が理解しがたい歌詞を怒鳴るように叫び、バンドの音が急に入って鳴り響いた。ワーナー・ブラザースWarner Bros.の力が背後にあって2枚組のレコードとしてリリースされたこのアルバム、「トラウト・マスク・レプリカTrout Mask Replica」は、史上最も評価が別れたレコードの一つとなり、ビーフハートはちょっとしたスターダムへの階段を上り始めた。何とかギリギリ聞けたのはマーキュリー・レコードMercury recordsから出たシングル、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイLegendary Stardust Cowboyによる「パラライズトParalyzed」で、ギターとビューグルを演奏するノーマン・オダムNorman Odamという名前の西テキサスの変人だった。その歌詞と指示はあいまいで、レコードでのオダムのバックはドラマーのJヘンリー・ティー・ボーン・バーネット J.Henry “T Bone” Burnettだけだった。みんながそれを聞いていることに勇気づけられて、オダムはラスベガスに移り住んでスターになり、今もそこに住んでいる。

ポップの聴衆にもっと受け入れられたのは新たに出現した管楽器バンドだった。エレクトリック・フラッグThe Electric Flagには管楽器セクションがあり、そこにファンは興味を持ったので、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Bandの次のエディションも管楽器セクションを取り入れた。カナダ人のスキップ・プロコップSkip Prokopはジャズを気取ったライトハウスLighthouseを結成し、キーフ・ハートレーKeef Hartley やイフ IFなどイギリス人のようなつぶやきをしたが、大ニュースはアル・クーパーAl Kooperが自分の曲を発表するために結成したバンド、ブラッド・スエット&ティアーズBlood, Sweat, and Tearsで、ニューヨーク・ジャズ・シーンに魅了されたスタディオ・ミュージシャンの管楽器奏者をたくさん雇い入れ、コロムビア・レコードColumbia recordsと契約した。彼らの最初のアルバム、「ザ・チャイルド・イズ・ファーザー・トゥ・ザ・マンThe Child Is Father to the Man」は大してうまく行かなかったが、バンドは一緒に演奏をしたがって、1969年にクーパーをカナダ人シンガーのデビッド・クレイトン・トーマスDavid Clayton-Thomasと入れ替えた。デビッドは大衆にうまく受け入れられて、その後3枚のシングルを2位に押し上げ、クレイトン・トーマスは出たり入ったりしながら70年代後半まで続くキャリアを開始した。トレンドの臭いを嗅ぎ付けたコロムビア・レコードColumbia recordsは、中西部のロック・クラブで演奏していた管楽器のあるバンドと契約して、すぐにシカゴ・トランジット・オーソリティーThe Chicago Transit Authorityとして2枚組アルバム(広告の文言によると表現したいことがたくさんあったので2枚組にした)を出したところうまく行ったが、訴訟の恐れがあったせいで「トランジット・オーソリティTransit Authority」を削り、次のアルバム「シカゴ2 ChicagoⅡ」がアルバム・シリーズの皮切りとなって、この本を書いている時点で「シカゴ36 Chicago XXXVI」になり、世界中で何百万枚も売れてチャート入りしたシングルは50枚になる。ロックンロールとして市場で売られているが、結局これらのバンド(そしてそれに加えていくつかのバンド)が主張しているものは時代にフィットしたものではあるが、軽音楽の先端を行くものに過ぎなかった。「シカゴ4ChicagoⅣ」は、箱に入った4枚組LPで、カーネギー・ホールCarnegie Hallのビンテージものの写真をカバーにしたのが特長で、ポスターとして印刷されたものが箱の中に収められていたが、それを使った理由は数曲がそこでレコーディングされたからだ。

1969年夏、大いに興奮したのはロック・フェスティバルだった。以前より多くのバンドがツアーに出ていて、その多くはイギリスのバンドだったが、どういうわけかアメリカ人であることより価値があることが多く、野心的プロモーターにとってはモンテレーMontereyが模範としてあった。毎週ローリング・ストーン誌Rolling Stoneが、フェスティバルの広範囲にわたる特派員から送られたニュースを報じ、公表された演奏者が登場しなかった(つまり、偽物のゾンビーズZombiesやヤードバーズYardbirdsのように本物でない)とか、天候のせいで中止となったとか、はるかに多かったのは、ティーンエイジャーがマリファナを吸っていたとか、警察が入って来たとか、それに続いて暴力沙汰になったとのことだった。しかし、イベントが成功しようがしまいが、多額の金を稼がなければならないので開催し続けた。ニューヨーク州ホワイト・レイクのアクエリアン・エクスポジションthe Aquarian Expositionのプロモーターは自分たちを、ウッドストック・ミュージック&アート・フェアthe Woodstock Music and Art Fairと呼んで、8月15-18日のイベントを発表した。これは当初さほどの注目を集めなかっただろうが、いくつかの要素が作用した。一つ目には、プロモーターの一人であるマイケル・ラングMichael Langがこの年の初め、既にマイアミで半ば成功と言える有名なフェスティバルをやってのけ、二つ目には、地図を見るとこれは実はウッドストックではなく、ウッドストックのそばで、ディランが実際に住んでいる所だということを誰もが知っていた。ウディ・ガスリー追悼コンサートは別として、ディランが演奏しているのを見た人はいなかったが、本人が8月末にイギリスのワイト島音楽祭the Isle of Wight Festivalに出演すると発表した。それじゃ、もしもう一度演奏するなら地元で演奏しない手はないだろう。彼は秘密主義なので、発表しないんじゃないかな?今までのところ、ディラン研究はクレムリン研究(ソ連の複雑な内政の動きを解読する米国政府の『科学的』手法)と同様に複雑で噂にまみれ、悪名高いAJウェーバーマン A.J. Webermanはディランの作品の『意味』を研究するために大学を中退し、終いには『手がかり』を求めてディランのごみまでくまなく探すようになった。そこで、ディランのマネジメントは彼が出演することをはっきりと否定したが、大きな話題になっていた。イベントが近づいても顔ぶれが発表されなかったが、ウッドストック・コンサートの宣伝が州北部まで知れ渡ってくるにつれ、周辺の地域社会の町議会が盛んに開かれた。直前になって、ニューヨーク州のホワイト・レイクはプロモーターが使いたがっていた土地を許可せず、近くのべセルの酪農家であるマックス・ヤスガーMax Yasgurがなぜかこのことを聞きつけ、親切心 (そしてプロモーターが明かにしていない額のお金)から、自分の大きな牧場の一つを使わせてあげた。「もしジェネレーション・ギャップを埋めることになるのなら、我々年配の人間たちは、今まで以上のことをしなければならない」と、バルティモアの新聞に当時語った。8月はツアー最盛期なのでイギリス(フーThe Who、インクレディブル・ストリング・バンドThe Incredible String Band、キーフ・ハートレーKeef Hartley、テン・イヤーズ・アフターTen Years After)、ウエストコーストの南北両方(ジェファーソン・エアプレインJefferson Airplane、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンSly and the Family Stone、クロスビー・スティルス&ナッシュCrosby, Stills and Nash、グレイトフル・デッドThe Grateful Dead、キャンド・ヒートCanned Heat、ジャニス・ジョプリンJanis Joplin、そして新しい感覚のサンタナ・ブルース・バンドThe Santana Blues Bandはまだアルバムも出していなかった)、ニューヨーク(ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix、リッチー・ヘイブンスRichie Havens、マウンテンMountain)、近郊(バンドThe Band、ポール・バターフィールドPaul Butterfield、ティム・ハーディンTim Hardin)から出演者を招くのにほとんど問題はなかった。このような状況なので、どれほど正確に支払うかはちょっとした問題だったが、共同プロデューサーのアーティー・コーンフェルドArtie Kornfeldが映画の契約を締結した時に解決した。このことが主催者を経済的苦境から救うことになり、ウッドストック神話の基礎になった。ポスターには「愛と平和と音楽の3日間3 Days of Peace & Music」と書いてあったが簡単にはいかなかった。

まず初めに、その会場にたどり着くことはすぐに不可能になった。チケットが事前販売(30万枚に達しつつあった)にもかかわらず、プロモーターは駐車場が必要だとは考えなかったようだ。現地には食べ物がほとんどなく、あっても高額だったので、人間は食べる必要があることを、おそらく彼らは知らなかったのだろう。トイレもなかなか見つからなかった。あれまあ、雨が降った。初日に雨が降り、その後も断続的に降って、土砂降りでずぶ濡れになることも数回あった。このため、結局は牛の牧場にいた観客だけでなく、サウンド・システムの電気機器やケーブルにとっても問題が生じたのだが、そのシステムは現代の基準から見れば原始的で力不足だったからだ。しかし、バンドは演奏を続け、初日はある程度フォーク・ミュージックに充てられ、スイートウォーターSweetwaterというバンドが、まだ到着していない誰かの代役をして、ラビ・シャンカールRavi Shankarは雨が本当にひどく打ちつける中で演奏した。23歳のメラニー・サフカMelanie Safkaはプロモーターのマイケル・ラングMichael Langに演奏させてくれとうるさくせがんでいたが、インクレディブル・ストリング・バンドIncredible String Bandが雨の中で演奏するのを拒んだので、生涯最高の幸運をつかみ、妊娠6か月のジョーン・バエズは立ち上がり、主にカントリー調の曲を声を震わせたトリルで歌い、徴兵を拒否して投獄された夫のために「勝利を我らにWe Shall Overcome」で締めくくった。

翌日はクイルQuillから始まったが、そのバンドのアルバムをローリング・ストーン誌の批評家が、磁器のトイレの中で爆発したショットガンに例えた。その次のカントリー・ジョー・マクドナルドCountry Joe McDonaldは、次の演奏者にトラブルがあったためにソロの舞台で演奏したが、それはサンタナであることが分かったものの、カルロス・サンタナCarlos Santanaが混乱の元というわけではなかった。彼の出番はもっと後だと考えていたので、午後の中頃の枠までにリラックスした雰囲気になろうと、幻覚剤のメスカリンを少しとった。幻覚状態に入った時、誰かが彼とそのバンドにステージへ行けと命じ、有無を言わせなかった。マリファナに酔ったが、その後の映画で重要な役を獲得し、彼のキャリアが始まった。その日の他のイベントはキャンド・ヒートCanned Heatで、ほぼ30分間ブギーのジャムを演奏し、まるで今後10年間のライブ音楽の予告編だった。グレイトフル・デッドGrateful Deadはマイクロフォンをアースしていなかったので、誰かが近づきすぎると強力なショックを与えたかもしれない。ジャニス・ジョプリンJanis Joplinは新しいフル・ティルト・ブギー・バンドFull Tilt Boogie Bandと一緒だった。スライ&ファミリー・ストーンSly and The Family Stoneはフェスティバルで唯一ソウル・ミュージックと認められたが、スライはキャリアの最初からロックの観客に届く努力をしてきた。フーThe Whoの時、途中でアビー・ホフマンAbbie Hoffmanが入って中断したのだが、その理由は、ジョン・シンクレアJohn Sinclairが二つのマリファナたばこを所持していたところを発見されたために最近投獄されたことについて、演奏の途中で観客に話す良い機会だと考えたようだったからだ。ザ・フーのピート・タウンシェンドPete Townshendはもちろん承諾せず、ホフマンの尻を蹴り、それから自分のギターで頭を殴りつけ、「俺のステージから消え失せろ!」と叫んだ。バンドはステージを終わらせ、後にタウンシェンドは「クソひどかった」と語り、ロジャー・ダルトレーRoger Daltreyは「今まで演奏した中で最低だ」と記憶している。その日はそれで終わりなのだが、物事があまりに遅れていたため、いつものようにセッティングに手間取った後、ジェファーソン・エアプレインJefferson Airplaneは太陽が上がる頃にステージに立って、LSDを使ったと思わせる演奏をし、広く禁止されている彼らの新しいシングル、「ボランティアーズVolunteers」をフィーチャーした。この曲は革命を説き、『セックス』という言葉を使い、首尾一貫しない政治、UFO研究、そしてもっとひどいものへとバンドが転落する前触れとなった。それからジョー・コッカーJoe Cocker(アルバムは出していたが、この時にはまだ無名だった)は、映画によって育てられたアーティストで、いらいらしながら模造のソウルを演奏した。次に登場したのが、二人のギターのヒーロー、テン・イヤーズ・アフターTen Years Afterのアルビン・リーAlvin Leeとジョニー・ウィンターJohnny Winterで、ザ・バンドによって区切られた(アルバート・グロスマンAlbert Grossmanは録音や映画化されることを拒絶し、ステージに登場している間ずっと観客がディランの名前を叫んでいたのを我慢した)。テン・イヤーズ・アフターは、リーの派手ではあるが中身のない演奏でこれからの数年を垣間見せたが、少なくともジョニー・ウィンターJohnny Winterはテキサスのゴールデン・トライアングルGolden Triangle(ボーモント、ポート・アーサー、ヒューストン)にある旅館においてリーのバックで数年間演奏し黒人ブルースの経験を積んだ。大きな話題になったのは、クロスビー・スティルス&ナッシュCrosby, Stills and Nashの初公演だったが、静かなハーモニーがサウンド・システムに負けてしまった。ニール・ヤングNeil Youngは既にソロでファースト・アルバムを出していたが、3人とはかなり一緒に活動し、みんなに悪感情がないことを示すために途中で彼らに加わったが、ライブのサウンドが不満だったので映画のために再録音を行った。ポール・バターフィールドPaul Butterfieldは自分の新しいバンドを披露し、その後にどういうわけか、コロンビア大学グリー・クラブthe Columbia University Glee Clubから生まれた、大げさなコメディ・オールディーズ・グループのシャ・ナ・ナSha Na Naが続いた。なんと、この映画に登場したことで、これが彼らの仕事になった。最後に月曜の夜明け、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixは忍耐強く待って、自分が結成した新グループを披露したが、そこには、ベースに空軍の仲間のビリー・コックスBilly Cox、エクスペリエンスExperienceから残留したドラムのミッチ・ミッチェルMitch Mitchell、ジプシー・サン&レインボーズGypsy Sun and Rainbowsというリズム・ギタリストと数名のパーカッショニストがいた。彼が演奏した「ザ・スター・スパングルド・バナーThe Star-Spangled Banner」はいろいろ手が施されていて、作家達はベトナム戦争への究極の怒りの表現だとみなしたが、実は彼の持ち歌の中では昔からの定番だった。もっと重要なことはそれを聞いたのがほんのわずかな人だけだったということで、その人達はヒッピーだったのかもしれないが、もう月曜日になっていて、多くの人達は仕事に戻らなければならないし、結局そこに来た推定40万人のうちわずか数千人のためにヘンドリックスは演奏した。

長年にわたって、ウッドストックは『60年代』神話の中で不相応に重要視されてきた。その賛歌「ウッドストックWoodstock」をジョニ・ミッチェルJoni Mitchellが、マンハッタンの自分の部屋でニュース報道を見ながら書いたのだが、彼女はディック・キャベットDick Cavettの深夜トーク番組に出演することになっていて、この出演方法は彼女のアルバムを売るやり方(そうしても売れなかった)であり、たくさん露出することが必要だった。ウッドストックで演奏するための招待はされていなかったが、出たいと思えば出られる立場にいた。マネジャーのエリオット・ロバーツElliot Robertsは、キャベット・ショーのために声を温存し、フェスティバルに行くリスクを冒して、テレビに出演できなくなるようなことをしないように助言した(一方で、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは、ヘリコプターでニューヨークに行き、ミッチェルと一緒にキャベットに出演した。)

もう一つ注目に値するのは、ウェイビー・グレービーWavy Gravy(元のスタンド・アップ・コメディアンのヒュー・ロムニーHugh Romney)をリーダーとする、ケン・キージーKen Keseyのメリー・プランクスターズMerry Prankstersから発展してできたコミューン、ホグ・ファームthe Hog Farmが現れ、テントを建て、ドラッグで苦しんでいる人のケアをし、少なくとも群衆の一部に無料で食べ物を提供したことだ。しかし、派手なギタリストはさておき、これからの30年間の中心にある二項対立がこれから始まることを予告した瞬間であった。ある時点で10万人の押し掛け客が会場のフェンスを壊した。その音楽は仲間たちが作ったのであるから自分たちのものであり、それにお金を払うのはばかげているだろ、という考えで自分たちの行動を正当化する者もいた。もう一方では、演奏者が生計を立てているという現実の必要性や、ビジネスは利益を生まなければいけないという必要性がある。「ウッドストックは金もうけのために作り出された」と、ウェイビー・グレービーWavy Gravyは後に語った。「金を稼ぐために企画された。そしたらみんながそれを引き受けて、一緒にやったんだ。」これは本当にその通りだが、関係者のジョージ・クリントンGeorge Clintonは語った。「ウッドストックが始まりだったと人々は言う。そうじゃない。終わりだったんだ。何でも売っていた。『よお、兄ちゃん。マリファナをやろう。LSDの錠剤をあげるよ。』ということはもう無くなった。『マリファナほしいか?LSDほしいか?』だった。そして家に帰ると、すぐに路上でも同じやり方になった。」ウッドストックの映画は、開催直後にプロモーターが3百万ドルの赤字をこうむったが、それを返済するために1970年3月にリリースされると、結局5千万ドルの興行収入となった。3時間の長さはあったが、映画館(きれいなトイレ付)で見ることができて、そこは食べ物も十分にあり、快適な座席でリラックスし、専門家がミキシングし直したサウンドを聞いたり、マイケル・ウォドリーMichael Wadleigh監督による若者の愛や、楽しんでいる若者の深い思いを込めた映像を通して、ノスタルジアにため息をつくことができ、そして雨で濡れることもない。もしそんなに気に言ったのなら、入る前に車の中でマリファナを吸ったらいいし、時間を見計らって、お気に入りのアーティストが登場する時に絶頂になるように、LSDでトリップすることもできる。

アビー・ホフマンAbbie HoffmanがフーThe Whoのウッドストックのステージを邪魔した時は、春に発売したアルバムで待望の、そして評判(ほとんどがタウンシェンドTownshendによるもので、彼はロックやアングラの出版業界から愛されていて、彼に質問をすると大いに語り、しかも理路整然としていて知的だった)のロック・オペラ、トミーTommyの抜粋を演奏している最中だった。このアルバムのリリースはキャリアを決定づけるもので、現在でさえバンドに残ったメンバー(皮肉屋のファン達から「ザ・トゥThe Two」と名付けられたタウンシェンドTownshend とダルトレーDaltrey)が自分たちのショーの一部として、その楽曲集を演奏している。それは2枚のLPに亘ったので、無秩序でかなりまとまりのない楽曲集だった。ロック・オペラの筋書きには登場人物がタイトルになった『耳、口、目が不自由な少年』がいて、ピンボールのゲームの腕前で有名になった。彼は周りの多くの人間から食い物にされ、変態の叔父からは性的いたずらをされ、最終的には何とか救出され自由になるのだが、それは最高のギターとキース・ムーンKeith Moonの盛り上がったミリタリー・ドラムによって語られた。しかし、これは驚くべきインパクトで、最後には『芸術としてのロック』であると明らかになり、フーThe Whoはメトロポリタン・オペラthe Metropolitan Operaでフル演奏すると発表し、ライブ演奏から数曲を落とすことになった。それは1970年に実現したが、他の場所の後だった。そしてオペラと言っても歌だけで、筋書きのあるドラマが歌のある劇のように演じられる通常のオペラと異なり、トミーTommyには筋書きを説明する叙唱がなく、演者はバンドであり、楽器を演奏している間は芝居を演じることができなかった。組曲と呼ぶのは適切だったが、ロック・オペラという考えは既に検討されていた(特にキース・ウエストKeith Westのイギリスでヒットしたシングル、「エキサープト・フロム・ア・ティーネージ・オペラExcerpt from a Teenage Opera」は有名だったが、完成品として日の目を見ることは無かった)ので、誰も難癖を付けなかった。これは重荷であるとともにうぬぼれの極みであり、それに対抗して、賢く芸術的なポップ・ソングを書き続けたのが、1971年のアルバム、「フーズ・ネクストWho’s Next」だった。その後に、1973年の次作「オペラ」、クアドロフェニアQuadropheniaがあり、完全に実現することのなかった進行中のプロジェクト、ライフハウスLifehouseもあった。この楽曲はすべて、タウンシェンドTownshendが第一人者のメヘル・バーバーMeher Babaへの最近の傾倒に基づいていて、バーバーは1925年以来話をしていないインド人で、目立った存在だったので、1930年以来西洋に多くの信者がいた。トミーTommyは必然的に『ロック・オペラ』の方に向かい、今後数年間で、より小規模なグループでもテーマ性を持つようになった。すぐに『コンセプト・アルバム』は人気となった。

もう一つの重要なアルバムは、既にウッドストックまでにレコーディングされていたが、その翌月にリリースされた、ザ・バンドの「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクMusic from Big Pink」に続く作品で、単に「ザ・バンドThe Band」というタイトルだった。単純に言えば、この1枚のLPが1990年代に現れ始めた『アメリカーナAmericana』のジャンルを生み出したのだが、それは今でも感じることのできる巨大なインパクトを持っていた。一つには、少なくともこのアルバムが存在するためのスペースを作り出したのはロサンゼルスのバーズ後のグループthe post-Byrds groupsたちだったが、それをものともしなかったようだ。茶色のジャケットカバーは、セピア色に染まったバンドのモノトーン写真とシンプルなタイトルで、中に納められた音楽同様に低い評価だった。12曲はすべてバンドThe Bandのギタリスト、ロビー・ロバートソンRobbie Robertsonの作曲で、「アクロス・ザ・グレード・ディバイドAcross the Great Divide」、「アップ・オン・クリップル・クリークUp On Cripple Creek」、「ルック・アウト・クリーブ・ランドLook Out Cleaveland」、「キング・ハーベストKing Harvest (Has Surely Come)」、そして全部の中で最もカバーされた「ザ・ナイト・ゼイ・ドローブ・オールド・ディキシー・ダウンThe Night They Drove Old Dixie Down」は、どのタイトル名も昔のアメリカを想起させた。グレイル・マーカスGreil Marcusは自著、インビジブル・リパブリックInvisible Republicの中で、このアルバム、ザ・バンドThe Bandと一緒にレコーディングした地下室におけるディランのテープ、そして、フォーク・リバイバルの原点となったハリー・スミスHarry Smithの6枚組LP、「アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージックAnthology of American Folk Music」の間の関係を明らかにし、ハリー・スミスのアンソロジーはフォーク・リバイバルの 『原典』 とも言えるものだった。マーカスは、このアンソロジーが「古くて不思議なアメリカ」に関する地図や物語だと思っている。初めてザ・バンドThe Bandのレコード盤に針を落とせば、聞く人はすぐにそこに行ける。「『ザ・バンドThe Band』を聞けば、僕たちが何者かが分かる」とロビー・ロバートソンRobbie Robertsonは後に話した。「この時話したのは『僕たちがどのように聞こえるか、僕たちは何者か』ということだった。」そして多くのファンにとって、これが彼らの音だったし、もしそれができるものなら、そしてどうにかしてやりたかったことだった。社会が変わっていくつらさを人々が感じ始めた時に、良き素朴なアメリカをこのアルバムが思い出させてくれた。これが出たのは、ダニー・フィールズDanny Fieldsがデトロイトで見つけた別のグループ、ストゥージーズthe Stoogesがファースト・アルバムをリリースした時とほぼ同じ頃で、「1969年だ、OK/アメリカ中が戦争だ」の歌詞で始まった。それも本当だった。
第5章

『シックスティーズ』を発明する

 

 

フリー・フェスティバルの思い出:ウッドストックで柵を切断 (写真:バロン・ウォルマンBaron Wolman)

 

 

 

 

イギリスに関しては、もし激しい戦争が繰り広げられていたとしても、かなり上品なものだった。ビートルズThe Beatles(ライブの演奏からは引退していたが、それを公表しなかった)も、ストーンズThe Rolling Stones(ニュー・アルバムの準備をし、その後アメリカ・ツアーをした)もウッドストックにはいなかったが、少なくともビートルズは忙しく過ごしていた。『ビートルズ』と銘打ったニュー・シングルは、「ジョンとヨーコのバラード The Ballad Of John And Yoko」だったが、バンドの全員がかかわっていたようにも思えず(実際にかかわっておらず、ジョンとポールはオーバー・ダビングしていた)、3月29日にジブラルタルで結婚したカップルの苦労話を詳しく述べた。二人は書類にサインするために長い間その島にとどまったが、ジブラルタルはイギリス領だからイギリスの土の上だった。その後ジェット機でアムステルダムに行って、そこでハネムーンの最初の部分である『ベッドインBed-In』を行い、そろって白いパジャマを着てベッドに入ってプレスを招き、際限なく平和を語った。ルーム・サービスで食事をとり、二人はトイレに行く以外はベッドを離れることがなかったと言われる。1週間そこにいた間、プレス関係者がぞろぞろと入ったり出たりし、カップルは非暴力や戦争禍についてとりとめもなく話した。どういうわけかこのシングルはトップ10に入り、その次はもっと良いシングルで、プラスティック・オノ・バンドThe Plastic Ono Bandのクレジットになる「平和を我等にGive Peace a Chance」だった。この曲は、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルQueen Elizabeth Hotelにおける別のベッドインで録音され、それはカップルがトロントにおける『ロックンロール・リバイバル』ショーに現れ、レノンの有罪判決が理由でアメリカ入国を拒否された後だった(そして、FBIがレノンを転覆活動家だとひそかに考えていたからだ)。平和を広めるチャンスだと考え、報道陣をもう一度招いてシングルをレコーディングしたが、それを手伝ってくれたのが、アコースティック・ギターを演奏したトミー・スマザースTommy Smothers、歌はティモシー・リアリーTimothy Learyとアブラハム・ファインバーグ師Rabbi Abraham Feinberg、そしてラダ・クリシュナ寺院カナダ支部the Canadian chapter of the Radha Krishnaのタレントたちだった。しかし、このお粗末な作品はヒットしただけでなく、平和行進や他のプロテストとして今日でもいまだに歌われる賛歌にもなった。しかしビートルズの将来にとって同じように重要なことは、ウッドストックの前週にポール・マッカートニーPaul McCartneyが写真家のリンダ・イーストマンLinda Eastmanと結婚したことだった。彼女はニューヨークを本拠地とする裕福な写真家で、ポールの素晴らしいポートレートを数枚撮り、その父親は立派なエンターテインメント弁護士で、クライアントにはトロンボーン奏者のトミー・ドーシーTommy Dorsey、画家のロバート・ローシェンベルグRobert Rauschenbergもいる。ポールとリンダは自分たちの結婚を派手にする意思はなく、ポールと義父はすぐに意気投合した。

しかし、ビートルズは全員すぐにアップル・レーベルApple labelに参加して、プロジェクトを企画した。最初はシングルの「悲しき天使Those were the days」で、演奏した魅力的なウェールズ人のマリー・ホプキンMary Hopkinは、テレビに出演していて、モデルのツィギーTwiggyがポールにいち押しだと進言した。この曲はロシアのショービズの曲だが、くどいほど感傷的であり、大げさであまりにやり過ぎのアレンジだが、このアレンジがしばしばマーカートニー自身の作品の特徴となって行く。この曲は2位になり、ホプキンとしては最高となった。次はビートルズ以外からのプロジェクトだった。ピーター・アシャーPeter Asherは、アップルの日々の活動を手助けし、1968年初め、友達の友達から情報を得たのは、シンガーソングライターで、アシャーの友人、ダニー・コーチマーDanny Kortchmarと一緒のバンドにいて、ニューヨークを本拠地にしたジェームス・テイラーJames Taylorのことだ。テイラーは、アップルがアーティストを探していると聞いたので、コーチマーが提供したコネを使い、数日前に録音したデモ・テープを持ってアップルに現れた。こうしてアルバム、「(旧邦題「心の旅路」)ジェームス・テイラーJames Taylor」の物語が始まるが、テイラーの放浪癖やらヘロイン癖やらで、遅々としてまとまらなかった。ポール・マッカートニーとジョージ・ハリソンGeorge Harrison(アシャーとともに)は、シングル「キャロリーナ・イン・マイ・マインドCaroline in My Mind」で演奏したが、最終的に出来上がった時には失敗作だった。アップル・レーベルでは、テレビ番組のためにポールが書いたブラス・バンドによるテーマ・ソングのシングルもあった。また、ウェールズのバンドであるアイビーズThe Iveysの「メイビー・トゥモロウMaybe Tomorrow」はアメリカでは少しヒットしたが、イギリスではだめで、オランダでは20位になった。自称ブルート・フォースBrute Forceはジョージが天才ソングライター(トーケンズThe Tokensにいたことがあったようだ)だと考え、「キング・オブ・ファKing of Fuh」(考えてみて)というレコードを制作したが、EMIは製造することさえ拒絶し、数枚のレコードが内密に流出したのみだった。そして、マージー・ビート・サウンドの生き残りで、素晴らしいアンダーテイカーズThe Undertakersにかつて所属していたジャッキー・ロマックスJackie Lomaxは、ジョージがインドで書いた「サワー・ミルク・シーSour Milk Sea」を録音したが、バックにはジョージ、ポール、リンゴ、キーボード奏者のニッキー・ホプキンスNicky Hopkins、リードのエリック・クラプトンEric Claptonがいた。最後になるが、ビリー・プレストンBilly Preston(これまたジョージが見い出した)は、ティーンになる前からゴスペルのキーボードを演奏していて、リトル・リチャードLittle Richard、サム・クックSam Cooke、レイ・チャールズRay Charlesのバックを担当し、プレストンのシングル「神の掟That’s the Way God Planned It」はハリソン、ベースはキース・リチャーズKeith Richards、リードはエリック・クラプトンEric Clapton、ドラムはジンジャー・ベイカーGinger Bakerをフィーチャーした。そういった事情にもかかわらず、チャートでは火が付かなかった。

一方、ストーンズThe Rolling Stonesについても、物事はそれほどうまく行っていなかった。ブライアン・ジョーンズBrian Jonesは、一つの言い方として、年の半ばにはもはやストーンズのメンバーではなく、現実として、少なくとも精神的には不在だった。演奏ができなくなるほど薬物を使用して、レコーディングの最中にスタディオの床で気を失ったことも何回かあった。ストーンズは、近づきつつあるアメリカ・ツアーを前にしてアルバムのレコーディングに忙しく、ブライアンの麻薬逮捕の件はまだ解決しておらず、健康状態がますます悪化していることもあって、ともかく、メンバーと一緒にツアーに行くことはできなくなった。キース・リチャーズが介入して、ジョーンズのドイツ人ガールフレンド、アニタ・ポーレンバーグAnita Pallenbergと縁を切らせ、そしてついに、演奏しないギタリストによって窮地に立たされたストーンズは、ジョン・メイヨールJohn Mayallが最近結成したグループから脱退したばかりの20歳のミック・テイラーMick Taylorに、仕事が欲しいかを訊ねた。実際のところ欲しかったのだろう。ブライアンはつらかったに違いない。なんと言っても、彼はこのバンドをスタートさせ、ブルース演奏の推進役だったのだから。しかし、ぜんそくが悪化したり、ほぼ絶えず方向感覚を失っていたため、彼の存在がお荷物になってきた。6月8日、ジョーンズの不動産であるコッチフォード・ファームCotchford Farm(かつては、クマのプーさんWinnie-the-Poohの著者、A.A.Milneが所有)において、ストーンズのほとんど全員(ビリー・ワイマンBilly Wymanはいなかった)とブライアンの間で、30分にわたる打ち合わせで話がまとまった。ブライアンはこう発言した。「僕らが録音しているレコードについて、もう他の人と意見が一致しない。音楽的コミュニケーションがとれない。ストーンズの音楽はもはや僕の好みでない。他人の音楽コンセプトの評価がどんなに高くても、それより自分ブランドの音楽を演奏したい。唯一の解決策は別々の道を行くことだが、それでも僕らは友達だ。仲間を愛してる。」この愛は長く続かず、1969年7月3日、ブライアンは住み込み看護婦のジャネット・ローソンJanet Lawsonによって、コッチフォード・ファームのスイミング・プールで死んでいるところを発見され、彼女は家にいたブライアンのカールフレンド、アンナAnnaと、来客用宿泊施設に滞在して家の壁を再建中の44歳の建築業者、フランク・ソログッドFrank Thorogoodの二人に叫んだ。彼とアンナはブライアンを引き上げて人工呼吸を施し、その間にジャネットが救急車を呼んだ。救急医療隊員が30分間措置を施したが、結局亡くなった。検死によればアルコールとぜんそくの薬が死因だったが、ソログッドは2009年の臨終に当たって、酔って口論になった時ブライアンの頭を水中に抑え込んだと告白したとされているが、ソログッドが告白した相手とされる男は、ソログッドは何も言っていないと言っている。仮説は最小限にすべきであり、不慮の事故に関する検死官の決定は正しい。ストーンズは既にロンドン・ハイドパークの7月5日フリー・コンサートを予定していたので、それはブライアンの追悼であり、ストーンズの新しいギタリスト紹介の場となった。ミック・ジャガーは、ロマン派詩人ジョン・キーツJohn Keatsの死を悼んだシェリーShelleyの悲歌『アドネAdonais』を朗読することによってステージを開始し、その後千匹近い白い蝶を解き放とうとしたが、一日中太陽の当たる袋の中に閉じ込められていたので、ほとんど死んでしまった。

その後、ストーンズは仕事に戻った。シングル「ホンキー・トンク・ウィミンHonky Tonk Women」を発売し、そのB面は次のアルバム「無情の世界You Can’t Always Get What You Want」のティーザー広告で、それはジャック・ニッチェJack Nitzscheに手伝ってもらった苦心の末の作品で、アル・クーパーAl Kooperのフレンチ・ホルンとオルガン、ロンドン・バッハ合唱団London Bach Choir、そして、ミックの物悲しいボーカルをフィーチャーしていた。ミックは、オーストラリアの伝説的無法者の伝記映画ネッド・ケリーNed Kelleyを撮影するために、マリアンヌ・フェイスフルMarianne Faithfullと一緒に既にオーストラリアに向かった。到着するとすぐに、マリアンヌがシドニーのホテルで倒れ、結局数日間昏睡状態に陥った。血液検査の結果、多数の鎮静剤の過剰摂取であることが判明し、目が覚めた時には母親が、さっさとスイスのクリニックに送った。ミックには制作しなくてはならない映画と、11月7日にコロラド州フォートコリンズで始まるアメリカ・ツアーがあった。そして、「ザ・ローリング・ストーンズ・ロック・アンド・ロール・サーカスThe Rolling Stones Rock and Roll Circus」というテレビの特別番組では、ストーンズ、フー、新進気鋭のプログレッシブ・バンドのジェスロ・タルJethro Tull、タージ・マハルTaj Mahal、マリアンヌ・ファイスフルMarianne Faithfull、エリック・クラプトンEric Clapton及びジョン&ヨーコJohn and Yokoをフィーチャーしたダーティ・マックThe Dirty Macとかいう代物、そしてもちろんストーンズが参加し、1968年に撮影されたが編集を待って、ついに2004年にDVDが登場した。メンフィスのジャーナリストのスタンリー・ブースStanley Bootheに独占取材権を与えたのは賢明で、その結果できた本(版によってタイトルは、「ダンス・ウィズ・ザ・デビルDance with the Devil」または「ザ・トゥルー・アドベンチャー・オブ・ザ・ローリング・ストーンズThe True Adventures of the Rolling Stones」)は、執筆するのにブースが15年間をかけて、本当に退廃的な最初のロック・ツアーを記録した。ストーンズのようなツアーを行ったものは他におらず、彼らは最大限に利用した。ツアーの後、マッスル・ショールズMuscle Shoalsに行って、12月6日にサンフランシスコで催すと発表したフリー・コンサートの詳細を詰めながら、少しレコーディングを行った。ゴールデン・ゲート・パークにおけるウェストコースト・ウッドストックというアイデアだったが、サンフランシスコ市が拒否したのでイベントはシアーズ・ポイント・レースウェイSears Point Racewayに変更になった。その後それが頓挫すると、誰かが、イースト・ベイの中のもっと辺鄙なところにあるオルタマント・スピードウェイAltamont Speedwayという別のレース用トラックを所有するディック・カーターDick Carterという男を見つけた。サンタナSantana、グレイトフル・デッドThe Grateful Dead、フライング・ブリット・ブラザースThe Flying Burrito Brothers、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングCrosby, Stills, Nash and Young(ニール・ヤングNeil Youngはこの時までに正式にグループに加わった)、ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneが主なアーティストだった。「初めから悲惨だった。マッスル・ショールズを出るとすぐに上手くいかなかった」と、6番目のストーンズ・メンバーのイアン・ストゥワートIan Stewartは言った。その日に何が起きたかはその後いろいろ言われるが、原因はデッドが500ドル相当のビールと引き換えにステージの警備の仕事を、仲間でオートバイに乗った暴力団、ヘルス・エンジェルスthe Hells Angelsに依頼したことだ。それは、その日に実行に移されたことの一つに過ぎない。覚醒剤のスピードは『サマー・オブ・ラブSummer of Love』以来、サンフランシスコのシーンの一部になっていて、特に安ワインや強いワイン風飲料のアルコール使用増加に加えて、クアールードQuaalude(イギリスではマンドラックスMandrax)の名前で売られているメタカロンという強力な鎮静剤が大流行した。それにより性的無能にならずに気を静め、性的誘惑(正確にはデートレイプ)の手助けになると評判で、アルコールに激しく反応する。加えて、寒く湿った天候、過密な客席、そして手に入る限りの薬物(オーズリー・スタンレーの好意によるLSDの入った袋を含む)でハイになったヘルズ・エンジェルズの一団によって、これまでで最も恐ろしいコンサートのひとつとなった。サンフランシスコのベテラン・ジャーナリスト、ジョエル・セルビンJoel Selvinは、自身のオルタモントAltamontという本の中で、分刻みのクロニクルをまとめ上げたが、それはメイスルズ兄弟Maysles brothersの撮影したコンサートのドキュメンタリー映画フィルム映像を大いに使っている。いくつかの暴力シーンの中で最も記憶に残る瞬間は、ヘルス・エンジェルの一員であるアラン・パサロAlan Passaroが、ライムグリーンのスーツを着た背が高くやせこけた18歳の黒人少年、メレディス・ハンターMeredith Hunterを 刺し殺したことだ。ハンターは、覚せい剤でひどく酔い、ヘロヘロになりながら群集の前に進み銃を抜いた。パサロは、自分がなすべき義務だと感じたかどうかわからない。ハンターはミック・ジャガーMick Jaggerを撃とうとしたのかどうかわからないが、群衆の中の誰かが殺人の直前に叫んだ。メイスルズの映画ギミ・シェルターGimme Shelterには、スタディオでの編集作業をみていたジャガーが、ハンターとエンジェルの口論を見て反応しているところなどすべてが収められている。オルタモントの一日前にリリースされたストーンズのニュー・アルバム、「レット・イット・ブリードLet It Bleed」は、タイトルが突然問題になった。このアルバムは、タイトルからシングル・カットされた曲を初めとして、有名な「ギミ・シェルターGimme Shelter」まで、暴力と悪でバンドの本領を良く発揮し、その中でバックのボーカリストのメリー・クレイトンMerry Claytonは、ジャガーとデュエットした。ミック・ジャガーとのぞっとするようなデュエットで登場したので、彼女自身のアルバムを作ろうとタレントスカウトが彼女を追いかけるようになった。ルー・アドラーLou Adlerのオード・レーベルOde labelがこの競争に勝って、オードでアルバムを作成した。うまく行かなかった。同様に先鋭的だったのが「ミッドナイト・ランブラーMidnight Rambler」で、暗さを賛美することはストーンズのライブ・ショーでは定番となった。

「ジョンとヨーコのバラードThe Ballad of John and Yoko」のすぐ後に、ビートルズThe Beatlesはたいしたことのないシングル、「カム・トゥギャザーCome Together」をリリースしたが、それはジョンがチャック・ベリーChuck Berryの「ユー・キャント・キャッチ・ミーYou Can’t Catch Me」の一部をパクッていて、B面はジョージGeorgeが素敵な「サムシングSomething」を提供したが、これもジェームス・テイラーJames Taylorのアップル・レコードにおけるアルバムからカットした「彼女の言葉のやさしい響きSomething in the Way She Moves」を多少パックっている。ジョンのプラスティック・オノ・バンドPlastic Ono Bandも、ジョンの腕前が落ちないようにするために薬物依存を断ち切ることを意味する「コールド・ターキーCold Turkey」をリリースしたのだが、それによって、ジョンが時世に遅れずに薬物に手を出していたことを知ったファン達はショックを受けた。ヨーコがジョンにヘロインを勧めたのかもしれないし、あるいは、ジョンが自分一人でやっていて、芸術におけるパートナーシップの一環としてヨーコが真似したのかもしれない。いずれにせよ1969年の夏の間にジョンとヨーコは薬物常習者になり、ちょうどその時ヨーコは妊娠し、ポールはEMIの有名なスタディオの住所にちなんだ「アビー・ロードAbbey Road」というタイトルのニュー・アルバムのために、バンドを何とかまとめた。ヨーコは具合が悪く、バンドがレコードに取り組んでいる間、スタディオの中でベッドに横たわり、本を読んだり、編み物をした。ジョンは「コールド・ターキーCold Turkey」をビートルズに提供したが、拒絶された。カップルが薬物を本当にきっぱりとやめたのか、あるいはロンドンの民間診療所で治療したのかはともかく、しばらくの間、麻薬中毒にはならなかった。しかし、「アビー・ロード」はビートルズにとっての最後であり、そう思えた。多くの曲は完成品ではなく、ジョージ・マーティンGeorge Martinとポール・マッカートニーPaul McCartneyは、アルバムのB面で8曲を優れた技量でどうにかまとめ上げ、最後は「ディ・エンドThe End」という曲で終わった。実は最後ではなく、アルバムは「ハー・マジェスティHer Majesty」という23秒の断片的な曲で終わった。「アビー・ロード」は、クリスマス向けに発売され、今度は別のプロジェクトに注意を向けることができた。レノンはローリング・ストーン誌に、「良いアルバムだが、たいしたことは無い」と話した。1969年1月30日、バンドはアップル社のサビル・ローApple Savil Row本社屋上に集まって、わずかな観客、少しの通行人、アルバムを録音するビートルズのドキュメンタリー撮影クルーに対して、屋外ショーを実施した。シングルの「ゲット・バックGet Back」が数か月後に発売され、実のところビートルズは原点に回帰し、ツアーをすぐにするかもしれないという期待を生んだ。シンプルであることこそ本物であり、余計なメンバー、余計なオーバーダブを入れずにアルバムを作るというアイデアだった。(バンドの人間関係は過去最低であり、レノンとマッカートニーはほとんどいつも反目しあっていたということを考えれば、ツアーなど考えられない。)翌日数曲が加わり、アルバムは完成したが映画はまだだった。警察が屋外ショーを終わらせたためだが、屋上で演奏できなかった曲はポールのピアノがリードした曲で、雪が降っているのに屋上では録音できなかったからだ。1970年の初期に制作され、3月にはシングル「レット・イット・ビーLet It Be」が発売されて、それが5月に上映される映画のタイトルになると発表された。ジョンはついにビートルズThe Beatlesから離れ、1月末に「インスタント・カーマInstant Karma」という曲を書き、ジョンにまとわりついていたフィル・スペクターPhil Spectorと一緒にスタディオに駆け込んでプロデュースした。この曲はトップ10に駆け上がったので、ジョンは感謝の気持ちからリミックスのために、「レット・イット・ビー」のアルバムのテープをスペクターに与えた。あらら。ポールは妻の勧めで、スコットランドの農場で自身のソロ・アルバムの準備に忙しく、そのアルバムは「レット・イット・ビー」の前にリリースするつもりだった。スペクターの作品を聞いたとき、特に、ポールの曲の一つであり「レット・イット・ビーLet It Be」の次のシングルである、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードThe Long And Winding Road」のバックに大型のオーケストラをかぶせあったので、ジョンとアレン・クレインAllen Kleinに怒りをぶつけた。ジョンとクレインが、フィル・スペクターをビートルズのプロジェクトに関わらせるきっかけを作った張本人だからである。実のところ、自分のソロ・アルバムを作っている間は、アップルの会議への出席を拒否していたのだから、ある面ではポールの落ち度でもあった。もう一つは、アラン・クレインがほんの少しの間、ビートルズとローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの両方の仕事を手掛けていたことだ。

1969年初め、ジョン・レノンはアップルに関するインタビューを、ディスク・アンド・ミュージック・エコーDisc and Music Echo誌に寄稿することを、フリー・ランサーのレイ・コールマンRay Colemanに許諾した。この雑誌は『インキー』の一つで、インキーとはポップスの週刊誌で、印刷が安上がりなので手にインクが付いてしまうことからついた名前だ。レノンはコールマンに言った。「僕らが持っていると人々が考えている金額の半分も持っていない。仕事優先にしなくてならない、それはもうわかっている…。こんな状態が続けば、僕らは全員半年後に破産する。」クレインは何年もストーンズと一緒に仕事をしてきたが、それにもかかわらずビートルズのビジネスを運営したくてたまらなかったので、ブライアン・エプスタインBrian Epsteinが亡くなって以来、これこそクレインが聞くのを待ちわびていたのだ。コールマンはインタビューの8日後に、ロンドンのドーチェスター・ホテルDorchester Hotelのジョンとヨーコのスイート・ルームを訪問した。3人はお互いに腹の内を探り合った。その後まもなく、ジョンとヨーコに雇われて金銭の扱いを任された。ポールが義父のリーLeeと義兄弟のジョン・イーストマンJohn Eastmanをビートルズの代理人として雇い、その存在が一層問題になっていると、クレインに率直に話した。それからクレインはジョン、ジョージ、リンゴと会って、金銭の扱いについていくつかのアイデアを提示した。ジョージとリンゴはあらかじめジョン・イーストマンと会ったが感心しなかったし、リンゴは彼を『愉快だが無害』と見ていて、ジョージから見ると、この仕事に関して全く無能だと考えた。ポールとしてはクレインをひどく嫌い、おそらくイーストマン親子もそうだったろうが、イーストマン親子は長年にわたってエンターテインメントの法律の仕事をしてきて、38歳のクレインは割り込んできた日和見主義者とみなしていた。しかし、クレインにとって、自分自身のためだけでなく追加収入のためにもビートルズが必要だった。と言うのは、アンドリュー・ルーグ・オルダムAndrew Loog Oldham、ローリング・ストーンズThe Rolling Stones及びデッカ・レコードDecca Recordsとの間で交渉した契約が1970年に終了することになっていたからだ。ミック・ジャガーMick Jaggerは付き合いのあるマーチャント・バンカーのプリンス・ルーパート・ローウェンスタインPrince Rupert Loewnsteinと、たぶんクレインの立場を引き継ぐ件に関して交渉中だったし、そのほかにも、ストーンズがアルタモントの数日前にマッスル・ショールズにいた時に、ジャガーはアーメット・アーティガンAhmet Ertegunとしゃべっていて、クレインはストーンズとの関係が続くことに関して不吉な予感を抱いていた。しかし争いは始まったばかりで、ビートルズが公式に書類上で消滅したのは、マッカートニーの1970年のソロ・アルバムの発表まで待たなければならなかったが、実質上マッカートニーのソロ・アルバムの頃に終焉が訪れ、そのアルバムには短いセルフ・インタビューがあって、そこで、ジョンのことは大好きだし尊敬しているが、彼の曲は「僕に喜びを与えてくれない」と語った。新たなビートルズのアルバムを考えているか、今後レノン・マッカートニーが書く曲はあるか、ビートルズやジョージ・マーティンGeorge Martinがいなくて寂しいか、という質問に単に「ノー」としか答えなかった。一方でほかのメンバーは自分のソロ・アルバムで忙しかったが、ローリング・ストーン誌Rolling Stoneの中の「レット・イット・ビーLet It Be」の単純な広告を見落としたものはおらず、そこにはレコード・ジャケットの写真と、アレンBクレイン・コーポレーション Alenn B.Klein Corporationの頭文字である『アップルABKCO®会社製造』という文字があった。ビジネスの問題は、アレン・クレインがいたにもかかわらず、そしていたからこそ、何年も続く。ビートルズはファンの心の中で、そして法廷において、永遠に生きる。

ストーンズに関しては、ヒット曲を中心にしたライブ盤を出すという、ロック界では昔からよく使われてきた定番の方法が原因で、デッカ・ロンドン・レコードDecca/London Recordsとの契約を破棄したが、それはマディソン・スクエア・ガーデンMadison Square Gardenで1969年11月27~28日に録音された『ゲット・ユア・ヤーヤーズ・アウトGet Your Ya-Ya’s Out!』というタイトルで、とても素晴らしいライブ・アルバムと言うべきものだ。予定通りにリリースされた最高のヒット曲集や、一見どうということのない寄せ集めのアルバムでも、さらに責任が発生するかもしれない。そわそわしながら、ストーンズは、アトランティックを経由して、自分たちのレコード・レーベルであるローリング・ストーンズ・レコードRolling Stones Recordsと契約し、新体制の一部であるプリンス・ルパートPrince Rupertのアドバイスに基づき、税金目的のために、フレンチ・リビエラのニースの真東に位置するビルフランシュ・シュル・メールVillefranche-sur-Merのネルコート邸Villa Nellcoteで過ごす時間を増やし始めた。ミックはニカラグアの資産家令嬢、ビアンカ・プレスモラ・マシアスBianca Perez-Mora Maciasと結婚したが、その前にはマリアンヌ・フェイスフルMarianne Faithfullを振り、バック・ボーカリストのマーシャ・ハントMarsha Huntと情事にふけっていた。ローリング・ストーンズ・レコードRolling Stones Recordにおける最初のアルバム、「スティッキー・フィンガーズSticky Fingers」は、アンディ・ウォーホールAndy Warholがデザインしたジャケットで、ジョー・ダルサンドロJoe Dallessandroのデニムをまとった股の(実物のジッパーを付けた)写真をフィーチャーした。それを今にもリリースするとき、デッカはもう一枚シングルを出す義務があると伝えたので、ミックとキースは協力してブルース・ソングをレコーディングし、ミックにとって長年で最高の出来だといううたい文句で、一か八かというスタンスで引き渡した。「スクールボーイ・ブルースSchoolboy Blues」は当り障りのないタイトルだが、「どこでフェラチオしてくれる/どこでアナルセックスしてくれる」なんて歌詞がある。この曲は普通、「フェラチオ・ブルースCocksucker Blues」として知られ、その結果ストーンズの1971年ツアーのロバート・フランクRobert Frankのドキュメンタリーのタイトルにもなった。それはそれで終わり。実際の次のシングルはニュー・アルバムからの曲「ブラウン・シュガーBrown Sugar」で、卑わいな言葉はなかったかもしれないが、人種や性の内容はちっともましではなかった。

 

しかしこの頃までに、ベビー・ブーマー世代が力をつけ、ポピュラー・ミュージック界はロックが明確にデフォルト・モードになっていた。レコード会社はロックをどうマーケティングするかを、かなりたくさん学んだ。当時の業界紙やリスナー向け雑誌の広告は、ロック・ミュージックの聞き方に関するリスナーの特徴を強調していた。1968年半ばにおける、ローリング・ストーン誌の中のカントリー・ジョー&フィッシュ Country Joe and The Fishのアルバムの広告には、こう書いてある。「カントリー・ジョー&フィッシュは君自身だ。君のことなんだ。君の今の人生の愛、混乱、興奮に対し、疑問を持ち、理想を追い、かかわりあって、心配することだ。」コロムビア・レコードColumbia recordsは、膨大な数の悪名高き広告を出した。「親、実力者、支配者集団の話を聞かないのなら、俺たちの歌を聞けば良い。」答えは俺たちが君と同じだからで、ビッグ・ブラザース&ホールディング・カンパニーBig Brothers and The Holding Company、チェンバーズ・ブラザースThe Chambers Brothersのアルバム、スーパー・セッションSuper Sessionがあるし、スモール・フェイセスThe Small Facesの有名な最後の作品であるオグデンズ・ナット・ゴーン・フレイクOgdens’ Nut Gone Flake(19世紀の図形の付いた丸いアルバムのジャケット)が広告に描かれていた。別のコロムビアの広告には、男女が混合となり様々な人種がいて、若者が輪になって座り、そのうちの一人は手を口に持っていっているがそれはマリファナを吸っていることを意味している。「誰が友達かが分かる。そして見て、会って、一緒になろう。それから聴くんだ。」それから最も悪名高い広告は「やつらは俺たちの音楽をぶっ壊せない」で、奇妙な言葉を使った抗議の看板(「握れTake Hold」)を持って、一時的に拘置する待機房に若者たちがたくさんいるのが特徴だ。そこで宣伝されているレコードはすべて古典的なもので、チャールズ・アイブズCharles Ives、エドガード・バレスEdgard Varese、カールハインツ・ストックホーセンKarlheinz Stockhausen、テリー・ライリーTerry Rileyの革命的作曲の「イン・シー In C」、ザ・ムーグの大成功した「スイッチトオン・バッハSwitched-on Bach」だった。ワーナースの広告はさらに破壊的であり、より分別があってトップ40に押し上げるリスナーを想定し、変化をもたらすとともに、アーティストのキャリアを高めるためなら喜んで損をするレコード会社と、契約したアーティストを高く評価するものだった。ワーナースの広告は一層破壊的で、分別のあるリスナーやトップ40に入る曲のリスナーは、良い曲を作ったりアーティストのキャリアを伸ばすために喜んでお金を出すレコード会社と契約したアーティストを評価すると断定した。このプロジェクトは、ワーナースで1958年から働いているスタン・コーニンStan Cornynが管轄し、ほとんどのライナー・ノーツを書いたが、そのやり方はこのレーベルでクリエーティブ・サービスの役員になった時に、間違いなくワーナースの名前を有名にした。彼がビルボード誌に説明したように、「レコード業界でほかのみんなが書くような広告は、最初から書きたくなかったのは分かっていた…。私のやり方は何か違うことをすることで、多少の空白、受けそうな見出し、数段落の文章、小さな写真、ちょっとしたウィット、それを、アーティストを受け入れながら行うのだ。これらの広告の姿勢は、ワーナー/リプライズ・レコードWarner/Reprise recordsがたくさんの利益よりも、素晴らしい音楽により関心があるということを多くの人が信じるようなものだった。実際には両方欲しいのだ。しかし、広告は前者を強調し、やがて流行に敏感で音楽を購入するリスナーの会社に対する評判は好意的になった。彼の印象的な広告には、グレイトフル・デッドGrateful Deadの最初の2枚のアルバムを宣伝するための二つの「ピッグペン・ルックアライクPigpen Look-alike」コンテスト、とか、バン・ダイク・パークスVan Dyke Parksの「ソング・サイクルSong Cycle」の広告、「『何がアルバム・オブ・ザ・イヤーだ、畜生!』にどうして35,509.05ドルも失ったんだ」、とか、ランディ・ニューマンRandy Newmanのアルバム「トゥエルブ・ソングズTwelve Songs」には、見出しに「慣れてしまえば、彼の声は本当にすごい」とあり「一夜にしてできるものではない」と強調してあった。ワーナースも、アルバムに入っていない曲やシングルや変わったものもある2ドルの目玉商品である2枚組アルバムを売り、レーベルを売り込むための他の広告(たとえば、トパンガ渓谷の土の入った袋)を郵送したが、この郵送広告は非常に効果があったので2か月以内に他の数社のレーベルもマネをした。それは素晴らしい戦略なので効果をもたらした。ワーナーは業界向けに、『アメリカの過激なアンダーグラウンド誌に載せた、いちばん生意気で挑発的な広告集』を配っていたようなものだった。

1969年半ば、もう一つのできごとがレコード業界で起きた。『グレート・ホワイト・ワンダーGreat White Wonder』という言葉を、スタンプで押した白いアルバム・ジャケットがいくつかのレコード店に登場し、そこにはディランの数多くの「地下室テープ」が入れられ、スタディオ録音の音質とは到底言えないが、それでも聞いたことのないディランの曲だった。誰が発売したのかを知る者はいなかったが、それが存在することが恐ろしいことだ。ただし、アルバムに入っている曲はすべて、ディランの出版会社が複数のバンドにカバーしてほしいと思って回したテープのコピーが出どこなので、盗みによるものではなかった。すぐに「ライバー・ザン・ユールウ・エバー・ビーLive’r Than You’ll Ever Be」というタイトルのストーンズのライブ録音が出回り、公式のリリースよりも好きだというファンもいる。ハリウッド・ボウルHollywood Bowlにおけるビートルズのレコード(キャピトルが検討したのち、発売の考えを取りやめたことを考えると、明らかに同社の貴重品貯蔵室から盗まれたものだ。最終的には1977年に発売した)や、「アビー・ロードAbbey Road」と「レット・イット・ビーLet It Be」のセッションの未発表数曲のレコードもあった。海賊版製造業者はずうずうしくも自身のレーベルを持っていて、それは、ジー・ダブリュー・ダブリューGWWとトレード・マーク・オブ・クオリティTrade Mark of Quality(このロゴは豚の絵)だ。もっと図々しいのはザ・ラバー・ダバーThe Rubber Dubberで、映画スタディオの経験がありプロ用マイクロフォンが二つ付いた最高級ポータブル・ステレオ・レコーダーを所有する男が主導する集団なのだが、その男はロサンゼルスにおけるライブ・コンサートのステレオ録音盤を販売し、一席分を支払うことによってショーの録音許可をもらったと主張している。彼はまた、レーベルの利益の一定割合を第三者預託口座に入れ、アーティストが要求すれば直接支払うと主張している。彼のキャリアの最盛期はおそらく1971年で、その時、アトランティックが、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングCrosby, Stills Nash and Youngのライブ・アルバムである「フォー・ウェイ・ストリート4Way Street」をリリースする前に取り組んだスタディオ・ボーカル作業の多さに不満を抱き、ダバーのCSNYのテープ購入を申し出たのだが、全く細工していないという利点があったので、それまでにアトランティックが入手できたものよりも優れていた。ダバーは断ったが、ロックの海賊版は、フーThe Whoが1970年に「ライブ・アット・リーズLive at Leeds」をリリースした時に十分な存在感があり、このジャケットは茶色の段ボールでタイトルは偽造のゴム印だった。海賊版があまりにも蔓延し、あるアーティストの海賊版が出ないとレコード会社は、「リスナーたちはそのアーティストが好きじゃないのか?」と心配になると言うのはちょっと言い過ぎだ。

親レコード会社の作る子レーベルであるブティック・レーベルは、知られるにつれブームになった。キャピトルCapitol recordsはビートルズにアップル・レコードApple recordsを与え、ビーチ・ボーイズThe Beach Boysは、短期間ブラザー・レコードBrother recordsを所有していた。今や、レーベルを提供することは、契約相手が誰であろうと交渉の一部かもしれない。ワーナースWarnersはフランク・ザッパFrank Zappaと彼のマネジャー/パートナーのハーブ・コーヘンHerb Cohenに二つのレーベルを与えたが、それはティム・バックレーTim Buckleyやキャプテン・ビーフハートCaptain Beefheartのようなミュージシャンのためのものと、もう一つはザッパ自身の音楽プロジェクトのためのものだった。ワーナースが方向性の定まっていないビーチ・ボーイズThe Beach Boysを獲得した時、ブラザース・レーベルThe Brothers labelの復活は取引の一部だった。そして、1969年末、デニー・コーデルDenny Cordellはフィル・スペクターとビーチ・ボーイズのためのスタディオ・ミュージシャンを長期間担当してきたレオン・ラッセルのマネジメントを引き受けた。ビーチ・ボーイズは新しいスターであるジョー・コッカーのためにバンドを結成して、別のレーベル、シェルターShelterを設立し、最初キャピトルが流通を行ったが後にABCに変更になった。これらのレーベルはどれも、組織が変化している限り流通を担う会社からかなり自立を保てた。一方で、ヨーロッパのレーベルは、自社商品をアメリカでリリースする方法を探していた。ジャマイカ音楽をロンドンの移民にリリースして財産を作った、菓子製造後継者の白人ジャマイカ人、クリス・ブラックウェルが設立したアイランド・レコードIsland recordsは、ロンドンのロック・シーンにおける調査を開始して、かなり大物プレイヤーとの取引を始めた。当初、A&Mはアイランド・レコードの第一先買権を保有していて、それによってフェアポート・コンベンションFairport Conventionとスプーキー・トゥースSpooky ToothはA&Mに行き着いたのだが、その時点でアイランド・レコードはその取引先を、レッド・ツェッペリンLed Zeppelinの成功以来イギリスのタレント獲得に積極的だったアトランティックに変更した。

1970年の最も変わったトレンドはいわゆる『ロックンロール・リバイバル』だった。『愛の群衆』はロックンロールが過去のものになったことに気付き、突然シャ・ナ・ナSha Na Na、フラッシュ・キャディラックFlash Cadillacなどが現れた。また、カール・パーキンスCarl Perkinsがコロムビア・レコードColumbia recordsと契約した分類できないバー・バンドのNRBQと組んだように、若者と結びついたもっと古い演奏者などの『リバイバル』グループが現れた。ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixがプロデュースしたニューヨークのバンド、キャットマザー&オールナイト・ニュースボーイズCat Mother and The All Night Newsboysは、「スイート・リトル・シックスティーンSweet Little Sixteen」、「ブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoes」など、古典的な5曲による中身のないメドレーのシングル曲、「グッド・オールド・ロックンロールGood Old Rock ‘n’ Roll」を発売して21位になった。そして「ビー・バッパ・ルーラBe-Bop-a-Lula」で有名なロカビリー・スターのジーン・ビンセントGene Vincentは、ダンデライオン・レコードDandelion recordsから新曲のアルバムを引っ提げてどこからともなく現れたが、このレーベルはイギリスの革新的ラジオ・パーソナリティ、ジョン・ピールJohn Peelが経営するエレクトラElektraのブティック・レーベルだった。フランク・ザッパFrank Zappaは1968年にトレンドの先端にいて、青春への賛辞であるアルバム「クルージング・ウィズ・リューベン・アンド・ザ・ジェッツCruising with Reuben & the Jets」は、多くのボーカル・グループ・ショーが催されたイースト・エルエーEast LA会場のエル・モント・リージョン・スタディアムthe El Monte Legion Stadiumにちなんで、ペンギンズThe Penguinsのために書いた「メモリーズ・オブ・エル・モントMemories of El Mont」を新たに録音した。古典を学ぶ必要のある人々のために、ナッシュビルの乱暴者で、ジーニー・シー・ライリーJeannie C. Rileyと一緒に、トム・ティー・ホールTom T. Hallの「ハーパー・バレー・ピー・ティー・エーHarper Valley P.T.A」で1968年に大もうけをしたシェルビー・エス・シングルトンShelby S. Singletonが率いるレーベル、エス・エス・エス・インターナショナルSSS Internationalは、サン・レコードSun Recordsを買収し、昔のアーティストの安っぽい全集を発売した。ドラッグストア、デパート、そしてレコード店でも、絶版になったアルバムや大手レーベルからディスカウント・レーベルに移った2ドルの特売品袋をパラパラめくれる忍耐強い人なら誰でも、ただみたいな価格で、チャック・ベリーChuck Berryの全チェス・カタログ(そして、チェス・レコードChess recordsではとりわけ、たくさんのマディ・ウォータースMuddy Waters、ハウリン・ウルフHowlin’ Wolf)、バディ・ホリーBuddy Hollyの大部分、ジョニー・キャッシュJohnny Cashとロイ・オービソンRoy Orbisonのサン・レコードSun recordsのアルバム、その他のたくさんの古典的な作品を集めることができた。インクリーズIncreaseというレーベルは、年ごとの「クルージンCruisin’ 」アルバム・シリーズを発売し始めたが、それは毎年のヒット曲を紹介するだけでなく、昔のディスク・ジョッキーの語りや、合間に古いコマーシャルをかける形式にした。『原点回帰』について多くのことが語られることはあっても行動に移されることはほとんどなく、『プログレッシブ・ロック』派は影響を受けなかった。

ブライアン・ジョーンズも流れを作り出したのだが、1970年夏の終わりに向かって、キャンド・ヒートCanned Heatに所属する27歳のアル・ブラインド・アウル・ウィルソンAl “Blind Owl” Wilsonは、鎮静剤やアルコールで死亡した。そして、ショッキングなことに、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixは9月18日にロンドンのアパートで死亡しているのが発見されたのだが、その原因は、アルコールと睡眠剤を誤って混ぜてしまった後に、嘔吐物を吸い込んだからだった。彼もわずか27歳なので遺言状は書いておらず、ビジネス関係は混乱し、不動産問題を解決するには何年もかかった。この結果、正式に認可されていないレコードがたくさん現れ、探されていた伝説のテープがあり、同時に、『ヘンドリックスは殺された』という陰謀説があって、数年後の不可解な飛行機事故によるマネジャーの一人マイケル・ジェフリーMickael Jeffreyの死亡が、それに追い打ちをかける面もあった。その後、1970年10月4日に次のアルバム、「パールPearl」のレコーディング最中に、ジャニス・ジョプリンJanis Joplinはハリウッドのモーテルで、ヘロインの過剰摂取により死亡した。彼女も27歳だった。さらにもう一つ。ドアーズThe Doorsは、逆説的な状態にあり、品質的にますますいかがわしいアルバムを発売しているが、それにもかかわらず大ヒットし、ますます常軌を逸するジム・モリソンJim Morrisonを我慢しなくてはならないのだ。彼はステージでしばしばひどく酔っぱらうので、良く言っても困り者、悪く言えば騒動を引き起こす挑発工作員で、そのために何度か逮捕され、2回は演奏の間にペニスを露出した(あるいはそうしたと言われ、確かにそのふりをしたことがあった)。連続5枚目のゴールド・レコードである「モリオソン・ホテルMorrison Hotel」は、「ソフト・パレードSoft Parade」のワンランク上で実質的に軽音楽MORとも言え、1971年初めにリリース予定の「エル・エー・ウーマンL.A. Woman」で本来の調子を取り戻しつつあるように見られていたが、1970年末にモリソンがバンドを辞めた。1971年7月3日に、彼と妻のパメラPamelaが借りていたボートレイリ通りにあるパリ・アパートのバスタブ内で死んでいるのが発見された。その日の早い時間に、モリソンはセーヌ通りにある常連として通っていたロック&ロール・サーカスRock and Roll Circusという名前のバーで飲んでいた。妻のところに持ち帰るヘロインが届くのを待っていて、妻は常用者であったが彼はたまに使用するだけだった。密売人の運び屋が現れる時までに、モリソンはしこたま酔っ払い、好奇心があふれて、少々のヘロインをクラブのトイレに持ち込んで調べた。強力で希釈していないマルセイユ・ゴールデン・トライアングル・ヘロインには慣れていなかったので、鼻から吸引し、それが原因で死んでしまった。結局はクラブのマネジャーが、モリソンの姿がないことに気付いてトイレに行くと、モリソンが意識不明になっているのを見つけた。クラブはしばらくの間、監視下に置かれ、オーナーはモリソンをそこから運び出さざるを得ないと思った。モリソンの友人の一人が『酔っぱらった』彼をアパートまで送り届け、そこで友人のアレイン・ロズネイAlain Rosnayと映画監督のアグネス・バーダAgnes Vardaが、意識を回復させようとしてバスタブに氷水を満たして彼を入れた。しかし彼は既に死亡していて、検視官は、体に針の後がないことを知り、死因は『心臓まひ』だとした。死亡は7月9日まで一般大衆に公表されず、それまでにモリソンは既に伝説のペール・ラシェーズ墓地Pere Lachaise Cemeteryに埋葬され、彼の墓は間もなくその場に薬物やアルコールを放置した人たちのせいで荒れ果てた。ドアーズThe Doorsはトリオとして続けると発表した。最後に、10月12日、モリソンとの関係が最近まであったロカビリー歌手のジーン・ビンセントGene Vincentが、どんちゃん騒ぎを続け、母親を訪ねた時、血を吐いて床に突っ伏して死んだのだが、発表されたときにはほとんど誰も気づかなかった。36歳だった。

ジミ/ジャニス/ジムJimi/Janis/Jimの死は、オルタモント・フリー・コンサートやビートルズの解散と合わせて、シックスティーズの終焉と広く見なされてきたが、それはまず本当ではない。若者の動きにパワーを与える美学はまだ確実に存在し、セッション・ギタリストのデュアン・オールマンDuane Allmanと弟のグレッグGreggを中心とするバンド、オールマン・ブラザースThe Allman Brothers(かつての名前はオールマン・ジョイズThe Allman JoysとアワーグラスThe Hourglass)は、ちょうどグレイトフル・デッドThe Grateful Deadの即興曲(驚くことではないが、オールマン・ブラザースは割とタイトでブルース指向だった)を南部風にアレンジすることに取り掛かっていた。そして、レッド・ツェッペリンLed Zeppelinは定型化されたブルースのアルバムを作っていたが、そのブルースはゆっくりとしたソロ指向であり、全ジャンルのバンドに刺激を与えるもので、それらのバンドのサウンドはヘビー・メタルとして知られるようになる。それでも状況は変化していて、1970年末にレッド・ツェッペリンLed Zeppelinは、メロディ・メーカー誌Melody Makerの年末人気投票でビートルズに取って代わり(ビートルズは2位、ストーンズは5位だった)、グレイトフル・デッドはジャムよりも歌重視の連続アルバム、「ワーキングマンズ・デッドWorkingman’s Dead」と「アメリカン・ビューティーAmerican Beautyによって、ワーナースWarners」の信頼に報いたが、これらは本当によく売れたし、コンサートで成功を収めた曲も入っていた。

ジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneは2枚の仰々しいスタディオ・アルバム、ライブ・アルバム、そしてグレーテスト・ヒットのアルバムを出した後に、ポール・カントナーPaul Kantnerとグレース・スリックGrace Slickの下で組織を再編し、残りのバンド・メンバーを解雇して付け加えたのは、キーボード奏者、新たなギタリスト、新たなドラマー、ますます混乱していたクイックシルバーQuicksilverにいたデビッド・フライバーグDavid Freiberg、そして最も変わっていたのはパパ・ジョン・クリーチPapa John Creachで、バンドの新ドラマーであるジョーイ・コビングトンJoey Covingtonの友人で53歳の黒人バイオリニストだった。クリーチは1940年代以来、ナット・キング・コールNat King Coleからギリシャのダンス・バンドまで様々な人たちと一緒にエレキ・バイオリンを弾いていた。エアプレーンの以前のギタリストとベーシストのヨーマ・コーコネンJorma Kaukonenとジャック・カサディJack Casadyは、ポピュラー・デュオのホット・ツナHot Tunaを結成し、ほとんど(アコースティックか耳をつんざくようなエレキの)ブルースをジャム演奏した。刷新されたエアプレーンは自分たちの名前をジェファーソン・スターシップThe Jefferson Starshipに変え、RCAは彼ら自身のブティック・レーベルをプレゼントしたのだが、それを彼らはグラントGruntと呼び、そこで関係者はあらゆる種類のプロジェクトをほしいままにすることができたし、実際にそうした。

これらすべてを追いかけていたのはローリング・ストーン誌Rolling Stoneで、年末における発行部数申告によると読者数は270,811人とあり、そのページはロック中心で、サンフランシスコをテーマにするという方針を断固として貫いた。シックスティーズは死んでおらず、ビジネスとして生まれ変わっただけだった。

新しいグループは引き続き出現したが、悲惨な結果となったものもあった。1969年末にロンドンにおいて、年は若いが音楽業界でベテランのエディ・モルトンEddie Moltonとデーブ・ロビンソンDave Robinsonの二人が、フェイムプッシャーズFamepushersというマネジメント会社を立ち上げ、メロディ・メーカー誌Melody Makerに「設立したばかりの進歩的マネジメント会社が、自分の機器を保有する若い作曲グループを求む」という案内広告を載せた。例によってテープが殺到し、ほとんどがひどいものだったが、注意を引くものが一つあり、それはタンブリッジウェルズ出身のキッピングトン・ロッジKippington Lodgeだった。ロビンソンは彼らを、ドット・バーンフォーティDot Bur-Fortiという女性と共有していた自分のオフィスに呼び、自分の経験と専門知識についてとりとめなくしゃべったが、それはジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixや、後にヘンドリックスがプロデュースしたアイルランドのグループ、アイアー・アパレントEire Apparentのロックコンサート設営スタッフを務めた時のものだった。このバンドのサウンドはしっかりでき上ってはいなかったが、コンサートでは成功をおさめ、ロビンソンはニック・ロウNick Loweという手足の長いバンド・ベーシストがこの面談のために書いたたくさんの曲のデモテープに感心した。結局フェイムプッシャーズはこのバンドを採用し、ギタリストであるブリンズリー・シュウォーツBrinsley Schwarzの名前にちなんで改名して、イギリスのユナイテッド・アーティスツUnited Artists Corporationとアメリカのキャピトル・レコードCapitol recordsと契約した。そして、世界デビューとして、ビル・グラハムBill Grahamが所有するコンサート会場のフィルモア・イーストFillmore Eastで、何とかして演奏する機会を持った。アメリカでは、1970年4月4-5日の2日間演奏する予定だったが、5日の早いステージと遅いステージしか演奏しないことになった。その日、フェイムプッシャーズがチャーターした飛行機は、米国人を大喜びさせる次世代の大物について報道するために、イギリスとアイルランドの音楽出版社の重要人物(メロディ・メーカー誌Melody Makerのコンテストで勝利した数名も同行していた)を乗せることになっていた。結局そういうことにはならず、チャーターされたエア・リンガスの飛行機に、機械故障が発生したために移動が遅れて、フェイムプッシャーズが見込んでいた予定にほんの一瞬間に合わなかった。代替機が呼ばれたがさらに遅れた。フェイムプッシャーズは飲み物を提供し、それは喜んで飲んでもらえた。最終的に1台の飛行機が到着し、数時間後に乗客が乗り込んだ。8時のショーに参加するために、ケネディ空港に着陸して税関を通過し、22台のストレッチ・リムジンに乗り込んだ。1台目の車がフィルモアに着いたのは8時15分で、全員が17時間旅行した。一方、デーブ・ロビンソンは、バンドがステージに上がるときに報道陣が少なくともビル内にいるようにと、緞帳を抑えていたのだが、事態をさらに複雑にしたことには、大成功を記録するためにロビンソンが雇った映画クルーが装置を組み立てることを会場サイドが拒否したのだ。8時25分に、バンドは会場が大きくてビビった上にリハーサル不足の状態で、35分間のステージに立った。アメリカ人はそのバンドがアメリカ風にやることを大して期待しておらず感銘も受けないでいたし、報道陣はハイになっているかあるいは酔っていて、攻撃のターゲットを探していた。ブリンズリー・シュウォーツBrinsley Schwarzは、バン・モリソンVan MorrisonとクイックシルバーQuicksilverの前座を務めたが、両者ともブリンズリーをはるかに勝っており、何年も後に、その真夜中のショーは大成功だったとニック・ローNick Loweは回想している。その結果生まれた報道は、デーブ・ロビンソン、フェイムプッシャーズ、ブリンズリー・シュウォーツを葬り去っても良かったのだが、そうはならなかった。それどころか、無意味な仕事をしたのは、フェイムプッシャーズだけだったと伝えられている。ロビンソンとそのバンドは復活したようだ。

今や『ロック』が完全に支配した。『ロール』はどこに行ったのかと不思議に思う者はほとんどいない。

 

 

 

第6章  

僕は敵が歌う歌

 

 

陰気な「サウンド」、マイクを持っているのはクレメント ・コクソン・ドッドClement “Sir Coxsone” Dodd

 

 

 

 

1964年、アーメット・アーティガンAhmet Ertegunはパーティーに出かけた。もっとはっきり言うと、1964年にはたくさんのパーティーに行っていたようで、それが本来のアーティガンなのだが、ジャマイカのための社会福祉と経済発展のリーダーであるエドワード・シーガEdward Seagaが催し、この島国の音楽を紹介するためのパーティーだった。催されたのは、キングストンにあるケン・クーリのフェデラル・レコーズ・スタディオKen Khouri’s Federal Records studioで、この国きってのハイテク操作ができ、録音とプレスが一つの建物内で可能で(ただし、原盤作成のマスタリングをするには外注が必要)、レーベルとアルバム・ジャケットの印刷も一つ屋根の下で行えた。ジャマイカ音楽は観光とともに、ニューヨーク市クイーンズ区フラッシング・メドウズで近く行われる1964-65年万国博覧会のジャマイカ・ナショナル・パビリオンのメインとなる出し物だった。イベントで音楽を演奏したのは、高級観光リゾートでカリプソやアメリカン・ポップ音楽を演奏し、収入源のほとんどを稼いでいたバンド、バイロン・リー&ドラゴネアーズByron Lee and The Dragonairesだった。ニューヨークで彼らがバックを務めていたのは、ジャマイカの人気アーティストである10代のジミー・クリフJimmy Cliff(1963年にミス・ワールドになったキャロル・クロフォードCarole Crawfordを称賛した「ミス・ジャマイカMiss Jamaica」を前年に大ヒットさせた)、ミリー・スモールMillie Small(彼女の「マイ・ボーイ・ロリポップMy Boy Lollipop」は元々、クリス・ブラックウェルChris Blackwellが自分のブルー・ビート・レコードBlue Beat recordsで録音し、クリーブランドとデトロイトにおいて大ヒットしたおかげで、全米チャートのトップに駆け上がった)、そして、カリスマ的演奏者のプリンス・バスターPrince Busterだった。このうち、バスターは、レコード店、ジュークボックス修理店、キングストンにある「ビート通り」と言われるオレンジ・ストリートOrange Streetに面したスタディオを所有していた。アーティガンは「スカska」というこの音楽に熱狂したが、その言葉の起源は不詳で、4/4拍子の2番目と4番目に強いアクセントを置くリズムだった。この音楽に熱狂しただけでなく、トップ・エンジニアのトム・ダウドTom Dowdと一緒にフェデラル・レコードFederal recordsのスタディオに行き、ブルース・バスターズBlues Busters、ストレンジャー&パッツィーStranger and Patsy、チャーマーズThe Charmers、メイタルズThe Maytalsの演奏で40曲録音して、全く発売されなかったものの、5月23日のビルボード誌には「アトランティック、スカに熱中」という見出しの記事が載った。しかし、発表されたのはバイロン・リー&ドラゴネアーズByron Lee and The Dragonairesのアルバム、「ドゥ・ザ・スカDo the Ska」で、その前面には踊り方を示す番号を振ったステップの図形が付いていた。ニューヨーク、マイアミ、ボルティモアにおける西インド諸島の大きなコミュニティでさえ、このアルバムは売れなかった。おそらく、彼らはすでに故郷から送られてきたレコードであまり手加減されていないバージョンを聴いており、もちろん、それに合わせて踊る方法を知っていたからだろう。ブラックウェルとしてはビジネス・チャンスと判断し、ジャマイカを離れロンドンにレーベル、アイランドIslandを設立し、数多くのジャマイカ人プロデューサーとライセンス契約を結んで、中国系ジャマイカ人レゲエ・プロデューサー、レスリー・コングLeslie Kongの作品はすべて第一専買権を獲得するなどしたが、これは賢明な策だった。

ジャマイカには音楽産業の長い歴史があり、最初は英国レーベルの地方事務所のためのプロダクション、そして1962年の独立後は、激しく競争する企業家たちの所有運営する『サウンズ』(音響システムの略)から育った独立レーベルが次々と誕生した。これらの起業家たちは、ミュージック・クラブの裏にある広い緑の『芝生』に『サウンズ』を設置し、時には極秘に扱われた高級なレコードと勝負することもあった。その中にはアメリカ人(ファッツ・ドミノFats Dominoや、エキセントリックなピアノ・スタイルがスカに多大な影響を与えたメンフィス・ブルースマンのロスコ―・ゴードンRoscor Gordon)や地元の人もいて、レコードのレーベルから目に見える情報をすべて削り取ったり、ローカル・リリース用の金属製テストプレス(その多くは音響オペレーターが録音した)を使用したり、ヒット曲を自分のミュージシャンに露骨に再録音させたりと、タイトルを秘密にするためにあらゆる策略が凝らされた。音響システムは大きく、けたたましく、低音も重くて、オーナー、『セレクター』(当時は普通、クロスフェーダーがなかったので、ターンテーブルは1台しかなく、流れを作るには手先の器用さが必要だった)、そしてディージェイ(マイクを持っていて、レコード紹介やリスナーへの呼びかけを行い、時にはレコードにかぶせるように話す)が操作していた。参加者の年齢層はさまざまだが、経済的な地位は大差なかった。彼らは貧しい人々が多く、自分たちを『困窮者』と呼んでいて、スピーカーから自分の声を聞くことを熱望していた。つまり、誰かの音響システムのスピーカーを通して聞きたかったのだ。数人のレコード・プロデューサーが週に一度、公開オーディションを行い、若い希望者はレコード契約を勝ち取るために現れ、自分で作った曲やどこからかパクってきた曲を歌った。

このような曲がクイーンズの万国博覧会で披露されることは全くなく、そういった要素を排除するために近づけなかった。バイロン・リーByron Leeはぽっちゃりとした中国系ジャマイカ人だった。当時、中国系移民はジャマイカでたくさんの商売をしていて、その中には黒人ジャマイカ人が「チャイニーマン・ショップ」と呼ぶ店、ゲットーの食料品店、バーを兼ねた酒屋などがあった。ジミー・クリフJimmy Cliffとミリー・スモールMillie Smallはキュートなティーンエイジャーで、万博で「スカの踊り方」を教えてくれるダンサーの中には前述のミス・ワールド、キャロル・クロフォードCarole Crawfordもいた。バンドは、自分たちが演奏するものをスカ・リプソska-lypsoと呼んでいた。しかし、本国ジャマイカでは、実際のプレイヤーには様々な人たちがいた。元警察官のアーサー・デューク・リードArthur “Duke” Reidは酒屋とレコード会社を経営し、ゴタゴタが起きないようにするために法の表裏両側に十分な人脈を持っていた。クレメント・サー・コクソン・ドッド Clement “Sir Coxsone” Doddは昔からのジャズ狂で、母親の酒屋にレコードを持ってきては、仕事中によく聞いていた。「プリンス・バスターPrince Buster」としてみんなに知られるセシル・ブスタメンテ・キャンベルCecil Bustamente Campbellは、主に音響システム・オペレーターでオレンジ通りにある店でアンプとジュークボックスを修理していた。両親は、彼が音楽業界に入ることを承認する前に大工の資格を取らせたが、それがスピーカー・ボックスの組み立てや修理に役立った。サー・コクソンSir Coxsone(同名のクリケット選手に似ていることからそう呼ばれた)は、ジャマイカで最初のレーベルとスタディオの一つであったスタディオ・ワンStudio Oneを運営し、バスターは、技術を生かしてそのスタディオとサー・コクソンズ・ダウンビート・サウンド・システムSir Coxsone’s Downbeat Sound Systemを手伝った。1959年の最後の数ヶ月に最初の3枚のスカがリリースされ、この時、ニューオーリンズ音楽をコピーしようとする最新の試みとして、メントと呼ばれる民族音楽のテクニックが使われ、新しいものへと変化していった。その3曲は、ジョー・ヒッグストロイ・ウィルソンJoe Higgs and Roy Wilsonの「マニー・オーManny Oh」、セオフォラス・ベックフォードTheopholus Beckfordの「イージー・スナッピンEasy Snappin」、フォークス・ブラザースFolkes Brothersの「オー・カロライナOh Carolina」だ。島で唯一の放送局であるJBCはまだBBCを真似ていたため、このような「ゲットーのチンピラ」向けの放送はなく、各家庭にレコード・プレイヤーがなかったにもかかわらず、それぞれ2万5千枚ほど売れた。こうしてスカは誕生した。

キングストンの不規則に広がるスラム街に住む楽器奏者と歌手によって作られた民衆の音楽であるという事実が、ナショナリズムの感情をかき立てた。ジャマイカには、他にはないポップ・ミュージックができた。バスターは自分とその新しいサウンドをボイス・オブ・ザ・ピープルVoice of the Peopleと呼ぶようになり、1960年初め頃にコクソンから独立した。そしてそれを聴きに来たティーンエイジャーの中には、ロバート・ネスタ・マーリーRobert Nesta Marley、ウィンストン・ヒューバート・マッキントッシュ(Winston Hubert McIntosh)、ネビル・リビングストンNeville Livingston、フランクリン「ジュニア」ブライスウェイトFranklin “Junior” Braithwaite、そして時々チェリー・スミスCherry Smithとベバリー・ケルソBeverley Kelsoがいた。彼らは、ウェイリング・ウェイラーズThe Wailing Wailersとして知られ、ジョー・ヒグスJoe Higgsの自宅で歌唱レッスンを受けた。そして、カリブ・シアターthe Carib Theatreで水曜日の夜に開催されていたベア・ジョンズ・オポチュニティー・アワーthe Vere Johns Opportunity Hourでのタレントショーに勝ったのだ。ジョンズはこの番組の司会だけでなく、島の日刊紙グリーナーGleanerのコラムやJBCのラジオ番組も持っていたので、コンテストでの優勝は賞金としてもらえる数ポンド以上の意味があったのだろう。ウェイリング・ウェイラーズThe Wailing Wailersは、スカの全盛期にスタディオ・ワンStudio Oneと確固たる関係を築き、自分たちの曲を録音するだけでなく、他の人のレコードのバックで歌ったりもした。彼らは、ゲットーそのものであった。でも大丈夫。マーリーの父親は白人のイギリス兵で、丘陵地帯に駐屯していた時に出会い、その後捨てた田舎娘が母親だった。リビングストンはマーリー家の床で寝ていた田舎の子供で、マッキントッシュは田舎で両親に捨てられ、キングストンに引き寄せられ、彼もヒッグスに歌を習い、ギターを独習した長身の痩せた子供だった。彼らはまた、多くのジャマイカのミュージシャンや楽器奏者と同様に、ラスタファリアニズムRastafarianismと呼ばれる宗教の信者でもあった。ラスタ信者は、マーカス・ガーベイMarcus Garveyのアフリカ回帰運動を支持し、黒人の現状をユダヤ人のエジプトやバビロンでの捕囚になぞらえている。ガーベイGarveyの予言に従って、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエを神の地上での代理人として崇拝していた。また、マリファナを聖なるものとみなしたが、この植物は、イギリス人が畑仕事のために連れてきたインディアンのせいで島中に生えていた。ラスタファリアンはもちろんまともなジャマイカ人からは軽蔑されていたが、彼らの音楽的能力は素晴らしく、キングストンのアルファ・ボーイズ・スクール少年院には優れたスクールバンドがいて、長年にわたってジャマイカには不釣り合いな数の楽器演奏者を輩出してきた。コクソンやデューク・リードといった大物プロデューサーたちは、ラスタのわかりやすいドラミングをほとんどの作品から排除し、スタディオでは、ガンジャ(マリファナ)を吸うことも許さなかった。(ただし、外の庭ではしばしば話は別だった)。

スカはジャマイカとイギリスで定着し、スタディオと特に演奏者の数が増えるにつれ、ジャマイカの音楽ビジネスは出版契約、マネジャー、レコーディング契約といったばかばかしいことをせずに、多くのミュージシャンは、ヒットすると感じれば利用できるスタディオに入り、最初のトライがダメなら2回入ることもあった。ライブ演奏(これらのヒット曲のバック・バンドは、忙しくてショーで演奏するための時間を取れない)は、無政府状態の典型となった。この形態は長続きすることができて、何百枚ものレコードが録音され、何百人ものヒーロー(数々のレコードでバック・バンドを務めた元アルファThe Alphaのメンバー、スカタライツThe Skatalitesは現在も存在する)、犠牲者(スカタライツのトロンボーン奏者で、悪びれることのないラスタであるドン・ドラモンドDon Drummondは島で最も革新的な楽器奏者と考えられていたが、妻殺しのうさん臭い疑惑で有罪となり精神病院で人生を終える)、ブーム(1966年の「ドレッド対ルードボーイズThe Judge Dread-versus Rude Boys」というレコード)が生まれた。このブームという最後の件は、地域社会にとって興味深いもので、若いギャングが銃とカミソリで暴れ回り、バスターが考案して自ら演じたドレッド判事は、3人の情けない泣き虫の若者たちに容赦なく、「ジャッジ・ドレッド」として3人合計で1700年の懲役と500回の鞭打ちの刑を宣告したのである。イギリスではスカは非常によく売れたが、アメリカでは全く相手にされなかった。しかし、1967年にRCAから出た、ボイス・オブ・ザ・ピープルThe Voice Of The People、つまり、プリンス・バスターPrince Buster の女性に掟を課す愚かで性差別的な曲、テン・コマンドメンツTen Commandmentsが、アメリカにおいて少しだけヒットした。彼のアルバムには、「プリンセス・バスターPrincess Buster」というアンサー・ソングもあり、これがまたバカバカしいのである。

しかし、リズムは変化し、新しい音楽は間違いなくゲットーの貧乏人を擁護するようになっていた。猛暑の夏への反発からか、ソニア・ポッティンジャーSonia Pottinger、レスリー・コングLeslie Kong、ジョー・ギブスJoe Gibbsなど新世代のプロデューサーたちの下で、芝生の上のリズムは少しスローになった。新しい曲調は『ロックステディrock-steady』で、スローダウンしたスカから始まり、急速に独自の繊細なリズムを獲得していった。アルトン・エリス&フレイムスAlton Ellis and the Flamesの「ロックステディRocksteady」がヒットする頃までには、ジョー・ヒッグスJoe Higgsの謎めいた「アイ・アム・ザ・ソング・ザット・マイ・エネミー・シングズI Am The Song That My Enemy Sings」、ジャマイカ人による1967年のソングフェスティバル優勝曲「バ・バ・ブーンBa Ba Boom」、パラゴンズThe Paragonsの「タイド・イズ・ハイThe Tide Is High」、そして他にも、デスモンド・デッカー&エイシスDesmond Dekker and The Acesの作品で聞かれるようになり、すっかり定着した。溶接工を生業とするデッカーは、「オナー・ユア・ファーザー・アンド・マザーHonor Your Father and Mother」や「ルディ・ガットゥ・ソウルRudy Got Soul」でギャング・ブームの両面を担っていたが、ギャング・ブームが衰退しつつあった1967年、「007(Shanty Town)」によってイギリスでナンバー1ヒットを放ち、スカやロックステディといったジャマイカのサウンドは彼らの音楽だと、スキンヘッドと呼ばれる白人青年族が結論付けたのである(奇妙なことに、スキンヘッドは酒を飲んで喧嘩をするだけでなく、パキスタン人移民を攻撃する「パキ・バッシング」でも知られていた。どうやら彼らは、ジャマイカ人は問題ないと思っていたようだ)。デッカーは再び 「イスラエライトIsraelite」で挑戦し、当初は失敗に終わったが、デッカー&エーシズ Dekker and The Acesがイギリスをツアーした後、この曲はキングストンの苦悩するゲットー住人とエジプトで捕らえられたイスラエルの民の間に、ラスタファリアンとの関連性があることを明確にし、苦悩を表現する曲となって大成功を収めたのだった。この楽曲はデッカーの初期の全レコードと同じくレスリー・コングLeslie Kongが制作したものであり、イギリスのチャートを制覇しただけでなく、なぜかアメリカではデッカDecca recordsのヒップな曲を扱うレーベル、ユニUni recordsにライセンスされ、1969年のトップ10入りを果たした。悲しいことに、その後追い作の「イット・メクIt Mek」は、トルコ語で「くたばれ」という意味だと噂されたが、そうではなく、ジャマイカの方言で「それは進む」という意味であった。結局この曲は売れなかった。それにしても、トルコ出身のアーメット・アーティガンは必要なときにどこにいたのだろうか?しかし、このアルバムは、「ユー・キャン・ゲット・イフ・ユー・リアリーウォントYou Can Get It If You Really Want 」という曲に注目した、少数の大胆な人たちによって聴かれることになった。暴力が手に負えなくなり、ジャマイカ経済が低迷する中、特にエチオピアンズThe Ethiopiansというハーモニー・トリオが 「エブリシング・クラッシュEverything Crash」、「ホンコン・フルHong Kong Flu」(この曲は人々に疫病を認識させ、多くの命を救ったという評判が広まった)、「ポイズン・フラウアーPoison Flour」(同)などを制作したとき、その曲名が日刊紙のように感じられた。メイタルズThe Maytalsが「54-46ワズ・マイ・ナンバー 54-46 Was My Number」で強調しているように、一部のゲットーの若者にとって一時期刑務所に入ることは日常的になりつつあった。この曲は、リード・シンガーのフレデリック・トゥーツ ・ヒバートFrederick “Toots” Hibbertがマリファナ所持で過ごした9ヵ月間を歌っている(実際に彼の囚人番号でもあった)。しかし、次のリズムに焦点を当てたのはメイタルズのもうひとつの曲、「ドゥ・ザ・リゲイDo the Reggay 」だった。

この言葉の由来は誰も知らないようだ。ラガマフィンragamuffinが転訛したもので、新しいビートを録音して踊るゲットーの若者を表現するために使われたという説もあるが、ジャマイカという国の性質上、レゲエの歴史はこの問題を気にしないようだ。最も重要なのは、新世代のプロデューサーが登場し、ヒット曲を作り始めたということだ。レスリー・コングLeslie Kongはクロスオーバーのヒットを放ったが、ジョー・ギブスJoe Gibbsのレーベル、アマルガメイティッド AmalgamatedにはパイオニアーズThe Pioneers(「ロング・ショット・キック・デ・バケットゥLong Shot Kick de Bucket」)がいて、次々とヒットを放ち、インストのヒットで有名だったハリーJ Harry J(特にハリーJオールスターズThe Harry J All Starsのザ・リクイデーターThe Liquidatorは、レゲエ史上ベストセラーとなり今でもイギリスの広告に使用されてる)、そして、ジョー・ギブスのスタディオを飛び出してしまい、自分のサウンドとスタディオを作り上げてキャリアをスタートさせた男、正確にはアップセッターthe Upsetterとも呼ばれるリー・スクラッチ・ペリーLee “Scratch” Perryがいた。ペリーは制作に関する奇抜なアイデアと、ミュージシャンを惹きつけるカリスマ性を持っていた。「ピープル・ファニー・ボーイPeople Funny Boy」でキャリアをスタートさせ、ギブスに対するすべての恨みを晴らし(ギブスは「ピープル・グラッジフルPeople Grudgeful」で反撃)、すぐに自分のブラック・アーク・スタディオBlack Ark Studiosにおいて未知の世界への実験を試みた。「レゲエが始まるまではキングストン、キングストン、キングストンだったんだ」と彼はインタビュアーに答えた。「そして田舎の人々が町にやってきて、土、木、山を持ってきた。その時レゲエが大地に戻ったんだ。昔は田舎の人間を狂人だと思っていたが、それがどうした?狂人が必要な時もあるんだ。というのも、狂人たちは同じことを同じようにできないからだ。彼らにとっては意味がないことだからね」。全くその通りだ。多くの新しいレコードのボーカルは隠語があまりに多かったので、外国人や中流階級以上のジャマイカ人には事実上理解できないものだった。「上流階級」向けのレコードはまだ作られており、ソウルの歌声の裏に軽くレゲエのビートを利かした結果、ジョー・ギブスJoe Gibbsの場合にはインプレッションズThe Impressionsがカバー曲を出し、ニーナ・シモンNina Simonの「ヤング・ギフティッド・アンド・ブラックYoung, Gifted, and Black」は、ボブ(アンディ)&マーシャ(グリフィス)Bob( Andy) and Marcia (Griffiths)のボーカル・デュオによってビッグ・ヒットになった。スクラッチScratchは、より奇妙で民族的なものを好んで、エチオピアンズThe Ethiopians、メロトーンズThe Mellotonesをプロデュースし、そして1969年にはボブ・マーリーBob Marley、バニー・ウェイラーBunny Wailer(元ネビル・リビングストンNeville Livingstone)、ピーター・トッシュPeter Tosh(元マッキントッシュMcIntosh)のトリオとなったウェイラーズThe Wailersをプロデュースした。彼らは、ペリーがマリファナ(「アフリカン・ハーブズマンAfrican Herbsman」)、田舎の迷信(「デュプティ・コンカラーDuppy Conqueror」)、革命(「スモール・アックスSmall Axe」、「ソウル・レベルSoul Rebel」、「フォー・ハンドレッド・イヤーズFour Hundred Years」)に関する曲を避けてないことを知っており、ほとんどのレゲエ・ファンはウェイラーズがスクラッチと録音した100余りの曲を彼らの最高傑作と考えている。(マーリーがロックのスターダムにのし上がった後も、ハイレ・セラシエが亡くなった1975年にペリーのところに戻り、「ジャ・ライブJah Live」を録音して自身のレーベルTuff Gongから発売した)。

1969年までに、ジャマイカは才能のある者達で溢れ、レゲエはイギリスのポップ・チャートに入り、その才能ある者の一部がアメリカに流出するのは自然なことだった。成功したのは、クリス・ブラックウェルChris Blackwellがロンドンに連れてきたジミー・クリフJimmy Cliffだった。ブラックウェルのレーベルからA&Mレコードに第一専買権を行使し、クリフはジャマイカでレスリー・コングLeslie Kongとアルバムを録音し、そのタイトル曲「ワンダフル・ワールド・ワンダフル・ピープルWonderful World, Beautiful People」がアメリカのポップ・チャートで25位に入るヒットを記録した。しかし、このアルバムを買った人は、「メニ・リバース・トゥ・クロスMany Rivers to Cross」はとても素晴らしい完全なバラードで、クリフの「ユー・キャン・ゲット・イットゥ・イフ・ユー・リアリー・ウォントYou Can Get It If You Really Want」はデッカーDesmond Dekkerのバージョンに勝り、壮大なベトナムViet Namは他ならぬボブ・ディランから史上最高のプロテスト・ソングと絶賛された(まさにそうかもしれない)のだからびっくりした。一方、映画監督のペリー・ヘンゼルPerry Henzellは、キングストンのシーンの撮影に奔走した。そのシーンの中には、メイタルズThe Maytalsとレスリー・コングLeslie Kongが、画期的なヒット曲「プレッシャー・ドロップPressure Drop」を録音しているシーンがあった。ペリーがそれに基づいて企画した映画は、1940年代後半にジャマイカ警察当局の追跡をうまくかわして逃げ、ゲットーの伝説になったロビン・フッドのようなアウトロー、リギングRhyging(本名ビンセント・イバンホー・マーティンVincent “Ivanhoe” Martin、クリフの役名はIvan)をモデルにしてクリフを主役にしたものだった。(コングは好調だった。1971年に夭折する直前、アート・ガーファンクルArt Garfunkelと別れたばかりのポール・サイモンPaul Simonのレコーディング・セッションを主催し、コングの素晴らしいスタディオ・バンドは、「母と子の絆Mother and Child Reunion」という曲で聞くことができる)。

1970年、レオン・ラッセルLeon Russellやジョー・コッカーJoe Cockerのマネジメントをしていたデニー・コーデルDenny Cordellはジャマイカで休暇を過ごし、「プレッシャー・ドロップPressure Drop」、ディスク・ジョッキーであるUロイ U-Roy(レコード会社はヒュー・ロイHugh Roy)の「フラッシング・マイ・ホイップFlashing My Whip」、スコッティScottyの「ドロー・ユア・ブレークスDraw Your Brakes」など数曲をライセンスした。自身のシェルター・レーベルからAB面別々のアーティストにしてシングル盤でリリースし、多少の関心を集めようとした。1972年、ヘンゼルの映画「ハーダー・ゼイ・カムThe Harder They Come」が公開され、理解していないまま批評していたが関心を持たれた(そして数多くのシングル盤の曲がリリースされ)結果、サウンドトラックは売れ、映画はレゲエだけでなくラスタファリア運動とマリファナの大量消費の内幕を描いたことで急速にものすごいヒットとなった。サウンドトラックは何年も売れ続け、この映画は大学や深夜の定番となった。

その中の2曲は、レゲエの新しい現象である 『トースティング 』または 『トークオーバー 』の傾向を示している。ジャマイカのシングルは決まって裏面にインストゥルメンタル楽曲を入れるのが特徴で、時にはボーカルを一部乗せたり、残響をあちこちで増幅させ、もし優れたセレクターがターンテーブルを2台持っていたら、ダンサーが踊り続けるために切れ目なく演奏するようにした。また、タイトルには何らかの形でバージョンという言葉をよく使っている。良いサウンドには無駄がない。これまで見てきたように、良いサウンドならディージェイは、レコードのコメントやサウンド自体の宣伝をし、観客を盛り上げる気にさせるものだ。そして後期スカの時代、ディージェイは打楽器対位法(「…チカ…チカ」など)を作り、リー・ペリーLee Perryのハウス・バンド、アップセッターズThe Upsetters出身のスカタライツThe Skatalitesの「アル・カポネAl Capone」や「クリント・イーストウッドClint Eastwood」をチャート上位に押し上げた。そして、カウント・マチュキCount Machukiの登場である。レコーディングはしなかったが、彼は群衆の中のダンサーからトム・ザ・グレート・セバスチャン・サウンドTom The Great Sebastian soundのセレクターになり、ダンスの動きを見せるだけでなく、トークオーバーにライミング・クプレを挿入するようになった。トムがアップタウンの仕事がある時にはマチュキの思い通りにさせ、このおしゃべりなダンサーのトムはプリンス・バスターPrince Busterと関わることになった。しかし、最初にレコードを出したディージェイはU-ロイ U-Roy、本名イワート・ベックフォードEwart Beckfordで、ディッキーズ・ダイナミックDickies Dynamicというサウンドをスタートさせ、オズボーン・ラドックOsbourn Ruddock、別名キング・タビーKing Tubbyが運営していたコクソンのBチームCoxson’s B-teamへと苦労して出世した。タビーの本業はレコード原盤カッティング技師だったため、新曲の生テープをたくさん手に入れることができ、それらをU-ロイの作品のために特別に伴奏トラックにリミックスして、単発のレコードに差し込んでいた。トークオーバーを使った最初の実験の1枚は、大変な売れ行きを見せた。1970年、デューク・リードDuke Reidがデモ・レコードに録音した1時間後に 「ウェアー・ユー・トゥ・ザ・ボールWear You to the Ball 」がダンスパーティーで紹介され、その場にいた人々は聴衆の反応を忘れることがなかった。やがて、ジャマイカのレゲエDJであるトースターも登場し始めた。デニス・アルカポーンDennis Alcapne、I-ロイ I-Roy、スコッティScotty(彼はキース&テックスKeith and Texの「ストップ・ザット・トレインStop That Train」を、「ドゥロー・ユア・ブレーキスDraw Your Brakes」と題したバージョンで、「ザ・ハーダー・ゼイ・カムThe Harder They Come」のサウンドトラックに参加)が最初だった。)その数年後、新世代の最も有名なビッグ・ユースBig Youth(マンリー・オーガスタス・ブキャナンManley Augustus Buchanan)などが登場して、その「C90シャンク C90 Skank」は、ゲットーの若者たちが欲しがったホンダ・バイクに不朽の名声を与えた。ビッグ・ユースのほとんど発狂したような曲「スクリーミング・ターゲットScreaming Target」は、マイクに向かって何度も叫びながらスタートするので、ファンへの啓示のようなもので、その後に出たアルバムはイギリスとアメリカにおいて隠れたファンがかなりいた。あるディージェイのレコードは、イギリスで大ヒットを記録したのを受けて、アメリカで軽いヒットになった。それは、デイブ&アンセル・コリンズDave and Ansell Collinsの「ダブル・バーレルDouble Barrel」で、1971年のポップ・チャートで22位にランクインした。

ディージェイの台頭と同時期に、そして並行して、レゲエの音楽に合わせて歌う西インド諸島の詩が台頭し、それはリー “スクラッチ “ペリーLee “Scratch” Perryが始めた。アップセッターThe Upsetterは様々な音響効果機器や素材を繰り返し使うループなどを試し、ブラック・アーク・スタディオBlack Ark Studiosで夜遅くまで様々なバージョンを作って遊んでいた。彼が生み出し、心に長く残る音は、やがて 「ダブ」 として知られるようになった。また、ジャマイカのサウンド・エンジニアであるキング・タビーKing Tubbyのレコーディングへの取り組みも重要なのだが、それは彼も実験的な試みを始めたからだ。しかし、タビーはスクラッチにないものを一つ持っていた。それは、壊れたフェンダー社製の残響装置で、彼は時々それを蹴って中のスプリングでボーーーンという音を出していた。そして、2人はお互いの作品をリミックスするようになり、「キング・タビー・ミーツ・ザ・アップセッター・アット・ザ・グラス・ルーツ・オブ・ダブKing Tubby Meets the Upsetter at the Grass Roots of Dub」というアルバム(ダブは主にダンス用ではなかったため、アルバムを必要とする最初のジャマイカの形式だった)を制作した。1970年代が進んでいくと、ロンドンを拠点に活動する信頼できるレゲエ・バンドがライブ演奏を取り入れ、アスワドAswadやマトゥンビMatumbiといったバンドは全国的な名声を得た。イギリスにはジャマイカのレーベル、トロージャンTrojanもあったが、これはクリス・ブラックウェルChris Blackwellの誕生間もないレーベル、アイランドIslandが初めてロンドンのオフィスに引っ越してくると、家主のリー・ゴプタルが建物の出入りの多さに気付いたことから始まる。ブラックウェルBlackwellがジャマイカ産のレコードのライセンス事業をやめ、自身のプロダクションに集中すると、ゴップタルGopthalはその代わりを務めるためにトロージャンTrojan recordsを立ち上げ、シングル盤や「タイトゥン・アップTighten Up」シリーズの派手なアルバムをリリースし、ジャケットに載っている肌を露出した黒人女性たちは、すぐに楽しめるように丁寧に制作された楽曲と同様に、イギリスのティーンを魅了するものであった。しかし、クリス・ブラックウェルChris Blackwellは注意深く観察し、1972年にウェイラーズThe Wailers初のアルバム「キャッチ・ア・ファイヤーCatch a Fire」をリリースした。これはアメリカ市場を正面から狙って、成功したロック・ミュージックだった。彼はボブ・マーリーBob Marleyをロック・スターにし、黒人文化のヒーローにすることになる。

彼は、少なくとも最初は失敗した。その理由は、2つに絞られる。1つ目は、アメリカ育ちの黒人は西インド人を長年にわたって嫌悪していたことだ。彼らは西インド人を、金儲けに夢中で「黒いユダヤ人」と呼び、話し方が変なことは言うまでもなく(ルイ・アームストロングの時代まで遡る嘲笑)、秘密主義だと見ていたのである。この問題は完全に無くなることは決してなく、二つ目の要因として、アメリカの黒人音楽は、ターゲットとする聴衆が楽しみ切れないほどの素晴らしい作品を生み出したが、70年代初頭には人種的に一層分離したロックのラジオが台頭したため、ますます多くの作品がクロスオーバーしなくなったということだ。カーティス・メイフィールドCurtis Mayfieldや、ある程度はモータウン・レコードMotown recordsが先導し、ノーマン・ホイットフィールドNorma Whitfieldのプロデュースやスティービー・ワンダーStevie Wonderの作曲などによって、ソウルは社会的な意識を持つようになった。1964年の「キープ・オン・プッシングKeep On Pushing」を皮切りに、メイフィールドはインプレッションズThe Impressionsを率いて、ますます力強い声明を数多く発表していく。1965年の 「ピープル・ゲット・レディPeople Get Ready」 、1967年の 「ウィアー・ア・ウィナーWe’re a Winner」、1968年の 「ディス・イズ・マイ・カントリーThis Is My Country」、1969年の「チョイス・オブ・カラーズChoice of Colors」 、そして、不朽の名曲 「ムーブ・オン・アップMove On Up」 を含む「(ドント・ウォーリー)イフ・ゼアーズ・ア・ヘル・ベロー・ウィアー・オール・ゴーイング・トゥ・ゴー(Don’t Worry)If There’s a Hell Bellow, We’re All Going to Go」以降しばらくの間、ソロ・アーティストとして行ったほぼすべてのレコーディングが該当した。ステイプル・シンガーズThe Staple Singersは、ソウルの体制派をあまり気にかけず、社会変革のために、当面は教会の中だけではあるが活動していた。公民権運動は、結局、南部のポップ・ミュージックから賛歌になる曲はなかった。ポップス・ステイプルズPops Staplesは一部の黒人教会とは異なり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアMartin Luther King Jr.の熱烈な支持者であり、その姿勢は他のほとんどすべてのゴスペル演奏者と一線を画していた。これらのレコードはいずれもポップ・チャートよりもソウル・チャートではるかに良い成績を収めたが、注目すべきはメイフィールドとステイプルズがともにシカゴを拠点にしていたことである。「ディープ・ソウル」の本場(つまり、南部)では、彼らのレコードはそれほどうまくいかなかったのだろう。

南部はまだ黒人ポピュラー音楽の黄金時代であった。オーティス・レディングの死によって、彼の後釜を探す動きが活発化し、スタックス・レコードStax recordsでは誰も巨大な彼の後継にはなれないことが明らかになると、人々は他の場所に目を向けた。最もふさわしい候補者は、ミシシッピ生まれのメンフィスの人間で、ゴスペルで育った背が高いジェームス・カーJames Carrだった。1966年にまで遡ると「ユー・ガット・マイ・マインド・メスト・アップYou Got My Mind Messed Up」と「プアリング・ウォーター・オン・ア・ドローニング・マンPouring Water on a Drowning Man」がヒットし、そしてチップス・モーマン-ダン・ペンChips Moman-Dan Pennの名曲「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリートDark End of the Street」の決定的なカバー・バージョンが続いた。これらはすべて、メンフィスの無名の名盤を数多く所有するクイントン・クローンチQuinton Claunchのゴールドワックス・レーベルGoldwax labelで録音されたものである。カーCarrはレディングの長所をすべて備えていたが、精神的な問題からライブやセッションには全く無責任な人間だった。ただし、レコードは素晴らしかった。もう一人の候補は、ビール・ストリートBeale Streetの人気クラブの目玉で、フェイム・レコードFame recordsから多くのレコードを出し、ボブ・ディランBob Dylanの解釈で真の才能を発揮したジェームス・ゴーバンJames Govanだった。彼はカーよりもさらに無名だったが、やがて特にイタリアでスターになった。

そして、ジョー・クオギJoe Guoghiのハイ・レーベルHi labelからは次々とアーティストが誕生していたが、このレーベルはトランペット奏者のウィリー・ミッチェル&ヒズ・バンドWillie Mitchel and his band でいくつかのインストゥルメンタル曲をヒットさせ、彼をプロデューサーとして迎えることに同意した。彼は若いシンガー、アン・ピーブルズAnn Peeblesと仕事をし、彼女の初期のレコードはブルースで(リトル・ジョニー・テイラーLittle Johnny Taylorの「パート・タイム・ラブPart Time Love」は素晴らしいカバー・バージョンで1970年の終わりにヒットし、それに続いてボビー・ブランドBobby Blandの「アイ・ピティ・ザ・フールI Pity the Fool」のカバーを出した)、ソウルの領域に向かっていた。ウィリー・ミッチェルとハイ・レコードHi recordsを変えたのは、ミッチェルが失敗作と見切っていたアル・グリーンAL Greenが彼のドアを叩いたことだった。ミッチェルは、来るはずだと思っていた大工と思い、手招きして中に入ると、大工ではなくアルバート・グリーンAlbert Greeneだった。「この野郎、俺の金を持って盗んだろう」。ミッチェルは、デトロイトで契約解除のためにグリーンに1,500ドルを貸したときのことを思い出して言った。それを取り返すために、ミッチェルがグリーンのために借りたアパートで長時間働き始めたのだ。「アルに真っ先にしなければならなかったことは、ご機嫌をとることだった」とミッチェルは後で思い出した。「彼はオーティス・レディングのようになりたくて、スタックスStaxのサム&デイブSam and Daveのようなサウンドを望んでいたんだ。僕は、『そんなものは必要ない。あの人たちと比べる必要はない。スムーズでスウィートにすれば良いんで、叫ぶ必要はないんだ』と言ったんだ。そして、ようやく彼を納得させることができたんだ。」1970年後半、グリーンがテンプテーションズThe Temptationsの「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・ユーI Can’t Get Next to You」のカバーでブレークした。この曲では、ほとんど葬送曲といってよほどにテンポを落とし、エコーを全く使わないのがミッチェルのトレードマークであり、バックを最小限のミュートにしたことで、ノーマン・ホイットフィールドNorman Whitfieldとバレット・ストロングBarrett Strongのシュールな歌詞を際立たせている。大ヒットはしなかったが、グリーンの地位を確立し、1971年に「タイヤード・オブ・ビーイング・アローンTired of Being Alone」とクロスオーバーでナンバーワンとなった「レッツ・ステイ・トゲザーLet’s Stay Together」を連続ヒットさせた後、グリーンとミッチェル(さらには、リロイ・フリック・ホッジスLeroy “Flick” Hodges、チャールズ・ホッジスCharles Hodges、メイボン・ティーニー・ホッジスMabon “Teenie” Hodgesの兄弟からなるハウス・バンド、ハイ・リズム・セクションHi Rhythm Section、ハワード・グライムスHoward Grimes、そして、ブッカーT&エムジーズBooker T. and the M.G.’sからメンフィスの注目スタディオ・バンドとして引き継いだアーチー・ターナーArchie Turner)は自分たちの路線を進み、1977年までにゴールド・ディスクとプラチナ・ディスクを獲得して、アン・ピーブルズAnn Peebles、オーティス・クレイOtis Clay、シル・ジョンソンSyl Johnson、O・V・ライト O.V.Wrightといったミッチェルがプロデュースしたハイ・レコードHi recordsのアーティストがヒットする扉を開いたのである。

スタックスStax records自体も、それほど悪い結果にはなっていなかった。レーベルのアル・ベルAl Bell体制は、ソングライター兼ピアニストのアイザック・ヘイズIsaac Hayesという今までにない型の新星を見出した。優れたシンガーではなかったが、素晴らしいソングライターでありプロデューサーで、自分の曲も作った。ヘイズは、スタックスがロック・グループのために新たに加えたレーベル、エンタープライズEnterpriseから1969年に出した両面ヒット曲「ウォーク・オン・バイWalk On By」/「バイ・ザ・タイム・アイ・ゲット・トゥ・フェニックスBy the Time I Get to Phoenix」で、歌の前にイントロとして歌詞について語るという仕掛けでスタートした。しかし、彼がしっかりと自分の地歩を固めたのは1971年で、黒人俳優が主役を演じるブラックスプロイテーション映画「シャフトShaft」のテーマをレコーディングし、ポップ・チャートのトップになって演奏者としての長所と短所がうまく現れている。最初、ベルBellはステイプルズThe Staplesを何とか説得して、「ロング・ウォーク・トゥD.C. Long Walk to D.C.」をスタックス・レコードStax recordsで録音させ、その後、リード・シンガーのメイビスMavisが世俗的な曲を歌う一方で、ファミリー・グループと一緒に政治的な色合いの強い曲を録音するようにさせた。1971年後半、彼らはキング牧師と共に行進した人気伝道師で、牧師の仲間ジェシー・ジャクソンJesse Jacksonの言葉を引用した曲でブレークし始め、ためらいがちではあってもスタックス・レコードがソウルに傾倒し行動主義をとることに魅了された。「リスペクト・ユアセルフRespect Yourself 」は、否定しがたい面白味があり、咳をするときに口に手を当てると汚染しないなど、少し馬鹿げた歌詞もあったが、韻を踏むのに苦労したようだった。しかし、1972年にマッスル・ショールズ・サウンド・スタディオMuscle Shoals Sound Studioで録音された「アイル・テイク・ユー・ゼアI’ll Take You There」は、紛れもないレゲエのリズムが特徴的で、彼らの大ブレークのきっかけとなった。バック・バンドのマッスル・ショールズ・リズム・セクションThe Muscle Shoals Rhythm Section(別名スワンパースThe Swampers)は、新たに結成されたスティーブ・ウィンウッドSteve Winwoodのバンド、トラフィックTrafficとともにイギリス・ツアーを行ったばかりで、その前座がウェイラーズThe Wailersだった。ベーシストのデイビッド・フッドDavid Hoodは、この音楽に衝撃を受け、ステイプルズのセッションでアレンジを手伝い、レコードではメイビス・ステイプルズMavis Staplesが彼を急き立てる声が聞こえる。

スタックスStax recordsでは、ブルースとコンテンポラリー・ソウルとの混合がまだ行われていた。アルバート・キングAlbert Kingは、巨大なギブソン・フライングVギター Gibson Flying V guitarを携えてブルースを歌い、ソウル・チャートでヒットした。スタックスは、まだ盛んにレコーディングをしていたジョン・リー・フッカーJohn Lee Hookerのレコードを出し、リトル・ソニーLittle Sonnyというハーモニカ奏者を必死になって売り出そうとしたが、無駄だった。パービス・ステイプルズPervis Staplesがシカゴのゴスペル・トリオ、ハッチンソン・サンビームスHutchinson SunbeamsをスタックスStax recordsに入れたところ、彼らが世俗的な音楽をやりたいと聞いたので、少しイメージを調整した後、エモーションズThe Emotionsが誕生し、次の10年に続くヒット曲の数々が始まった。オリー&ナイチンゲールOllie and The Nightingalesもスタックスのスタディオで生まれ変わったゴスペル・グループで、地元のボーカル・グループ、ソウル・チルドレンThe Soul Childrenは、少し保守的なマッド・ラッズMad Ladsとともにプログレッシブ・ボーカル・グループと呼ばれる音楽をしていた。再結成されたバーケイズBar-Kaysは、復活の狼煙を上げたとはいえ、「サン・オブ・シャフトSon of Shaft」で再びヒットを飛ばし始めたばかりだった。スタックスは、1969年5月16日から18日にかけて行われた販売会議で世界に向けて新体制を発表し、なんとシングルではなくアルバム28枚が発表された(ただし、ルーファス・トーマスRufus Thomasの作品は実際にはリリースされなかった)。ジム・スチュワートJim Stewartはまだ会社のトップだったが、アル・ベルはこのことを、モータウンにはない社会的な力として明確に位置づけていた。このコンベンションでは、公民権運動家のジュリアン・ボンドJulian Bondが基調講演を行い、SAFEE(Stax Association for Everybody’s Education)という、デイ・ケア・センターや恵まれない若者のための専門学校を運営する新しい組織が紹介された。週末の終わりに、スタックスは盛大なパーティーに25万ドルを費やし、卸売業者から200万ドルの注文を受ける見込みだった。万事順調だ。そして、さらに野心的な計画が進行中であった。ロサンゼルスで毎年開催されていたワッツ・フェスティバルWatts Festivalは、1972年、スタックスだけの巨大なコンサート(撮影と録音が行われていた)で最高潮に達し、ワットスタックスWatt-staxと呼ばれるようになった。入場料は1ドルで、ロサンゼルス・コロシアムthe Los Angeles Coliseumで開催され、11万2千人の観客がスタックス所属のスターたちの演奏を時間の許す限り見た。サミー・デイビス・ジュニアSammy Davis Jr.が、リチャード・ニクソンRichard Nixonの招待を受けて立ち去るため、ラスベガスでの夜の公演をキャンセルしてスケジュールが狂ったが、彼の前座を務めていたステイプル・シンガーズThe Staple Singersがそのステージをうまくこなした。主催者側としては、明らかにオーバーブッキングだったが、その日は無事に終わり、観客は地元のラジオが演奏しないようなアーティストをたくさん見ることができ、スタックスはアルバム2枚だけでなく、映画も、多少の手直しはあったものの、大々的に映画館でヒットさせることができた。

デトロイトのモータウン・レコード Motown recordsの状況は、不穏であった。「サイケデリック・シャックPsychedelic Shack」、「ボール・オブ・コンフュージョンBall of Confusion(That’s What the World Is Today)」、「ウンゲナ・ザ・ウリムウェングUngena Za Ulimwengu(Unite the World)」など、テンプテーションズThe Temptationsのために書いたノーマン・ホイットフィールドNorman Whitfieldの曲には社会的主張が入り込んでいた。エドウィン・スターWdwin Starrは、1970年に「ウォーWar」、「ストップ・ザ・ウォー・ナウStop the War Now」の2曲を大ヒットさせてみんなを驚かせた。一方、マーサ&バンデラスMartha and The Vandellasはこの年、「アイ・シュッド・ビー・プラウドI Should Be Proud」を発表し、戦争で男を亡くした女の嘆きを歌ったもので、つらい歌詞が含まれていたが、ヒットしなかった。ベリー・ゴーディBerry Gordyは、世界のショービズ界へ進出するために、ハリウッドと新しい女スター、ダイアナ・ロスDiana Rossに目を向けていたが、問題は、彼をここまで成長させた人々の中に、自分たちに課せられている拘束にいら立っている者がいたことだ。そのひとつとして、リトル・スティーブランド・モリスlittle  Steveland Morris(スティービー・ワンダーStevie Wonder)は、保護者がサインした契約が1971年の21歳誕生日に無効となることを十分承知しており、ロック・グループが印税、出版、表現の自由などの面で何を勝ち取れるかに留意しつつ、他のレーベルからのオファーを熟考していた。スティービー・ワンダーについては、モータウンがリリースした作品はあったものの、この問題が解決するまでは、新しい作品が生まれることはなかった。さらに大きな問題は、ベリー・ゴーディBerry Gordyの義理の弟であるマービン・ゲイMarvin Gayeであった。彼は、レーベルのベストセラー男性アーティストであり、モータウンのセックス・シンボルであったが、その役割を固めるのは容易ではなかった。レーベルは、元ジェームス・ブラウンJames Brownのバックアップ・ボーカリスト、タミ・テレルTammi Terrellと組んで、1967年から69年にかけて彼自身のヒット曲と並行して発表したデュエットが連続して大ヒットし、彼女の出番は彼のライブ・ショーのハイライトの一つであった。しかし、タミには問題があった。ブラウンから殴られたせいか激しい頭痛に悩まされ、ある夜、コンサート中にゲイの腕の中で気を失ってしまったのだ。彼女は彼と仕事を続け、自身でもモータウンからレコードを出していたが、脳腫瘍と診断され明らかに具合が悪く、何度も手術を受け入院生活を送った。(彼女名義でリリースされたいくつかのレコードは、バレリー・シンプソンValerie Simpsonがほとんどのボーカルを担当していた)。そしてついに1970年3月16日、彼女はフィラデルフィアの病院で息を引き取った。二人は仕事以外の関わりはなかったが、テレルの死はゲイに大きな打撃を与えた。家に引きこもり、祈りながら何時間も物思いにふけった。

タミの葬儀の直後、フォー・トップスThe Four Topsの一人、オビー・ベンソンObie Bensonがソングライターのアル・クリーブランドAl Clevelandと書いた「ホワッツ・ゴーイング・オンWhat’s Going On」という曲を持って現れた。この曲は、崩壊しつつあるアメリカ社会、貧困、ベトナム戦争、警察による暴力など、さまざまなものに対する抗議だが、ゲイのような繊細で力強い声なら、あまり威圧的に聞こえることなく、巧みなタッチで表現できるはずだ。マービンは、オリジナルズThe Originalsで大成功したセッションの裏側に何度も座って(もちろん会社公認のプロデューサーと)プロデュースを学んでいて、最初はプロデュースを好きでなかったが、やがて、会社の規則に反して、1970年6月1日に自分でプロデュースしようとセッションを招集した。モータウンのデビッド・バン・デ・ピットDavid Van De Pitteと一緒に基本的なアレンジをいくつか練り上げ、たくさんの打楽器を用意し、アメリカン・フットボールチーム「デトロイト・ライオンズthe Detroit Lions」のメンバー数名をバック・ボーカルに招き、そのアレンジを演奏したくてたまらないモータウンの伝説的スタディオ・バンド、ファンク・ブラザーズThe Funk Brothers、を彼らの前に配置したのだ。それまでモータウンがやったことのないような、ゆるやかで、奇妙な構成の、リラックスした音楽だった。イーライ・フォンテインEli Fontaineがアルトサックスのウォーミング・アップをしている間にテープが回り、さっと挿入されたサウンドがいくつか始まると、マービンの頭の中でひらめいた。「このイントロだ。」フォンテインは荷物をまとめて家に帰るように言われた。そして、セッションが進むにつれ、マービンはエンジニアに、最適なテイクを選ぶためにボーカルのトラックを2つ保存するように頼んだが、誤って両方を同時に再生してしまい、シンガーが自分とデュエットしているような音になってしまった。このアイデアも採用された。ゲイは、固定マイクの後ろに立つのではなく、ハンドマイクで歌いながら、まるでステージの上のようにスタディオ内を歩き回っていた。ベーシストのジェームス・ジャマーソンJames Jamersonはその日、仕事から帰ってきて、納得がいくまで何度もレコーディングして、妻に「名盤をつくったぞ」と言った。ベリー・ゴーディBerry Gordyは?気に入らなかった。それで、義理の弟であるゲイは「結構、もう会社のために他のアレンジで録音するつもりはない」と言った。そして、1971年1月にリリースされ、ソウルとポップスのチャートのトップに躍り出たのである。さて、次はアルバムである。マービンは、妻のアンナAnnaやベンソンBenson、クリーブランドClevelandらと、この新しいスタイルの曲を書き続けた。神は愛のメッセージを伝える道具として自分を使っている、と彼は言い、このことは、1971年5月21日に発売されたアルバムのために彼が書いた、とりとめのないライナーノートに繰り返し書かれている。このアルバムは1971年5月21日に発売された。そのジャケットには、ゲイが頭を上げ、ついさっき降ったばかりの雨の跡が、短く自然な髪と、ビニール製のレインコートに残っているのが写っている。タイトルは「ホワッツ・ゴーイング・オンWhat’s Going On」。疑問符はない。そして、モータウンの歴史上初めて、ミュージシャンの名前がジャケットの見開きに印刷された。これで、人々は彼らを知ることができた。そして、すぐにこのアルバムはモータウンのベストセラーとなった。

このアルバムはモータウンのクリエイティブに新風を吹き込んだ一方で、工場生産システムに打撃を与え、そのシステムが時代遅れになりつつあることを示すものだった。次の爆弾は、スティービー・ワンダーStevie Wonderだった。1963年に「フィンガーティップスFingertips」が爆発的にヒットした後、モータータウン・レビューthe Motortown Revueツアーをしながら、ハーモニカのインストゥルメンタルや大したことのない曲の録音を続け、ヒッツビル辺りをウロウロして何でも吸収していたが、基本的にモータウン・マシンによって葬り去られた。しかし、とうとう1966年の初めに、シルビア・モイSylvia Moyと共作し、昔からのモータウン・サウンドである「アップライトUptight (Everything’s Alright)」のヒットを手にしたのだった。ワンダーの次のシングルがヒットしなければ、彼はレーベルを去ることになるとゴーディがつぶやいたミーティングに、彼女は出席していた。ワンダーは変声期を迎え、サウンドも変わり、曲も書いているが、どうしていいか誰もわからない。パンチの効いた管楽器のアレンジ、迫真の歌唱法、すべてが確かにカチッとはまってうまく行った。次に、彼は自身の企画でボブ・ディランの「風に吹かれてBlowin’ in the Wind」を演奏したが、ワンダーの師匠であるクラレンス・ポールClarence Paulだけは推奨したものの、会社の誰もが困惑した。ワンダーは再びチャートのトップになった。21歳になる頃には、彼は会社に真価を見せつけたが、チャンスが来るのを待った。その大事な日が来た時に、彼は結婚しており(元モータウン秘書のシリータ・ライトSyreeta Wrightと)、財産を手にしていた。ベリー・ゴーディは彼に100万ドルの小切手を贈ったが、これはワンダーがモータウンで稼いだ金額の何分の一かで、特に気前がいいわけではないと彼は感じるようになった。束縛から解放されたことを祝って、彼は荷造りをし、育ったモーターシティからも、事業拡大しているカリフォルニアのモータウンからも離れて、ニューヨークに移った。次に、モータウンのジョビートJobete出版から独立した出版社「ブラック・ブルBlack Bull」を設立したが、自分の星座である牡牛座にちなんでいる。1970年代のブラック・カルチャーとヒッピー・カルチャーは、用心深く互いに距離を置いていたが、この会社は黒人の生活の中で共感を生んだ。リッチー・ヘイブンズRichie Havensの紹介で、ジョナサン・ビゴダJonathan Vigodaという弁護士も雇った。自身も一種のヒッピーだが頭が良く、スティービーがアトランティックAtlantic records、エレクトラElektra records、コロムビアColumbia records、そしてモータウンMotown recordsから受けていたオファーをじっくりと読み込んだ。そして、新しいスティービー・ワンダーが誕生したことを示す決定的な証拠として、シンセサイザーという新しい楽器を見つけた。1971年当時、シンセサイザーはかなり原始的な状態にあり、通常は1つのラインしか流せず、演奏する前に多くのセッティングが必要だった。スティービーはトントのエクスパンディング・ヘッド・バンドTONTO’s Expanding Head Bandによるアルバム『ゼロ・タイムZero Time』を聴いた。実際にはマルコム・セシルMalcolm Cecilとロバート・マーグーレフRobert Margouleffというオンタリオ州の2人の男が、スタディオで多くのシンセサイザーを連結する方法を考え出したもので、トントTONTOとは「オリジナル・ニュー・ティンブラル・オーケストラThe Original New Timbral Orchestra」の略である。スティービーが彼らに会いに行くと、その装置を見せてくれた。しばらくそれで遊んでから、セシルとマーグーレフに、それを梱包して、ジミ・ヘンドリックスが自分のために建設し、スティービーが録音する予定だったエレクトリック・レディ・スタディオElectric Lady Studiosに設置し直すように頼んだ。3人は、時折他のミュージシャンの意見も取り入れながら、その後の1年間にスタディオ使用料として25万ドルを費やし、スティービーの次の4枚のアルバム(1972年から1974年にかけて発売された『ミュージック・オブ・マイ・マインドMusic of My Mind』、『トーキング・ブックTalking Book』、『インナービジョンズInnervisions』、『ファースト・フィナーレFulfillingness’ First Finale』)のすべてのトラック、そして、セシルによれば他に40曲が録音・ミキシングされ、240曲が完成段階あるいはその前段階にあった。それらのアルバムは基本的に、古典的なスティービー・ワンダーの代表作から成り、「スーパスティッションSuperstition」、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフYou Are the Sunshine of My Life」、「ハイヤー・グラウンドHigher Ground」、「リビング・フォー・ザ・シティLiving for the City」など、すべてクロスオーバー・ポップとソウルのヒット曲だ。モータウンとの新契約は、彼のレコードを製造・販売する権利以外はほとんど何も持たず、彼はレーベルで最も裕福なエンターテイナーの一人となったが、レーベルを潤すような人物では無かった。

マイケル・ジャクソンMichael Jacksonは、やがて彼の仲間入りをすることになったが、1969年、ファミリー・グループであるジャクソン・ファイブThe Jackson5として世間の注目を集め、シングル「アイ・ウォントゥ・ユー・バックI Want You Back」がチャートを席巻した。モータウンでは、このグループがダイアナ・ロスDiana Rossの目に留まり、彼女がベリー・ゴーディBerry Gordyのもとに彼らを連れてきたという話になっている。これはおもしろい話だが事実ではない。実は、ジャクソン家の父ジョーが、行き詰った末に自分のキャリアを打開し、一家が故郷のインディアナ州ゲーリーの貧困から抜け出すために、歌手を育てようと数年に亘って息子たちに容赦のない訓練をしていたのだ。地元のレーベルからシングルを数枚リリースし、しばらく演奏していると、グラディス・ナイト&ピップスGladys Knight and The Pipsと二度ほど共演することになった。グラディスは自分のマネジメントから、彼らについてモータウンにコンタクトを取らせた。その次に気に入ってくれた関係者はボビー・テイラーBobby Taylorで、彼はモータウンの子会社V.I.P.から人種混合バンド、バンクーバーズThe Vancouversの「ダズ・ユア・ママ・ノウ・アバウト・ミーDoes Your Mama Know About Me」をヒットさせた。テイラーは、5人にオーディションを受けさせ、もちろんそれにパスしたのだった。11歳のマイケルは、マーロンMarlon、ジャーメインJermaine、ティトTito、ジャッキーJackieという兄たちのフロントに立って、非常に才能があり、西海岸に渡って、ゴーディとロスが選んだ指導者で最近入社したスザンヌ・ド・パッシーSuzanne De Passeという女性に会うと、彼らのステージの身のこなしと正確さはますます向上していった。ジャクソン5は、過去の体制の下で作られたグループだったが、モータウンの未来であり、ロサンゼルスを拠点としていた。デ・パッシーDe Passeと彼女の従兄弟のトニー・ジョーンズTony Jonesが彼らのイメージを作り上げ、会社は作曲とプロデュースをディーク・リチャーズDeke Richards、フォンス・ミゼルFonce Mizell、フレディ・ペレンFreddie Perrenの3人の男性に任せたが、この3人はまとめて『コーポレーションthe Corporation』として名前を伏せた。5人は魅力的で、特にマイケルは可愛らしく、(当然のことながら)お金をたくさん持っている若い子供たちにアピールし、土曜朝のアニメシリーズが数年間、彼らを中心に作られたほどである。最初の4枚のシングルはポップ・チャートで1位を獲得し、次の2枚は2位を獲得した。マイケルは1971年からバラードを中心としたソロ・アルバムも制作し、1972年にはネズミへの唯一のラブソング、「ベンのテーマBen」でポップ・チャートのトップに躍り出た。このメンバーからは、マービン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オンWhat’s Going On」もスティービー・ワンダーの「イナービジョンズInnervisions」のようなアルバムも生まれないだろう。

モータウンでは、ジャクソンズThe Jacksonsのような逸材を発見すると、ホランド・ドジャー・ホランドHolland-Dozier-Hollandの作曲チームが、猛烈に活動した時期があったが、彼らはとっくにいなくなっていた。モータウンに対する訴訟を解決する間、活動を停止せざるを得なくなった後、HDHはキャピトル・レコードCapitol recordsとブッダ・レコードBuddah recordsを通じて、それぞれインビクタス・レコードInvictus recordsとホット・ワックス・レコードHot Wax recordsという2つのレーベルを立ち上げ、そこでモータウンが作らなかったモータウンらしい最高のレコードをいくつか発表した。インビクタスにはフレダ・ペインFreda Payneがいて、1970年に 強力なクロスオーバーのポップス、「バンド・オブ・ゴールドBand of Gold 」をヒットさせ、翌年には 「ブリング・ザ・ボーイズ・ホームBring the Boys Home 」で彼女の実力を見せつけた。ブッダは、ニクソンの時代、連邦通信委員会による免許剥奪を警戒してか、トップ40ラジオの反応はそれほど強くなかったが、黒人社会で共鳴する賛歌であり、モータウンが行動に移せるプロテスト・ソングとしてふさわしいものであった。フレダの姉のシェリーScherrieは、インビクタスに所属する男女混合グループ、グラス・ハウスThe Glass Houseに所属し、最大のヒット曲 「クラムズ・オフ・ザ・テーブルCrumbs off the Table 」で社会批判を展開した。このレーベルのもうひとつのビッグ・アーティストは、チェアメン・オブ・ザ・ボードThe Chairmen of the artというトリオで、リーダーのジェネラル・ジョンソンGeneral Johnsonはソングライター、シンガー、プロデューサーとして三役をこなし、ショーメンThe Showmenを率いて、1961年と63年の両方で「ロックンロールは頑張る」というコーラスが入ったポップスでセミ・ヒットとなる 「イット・ウィル・スタンドIt Will Stand」 をヒットさせた人物でもある。1970年には 「ギブ・ミー・ジャスト・ア・リトル・モア・タイムGive Me Just a Little More Time 」がヒットしたが、「ペイ・トゥ・ザ・パイパーPay to the Piper 」などのレコードも同様に素晴らしく、後のアルバム、「スキン・アイム・インSkin I’m In」では政治と音楽の強い主張も行っている。ホット・ワックス・レコードHot Wax recordsでは、事の始まりは白人ロックバンド、フレーミング・エンバーFlaming Emberで、「ウエストバウンド・ナンバー・ナインWestbound #9」の一発限りのヒットでレーベルを確立したが、レーベルの残りの期間は女性たちに支配された。ハニー・コーンHoney Coneはダーレン・ラブDarlene Loveの妹エドナ・ライトEdna Wrightを含むトリオで、70年代初頭に「ウォント・アズWant Ads」や非常に覚えやすい「ワン・モンキー・ドント・ストップ・ノー・ショーOne Monkey Don’t Stop No Show」などのヒット曲を多数録音した。ポップ・ミュージックを通じて、フェミニズム表現していると自負する彼女らは、ゴスペル・メディテーション・シンガーズThe gospel Meditation Singersのうちの一人の養女ローラ・リーLaura Leeとステージを共にしたが、このゴスペル・グループは、「ウェドロック・イズ・ア・パドロックWedlock Is a Padlock」, 「ウーマンズ・ラブ・ライツWomen’s Love Rights」、「リップ・オフRip Off」 など、さらに好戦的なポップを演奏していた。そして、インビクタスにはパーラメントThe Parliamentというグループがいた。誰も彼らをどうしたらいいのかよくわからなかったが、レーベルが死ぬほど苦しんでいるときに「パーラメンツThe Parliaments」という名前の権利を失ったのは、レビロト・レコードRevilot Records出身の不屈のメンバーだった。複数形のsを1文字落としてThe Parliamentにすることで救われたが、HDHは賢いので彼らの曲作りに口出しせず、彼らをルース・コープランドRuth Copelandに任せた。ルースは、HDHのレーベル設立を手伝っていた元モータウンのソングライター、ジェフリー・ボーエンJeffrey Bowenと結婚したイギリス人シンガーで、グループのためにアルバム、「オスミウムOsmium」を制作し、彼らは彼女のアルバム作りに貢献したが、誰もそれをどう売り出すか分からなかった。それでも大丈夫だ。名前の変更一つで彼らに自由を与えられるなら、2つ変更すればもっと良い。リーダーであるジョージ・クリントンGeorge Clintonは、パーラメントが基本的にボーカル・グループであるという考えを維持したまま、ほとんど同じミュージシャンを集めてハード・ロック・バンド、ファンカデリックFunkadelicとして売り出し、デトロイトのレコード会社でゴスペルを録音していたアーメン・ボラディアンArmen Boladianのところに行って彼のウエストバウンドWestboundレーベルに売り込んだ。「オスミウム」の発売とほぼ同時に、「ファンカデリックFunkadelic」というアルバムも登場した。楽しみは始まったばかりだった。

実は、ヒッピーと、彼らの音楽から生まれたポップでゆがんだ物語は、黒人の聴衆にも影響を及ぼした。その最も典型的な例がスライ・ストーンSly Stoneで、彼はブラック・ミュージック界における多くの常識の変化に大きな影響を与え、ドラッグと偏執症によって道を踏み外さなければ、もっと長い期間にわたって大きなキャリアを歩んでいたことだろう。スライは、白人のポップと、ジェームス・ブラウンJames Brownやダイク&ブレイザーズDyke and The Blazersが生み出したリズム革命を融合させ、さらに、異人種主義に誇りを持っていたことによって、「ドント・コール・ミー・ニガー、ホワイティDon’t Call Me Nigger」という曲を出しても非難されずに済んだ。そして、それは白人の子供たちが熱狂的に受け入れていた魂の方向性を示すものであった。

ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixもまた、特にジャズ界で、一部の黒人ミュージシャンが探していた道を切り開いた。マイルス・デイビスMiles Davisは早くからヘンドリックスの可能性について聞き及んでいたので、二人が一緒に演奏する機会を探したが、おそらく実現しなかった(二人が一緒に演奏したかどうかは誰にもわからない)。1950年代、ビル・エバンスBill Evansは自分の有名なクインテットでピアノを弾いていた頃から、デイビスは人種統合バンドを早くも提唱していて、1969年の「イン・ア・サイレント・ウェイIn a Silent Way」で人気が出始めた。ピアニストのハービー・ハンコックHerbie Hancockに「もうブルースを演奏するつもりはない。白人にブルースをまかせよう。白人にブルースをやらせればいい。俺たちは別の物を演奏する」に言った。ハンコックはすでにそのメッセージを聞いており、デイビスのもとを去ろうとしていた。デイビスはこのアルバムのために、チック・コリアChick Coreaとジョー・ザビヌルJoe Zawinulという2人のキーボード奏者(いずれも白人)、デイブ・ホランドDave Hollandという白人ベーシスト、そしてジョン・マクラフリンJohn McLaughlinという白人のイギリス人ギタリストをハンコックの仲間に加えている。デイビスはローリング・ストーン誌にこういったのは有名だ。「混合のグループでなければならない、ある者はあるものを持ち、別の者は別のものを持つ。私にとっては、グループは混合でなければならない。スウィングするためには、黒人が何人かいないといけないんだ」。デイビスのドラマー、トニー・ウィリアムスTony Williamsが率い、マクラフリンMcLaughlinやオルガン奏者のラリー・ヤングLarry Youngも参加したグループ、ライフタイムLifetimeとともに、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスThe Jimi Hendrix Experienceを引き合いに出した。デイビスは、プロデューサーのテオ・マセロTeo Maceroと一緒に、長いセッションの部分部分をつなぎ合わせて、「イン・ア・サイレント・ウェイIn a Silent Way」を完成させたが、これはジャズにとって技術的な進歩であった。

デイビスの次のアルバム、1970年の「ビッチェズ・ブリューBitches Brew」はさらに型破りで、いくつかの曲でドラマーを2人にし、マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldのエレクトリック・フラッグElectric Flagにいたハーベイ・ブルックスHavey Brooksがベースを担当している。また、ジャズ界では、ボブ・ディランがエレキを使ったことに関し、フォーク界よりも受けたショックが少し小さかったが、マイルスは1970年にセッションのグループと一緒に「エレクトリック化」した。そこでは、新しい若いプレイヤーとベテランが親しくなって、その後数年にわたって数多くリリースされるアルバムに収録することになるが、ファンク、ワウワウ・ペダル、電気キーボード、ストップスタート・リズムを盛り込んだ、一見形のない(実際には、「イン・ア・サイレント・ウェイIn a Silent Way」のように後になって慎重に作られた)ジャムだった。これらのセッションのうち最初期のものは、「ア・トリビュート・トゥ・ジャック・ジョンソンA Tribute to Jack Johnson」という片面1曲ずつのアルバムに収録された。ゴールド・レコードを獲得した「ビッチェズ・ブリューBitches Brew」とは対照的に、「ジャック・ジョンソン」はほとんど売れなかったが、マイルスは作り続けた。

彼の仲間もそうだった。トニー・ウィリアムズTony Williamsは、トニー・ウィリアムス・ライフタイムThe Tony Williams Lifetimeというバンドを数バージョン結成したが、その中には、元クリームのベーシスト、ジャック・ブルースJack Bruceが参加し短命に終わったバンドもあった。ジョー・ザビヌルJoe Zawinulは、デイビスのベテラン・サックス奏者ウェイン・ショーターWayne Shorterやベーシストのミロスラフ・ビータスMiroslav Vitous(後にジャコ・パストリアスJaco Padtoriusに交代)と共に、明らかにロック指向のバンド、ウェザー・リポートWeather Reportを結成し、70年代を通してロック会場で演奏を続け、ついには商業的に大成功した。ハービー・ハンコックHerbie Hancockはエムワンディシ・セクステットMwandishi Sextetを結成し、1971年にワーナースからリリースしたファースト・アルバム「エムワンディシMwandishi」は、1965年のメイドゥン・ボヤージMaiden Voyage以来ハンコックを見てきたジャズ・ファンをひどく混乱させた。彼らの広めた音楽は、やがてジャズ・ロック・フュージョンとして知られるようになった。レニー・ホワイトLenny White、アルフォンス・ムーゾンAlphonse Mouzon、チック・コリアChick Coreaのグループ、リターン・トゥ・フォーエバーReturn to Forever、ビリー・コブハムBilly Cobham、ジョン・マクラフリンJohn McLaughlinのマハビシュヌ・オーケストラMahavishnu Orchestra、アイアート・モレイラAirto Moreira、マイケル・ヘンダーソンMichael Hendersonなど、「ジャック・ジョンソンJack Johnson」のセッションに参加していたフュージョン派のメンバーは、その後マイルスのレコード売り上げを上回るレコードを作っていくことになる。たいていの場合、フュージョンは批評家に馬鹿にされたが、ロックの聴衆の一部には受け入れられ、今日も生き続けている。

なかなか誕生しなかったのが黒人のハード・ロックで、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixのレガシーを受け継ぐ技術や経験を持った黒人アーティストがいなかったために、うまく行かなかったかもしれない。ファンカデリックFunkadelicのエディ・ヘイゼルEddie Hazel(そして後に、ヘイゼルが客室乗務員に噛みついて投獄された後、注目されるようになったマイケル・キッド・ファンカデリック”・ハンプトンMichael Kidd Funkadelic Hampton)だけが、この難題に挑んだが、ファンカデリックは極めてアングラだった。長い間ヘイゼルの十八番だった「マゴット・ブレインMaggot Brain」のような初期の傑作を改めて聴いてみると、これは奇妙に思える。この曲は、穏やかなアルペジオにかぶせてゆっくりとした叫び声を上げ、母親が死んだばかりのように演奏してほしいと、クリントンGeorge Clintonが彼に頼んだという伝説的な曲である。しかし、実際にはバンドのメンバー構成は不安定で、ウエストバウンド・レコードWestbound recordsはまだたいしたレーベルではなかったし、なによりもFMラジオではどんどん人種分離が進んでいたのだ。ロック・アルバムがたくさん出てきたって、いったい誰がその動向を把握できるんだ?ファンカデリックFunkadelicやパーラメントParliamentのサウンドは、あまりにも黒人っぽかった。パーラメントは、インビクタス・レコードが手放した後、クリントンは、元ブッダ・バブルガムBuddah bubblegumの帝王ニール・ボガートNeil Bogartが立ち上げたレーベル、カサブランカ・レコードCasablanca recordsと契約させた。しかし、それが問題にならない客層もあり、クリントンとその雑多な集団(ブラウンのベース演奏に対する考え方に革命を起こした若き日のウィリアム・ブーツィー・コリンズWilliam “Bootsy” Collinsなど、ジェームス・ブラウンJames BrownのJ・B’sから解雇された者がすぐに加わった)は、黒人大学のキャンパスをツアーして熱烈なファンを増やした。彼らはまた、ワシントンDCを中心に大活躍し、この地を『チョコレート・シティChocolate City』と呼び、パーラメントはやがて、同名の曲の中でこの地に賛辞を贈ることになる。

ジェームス・ブラウンのバンドJ.B.’sがもたらした音楽革命は、しばらくの間、進化を続けていた。その多くはブラウンの頭の中にあり、あとはそれを実現するために適切な人材を見つけるだけのことだった。ダイク&ブレイザーズDyke and The Blazersが作った奇妙な音楽があった。スライ・ストーンが、ベーシストのラリー・グラハムLarry Grahamの手を借りて、「サンキューThank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)」で作り始めた奇妙なリズムの実験もあった。バージニアのマスクマン&エージェントMaskman and The Agentsといった地域の変人たちや、フェニックスでダイクDykeの後釜を狙おうとする人たちが大勢いた。やがて、弾力があり美しいメロディのベースライン、力強く最小限度のドラミング、アレンジ幅の広さ、そして次のラインの最初のビート(これを『ザ・ワンthe one』と呼ぶ)に合わせて周回するこの音楽は、長い間存在していたものの、70年代初頭にファンクという名前で知られるようになった。それは多くのソースから引き出された。ある時、ブラウンはJ.B.’s(と彼の新妻)を連れて西アフリカの短いツアーに出かけ、ナイジェリアのラゴスで数日間の休暇をとった後、名誉ある客として、シュラインthe Shrineと呼ばれる施設に滞在した。ここは、イギリスとアメリカに滞在したサックス奏者(そこでブラック・パンサーズThe Black Panthersの魅力のとりこになった)を中心とする一種の共同体で、彼はジェームス・ブラウンの大ファンだった。フェラ・ランソメクティFela Ransome-Kutiはナイジェリアの有名な伝道師の息子で、シュラインでアフリカ70  Africa 70というバンドを結成し、海外で聞いたファンクの革新性とナイジェリアの伝統的なドラムを融合させることができた。そして、その成果をアフロビートAfrobeatと名付けた。それに心を奪われたブーツィー・コリンズBootsy Collinsは『異次元』と呼び、「彼らの音を聴いたとき、それは最も深いレベルだった」と語った。しかし、アメリカのファンとは異なり(しかし、後に比較されるジャマイカのボブ・マーリーBob Marleyとまったく同じように)、フェラは「ゾンビZombie」や「コフィン・フォー・ヘッド・オブ・ステイトCoffin for Head of State」といった曲で深く腐敗したナイジェリア政権の暴露に尽力した。政府軍に殺されなかったのは、彼の国際的コネクションと、その後の国際レーベルのレコーディング・アーティストとしての人気によるものであった。

黒人プロテスト音楽はアメリカにも存在した。しかし、かなり非攻撃的で耳障りでもないレコード、「ホワッツ・ゴーイング・オンWhat’s Going On」に対する騒動を見れば、アメリカのラジオの保守性の程度が分かる。ニクソン時代は常に、論争の的になる内容を流すことで放送免許を失うことを恐れていたのだ。しかし、TONTO(The Original New Timbral Orchestra)の中でスティービー・ワンダーStevie Wonderのカルテットが制作したアルバム(「ハイヤー・グラウンドHigher Ground」や「リビング・フォー・ザ・シティLiving for the City」を含む)が発売されるまで、黒人プロテスト運動はたまたまのまぐれ当たりにとどまっていた。そのまぐれ当たりの曲とは、「ブリング・ザ・ボーイズ・ホームBring the Boys Home」、カイライツThe Chi-Litesのスライ風「ギブ・モア・パワー・トゥー・ザ・ピープル(For God’s Sake) Give More Power to the People」(1971年)とその次のあまり売れなかった「ウィー・アーネイバーズWe Are Neighbors」、デルズThe Dellsのベトナムをテーマにしたがヒットしなかった「ダズ・エニバディ・ノウ・アイム・ヒアDoes Anybody Know I’m Here」だった。また、ジェリー・ウィリアムズ・ジュニアJerry Williams Jr.のようなディープなアンダーグラウンドの変わり者もいた。会長と同郷のパフォーマーであるウィリアムズは、1970年にスワンプ・ドッグSwamp Doggとして再出発し、「トータル・デストラクション・トゥ・ユア・マインドTotal Destruction to Your Mind」というアルバムを発表したところ、ローリング・ストーン誌で絶賛された。そのうち、ジミー・クリフJimmy Cliffなどが数曲をカバーし、ウィリアムズの優れたソングライティングのおかげで、今日まで続くキャリアをスタートさせたのである。次のアルバム、「ラット・オンRat On!」はエレクトラ・レコードElektra recordsから発売され、巨大な白いネズミの上に座っている。しかし、当面の間、真剣な若い黒人ミュージシャンたちは、ジャズ・ファンクを研究したり、ポストモータウン・ソウルの隆盛を見たりしていた。彼らは、メッセージを受け取り始めていたのだ。FMラジオはもはや『アンダーグラウンド』ではなく、新しい『支配層』であり、それを担っているは白人であった。

 

 

第7章  

ロック万歳

 

 

レッド・ツェッペリンとツアーで使用した自家用機

 

 

 

 

ビートルズかストーンズか?ポピュラー音楽の基本的な好みを判断するこの有名な指標は、何十年にもわたって続いており、アメリカの大統領候補にさえ尋ねられたことがある。しかし、1970年代が始まった頃の状況を見るには、この指標は格好のフィルターである。もちろん、この問いは、どのバンドを好むかというような単純なものではなく、大きくなりつつある断層のどちら側に立っているかということである。ビートルズは、その騒がしさにもかかわらず、ポップスという陣営にしっかりと属していた。結局のところ、ポップスは名人芸というよりも、シングル3分間という長さに収まるように音楽体験を見事に形成する技能であり、そのため、工場型の方法で作ることは必須ではないものの、逆らわずに受け入れているのである。ポップスは米英で長い歴史があり、それぞれの国が独自の味を作り出していたので、ビートルズがすぐに認知され理解されたのだ。ビートルズが振り返った過去は、アメリカのレコードを真似したようなポップスであり、特にポール・マッカートニーが発掘したイギリスのミュージック・ホールの伝統をはじめとして、初期のモータウン、ガールズ・グループ、初期のカントリー・ソウルなど、全てアメリカのポップなジャンルを模倣しているのである。ストーンズがキャリア初期に出したレコードもポップスだったが、ブルース、初期のソウル、そしてちょっとしたカントリーなど、あまり不自然でない素材から作られたポップスであった。ストーンズは、ライバルとされたビートルズほど上品ではなく、むしろフォーク界の“本物志向派”に相当する存在だった。皮肉なことに、ビートルズはリバプールの田舎町の労働者階級、ストーンズはほとんどが洗練されたロンドンとその近郊の中流階級というように、二つのバンドの階級差はあったものの、彼らの聴衆は正反対であった。音楽学者や芸術家の間では、ビートルズの作曲(ジョン・レノンJohn Lennonの場合は芸術)的な洗練さについて、レナード・バーンスタインLeonard Bernsteinのような大物たちが公に賞賛し、一方ストーンズは、その対決姿勢、つまり気骨とされているものが、政治的急進派や一般大衆、そして一部の若手ロック記者たちに支持されたのである。ビートルズのレコードがますます洗練され、スタディオでの制作に依存するようになると、ライブ演奏の能力や意欲は衰えていった。アルタモントAltamontフリー・コンサート以降のストーンズは、ツアーで観客を集めるようになり、彼らの新曲もライブに適したものとなった。

これは、シングル市場とアルバム市場の溝が開いてきたことでもある。ビルボード誌Billboardは1970年2月28日号で、毎年恒例の前年度チャート総括を掲載した。トップシングルは順に、アーチーズThe Archiesの「シュガー・シュガーSugar Sugar」、フィフス・ディメンションThe 5th Dimensionの「アクエリアス/レット・ザ・サンシャイン・インAquarius/Let the Sunshine In」(ヘアHairより)、テンプテーションズThe Temptationsの「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユーI Can’t Get Next to You」、ストーンズThe Stonesの「ホンキー・トンク・ウィミンHonky Tonk Women」、スライSlyの「エブリデイ・ピープルEveryday People」、そして、トミー・ローTommy ]roeの「ディジーDizzy」、スライSlyの「ホット・ファン・イン・ザ・サマータイムHot Fun in the Summertime」、トム・ジョーンズTom Jonesの「アイム・ネバー・フォール・イン・ラブ・アゲインI’ll Never Fall in Love Again」、ファウンデーションズThe Foundationsの「ビルド・ミー・アップ・バターカップBuild Me Up Buttercup」、トミー・ジェイムス&ションデルズTommy James and The Shondellsの「クリムゾン・アンド・クローバーCrimson and Clover」だ。 一方、アルバムは、アイアン・バタフライIron Butterflyの「イン・ア・ガダ・ダ・ビダIn-A-Gadda-Da-Vida」、オリジナルキャスト盤の「ヘアHair」、「ブレッド・スェット・アンド・ティアーズBlood, Sweat and Tears」、クリーデンスCreedenceの「バイウー・カントリーBayou Country」、「レッド・ツェッペリンLed Zeppelin」、「ジョニー・キャッシュ・アット・フォルサム・プリズンJohnny Cash at Folsom Prison」、バーブラ・ストライザンドBarbra Streisandの「ファニー・ガールFunny Girl」オリジナルキャストLP、「ザ・ビートルズThe Beatles 」(「ホワイト・アルバム the White Album」として知られている)、「ドノバンズ・グレーテスト・ヒッツDonovan’s Greatest Hits」、「ザ・アソシエーションズ・グレイテストヒッツThe Association’s Greatest Hits」であった。ポップスとロックのブロードウェイ・ショーが入っているという理由で、その2つに分かれているとは言えないが、「イン・ア・ガダ・ダ・ビダ」のタイトル曲は17分もあり、レコードの1面を占めている。アイアン・バタフライのアルバムも、レッド・ツェッペリンのファースト・アルバムのほとんどがそうであったように、スロー・ダウンしてリズムが重かった。ビルボードのリストに掲載されたシングルは、楽曲として制作されたアメリカン・ポップスがトップで、その次にブロードウェイで使われたロックを演奏する寄せ集めのグループが続いたが、リストにはスライ&ファミリー・ストーンSly and The Family Stoneの2曲、ノーマン・ホイットフィールドNorman Whitfieldによるモータウン復活の始まり、そしてストーンズの記念すべき1曲も含まれている。(ストーンズがアルバム・リストにないのは、その年の大半をツアーに費やしていたことと、ロンドン・レコードLondon Recordsとの契約を解消するまで新作をリリースしていなかったからだ)。当時はまだ、将来起こるような激しい分断があったわけではない。また、どちらのリストにもサンフランシスコ地域のバンドは2つしか入っていないことも注目に値する。クリーデンスCreedenceはフィルモアやアバロンで演奏したことがなく、そこではポップすぎると多くの人からばかにされていたバンドであり、スライ&ファミリー・ストーンは人種混合でリーダーが黒人だったため異常なバンドだった。

1970年は、この分断をさらに深めることになる。ワーナース・レコードWarners recordsは最初の数ヶ月で、ジェームス・テイラーJames Taylorのスウィート・ベイビー・ジェイムスSweet Baby Jamesとブラック・サバスBlack Sabbathをリリースして(2月13日の金曜日)、70年代をスタートさせた。一方はシンガーソングライターの告白的な旅の続きであり、もう一方はバーミンガムの薄汚い工業地帯で生まれた英国の変身したブルース・バンドであった。前者は、ほとんどアコースティックで、ダンス向きではなかった。ブラック・サバスもダンスはできないが、アイアン・バタフライIron Butterflyとレッド・ツェッペリンLed Zeppelinをセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ・オーケストラThe Orchestra of St. Martin in the Fieldsのように聴かせることができた。そして、両方の成功によって、堰が切られた。メロウMellowは新しいキャッチフレーズとなり、多くのFM局がこの静かな音楽に飛びついた。そのテーマはほとんど常に個人的なもので、攻撃的で過激なロックをやったり、政治的な抗議行動を呼びかけたりすることは求められなかったが、ストーンズの新しいアルバムは常に歓迎された。テイラーのアルバムはLPチャートのトップになり、アトランティックは彼の兄弟であるリビングストンLivingstonとアレックスAlex、そして妹のケイトKateと契約したことを発表した。バン・モリソンVan Morrisonも加わった。批評家から絶賛された「アストラル・ウィークスAstral Weeks」の売れ行きはあまり良くなかったが、その後のアルバムは、妻のジャネット・プラネットJanet Planet(旧姓ゴーダーGauder)と移住したカリフォルニア州マリン郡で彼が組んだバンドを使い、ホーンとジャズ的感性で受けを良くして「ムーンダンスMoondance」「ドミノDomino」「ワイルドナイトWild Night 」「トゥペロ・ハニーTupelo Honey」といった曲を発表、これらのシングルはチャートも良好で、彼のアルバムの曲とともにFMで良く掛かった。イギリスからはキャット・スティーブンスCat Stevensが登場した。イギリスで2曲ほどポップスをヒットさせたが、1970年にアイランドIsland recordsへレーベルを移し、「モナ・ボーン・ジェイコンMona Bone Jakonティー・フォー・ザ・ティラーマンTea for the Tillerman、「キャッチ・ブル・アット・フォーCatch Bull at Four」といった謎めいたタイトルのアルバムでメロウさをアピールし始め、キャリアを大成功させた。しかし1979年には特に厳しい種類のイスラムに帰依(そしてユセフ・インラームYusuf Islamという名に変えた)し、長い間表舞台から姿を消すこととなった。

キャロル・キングCarole Kingは、初期には、自分のバンドであるシティThe Cityとのアルバムや、「ライター:キャロル・キング Writer:Carole King」というソロ作品を出したがヒットせず、その後、時折ジェームズ・テイラーJames Taylorとレコーディングを出し、「タペストリーTapestry」でメロウの女王となった。1971年にリリースされた「タペストリー」は、史上最も売れたアルバムのひとつとなり、「アイ・フィール・ザ・アース・ムーブI Feel the Earth Move」をB面にしたシングル「イッツ・トゥー・レイトIt’s Too Late」は数週間チャートのトップに君臨し、テイラーとのデュエット「ユーブ・ガッタ・フレンドYou’ve Got a Friend」はFMで至るところに流れた。(1971年に胸が締め付けられるようなノスタルジア漂う「アメリカン・パイAmerican Pie」を大ヒットさせたドン・マクリーンDon McLeanは、キングのすぐ後にリリースしたセカンド・アルバムのタイトルを「タペストリーTapestry」にしたものの、これは誤った助言に基づいた偶然だったのだろうが、結果的にこのアルバムをほとんど完全に潰してしまった。) レコード会社はメロウな人々を愛し、そのアルバムやシングルは、アダルトコンテンポラリーであるMORの人々にたやすく売り込むことができたし、実際に売り込めた。MORな人々には、大卒のリスナーが含まれ、彼らは多少のロックを受け入れ、アソシエーションThe Association、カーペンターズThe Carpenters(リード・ボーカルのカレン・カーペンターKaren Carpenterがドラマーで、兄のリチャードRichardがキーボードを担当した身だしなみの良い兄妹デュオ)、ニール・ダイヤモンドNeil Diamondなどのロックっぽい演奏者や、ディオンヌ・ワーウィックDionne Warwick、ロバータ・フラックRoberta Flack、ドニー・ハザウェーDonny Hathawayといったソフトなソウル系のアーティストを新たに購入したのである。

この対極にあったのは『ヘビー』であり、大音量で演奏し、多かれ少なかれ即興演奏をするバンドを含む呼称であった。オールマン・ブラザーズ・バンドThe Allman Brothers Bandは、1970年初めにセルフタイトルのデビュー作を、10月には後続作の「アイドルワイルド・サウスIdlewild South」をリリースした。ギタリストのデュアン・オールマンDuane Allmanは、フェイム・スタディオスFame Studiosのスタディオ所属名演奏家として、制作されるソウル・レコードにフィットしていた(例えば、ウィルソン・ピケットWilson Pickettの「ヘイ・ジュードHey Jude」での彼のソロを聴いてみてほしい)。セカンド・ギターのディッキー・ベッツDickey Bettsと、オールマンの弟でキーボード奏者のグレッグGreggと一緒に、最高の作品のいくつかを書いて歌ったが、彼らはライブで最も力を発揮することがわかったので、アトランティックは1971年3月にフィルモア・イーストFillmore Eastでの彼らのライブを2枚組LPにしたところ、プラチナ・アルバム獲得となった(100万ドル売れたゴールドに対し、プラチナは100万枚売り上げたことを意味する)。

この時代の最もエキサイティングなライブ・アルバムの一つであり、才能の少ない何十ものバンドにインスピレーションを与え、即興のエレキ・ギター音楽の新しいあり方を示した。しかし、デュアンは、このレコードがゴールド・ディスクになった4日後の1971年10月末、バンドの新しい拠点ジョージア州メーコンでバイクに乗っていたところ、トラックを避けようとして急ハンドルを切り、バイクのコントロールを失って、ほとんど即死だった。バンドはグレッグGreggとディッキー・ベッツDickey Bettsのリーダーシップのもとで活動を続け、大きく姿を変えて今日に至っている。ジョニー・ウィンターJohnny Winterは、ヘビーなブルースを2枚のアルバムで発表した後、「ハング・オン・スロッピーHang On Sloopy」で有名な元マッコイズMcCoysと手を組んだが、そのギタリストのリック・デリンジャーRick Derringerとの相性が抜群だった。ジョニー・ウィンター・アンドJohnny Winter Andとして、彼らはFM局に歓迎され、シングル「ロックンロール、フーチー・クーRock and Roll, Hoochie Koo」はすぐに人気を博し、1971年のライブ・アルバムもヒットした。ウィンターの弟でキーボード奏者のエドガーEdgarは、最初にホワイト・トラッシュWhite Trashというイースト・テキサスのショウ・バンドで、その後エドガー・ウィンター・グループで同様のことをして、1973年にインストゥルメンタル曲「フランケンシュタインFrankenstein」でチャートのトップに立った。デトロイトでは、グランド・ファンク・レイルロードGrand Funk Railroad(地元のグランド・トランク・レイルロード・システムGrand Trunk Railroad Systemをもじったもの)が登場した。ロックンロールのバンド形態であるこのパワー・トリオは、テリー・ナイト&パックTerry Knight and The Packとしてスタートし、60年代後半に地元で小さなヒットを出したが、技術はあまり高くなかった。ナイトは、パワー・トリオのバックをマネージするために辞め、他人を意のままに操るスベンガーリのように彼が指導して、1969年後半から1973年にかけて、ほとんどラジオで演奏されることもないのに、発表したアルバムは次々とプラチナ・アルバムになった。ナイトはラジオやマスコミをバカにし、徹底してツアーを行ったが、シア・スタジアムShea Stadiumの席を完売させ、売り上げでビートルズを上回ったにもかかわらず、ほとんど遺産を残さなかった。ジョン・イーストマンJohn Eastman(ポール・マッカートニーPaul McCartneyの義弟)が、ますます狂気を増していくナイトから別れさせると、彼らはトッド・ラングレンTodd Rundgrenを雇い、「ウィアー・アン・アメリカン・バンドWe’re an American Band」をプロデュースできるようになり、このアルバムのタイトル曲は初のナンバーワン・シングルとなった。

オハイオ州クリーブランドは、リード・ギタリストのジョー・ウォルシュJoe Walshを擁するジェームス・ギャングJames Gangを生み出し、元ミッチ・ライダーMitch Ryderのギタリスト、ジム・マッカーティJim McCartyは、元バニラ・ファッジVanilla Fudgeのティム・ボガートTim Bogertやカーマイン・アピスCarmine Appiceと共にカクタスCactusを結成した。フリートウッド・マックFleetwood Macはシカゴ・ブルースを模倣したものから、「オー・ウェルOh Well」や「ザ・グリーン・マナリシThe Green Manalishi (With the Two Prong Crown)」などの曲でギタリストのピーター・グリーンPeter Greenとジェレミー・スペンサーJeremy Spencerを強調するようになったが、両者をそれぞれ精神疾患とカルト集団「神の子派Children of God」で失ったため、アメリカ人のシンガー/ギタリスト、ボブ・ウェルチBob Welchと完全にやり直す必要があった。

ユーライア・ヒープUriah Heepやディープ・パープルDeep Purpleといったイギリスのヘビー・バンドが巡業に登場し、元スモール・フェイセスSmall Facesのメンバーがハンブル・パイHumble Pieで、一か八かの挑戦をし、フリーFreeはヘビーさとポップさを兼ね備えた名シングル「All Right Now」で幸運にもトップ10入りしたが、こんな偉業は二度と繰り返されることはなかった。もちろん、ヘビーの王はレッド・ツェッペリンLed Zeppelinであり、そのキャリア初期の決断は、米国に焦点を当て、徹底してツアーを行い、シングルを忘れるというもので、見事に成功したのである。彼らの最初の4枚のアルバムは複数のプラチナを獲得し、1971年の「フォーⅣ」までは、実際にはタイトルがなく、ジミー・ペイジJimmy Pageが考え出した4つの北欧古代文字である『ルーンズrunes』 (それゆえ、一部のファンはルーンの粗いタイポグラフィーである「ゾソZOSO」と呼ぶ)で、彼らは、アルバムで最も演奏された曲「天国への階段Stairway to Heaven」がシングルとしてリリースされなかったにもかかわらず、最終的にアルバムを3700万枚売り上げたのは、ヘビーと英国の神秘主義の混合物だと思った。

この間、かつてのギターの神様マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldとエリック・クラプトンEric Claptonはそれぞれのやり方で姿を消そうとし、元ヤードバーズThe Yardbirdsのジェフ・ベックJeff Beckは元ヤードバーズの同僚ジミー・ペイジJimmy Pageが大金を手にするのを見て、より知名度を上げるために活動の仕方を変えた。ブルームフィールドは基本的にマリン郡の自宅に引きこもって地元のクラブで演奏し、スタディオに入ってオーティス・ラッシュOtis Rushのような他のアーティストのプロデュースをすることがほとんどであった。

クラプトンのとった行動は違った。デラニー・ブラムレットDelaney Bramlettはミシシッピ出身の若い白人ギタリストで、60年代半ばにタイミングよくLAにたどり着き、レオン・ラッセルLeon RusselやエルビスElvisのサイドメン、ジェームス・バートンJames Burtonやグレン・D・ハーディンGlen D. Hardinが出演する人気テレビ番組「シンディグ!Shindig!」のハウス・バンドでギターを弾いてシンドッグズThe Shindogsの一員となったのである。1969年、ソウルのベテラン・バック・シンガーだった妻のボニーと一緒に街中で演奏していたところ、スタックス・レコードStax recordsの白人プロデューサー、ドン・ニックスDon Nixの耳に留まったのだが、ドンはLAでレコード・プロデューサーのアル・ベルAl Belに紹介するためのアーティストを探していた。ニックスは彼らとアルバム制作の契約を交わしたが、レーベルはこれを放置したままだった。それでも挫けずに、エレクトラと契約し、エレクトラ・レコードElektra recordsからリリースされたアルバムはあまり売れなかったが、ラジオでたくさんオンエアされた。アトランティックAtlanticのレーベル、アトコAtco recordsに移った彼らはツアーに出かけ、そこでレーベル・メイトのクラプトンと一緒になったが、彼は脚光を浴びないようにしていて、バンドにいることだけを楽しんでいるような様子だった。そしてクラプトンは、彼らのバック・プレイヤーのボビー・ウィットロックBobby Whitlock、カール・ラドルCarl Radle、ジム・ゴードンJim Gordonの3人を連れてマイアミに篭り、彼らが自分の新しいバンド「デレク&ドミノスDerek and The Dominos」であると発表した。その結果生まれた2枚組アルバム、「レイラLayla」は、セッション中の強烈な麻薬の過剰摂取だけでなく、デュアン・オールマンDuane Allmanの存在も注目され、彼はふらりと立ち寄ってクラプトンとツインギターを披露し、名盤となった。特に長いタイトル曲は名曲で、ジョージ・ハリスンの妻に対する愛の暗号の歌であった。それはしばらくの間クラプトンが表舞台から姿を消すことを意味し、オールマンを除いたバンドがツアーを終えると、クラプトンは隠遁し、レオン・ラッセルが残ったバンド・メンバーを引き受けた。

ベックはというと、ヤードバーズThe Yardbirdsを脱退後、ブルース志向の英国人元フォーク歌手をしていて、しゃがれ声ながらも、感情を込めて歌う力を備えていたロッド・スチュワートRod Stewartをボーカルに迎え、ジェフ・ベック・グループJeff Beck Groupを結成した。ドノバンDonovanのバックでシングルを出した以外はヒット作に恵まれず、ピアニストのニッキー・ホプキンスNicky HopkinsをクイックシルバーQuicksilver Messenger Serviceに奪われ、スチュワートは脱退して自分が組んだバンドでソロ活動をすることになった。1971年の「エブリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリーEvery Picture Tells a Story」を皮切りに、スチュワートは3年の間にスターになったが、その頃(さらに混乱したことには)、元ジェフ・ベック・グループのベーシスト、ロニー・ウッドRonnie Woodなど元スモール・フェイセスSmall Facesの数人と一緒になり、スモールを名前から外した。70年代初頭、スチュワートはフェイセスとしても、あるいはソロとしても続けざるを得なくなり、一方ベックは新しいグループを結成して辛抱強く活動を続けていた。

実は、混乱はよくあることで、シンガーはバンドとして演奏し、バンドはシンガーをフィーチャーしていた。デトロイトThe Detroitは、新しい市場を求めてミッチ・ライダーMitch Ryderが率いる派手でエネルギッシュなバンドであり、同じくデトロイト出身のボブ・シーガーBob Segerは、オルガン・ドラムのデュオ、ティーガーデン&バン・ウィンクルTeegarden and Van Winkleを率いてギターを弾いていた。その後、大学に戻るために辞めて、さらに別のバンド、ボブ・シーガー・システムThe Bob Seger Systemを結成したものの、これもうまく行かなかった。今のところ、最も安全なキャリアパスは、変わり身の早さだと思える。例えば、ニール・ヤングNeil Youngは1969年に2枚目のソロ・アルバム、「エブリバディ・ノウズ・ディス・イズ・ノウフエアEverybody Knows This Is Nowhere」で成功を収めたが、このアルバムではクレイジー・ホースCrazy Horse(元ロケッツThe Rocketsで、ホワイト・ホエール・レコードWhite Whale recordsからアルバムをリリースした)というバンドがバックを務め、派手で粗削りな演奏を行っていた。ヤングはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングCrosby, Stills, Nash and Youngのメンバーとしても活動していたが、スタディオ・ミュージシャンとともにカントリー風味のソロ・アルバムも作っていた。そのうちのひとつ、1972年の「ハーベストHarvest」は、彼の唯一のナンバーワン・シングル 「ハート・オブ・ゴールドHeart of Gold」 が収録されていたため、彼にとって唯一のナンバーワン・アルバムとなった。この曲ではジェームス・テイラーJames Taylor とリンダ・ロンシュタットLinda Ronstadtがバックで歌っている。この間、クロスビー、スティルス、ナッシュはそれぞれソロ・アルバムを制作し、スティルスとナッシュはデュオ・アルバムを制作している。リンダ・ロンシュタットは、ドン・ヘンリーDon Henley、グレン・フライGlenn Frey、ランディ・マイズナーRandy Meisner、バーニー・リードンBernie Leadonという、全員がナイトクラブのトラバドールTroubadour barのベテランで構成されるカントリー調バンドのフロントを務めた。誰もがこのようなダイナミックなバックを持てていたわけではないが、LAではソングライターが最も注目されていた存在だったことは間違いない。ロンシュタットだけでなく、ジョン・デビッド・サウザーJohn David “ JD” Souther、ジャクソン・ブラウンJackson Browne、ネッド・ドヘニーNed Doheny、ダン・フォーゲルバーグDan Fogelberg、ジュディ・シルJudee Sillなどのソングライターがナイトクラブのトルバthe Troubadourに集まり、またメルローズのパラマウントの向かいにあるルーシーズ・エル・アドビLucy’s El Adobeで安い食事とマルガリータを楽しんでいた。彼らのほとんどは、お互いのアルバムにゲスト出演することになった。一種のコミュニティだ。

このあたりでうろうろしていたのがデビッド・ゲフェンDavid Geffenとエリオット・ロバーツElliot Robertsで、この先何年も一緒にあるいは別々にLAシーンを形成していくことになる。ひとつには、ゲフェン・ロバーツ・マネジメント社The Geffen, Roberts Co. Managementが、これらのアーティストのほとんどを担当し、ロバーツが実務を切り盛りした。ロバーツは、マリファナを吸ってのんびりするタイプだが、この会社のサービスを受けたい人には、実務に徹した人物だった。ビジネス面を担当したゲフェンは、ウィリアム・モリス・エージェンシーthe William Morris Agencyのメール室から出世し、そこでロバーツと出会ったことは有名な話だ。ロバーツはアーティストが表現するものに対する権利を守るために戦う人、ゲフェンはアーティストに報酬が支払われ、その報酬を必ず良くしてくれる人であり、どちらも話をしやすそうな人だった。結局、ゲフェンはレーベルを立ち上げることになり、それをアサイラム・レコードAsylum recordsと名付けたのだが、その理由は、アーティストが作品を制作したり、現実の狂気から逃れるための隠れ家のような場所だったからだ。その中心となるのは、ロンシュタットのバンドの4人で、彼らは成功するために何が必要かを自分たちでよく話し合っていた。元バードByrdのジーン・クラークGene Clarkは才能があったが薬物乱用の問題を抱えており、同じく元バードでその頃にはフライング・ブリトー・ブラザーFlying Burrito Brotherも辞めたグラム・パーソンズGram Parsonsは才能の面と薬物乱用の両面でいい勝負だった。パーソンズはソロになり、ワシントンDCのフォーク・シーンのシンガー、エミルー・ハリスEmmylou Harrisを惹きつけ、彼の歌を見事に解釈した。一方、彼は数々の悪い癖だけでなく、そのための信託資金もあり、ハリウッドを疾走し、フランスではストーンズの側近から追い出され、1973年9月に26歳で薬のやり過ぎにより死亡したのだが、ソロ・デビュー・アルバムが出る直前だった。ヘンリーHenley、フレイFrey、マイズナーMeisner、リードンLeadonの4人は、これではいけないと思った。彼らはゲフェンの事務所に入り、自分たちが作り上げた曲をいくつか演奏したところ、ゲフェンは即座に彼らの才能に惚れ込み、契約を決めた。メンバーのうち2人には、まだ果たすべきレコード契約が残っていたので、ゲフェンはそれを買い取り、彼らの歯の治療費も負担した。ある意味で、このバンド(彼らはイーグルスThe Eaglesと名乗っていた)はモンキーズThe Monkeesと同じだったが、もっともっとヒッピーだが、もう少し寄せ集めでないグループで、年配で裕福で気まぐれではない層にアピールするグループであった。別の言い方をすれば、LAのカントリーロック・シンガーソングライターの世界で、多くの人が積み重ねてきた努力の集大成であった。1972年の最初の3枚のシングルのうち、最初の「テイク・イット・イージーTake It Easy」はフレイFreyとジャクソン・ブラウンJackson Browneの共作で、「ピースフル・イージー・フィーリングPeaceful Easy Feeling」はトルバドールTroubadourの常連だったジャック・テンプチンJack Tempchinの作である。

イーグルスThe Eaglesがロンドンに行って、プロデューサーのグリン・ジョンズGlyn Johnsとデビュー・アルバムのレコーディングをしている間、アサイラム・レコードAsylum recordsから、ジュディ・シルJudee Sill(薄汚れた過去があり、メロディと歌詞に奇跡的なタッチを持つ、奇妙で神経症の女性)とデビッド・ブルーDavid Blue(別名をデビッド・コーヘンDavid Cohenと言い、長い間ニューヨークのフォーク・シーンで活躍)による最初のアルバムがリリースされ、その後、ジャクソン・ブラウンJackson Browne、JDサウザー JD Souther、ネッド・ドヘニーNed Doheny、ジョニ・ミッチェルJoni Mitchell(ワーナース・レコードWarners recordsからアサイラムに移籍)、エスラ・モホークEssra Mohawk(フランク・ザッパFrank Zappaの弟子で元サンディ・ハービッツSandy Hurvitz)が間もなく登場する予定だった。カリフォルニアの丘に金鉱はあるのだろうか?レコード会社が「あるかもしれない」と思い、殺到していた。ピュア・プレーリー・リーグPure Prairie League、グレイトフル・デッドGrateful Deadとつながりのあったニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジThe New Riders of the Purple Sage、ドクター・フック・アンド・ザ・メディシン・ショーDr. Hook and the Medicine Show(サウサリートを拠点とするソングライター/児童文学作家/プレイボーイ誌漫画家シェル・シルバースタインShel Silversteinの曲だけを演奏)、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドThe Nitty Gritty Dirt Band(ナッシュビルのベテランたちと親密になることに純粋に興味を持っているようで、1972年に彼らのアルバム、ウィル・ザ・サークル・ビー・アンブロークンWill the Circle Be Unbrokenで何人かと一緒に録音している)などのカントリー・ロック・バンドは、日和見主義から本格的フォークに至るまで全域にわたった。

つまり、演奏もするソングライターでなくてもやっていけるということであり、それを証明するようなライターが何人も現れた。ゲフェンの初期の顧客であったローラ・ニーロLaura Nyroもその一人だった。モントレーでブーイングを浴びた後、ほとんどステージから引退し、あまり積極的でない演奏家だったニーロは、フィフス・ディメンション5th Dimension、バーバラ・ストライザンドBarbra Streisand、ブラッド・スウェット&ティアーズBlood, Sweat and Tearsのヒット曲を書いたおかげで、20代半ばで百万長者となり、コロムビア・レコードColumbia recordsのアルバムには熱狂的なファンがいた。彼女はゲフェンの初期におけるマネジメント依頼人の一人であり、彼がアサイラム・レコードを作ったとき、最初に契約を求められたが、土壇場で気が変わり、コロムビアに残り(ゲフェンはひどく落胆したと言われる)、80年代半ばまでアルバムを作っていた。

もう一つの例はハリー・ニルソンHarry Nilssonで、彼はティーン・パン・アレー・ウエストTeen Pan Alley Westの契約ソングライターとしてキャリアをスタートし、モンキーズThe Monkeesやスリー・ドッグ・ナイトThree Dog Nightの曲を書き、アルバムもレコーディングしていたが、1968年にジョン・レノンJohn Lennonがアメリカのグループで何が好きかと聞かれ、「ニルソンNilsson」と答えた時にスポットライトが当たった。RCAと契約した彼は演奏を拒否し、代わりにスタディオに潜んでアルバムを作り続け、それらは非常に良い成績を収めた。皮肉なことに、彼の2つの大ヒット曲は他人が書いたものだった(ヒット映画『真夜中のカーボーイMidnight Cowboy』のサウンドトラックに収録されたフレッド・ニールFred Neilの「エブリバディズ・トーキンEverybody’s Talkin’」と、かつてアイビーThe Ivey’sと呼ばれアップル・レコードApple recordsと契約したウェールズのバンド、バッドフィンガーBadfingerのトム・エバンスTom Evansとピート・ハムPete Hamによる、ナンバーワン・レコードとなった「ウィズアウト・ユーWithout You」)。しかし、彼は有名になったことを利用して、ソングライター契約をしていた時代の友人、ランディ・ニューマンRandy Newmanに「ニルソン・シングス・ニューマンNilsson Sings Newman」でスポットライト当てた。ニューマン自身、ライブはあまり好きではなかったが、デビュー作「トゥエルブ・ソングズTwelve Songs」の業界内プロモーション用として制作されたアルバムは、FM放送で頻繁に放送された結果、リプライズ・レコードReprise recordsから商品としてリリースされた。

そして、オクラホマ出身のジミー・ウェブJimmy Webbは、1966年にロサンゼルスでソングライターとしてのキャリアをスタートさせ、当時ジョニー・リバースJohnny Riversが彼の 「バイ・ザ・タイム・アイ・ゲット・トゥ・フェニックスBy the Time I Get to Phoenix」 をレコーディングしている。これをきっかけに、リバースの弟子だったフィフス・ディメンション5th Dimensionやグレン・キャンベルGlen Campbellなど、他のアーティストからも引っ張りだこになり、「ウィチタ・ラインマンWichita Lineman」、「ガルベストン Galveston」、「 恋はフェニックスBy the Time I Get to Phoenix」など、ウェブの楽曲を数多くチャートに取り入れ、これがとんでもなく売れた。1968年、ウェッブは、当時最も奇妙な(そして最も嘲笑された)ヒット・シングルのひとつ、イギリスの俳優リチャード・ハリスの「マッカーサー・パークMacArthur Park」を担当し、雨の中にケーキを放置するという奇妙な歌詞を情熱的に歌った。とんでもないことに、この曲は翌年、ウェイロン・ジェニングスWaylon Jenningsの曲として再びヒットし、グラミー賞まで獲得した。そこで、ウェブはリプリーズ・レコードReprise recordsのレコーディング・アーティストとなったのだが、アルバムは大して売れなかった。演奏はほとんどしなかったが、アイザック・ヘイズIsaac Hayesのちょっと変わった大ヒット曲「フェニックスPhoenix」をはじめ、増え続けるカタログから得られる収入によって、ほとんど演奏する必要がなくなったのである。ウェブは、ニーロやニルソンのように、ダサい顧客相手のポップス作曲家であったため、流行に敏感な人たちからはほとんど無視されていた。

しかし、適切な状況下では、ポップもまたヒップになり得るのである。ユニ・レコードUni Recordsは、ビートルズのカタログの一部をしばらく所有していたロンドンの出版社、ディック・ジェームスDick Jamesから手に入れた、ある演奏者を大々的にプッシュした。エルトン・ジョンElton John(本名レジナルド・ドゥワイトReginald Dwight)は、ジェイムズに雇われ苦労しながら働いて、アルバム、「エンプティ・スカイEmpty Sky」を書き、映画「フレンズFriends」の音楽を担当し、作詞家のバーニー・トーピンBernie Taupinと一緒に作曲をしていたが、演奏家として新しい活動を始める決意を固めた。1970年にユニ・レコードUni recordsが発表したセルフタイトルのデビュー・アルバムは、注目のツアーも併せ行い、一部のロック専門誌で賞賛されたが、最初のシングル「ボーダー・ソングBorder Song」はHot 100に入るのがやっとだった。その後、彼はトップ10入りを繰り返し、地味なロック・バンドを結成してツアーを行い、ステージングに磨きをかけた(大スターがショーのほとんどをピアノの前に座って過ごすのは久しぶりだった)。一方でトーピンTaupinは、訳の分からない歌詞を書くことが多かったが、アメリカのテーマを研究した。実際、ジョンの次のアルバムのタイトルは「タンブルウィード・コネクションTumbleweed Connection」だったが、ジャケット写真とタイトルだけがカントリー風だった。それにもかかわらず、彼はAMとFMの両方に気に入られ、クロスオーバーの大成功を収めた。

次に注目を集めた“ヒップでポップな新現象”は、非常に重要な出来事だった。ゲイ男性は大衆文化の中でますます目立つ存在になっていたが、ゲイ男性のポップスターをそのままゲイ男性のポップスターとして売り出すことは(ゲイを隠している者はエルトン・ジョンを含めてたくさんいた)、文化や業界が扱うにはあまりに危険だと考えられたのである。しかし、1969年のニューヨークのストーンウォール暴動以来、ゲイの解放が進んで、ゲイの自尊心が足がかりを確立し、1970年に始まったディージェイのデイビッド・マンキューソDavid Mancusoのブロードウェイ647番地のロフトにおける招待制ゲイ・ダンスパーティーは、確かに大人気だった。男性同士が出会い、交際できる場であるゲイ浴場は、もっと簡単に入ることができた。その中でも最高な浴場の一つが、ブロードウェイ2109番地にあるアンソニアホテルthe Ansonia hotelの地下にあったコンチネンタル・バスthe Continental Bathsで、マンキューソMancusoで仕事を覚えたディージェイだけでなく、そのうちベット・ミドラーBette Midler本人によるライブも行った。優しく母性的なユダヤ人のお母さんキャラ、鋭い舌鋒、古い映画に出てくる曲への情熱のおかげで、彼女が公演しているときには、ゲイとストレートを問わず好奇心の強い人々がコンチネンタル・バスに集まってくるようになった。アーメット・アーテガンAhmet Ertegun(自身もバイセクシュアルで、もちろんニューヨークのナイトライフの通だった)は、思い切ってミドラーとアトランティックの契約を結び、彼女のピアニスト、バリー・マニロウBarry Manilowが彼女の最初の2枚のアルバムを制作し、その後さらに、自身のソロ活動を開始した。ミドラーのデビュー作「ザ・デバイン・ミス・エムThe Divine Miss M」は、ローリング・ストーン誌やアンダーグラウンド雑誌で大々的に宣伝され、少なくとも一部の読者は、タイトルに埋め込まれた暗号を解読することができた。ミドラーは、マニロウと同様に70年代のスーパースターになったのだが、マニロウが多くの曲を自分で書いていた(ただし、彼の最大のヒット曲「歌の贈り物I Write the Songs」は、ビーチ・ボーイズのメンバーだったブルース・ジョンストンBruce Johstonが書いた)のに対し、ミドラーはエリー・グリニッチEllie Greenwichとバリー・マンBarry Mannなど、かつてのティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyのスターなど外部のライターに頼っていた。

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イーストコーストとウエストコーストのソングライターの作品の多くは内省的で、大抵は耐え難いほど自己中心主義であり、そして実体がないという特徴があった。一方、ナッシュビルでは、そこを頻繁に訪れていたボブ・ディランBob Dylanの影響を少なからず受けた作曲のスタイルが台頭してきた。そこでは、2つの陣営が隣り合わせに存在していた。より伝統的なサウンドは、マーキュリー・レコードMercury recordsのスタッフ・プロデューサーであるジェリー・ケネディJerry Kennedyを中心としたものだった。ドブロギターとエレクトリック・シタールの第一人者だったケネディは、1969年にジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisのハードコアなカントリー・ヒットと、2枚のアルバムをプロデュースして成功し、2枚とも「カントリー・ミュージックの殿堂入りThe Country Music Hall of Fame Hits」というの彼のブレークを果たした。このことによって、ルイスのカントリーに対する深いこだわりを示すとともに、ナッシュビルのミュージック・ローMusic Rowを支える、まだ小さな殿堂・博物館の宣伝という2つの効果があった。ケネディの制作スタイルは、フィドル以外の弦楽器は一切使わず、ペダル・スティール・ギターの代わりにドブロギターを使うこともあり、ジェリー・リーが名曲を見事に読み上げるという必要最小限のものだった。ケネディ自身の作詞家の好みはトム・T・ホール Tom T. Hallのような方向に向かったが、ホールもまた静かな魅力を持った歌手であることがわかり、「バラード・オブ・フォーティー・ダラーズBallad of Forty Dollars」「ザッツ・ハウ・アイ・ガット・トゥ・メンフィスThat’s How I Got to Memphis」「ザ・イヤー・ザット・クレイトン・ディレイニー・ダイズThe Year That Clayton Delaney Died」などストーリー性のある曲は、演奏家としてもソングライターとしても彼の長いキャリアを支え続けた。これで意を強くしたフォークソング作家は作品を作った。クリス・クリストファーソンKris Kristoffersonは、「ヘルプ・ミー・メイク・イット・スルー・ザ・ナイトHelp Me Make It Through the Night」(サミ・スミスSammi Smithがレコーディング)と「フォー・ザ・グッド・タイムスFor the Good Times」(レイ・プライスRay Priceのヒット)という2曲の大ヒットで1970年代の幕を開けた。ミッキー・ニューベリーMickey Newburyの曲は、ジェームズ・テイラーJames Taylorのものと同じくらいナッシュビル派にも近いスタイルを持っていたが、彼はあえて反骨的にエレクトラElektra recordsと契約した。キャッシュが支持したビリー・ジョー・シェイバーBilly Joe Shaverは怒りっぽいテキサス人で、その必要最小限の手法はホールHallを思い起こさせるが、ホールにはない独特の暗さがあり、1973年にウェイロン・ジェニングスWaylon Jenningsが、全て彼の曲のアルバム、「ホンキー・トンク・ヒーローズHonky Tonk Heroes」を制作してブレークした。このフォークソング作家の中にはシュエル・シルバースタインShel Silversteinがいて、1969年のジョニー・キャッシュJohnny Cashの「ア・ボーイ・ネーム・スーA Boy Named Sue」や、1972年のボビー・ベアBobby Bareのヒット曲「シルビアズ・マザーSylvia’s Mother」に始まり、ナッシュビルに売り込む曲を書いていた。(シルバースタインは、ドクター・フックDr. Hookとメディスン・ショーMedicine Showの指導にも当たって両面作戦をとり、「シルビアSylvia」は、ベアBareがカントリーでヒットしたのと同時にポップスとしてもヒットした)。このようなナッシュビルの新人アーティストたちは、時にポップ・チャートを賑わせたが、クリストファーソンはさらに上を行き、彼の曲「ミー・アンド・ボビー・マギーMe and Bobby McGee」はジャニス・ジョプリンJanis Joplinの死後ナンバーワンとなり、そのたくましい美貌から映画スターとしてのキャリアもスタートし、初期には共演のバーブラ・ストライザンドBarbra Streisandとハリウッド映画の傑作「スター誕生A Star Is Born」のたわいないリメイク作品もあった。

ナッシュビルの他の場所では、全く異なる気風があった。南部のいたる所、ニューヨーク(実際はニュージャージー州)やボストンのラジオ局出先機関、そしてバック・オーウェンス&バッカルーズBuck Owens and The Buckaroosがカーネギー・ホールCarnegie Hallで演奏する(素晴らしいライブ・アルバムを録音した)ようなビッグ・イベントを催したのだが、実際にカントリーシングルが脚光を浴びるのに必要な売上はごくわずかで済んだ。カントリーがアルバム市場であるとは誰も考えていないので、アルバムは無視する。1972年当時、ビルボード誌のカントリー・チャートには75の枠があり、時には2万5千枚でも十分に上位に食い込むことができた。時折クロスオーバー・ヒットが出たり、カーペンターズや5th Dimensionに代表されるロックに影響された新しい軽音楽が流行したことによって、ナッシュビルのプロデューサーたちは、自分たちのレコードがあまりヒットしていないことについて考えるようになり、アレンジに力を入れ、フィドルやスチール・ギターをミキシングで抑えるか、あるいは省いたり、伝統的ではないソングライターを起用して楽曲を提供すれば、ポップスで成功できるのではないかと思うようになった。おそらくこの中で最も重要な人物はビリー・シェリルBilly Sherrillであった。彼はサン・レコードの短命に終わったナッシュビル・スタジオで働いた後、フェイム・スタジオFame Studiosの創設者の一人となった人物である。1966年、ナッシュビルに戻ってエピック・レコードEpic Recordsのハウス・プロデューサーの地位を獲得し、ワイネット・ピューWynette Pughという若い美容師に出会った。彼はその声に惹かれたが、名前は魅力的でなかったのでタミー・ワイネットTammy Wynetteに変えて、ワイネットのために曲を書き始め、カントリー・ミュージックに現れ始めたばかりのポップ指向の新しいスタイルでプロデュースした。1968年に彼女の「Stand By Your Man」がポップスのトップ20に入ると、手ごたえを感じて、他のパフォーマーを探し始めた。ぴったりの人間がジョージ・ジョーンズGeorge Jonesで、ワイネットの夫だった。もう一人は、ジョーンズに歌がよく似たオハイオ生まれのシンガーで、60年代後半にリトル・ダーリン・レーベルthe Little Darlin’ labelで最もハードなホンキートンク音楽のレコードを出していたジョニー・ペイチェックJohnny Paycheckだった。エピック・レコードEpic recordsは1971年にペイチェックと契約し、シェリルは彼を捕まえて、フレディ・ノースFredy Northの最新ソウル・ヒット曲「シーズ・オール・アイ・ガットShe’s All I Got」を、デビュー曲としてレコーディングするよう渡した。この曲は彼をチャートのトップに押し上げ、その年のカントリー・ミュージック協会the Country Music Associationソング・オブ・ザ・イヤーを受賞した。授賞式で、この曲を書いたスワンプ・ドッグSwamp Doggことジェリー・ウィリアムス・ジュニアJerry Williams Jr. が表彰楯を受け取ろうとしたとき、後で「いやー、会場中がシーンとなったんだ」と黒人が受賞したことを味わい深く振り返った。チャーリー・プライドCharley Prideという例外はあったにせよ、ナッシュビルはまだまだ白人の町だった。

シェリル・マジックにかかった次のアーティストは、チャーリー・リッチCharlie Richだ。アーカンソーの養鶏場で働く彼は、サン・レコードでその後期にも少し録音したことがあり、後にハイ・レコードHi records、RCAレコード、そして最後はスマッシュ・レコードSmash recordsへと渡り、ジェリー・ケネディJerry Kennedy が大衆に売ることができなかった数少ないアーティストの1人となった。彼はずっと、ジャズへの深い愛情と演奏技術とによって素晴らしいレコードを作ってきたが、60年代後半にシェリルが育て始め、ピアノのあるオーケストラの前に立たせ、曲を見つけだしてようやく、本当に商業的な成功を実現した(しかし、リッチは自分でたくさんの曲を見つけたし、妻マーガレットMargaretは優れたソングライターだった)。1972年の「アイ・テイク・イット・オン・ホームI Take It on Home」を皮切りに、大ヒットを飛ばし始め、1973年には「ビハインド・クローズド・ドアーズBehind Closed Doors」と「ザ・モスト・ビューティフル・ガールThe Most Beautiful Girl」という2つのナンバーワン・カントリー・ヒット(後者はポップ・ナンバーワンでもある)が生まれ、以前の所属レーベルが、エピック・レコードEpic recordsでの新譜とほぼ同じだけ旧譜をチャート入りさせられるほど、クロスオーバーのスーパー・スターとなった。全然変わっていなかったのだ。

『カントリーポリタンcountrypolitan』サウンドが生まれて、ナッシュビルはかつてないほど洗練され、その証拠にはグランド・オール・オプリthe Grand Ole Opryが、1943年から放送していたダウンタウンの教会を別目的で使用したライマン公会堂the Ryman Auditoriumから移転し、テレビ制作設備を併せ持つはるかに大きなホールのある、カントリーをテーマにした遊園地、オプリランドOpryland事業を始める(それもラバを使って)と発表したのである。ここは1974年にオープンしたのだが、その頃カントリーポリタンがカントリーを席巻し、ケニー・ロジャースKenny Rogers、クリスタル・ゲイルCrystal Gayle(ロレッタ・リンLoretta Lynnの末の妹)、レイ・プライスRay Priceが参加すると、AMポップス・ラジオでも強い存在感を示すようになった。

そして、分類できないジョニー・キャッシュは、老若男女問わずほとんどの人から尊敬されていた。キャッシュは、1970年にクリストファーソンKristoffersonを支持して「サンデー・モーニング・カミング・ダウンSunday Morning Coming Down」をレコーディングし、カントリー・チャートの1位を獲得した。1969年から1971年まで自分のテレビ番組を持ち、ゲストはボブ・ディランBob Dylan(1969年に事故後初めて公の場に登場)、スティービー・ワンダーStevie Wonder、ルイ・アームストロングLouis Armstrong、ピート・シーガーPete Seeger、ニール・ヤングNeil Young、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルCreedence Clearwater Revival、デレク&ドミノスDerek and The Dominos、ニール・ダイヤモンドNeil Diamond、レイ・チャールズRay Charles、それにカントリー界の錚々たる顔ぶれがいた。キャッシュはまた、クラシックなサウンドと 「ホワット・イズ・トゥルースWhat Is Truth」 や 「マン・イン・ブラックMan in Black」 のようなプロテスト・ソングとを、バランスをとりながら数多くヒットさせた。キャッシュは、ウエストコーストから聞こえてくる保守的なサウンドに対しては、寛容でないと受け止められていた。特に1969年に大ヒットしたマール・ハガードMerle Haggardの 「オーキー・フロム・マスコギーOkie from Muskogee」は、「マスコギーではマリファナを吸わない」という台詞から始まり、ヒッピーやプロテスターについて悪口を言い続け、それに続く「ファイティング・サイド・オブ・ミーThe Fightin’ Side of Me」で、同様に辛辣な表現をしている。(その頃、マスコギーの中にマリファナを吸っていた者がいた可能性は高く、その集団がマールのバスに乗っていたのは間違いない。ハガードが数年後に明かしたように、この曲を書くきっかけは、彼のバンド、ストレンジャーズThe Strangersの1人が市域に入ったときに「マスコギーじゃマリファナを吸わないだろうね」と冗談を言ったからだった。)

そして、次はイエスJesusだ。70年代前半のトレンドの中で、宗教的なロック・オペラや「ジーザス・ロックJesus rock」の流行は、最も愚かなもののひとつであった。1970年後半に、アンドリュー・ロイド・ウェバーAndrew Lloyd Webberとティム・ライスTim Riceの二人組によるロック・オペラ、ジーザス・クライスト・スーパースターJesus Christ Superstarというダブル・アルバムがリリースされて始まった。ロイド・ウェバーは学生時代にミュージカルの脚本を書き、ライスはソングライターとしてショウビズへの道を模索していた。このレコードの売れ行きは好調で、ロバート・スティグウッドRobert Stigwoodは舞台で使用するために買い取った。2人の若い作家はなかなか才能があり、このショーの曲のうち何曲かはすぐにレコーディングされ、特にメアリー・マグダレンMary Magdaleneの「アイ・ドント・ノウ・ハウ・トゥ・ラブ・ヒムI Don’t Know How to Love Him」は、ヘレン・レディHelen Reddyとイボンヌ・エリマンYvonne Ellimanによる2つのバージョンが競ってヒットし、全米チャートにランクインした。問題は、スティグウッドが大きな舞台作品を準備していたことだ。米英両国で、教会グループやアマチュアが様々なバージョンを上演し、ツアーの準備までしていたのである。というのは、法的にはロック・アルバムを全曲演奏するようなもので、バンドは多かれ少なかれいつもそれを行っていると考えたからだ。スティグウッドは教会に対して差止命令を出す対応に追われていたが、それはあまり世間体のいいものではなかった。

一方、ロイド・ウェバーLloyd WebberとライスRiceは、『最初のロック・カンタータ』である「ヨセフ・アンド・ザ・アメイジング・テクニカラー・ドリームコートJoseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat」という、より大げさで滑稽な作品に作り上げ、多くのロック・スタイルをパロディにして1971年初めに発表し、公演依頼が増えてスティグウッドの悩みを増した。「スーパースター」は5月にブロードウェイで上演され、8月には地方巡業団が結成され、スティグウッドは2千万ドルの売り上げを自信満々に見込んでいた。競うように次々と類似企画が出てきた。オフブロードウェイの「ゴッドスペルGodspell」が上演されて巡業団が生まれ、パラマウント・レコードParamount recordsは『スモーク・ライズSmoke Rise』(これで結末がわかるようなもの)という不幸な名前のバンドがジャンヌ・ダルクの生涯を題材にしたロック・オペラ2枚組を発表し、さらにとんでもないプロジェクト、「トゥルース・オブ・トゥルースTruth of Truths」は、聖書を全部ロック・オペラ2枚に詰め込み、作曲家7人が4年間苦労して作ったとされている。アニメのキャラクター『マグーMr. Magoo』 の声で有名な俳優のジム・バッカスJim Backusが神の声を担当した。モータウン・レコードMotown recordsは、『ロック・ゴスペル』のアルバムをリリースしたが、そこには、ロック・デュオのストーニー&ミートローフStoney Meatloafと契約した自社の新しいレーベルRare Earthや、テキサス州ウェイコの宗教系レーベルと契約しているロック系アーティストもいた。そして、ナッシュビルも遅ればせながらヒッピーを追いかけ始め、クリスチャン・オブ・ザ・ワールドChristian of the World」という不可思議な題名のついた最新作のジャケットには、非常に困惑した様子のトミー・ジェームスTommy Jamesが、ションデルズThe Shondells抜きで、白いローブを身にまとい大きな棒を持って立っていた。

1971年末までには、南アフリカで「スーパースターSuperstar」が神への冒涜であるとして販売禁止になったが、スティグウッドはこの宣伝効果を大いに喜んだに違いない。誰もこれを予測できなかった可能性があるが、ヒッピー以降の世界では、多くの若い薬物摂取者が明確な答えを求めており、カルト的な神の子派(大金を持ち、その大きな広告塔は元フリートウッド・マックFleetwood Macのギタリスト、ジェレミー・スペンサーJeremy Spencer)やジューズ・フォー・ジーザスJews for Jesusといった「キリスト教徒」グループが、街中で改宗者を探していたのである。ヒンズー教徒も同様で、ハレー・クリシュナ(スワミ・バクティベーダンタのクリシュナ意識国際協会の信者の通称)は子供たちをカルト的雰囲気に引き込み、ジョージ・ハリスンGeorge Harrisonが多額の資金援助をした。彼はロンドンのラダ・クリシュナ寺院Radha Krishna Templeで『ハレー・クリシュナ・マントラ』(および彼らの詠唱を集めたアルバム全部)を収録し、イギリスで多少ヒットした。ジーザス・ロッカーが登場するようになり、マイロン・ルフェーブルMylon LeFevreは家族でやっていたゴスペル・グループをやめ、アトランティック・レコードAtlantic recordsから大きな話題になったソロ・アルバムを発表し、後にテン・イヤーズ・アフターTen Years Afterのアルビン・リーAlvin Leeとアルバムで共演した。そして、元子供伝道者だったマージョーMarjoe(マリアとヨセフに由来)は、彼の最後の説教ツアーを描いたドキュメンタリー映画が上映された後、ローリング・ストーン誌の大きな記事の中で戦術を披露して、牧師を辞め、ああ、そうだ、彼はレコードを作ったが、跡形もなく沈んでしまったのだ。そして、彼ら自体はジーザス・ロッカーではなかったかもしれないが、ロサンゼルスのシンガーソングライターの多くは、多かれ少なかれ熱心な信仰の歌、あるいは少なくとも現在の問題に対するイエスの助けを懇願する歌を録音して、両面作戦を取った。

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元ビートルズも、70年代初頭にはいたるところで、誰がソロ・レコードで他を上回るかを競い合っていた。ジョンJohn Lennonには、一番乗りという利点があったが、オノ・ヨーコYoko Onoと結ばれて別の方向へ進んだことが、バンドの亀裂を広げた。彼はソロ・ビートルとして最初のヒットを飛ばし、また最初のソロ・アルバム、悪名高い「トゥー・バージンズTwo Virgins」を発表した。このアルバムと、それに続く「ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズLife with the Lions」は、ジョン・レノンのアルバムというより、ジョン&ヨーコの前衛芸術的な企画実験であり、LPと様々な資料の複製が入ったボックス、「ウェディング・アルバムWedding Album」も同様だった。本当のソロ・デビュー作は「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンドJohn Lennon/Plastic Ono Band」(「ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンドYoko Ono/Plastic Ono Band」と同時発売で、ジャケットはほぼ同じ)であり、過激な精神療法士アーサー・ジャノフArthur Janovの影響を受けて作曲した。ジャノフの「原初療法」セッションは、夫婦がたちの悪いヘロイン中毒から抜け出そうとする試みの一環として参加したものだった。レノンの曲は、「マザーMother」や、明らかにポールへの痛烈な非難である「ワーキング・クラス・ヒーローWorking Class Hero」など、ほとんどが生々しい告白的な内容だった。

しかし、他のビートルズもじっとはしていなかった。アップルが結成されるとすぐ、ジョージ・ハリスンGeorge Harrisonは1968年の映画「ワンダーウォールWonderwall」のために書いたサウンドトラックを発表し、その後ほとんど瞬時に消えた。その6ヶ月後、彼は(新しい子会社ザップル・レコードZapple recordsから)「エレクトロニック・サウンドElectronic Sound」で戻って来た。それはまさにタイトル通り電子音そのもので、ポール・ビーバーPaul Beaverとバーニー・クラウスBernie Krawsとのモーグ・シンセサイザーでの指導セッションを録音したものであった。しかし、フィル・スペクターがアップル社で働くようになり、ハリスンはなんとLP3枚組プロジェクトを行った。4面は自分の曲で、「アップル・ジャムApple Jam」と呼ばれる追加ディスクで、デレク&ドミノズDerek and The Dominosになる前の中核バンドがさまざまなミュージシャンとジャムをしたものである。このアルバム「オール・シングス・マスト・パスAll Things Must Pas」には、ハレー・クリシュナの旋律を取り入れたナンバーワン・シングル「マイ・スイート・ロードMy Sweet Lord」も収録されているが、興味深い訴訟の種となったのは、シフォンズThe Chiffonsの1963年のチャート・トップ曲「ヒーズ・ソー・ファインHe’s So Fine」を、ハリスンがビートルズ時代に当然聞いており、そこから盗用したと主張されたことである。裁判長は、ジョージが無意識のうちにこの曲をコピーしていたと判断し、150万ドル以上の損害賠償(裁判当時、この曲で稼いだ金額すべて)とアルバムの多額印税を支払うよう命じた。次は、バングラデシュの内戦犠牲者を援助するためのガラ・チャリティ・コンサートであり、バングラデシュというのは東パキスタンのベンガル地方が自らを称した言い方で、インドを挟んだ向こう側にある西パキスタンの支配から独立を試みていたのである。コンサートは1971年8月1日にマディソン・スクエア・ガーデンMadison Square Gardenで開催され、ラビ・シャンカールRavi Shankar、アリ・アクバル・カーンAli Akbar Khan、ボブ・ディランBob Dylan、エリック・クラプトンEric Clapton、リンゴ・スターRingo Starr、バッドフィンガーBadfinger、ビリー・プレストンBilly Preston、レオン・ラッセルLeon Russellが出演した。「ザ・コンサート・フォー・バングラデシュThe Concert for Bangladesh」は、1971年のクリスマスに急遽発売された(これも3枚組のアルバム)。これは印税を最大化するためで、コンサート自体の収益と同様、ユニセフに寄付されることになっていた。(しかし、ニューヨーク・マガジン誌は、音楽出版社のアレン・クレインAllen Kleinが印税をかすめ取っていると主張し、報道合戦に発展した)。

リンゴは映画製作で忙しかったが、自分が育った家の写真を使って古いスタンダード曲を集めたアルバム、「センチメンタル・ジャーニーSentimental Journey」や、その数ヵ月後にナッシュビルAチームのスタディオ・ミュージシャンと録音したカントリー・アルバム、ボークー・オブ・ブルースBeaucoups of Bluesを完成させ、生涯の夢を実現させた。

しかし、アレン・クレインAllen Kleinやフィル・スペクターPhil Spectorと完全に対立して、リンダ・イーストマンLinda Eastmenと至福の結婚をし、スコットランドの農場で録音していたのはポールであり、多くのビートルズ・ファンがその声を待っていた(ビートルズかストーンズかという二項対立は、ビートルズの場合、ポールかジョンとなる)。彼の最初のアルバム、そっけないタイトルのマッカートニーMcCartneyを1970年4月にリリースした。その中の「アナザー・デイAnother Day」はもちろんヒットし、そのB面は「オー・ウーマン・オー・ホワイOh Woman, Oh Why」だった。その1年後、農場の家庭生活を描いたラムRamというタイトルのアルバムは、ジャケットにポールが雄羊の角をつかんでいる姿が載っていて、それに対し、ジョンは「プラスチック・オノ・バンドPlastic Ono Band」のアルバムで、豚の耳をつかんでいる絵葉書を入れて対抗した。ついにポールは、元ムーディー・ブルースMoody Bluesのメンバーとリンダをキーボードとボーカルに迎えたバンドを結成し、ウィングスWingsと名づけたが、これによって、ヨーコの喚き声を嫌うファンに、さらに何か文句を言えるようにさせた。確かに、1971年末のウィングスのデビュー・アルバム、「ワイルド・ライフWild Life」は期待したほど売れず、その後の政治的主張である「アイルランドをアイルランド人に返せ」は思慮不足だったので、次のシングル「メリー・ハド・ア・リトル・ラムMary Had a Little Lamb」も、気休めの作品だった。実際、ポールとリンダ、ジョンとヨーコが、最も恥ずかしい元ビートルズ・メンバーのレコードを作ろうと競争しているように見えたこともあった。ジョンとヨーコは、ニューヨークの気の狂った大道芸人、デビッド・ピールDavid Peelを見つけ、彼にバンドを組ませ、アップルから「ザ・ポープ・スモークス・ドープThe Pope Smokes Dope」をリリースし、それに続いて、新しいバックアップ・バンド、エレファント・メモリーElephant’s Memoryを使い、新しい故郷であるアメリカ、特にニューヨークへのこだわりを確認したプラスティック・オノ・バンドPlastic Ono Bandのアルバムを発表した。このアルバム、「サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティSome Time in New York City」の前に発売された、シングル「ウーマン・イズ・ザ・ニガー・オブ・ザ・ワールドWoman Is the Nigger of the World」は、そのタイトルにもかかわらず、ポップ・チャートで57位という驚くべき成績を収めた。そのアルバムの他の曲も同様に「政治的」であり、アッティカ刑務所暴動Attica prison uprising、アンジェラ・デイビスAngela Davis、アイルランド紛争the Irish Troubles、ホワイト・パンサー・ジョン・シンクレアの投獄White Panther John Sinclair’s incarcerationなどを歌った曲がライブ盤として収録され、B面は予想通り、今度はフランク・ザッパFrank Zappaとその仲間たちによるジャムであった。この政治活動は、偏執狂で有名なリチャード・ニクソンRichard Nixonの国務省の注意を引き、グリーン・カードを申請していたレノンを調査し始めたが、彼はまだマリファナの逮捕歴が残っていた(ヨーコはアメリカ人と結婚し、子供をもうけたので問題にはならなかった)。政府は、グリーン・カードの発行を阻止すると誓った。

ビートルズへの関心があったので、ローリング・ストーン誌の編集者ジャン・ウェナーJann Wennerは、1971年の始めに2部構成でジョンへの広範囲なインタビューを行い、次号以降に掲載した(3号目にはヨーコへのインタビューも)。ウェナーは後に両部をまとめてレノン・リメンバーズLennon Remembersという本にし、新しくできた自身のストレート・アロー出版社Straight Arrow Pressから出したが、レノンは自分が通常の雑誌インタビューを受けていると思っていたのでショックを受け、当然、本になることに同意しなかったことを指摘した。しかし、ウェナーがそう思うのも無理はなかった。ローリング・ストーン誌は、全米雑誌賞National Magazine Award for Specialized Journalismの専門ジャーナリズム部門を受賞したばかりで、1970年6月11日号の全米の若者による騒動に関する記事が高く評価されたのである。レノン・リメンバーズLennon Remembersのほか、スワミ・サッチーナンダSwami Satchinandaの伝記、健康食品の料理本、服の自作の方法など、書籍部門を導入し、サンフランシスコ美術学院San Francisco Art Instituteを出てすぐに入社した新人カメラマン、アニー・リーボビッツAnnie Leibovitzが撮影したスター写真のポスター部門もあった。スタッフはほとんど入れ替わり、デビッド・フェルトンDavid Felton、ジョン・ランドーJon Landaw、ポール・スカンランPaul Scanlan、そして「スポーツ・エディター」のハンター・S・トンプソン Hunter S. Thompsonといった新入社員が政治を担当し、音楽報道を新しいロックのエリートであるテイラー夫妻the Taylors、エルトン・ジョンElton John、そしてもちろんミック・ジャガーMick Jaggerという(マリファナを少し軽んじる)別の方向に持って行こうとしていた(ジャガーがビアンカ・ペレス・モラ・マシアスBianca Perez-Mora Maciasと結婚したとき、ローリング・ストーン誌はスクープを撮ったのである)。

ストーンズはというと、その時点では儲けすぎたのでイギリスから税金亡命し、ほとんどフランスに住んでいた。彼らの新しいレコード会社は、アトランティック・レコードが配給を担当して、ウォーホルWarholがデザインし、股間のチャックが開かないスティッキー・フィンガーズSticky Fingersでデビューした(ウォーホルの悪名高いベルベット・アンダーグラウンド&ニコVelvet Underground and Nicoの剥がせるバナナのジャケットとは異なり、このジャケットはチャックを開けても何も見えない)。アレン・クレインAllen Kleinとの別れの際に、このアルバムからシングル2曲「ブラウン・シュガーBrown Sugar」と「ワイルド・ホーセスWild Horses」を彼に渡さなければならなかったが、自由になった彼らは、次のアルバム、「エグザイル・オン・ストリートExile on Main Street」をフランスのシャトー『ネルコートNellcote』を借りてレコーディングしていた。サックス奏者のボビー・キーズBobby Keys(ディレイニー&ボニーDelaney and BonnieのOBで、しばらくは事実上のストーンズのメンバーとなる)をサイドメンに迎えて、ヘロイン漬けの退廃的なシーンが印象的であった。だから、リチャーズRichardsがグラム・パーソンズGram Parsonsを追い出して、悪い連中を招き入れ国家憲兵の注意を引いたのは、ちょっとショックだった。しかし、1972年半ばにアルバム(もちろんダブルで、誰もがそうしていた)が発売され、バンドは再びツアーを行い、アルバム ⇒ ツアー ⇒ アルバム ⇒ ツアー というストーンズの、すぐにお決まりのパターンになるサイクルが再び始まったのである。

ビートルズとストーンズ、メロウとヘビー、ポップとロックの対比があった。変化があっても良い状況だったのに、誰もが儲けに走り過ぎていた。演奏の場を、クラブからフィルモアFillmoreのようなロック・ホールでの公演、そしてツアーへと移行したのは言うまでもなく、成功したアーティストがスタジアムやスポーツ・アリーナを回り、コンサートの出演者リストに前座バンドのための時間をたっぷりとって、大スターの前に、ちょっとしたロック・フェスティバルのような公演を行うようになったのだ。しかし、ある男は別の可能性を見いだし、それを実行に移していた。デビッド・ボウイDavid Bowieの野望は並大抵のものではなかった。彼は60年代半ばにただのデビッド・ジョーンズDavid Jonesだった頃から名声を欲しており、1969年に「スペース・オディティSpace Oddity」によってようやく英国でブレークしたものの、アメリカではシングル曲がチャートでわずか124位、続く「メモリーズ・オブ・ア・フリー・フェスティバルMemories of a Free Festival」「世界を売った男The Man Who Sold the World」などはもっとひどい結果に終わった。(ボウイがロングドレスを着てアメリカでラジオ・プロモ・ツアーをしても、効果はなかっただろう)。ボウイは1971年にRCAと契約し、その年の暮れにはアルバム、「ハンキー・ドリーHunky Dory」を発表し、マイナー・ヒットとなった独創的な曲「チェンジズChanges」のおかげで、ようやくアメリカで注目されるようになった。彼は自分が次の大物であるべきだと分かっていたが、イギリス人が彼を好きでも、重要な場所、儲かる場所、つまり、アメリカでは通じなかった。自分の時代が来たのに、名声を完全には掴み切れていなかった。そうしようとする考えは、彼が好きだったバンド、モット・ザ・フープルMott the Hoopleに贈った曲にはっきりと芽生えていた。(彼らは諦めかけていたので、ボウイがヒットを与え、アルバムをプロデュースし、窮地から救ったのだ)。「すべての若き野郎どもAll the Young Dudes」は、世代交代について考えた曲だ。「兄貴は一人でビートルズとストーンズを聞いている」とボウイは書いていた。次の世代はロックしか知らないので、ロックは生まれつきのものとして話していた。モンキーズの弱点から学び、内容やイメージをはるかにコントロールできるようになった制作者たちが、ポスト・モンキーズの「ブレイディ・バンチThe Brady Bunch」や「パートリッジ・ファミリーThe Partridge Family」といったテレビのエンターテインメントを作ったことも、ある程度影響していた。この頃には、子供たちが大きくなり、数年前のスターにはあまり興味がなくなっていた。彼らは、年長者が抱いていたような核兵器による全滅の脅威だけでなく、終わりの見えない、そして無意味なベトナム戦争の中で育っていた。イギリス経済が崩壊して、ニクソン政権は腐敗し、黒人市民を中心とする麻薬使用者に対する戦争が始まり、黒人は自衛のための武装と自分たちのコミュニティのパトロール(政権の政策立案者には受け入れがたい考えだった)を要求した。ゲイ解放と女性解放という、ヒッピーがほとんど無視するかせいぜい考えもしなかった問題をいたるところで提起したので、この世代は信じるべきヒーローを必要としていた。ボウイは、自分自身を架空のキャラクターに変えて、そのヒーロー、ジギー・スターダストZiggy Stardustになった。その結果生まれたのが、このアルバムだザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・ジギー・スターダスト・アンド・スパイダース・フロム・マーズThe Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」は、ヒッピーが夢想家的見方だったのに対し、悲観的見方だった。話は簡単で、科学者によれば、地球の寿命はあと5年で、ジギー(あるいはジギーになる人)にとって、自分が書いているすべての曲を素早くまとめ上げ、絶望的な世代の声を自分で表現しなければならないということだった。見ている観客と演奏している自我を同時に巻き込み、おそらく地球外生命体の助けを借りて、ジギーの人格は観客に力を与え、アルバムはジギーが観客に「君は素晴らしい」「君は独りぼっちではない」と断言し「手を差し伸べてくれ」 と頼むところで終わっている。性別が流動的だったり、宇宙船が登場したりと、確かにメッセージは万人向けではなかったが、疎外された子供たち(大部分は男の子)は、言われたことを聞き、次第にそれを受け入れていった。このアルバムは、ライブでの体験を通じて観客にとって転換点となる出来事だった。もちろん、ボウイがミック・ロンソンMick Ronsonという、ギターとバンド・アレンジの才能に恵まれた、ごく普通の労働者階級の音楽パートナーを見つけたことも、幸運だった。

また、イギリスはポップスターが一夜にして大化けするほど小さな国であり、島国でありながら列車で2日もあれば南北に移動でき、人口はいくつかの大都市に集中し、メロディ・メーカー誌Melody Makerニュー・ミュージカル・エクスプレス誌New Musical Express(通称NME)、サウンズ誌Soundsといった重要な『業界専門誌』を含むメディアがロンドンに集中しているため、ポップスの天才を試すことが容易にできる温室のように管理された環境だったこともプラスに作用した。アメリカは地理的にだだっ広くで、アーティストを見せるためだけでも、膨大なツアーを行う必要があり、メディア、ラジオ、テレビはイギリスのようには集中していなかった。また、全国的に必見な毎週の番組トップ・オブ・ザ・トップスTop of the Popsや、その深夜番組でもっと『アンダーグランド』な、BBCトゥー  BBC Twoの「ザ・オールド・グレー・ホイッスル・テストThe Old Grey Whistle Test」といったようなものもなかった。ビートルズと同じように、まず地元で大成功を収め、次に地域で成功し、そしてロンドンで飛躍し、最終的には世界中にアーティストを輸出することができるのである。新マネジャー、トニー・デフリースTony Defriesは、こうしてボウイを成長させていったのである。1972年、世界を舞台として、ボウイをRCAレコードと契約させた。RCAレコードは、失敗の多い会社だったが、いまだにエルビス・プレスリーが最大のアーティストで、そのおかげでRCAは十分に儲かっていて、実際にはよく理解していないアーティストにリスクをとることができた。1972年、このレーベルには注目すべきアーティストがほとんどおらず、そこにボウイが登場した。もちろんレーベルは彼を宣伝し、初期のアルバムを再リリースして、ツアーを行い、ライブ・アルバムの可能性も見据えて、サンタモニカ市民公会堂Santa Monica Civic Auditoriumでレコーディングも行った。メディア対応は好意的だったが、実際の売上は伸びていなかった。一方で、レーベルの役に立っていた。デフリースは、ルー・リードLou Reedとも契約したが、RCAから最初に出したソロ・アルバムはヒットせず、その6ヵ月後にはデビッド・ボウイをプロデューサーに迎えたセカンド・アルバム、「トランスフォーマーTransformer」を発売し、その中で「ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイドWalk on the Wild Side」というトップ20ヒットを出した(その後、彼は何年にもわたってFMで活躍することになるが、唯一のポップ・ヒットとなった)。

11月、ローリング・ストーン誌は、ついにボウイを追いつめ、彼のキャリアが計算高く、観客を操作するもので、格好が良く内側からにじみ出るようなカリフォルニア・ロックの気質とは正反対だとして嘲笑するカバー・ストーリーを掲載した。この記事のためにライターはクリーブランドに派遣され、他のプレスも同時にボウイを取材していた。その中には、記者がクリームCream誌と名乗る雑誌もあった。いや、その雑誌はクリーム誌Creamではなく、クリーム誌Creemだった。クリームは1969年、デトロイトの、麻薬用品販売店を経営する2人組が、地元のロック・シーンには他では得られない報道が必要だと気づいたときに始まった。ジョン・シンクレアJohn Sinclairは、ホワイト・パンサーズWhite Panthersのハウス・バンドとしてMC5を抱えていたが、デトロイトのフィルモアFillmoreに相当するグランド・ボールルームthe Grande Ballroomで演奏する大音量の「エネルギッシュな」バンドも好きだったので、クリームのこのアイデアを喜んで受け入れた。彼は、反人種差別的政策のホワイト・パンサー政治に精通し、彼らのコミューンに住んでいたデイブ・マーシュDave Marshという野心的な10代の若者を編集者として推薦した。最初の数号はローリング・ストーン誌のフォーマットをまね、全体として急速に資金不足に陥ったが、経費節減を実施し、雑誌形式(光沢のある表紙とカラー広告に適した光沢のある数ページ)に変更して、1971年にクリーム誌はジャクソン5 Jackson5の漫画イメージを表紙にして再スタートした。ジャクソン5は、サタデー・モーニング・カトゥーンを使ってプリティーン世代に売り込んでいた最近のグループで、ビートルズも短期間そうしていた。ちょうどローリング・ストーン誌がサンフランシスコを宣伝し始める絶好の機会を捉えたように、クリーム誌は、ローリング・ストーン誌が軽んじたり無視したりしていたバンドが中西部で頭角を現したときに登場したのである。その最たる者が、マウス・クーパーAlice Cooperで、フランク・ザッパFrank Zappaのレーベルの一つと契約していたものの、フェニックスからデトロイトに移って本格的に活動していたのである。「アイム・エイティーンI’m Eighteen」や「スクールズ・アウトSchool’s Out」といった曲で火が点いた彼らの反抗的なイメージは、カナダでカナダ人プロデューサーとレコーディングしたことによって、カナダ国内またはカナダ人による音楽を、カナダのラジオ局が一定割合流すことを義務付ける「カナダコンテンツCanadian Content」(キャンコンCanCon)ルールを利用できるようになったことも後押しした。(ニール・ヤングNeil Youngやジョニ・ミッチェルJoni Mitchellも最終的にその対象となり、ゲス・フーGuess Whoやエドワード・ベアEdward Bearといった100パーセントカナダのグループ、そして、キャリアを復活させるようなプロコル・ハルム・ライブ・イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラProcol Harum Live in Concert with the Edmonton Symphony Orchestraもその対象となった)。CKLW-FMは、デトロイトから川を隔てたオンタリオ州ウィンザーにあり(奇妙なことに、やや南側にある)、デトロイトでは非常に人気のある放送局で、アリス・クーパーのキャリアをスタートさせたところだ。(CKLWのディージェイの中には、ブッカー・T&M・G.  Booker T. and The M.G.’sのオリジナル・ベーシスト、ルイス・スタインバーグLewis Steinbergの妹、マーサ・ジーン・ザ・クイーン・スタインバーグMartha Jean “the Queen” Steinbergがいた)。クリーム誌はクーパーを熱心に支援し、同時にレッド・ツェッペリンLed Zeppelin、Jガイルズ・バンドJ.Geils Band、ルー・リードLou Reed、そしてストゥージズThe Stooges、The MC5、ブラウンズビル・ステーションBrownsville Station、ボブ・シーガーBob Seger、ミッチ・ライダーMitch Ryder(そのロックバンドを、デトロイトのクリーム誌の出版社バリー・クレイマーBarry Kramerが短期間マネジメントしていた)といった地元の人々を支援した。しかし、デトロイトのライバルであるクリーブランドが、ボウイを最初に取り上げたことに気づいたときは、さぞかし癪に障ったことだろう。だが、それは事実で、アラン・フリードAlan Freedが革命を起こした都市が、もう一つの革命を後押ししていた。しかし、そんなことはどうでもいい。クリームのボウイ物語は、聴衆を見下すことも、馬鹿にすることもなかった。

 

ボウイは自分に競争相手がいることをよく承知しており、今回も「すべての若き野郎どもAll the Young Dudes」の中で、「テレビが欲しかったのに、T・レックス T.Rexが来ちゃった」とため息をついた。このバンドは、マーク・ボランMark Bolanという奇妙な小男が率いる奇妙な小バンドで、マークはボウイに劣らず野心的だったが、集中力もソングライターとしての才能も劣っていた。ボランは1967年、マーク・フェルドMark Feld(本名)としてロンドンの先進的バンド、ジョンズ・チルドレンJohn’s Childrenでデビューしたが、風向きの変化を感じ取り、次に現れたのはボンゴ奏者のスティーブ・ポーターSteve Porter(スティーブ・ペレグリン・トックSteve Peregrin Tookと自称していた)と組んでティラノサウルス・レックスTyrannosaurus Rexという気取ったフォーク・デュオだった。彼らは「マイ・ピープル・ワー・フェア・アンド・ハドゥ・スカイ・イン・ゼア・ヘア…My People Were Fair and Had Sky in Their Hair .. But Now They’re Content to Wear Stars on Their Brows」というアルバムを作ったが、その曲はタイトルから予想されるようなものだった。ボランの奇妙な震える声で、気休めのヒッピー主義を歌い、パーカッションはほとんど聞こえない。1970年までに、ボランは再び変わり、今度はT.レックスという名のエレクトリック・バンドを結成して、プロデューサーのトニー・ビスコンティTony Viscontiと仕事をするようになった。アメリカでは惨めな結果だったが、イギリスでは「ライド・ア・ホワイト・スワンRide a White Swan」と「ホット・ラブHot Love」という2枚のシングルがトップを獲得した。1972年、フルバンドのアルバム、「エレクトリック・ウォリアーElectric Warrior」が発売され、シングル、「バング・ア・ゴングBang a Gong(Get It On)」がトップ10入りし、T.レックスへの期待が高まった。このアルバムは、『グラムロックglam rock』と呼ばれるイギリスの新しいムーブメントの兆しとなるもので、「(男性の)両性具有と奇抜なステージ衣装が重要だ」とメディアは書いた。グラムロックの流れの中で次に登場したのは、スレイドという労働者階級のチンピラ4人組で、彼らは当初、アメリカの聴衆に自分たちを「スキンヘッズ」だと宣伝するという間違いを犯していた。確かに最初はスキンヘッドだった。残念ながら、スキンヘッドはアメリカではすでに、偏見を口にし、暴徒となって「パキスタン人いじめ」を行う人種差別的なチンピラとして知られていた。バンドは1972年に奇妙な髪型、漫画のような衣装、巨大なプラットフォーム・シューズを身に着け、「ママ・ウィア・オール・クレージー・ナウMama Weer All Crazee Now」、「グッバイ・ジェーンGudbuy T’ Jane」(アメリカのチャートにはほとんど入らなかったがイギリスのチャートを席巻)、1973年の「メリー・クリスマス・エブリボディMerry Xmas Everybody」などのバブルガムに近い曲で再び登場した。クリスマスの曲なので、毎年末にイギリスのラジオで流れ、最初のリリース以来何度もNME誌チャートに入った。

アメリカは、グラムに挑んだが、成功率はやや低かった。1973年、タレント・エージェンシーであるウィリアム・モリスWilliam Morrisの前音楽部長で、デビッド・ゲフェンDavid Geffenを指導し、ニューヨークのフィルモア・イーストと同時代のライバルだったエレクトリック・サーカスElectric Circusの創設者であるジェリー・ブラントJerry Brandtは、ジョブリアスJobriathという人物とエレクトラ・レコードElektra Recordsとの大型契約を結んだことを発表した。ジョブリアスは、ゲイ・ロックスターであることをアメリカで最初に公表した(『真の妖精』と宣伝された)。アルバム・ジャケットの大きな広告掲示板がタイムズ・スクエアの上にしばらく掲げられ、ブラントは自分のクライアントであるジョブリスが、エルビスやビートルズと同じレベルにあるという軽率な引用をマスコミに流した。アルバムはそのどちらにも肩を並べることなく、エレクトラからの2枚目のレコードが跡形もなく沈んだ後、ジョブリアスとブラントは別々の道を歩み、ジョブリアスはその後1983年にエイズで命を落とした。アメリカからグラム・ロッカーが生まれたとしたら、ルー・リードLou Reedだっただろう。彼は「Transformerトランスフォーマー」制作のためにトニー・デフリースTony deFriesのメインマン・エージェンシーMainman agencyと契約し、「ベルリンBerlin」という鬱屈した(そして当時、大いに非難された)ロック・オペラを発表した(ドイツの都市とはほとんど関係のない作品で、リードはベルリンにはまだ訪れたことがなかった)。ギタリストのディック・ワグナーDick Wagner(デトロイトのカルトバンド、フロストFrost出身)とスティーブ・ハンターSteve Hunter(デトロイト出身者であり、ミッチ・ライダーMitch Ryderの短命バンドであるデトロイトDetroitで活動していた)を中心とするすごいバンドと一緒にツアーに出た。このバンドは、リードの最初のゴールド・ディスク、「ロックンルール・アニマルRock ‘n’ Roll Animal」で演奏し、このライブ・セットはFMの定番となった。

このような風変りな行動であるグラムロックは、それがロックンロールの精神の一部であるとどれほど主張しようとも、まだあまり主流にならかった。レッド・ツェッペリンLed Zeppelinはレコーディングとツアーを続け、壮大な放蕩の物語を残していった。グレイトフル・デッドもそうだった。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングCSNY風の短い曲を集めた「ワーキングマンズ・デッドWorkingman’s Dead」と「アメリカン・ビューティーAmerican Beauty」の2枚のレコードが大成功した後(関係者は大金を手にし、それによってワーナーとの契約に対する疑念が薄れた)、ポップなレコードを大量に売ったとしても自分たちがポップなグループではないことに気付き、ツアーを続け、これまでと同じことをすることにこだわることにしたのである。その過程で、クラシック音楽の教育を受けたキース・ゴドショーKeith Godchauxとその妻ドナDonnaがピアノとボーカルで参加し、1973年初頭にはデッドのオリジナルのキーボード兼ボーカリスト、ロン・ピッグペン・マッカーナンRon “Pigpen” McKernanが長い間のアルコール依存症の末に死亡するなど、数名のメンバー入れ替えがあった。彼の死は、バンドが1972年のヨーロッパ・ツアー(ヨーロッパでは彼らはほぼ無名だった)を成功させた後に起きたのだが、このツアーはダブル・ライブ・アルバム、「ヨーロッパ’72 Europe ’72」に納められ、長年にわたって大衆に熱狂的に受け入れられ続けた最後のレコードとなった。それでも、デッドはサンフランシスコの同時期の第一世代のバンドよりも良い業績を上げていた。

RCAがジェファーソン・エアプレインThe Jefferson Airplaneに自分のレーベル、グラント・レコードGrunt recordsを与えたことで、バンドのメンバーはやりたいことを自由にできるようになり、確かにやりたいことをした。ボーカリストのマーティ・バリンMarty Balinがバンドを脱退し、彼らが制作した膨大なレコードのうち1枚は、ポール・カントナーPaul Kantnerとジェファーソン・スターシップJefferson Starshipの作としてリリースされた。カントナーとスリックSlickには娘が生まれ、彼らはその娘にチャイナChinaと名付けた(当初彼らが選んだgod(gは小文字)よりずっと好ましい)。狂気の方向性は、1973年のアルバム、「バロン・ボン・トールブース・アンド・ザ・クローム・ナンBaron von Tollbooth and the Chrome Nun」のタイトルに現れている。クイックシルバー・メッセンジャー・サービスQuicksilver Messenger Serviceはまだアルバムを出していたが、そのころにはチェット・ディノ・バレンティ・パワーズChet “Dino Valenti” Powersの曲作りの発表グループであり、その曲作りは先細っているように見えた。ヘイト・アシュベリーHaight-Ashburyの時代の有力者はビル・グラハムBill Grahamで、所有していたフィルモア・オーディトリアムFillmore Auditoriumを手放し、少し大きめのフィルモア・ウェストFillmore Westに移った。これは、彼がニューヨークで運営していた会場(かつてセカンド・アベニューがイディッシュ演劇の中心だった時代の古い劇場を改装したもの)と対をなすためだった。フィルモア・イーストFillmore Eastは常に高リスクの事業で、特にローワー・イースト・サイドの一部として知られるようになった近くの『イースト・ビレッジEast Village』が政治問題化したため、過激化した地元の人々(彼らはいつものように、音楽は自分たちのものであり、無料であるべきだと主張した)と深刻に対立し、1971年6月に彼は閉館したのである。フィルモア・ウェストも良い勝負で、不動産価格の高騰と、グラハム自身が音楽ビジネスとどう関わるかという考え方が変化したので、1971年7月4日のショーをもって閉鎖し、その模様は撮影・録音された。グレイトフル・デッドGrateful Dead、クイックシルバーQuicksilver、タワー・オブ・パワーTower of Power、ボズ・スキャッグスBoz Scaggs、ニュー・ライダーズ・オブ・ザ・パープル・セイジNew Riders of the Purple Sage、エルビン・ビショップ・グループThe Elvin Bishop Group、イッツ・ア・ビューティフル・デイIt’s a Beautiful Day、ホット・ツナHot Tuna、ラムLambという参加者を見ると、当時の状況(そしてグラハムが経営する成長企業)をよく知ることができる。グラハムは、大規模なライブのために巨大な屋内アイス・アリーナであるウィンターランドWinterlandを予約していたが、今ではサンフランシスコでのお決まりの会場として定着している。彼はまた、レコード・ビジネスにも着手し、ベイエリアの次世代アーティストを集め、そのアルバムをサン・フランシスコ・レコードSan Francisco records(アトランティック・レコードAtlantic recordsの配給)とフィルモア・レコードFillmore records(ワーナース・レコードWarners recordsの配給)の2つのレーベルからリリースした。スタッフ・プロデューサーは、サンタナSantanaの大ヒット作を手がけた元コロムビアのスタッフ、デビッド・ルビンソンDavid Rubinsonが担当した。これらのレーベルからは何も生まれなかったが(それどころか、間もなくワーナースに吸収された)、ベイエリアで最長寿バンドのひとつであるタワー・オブ・パワーTower of Powerを紹介し、「ユアー・スティル・ア・ヤング・マンYou’re Still a Young Man」、「ソー・ベーリー・ハード・トウ・ゴーSo Very Hard to Go」、フックの部分に「今日の流行は/すぐに過去のものになるかも」という警鐘を鳴らし、的を射た対句が含まれている「ホワット・イズ・ヒットWhat Is Hip」など10年間にわたって次々とヒット曲を生み出した。タワー・オブ・パワーは、スライ&ファミリー・ストーン同様、多人種であり、彼らのホーン・セクションは常に花形だったので、バンドが解散したかなり後もタワー・オブ・パワーのホーン・セクションは続いている。

イーストベイのもうひとつの逸材であるクリーデンス・クリア・ウォーターター・リバイバルCreedence Clearwater Revivalについては、70年代初頭に爆発的に売れ、1972年にはヒット曲のない「マルディ・グラMardi Gras」をリリースし、その時点でトム・フォガティTom Forgertyがソロ・アルバムを発表したが、それはすぐに姿を消した。その1年後に弟のジョンJohnがブルー・リッジ・レンジャーズThe Blue Ridge Rangersとしてレコードを出したが、これは彼がすべての楽器を演奏するガチガチのブルーグラスであった。その後、ファンタジー・レコードFantasy Recordsの社長ソール・ザエンツSaul Zaentzを提訴して出版契約を解除し、姿を消した。1975年にアサイラム・レコードAsylum recordsからアルバムを出したが、ジョンが再び姿を現すのは10年後のことで、やはり苦い思いをした。しかし、ストーングラウンドStoneground(元ボー・ブランメルBeau Brummelのサル・バレンティノSal Valentinoと元ファミリー・ドガーFamily Dogger のリン・ヒューズLynne Hughesが参加したワーナースのバンド)や、トム・ドナヒューTom Donahueが率いたバスと音楽の大作、メディスン・ボール・キャラバンthe Medicine Ball Caravan(これもワーナース・レコードWarners recordsが資金援助)のように、過去を取り戻そうとする試みがあったが、これらは悲惨な全国巡業だった。この結果、中米にヒッピー・ライフスタイルをもたらすと思われた(ずっと自分たちでやってきていたので手助けは必要ないが、まあ、とりあえず、ありがとう)が、こうした動きがあったのはマリン郡だった。しかし、ストーングラウンド(元ボー・ブルメルのサル・バレンティーノとオリジナル・ファミリー・ドッグのリン・ヒューズを擁するワーナーのバンド)や、トム・ドナヒュー率いるバスと音楽の祭典「メディスン・ボール・キャラバン」(これもワーナーが資金提供)といった、ヒッピー・ライフスタイルをアメリカ中部にもたらすはずだった(同地域では独自の形でずっと実践されていた)悲惨な全国ツアーなど、過去を取り戻そうとするこうした試みにもかかわらず、 トム・ドナヒュー主導のバスと音楽の豪華な巡業「メディスン・ボール・キャラバン」(これもワーナーが資金提供)は、ヒッピーのライフスタイルをアメリカ中部にもたらすはずだった(中部では独自のスタイルをずっと築いていて助けなど必要なかったが、まあありがとう)。こうした動きがあったとすれば、それはマリン郡で起こっていた。

そこには、リラックスした生活(レコード会社の資金提供を受けて)があり、また、偽造の田舎環境が、バン・モリソンVan Morriosn、ヤングブラッズYoungbloods、リー・マイケルズLee Michaels、ダン・ヒックス・アンド・ヒズ・ホットリックスDan Hicks and His Hot Licks(元シャーラタン・ヒックスCharlatan Hicks、名フィドラーのシド・ページSid Page、そしてヒックスの辛辣な歌詞がサポートする2人の元気な女性シンガーからなるアコースティック・スイング・バンド)、そしてもちろんグレイトフル・デッドThe Grateful Deadを育てたのである。

東海岸でこれに相当するのは、本質的に 『ウッドストックWoodstock Music and Art Festival』である。このフェスティバルとその余波は、ウッドストック周辺の町々(ソーガティーズ、ベアズビル、ウィッテンバーグ、グレンフォード)に望んでいない注目を集めたが、ボブ・ディランはそこにはほとんどいなかったのでディランのせいではなく、ディランの元マネジャーであるアルバート・グロスマンAlbert Grossmanと彼の拡大する事業のせいであった。その中には、フランス料理店のベアthe Bear、スタディオ施設のベアーズビル・スタディオBearsville Studiosがあり、すぐにレーベル、ベアーズビル・レコードBearsville Recordsを設立した(その後、消滅したアンペックス・レコードAmpex Recordsの傘下に短期間入った後、ワーナースの子会社レーベルになった)。この地域は、この時代の奇妙な人物の本拠地でもあった。トッド・ラングレンTodd Rundgrenは、10代の頃に所属していたバンド、ナズThe Nazzとともにフィラデルフィアから現れ、地元で2曲ほどポップ・ヒットを飛ばした。そして、1970年にラントRuntとしてアンペックス・レコードAmpex recordsと契約し、すべての楽器を自分で演奏した。グロスマンGrossmanは、この技術志向の若いポップスターに興味を持ち、特にプロダクションの仕事で彼のマネジャーとなった。1970年にはザ・バンドThe Bandのアルバム、「ステージ・フライトStage Fright」の企画を担当し、グランド・ファンク・レイルロードGrand Funk Railroadのアルバム、「ウィアー・アン・アメリカン・バンドWe’re An American Band」で大成功を収めたことなどから得た収益を、自身の風変わりなソロ・レコードに注ぎ込んでいたのだが、その中から、ナズNazz時代の曲を再録した1973年の「へロー・イッツ・ミーHello It’s Me」など時折ヒット曲が生み出されていた。プロデューサーとして欠かせない存在だったラングレンRundgrenは、常に限界に挑み、実際に必要とされるよりもずっと前にベアズビルにビデオ・スタディオを頑張って開設した。ある人は彼を「金のかかる趣味を持ったプロデューサー」と冗談めかして呼んだが、やがてファン層を獲得し、ツアーを行い、実際にレコードを売るようになった。

これ以外の著名なウッドストック地域の住民としては、ポール・バターフィールドPaul Butterfield、ジェフ&マリア・マルダールGeoff and Maria Muldaur(当時は解散したジム・クウェスキン・ジャグ・バンドJim Kweskin Jug Bandに在籍していたが、ジョー・ボイドJoe Boydのプロデュースによる素晴らしいアルバムをワーナース・レコードWarners recordsで2枚制作)、ハッピー&アーティ・トラムHappy and Artie Traum(グリニッジビレッジのフォーク・シーンのベテランで、他の人達よりかなり以前に北部へ移住)、エド・サンダースEd Sanders(詩人で学者。ローワー・イースト・サイドthe Lower East Sideを称賛していたヒッピー・バンドのファグスThe Fugs にいて、以外にも何とかワーナース・レコードと契約することができた)、「シー・ユー・レイター・アリゲーターSee You Later, Alligator」で有名なボビー・チャールズBobby Charles、バン・モリソンVan Morrison(彼はほぼ同時期にカリフォルニアと妻ジャネット・プラネットJanet Planetに幻滅している)がいた。ロサンゼルスにあるローレル・キャニオンLaurel Canyonより少しハードなロックだが、これもかなりメロウだった。そして、メロウなものは売れたのである。ビルボード誌は『プログレッシブMOR』という新しい言葉まで使った。この言葉はカーペンターズThe Carpentersより進歩的と言われるようなものを数多くカバーしていた。シールズ&クロフツSeals & Crofts、マーク・アーモンド・バンドMark-Almond Band、バットドルフ&ロドニーBatdorf & Rodneyといったデュオ。ニール・ヤングそっくりの「名前のない馬A Horse with No Name」でデビューし、ヤングだったらこんなおかしな歌詞を書くはずがないとわかるまで人々を騙した、静かに歌うグループのアメリカAmerica。スタディオ・ミュージシャンとプロのソングライターの集合体であるブレッドBread。カリフォルニア州サンタクルーズ出身の暴走族みたいだけどサウンドは、まあ、プログレっぽいドゥービー・ブラザーズThe Doobie Brothers。録音された音楽の市場は非常に巨大で、ラジオから流れ、レコード店に並べさえすれば、どんなものでも売れるチャンスがあった。

これを支えていたのは、スタディオの中でも消費者向けでも、ますます高度な技術であった。トランジスタが主流になって真空管が消えていくことは、真空管が家庭用機器に与える暖かみのある音が驚くべきものだったので、オーディオ・ファンからすると残念なことだった。真空管は生き続けるのだが、それは高級品に限られる。トランジスタは、スイッチを入れるとすぐにステレオの電源が入るので、暖まるのを待つ必要がなく、オーバーヒートすることもない。また、安価で交換の必要がないため、レコード針にさえ気をつければよい。また、針が全くなくてもいいのだが、テープの世界は混乱していた。オープンリール式のテープが好きな消費者は少なく、また、クラシック以外のテープはほとんど手にはいらないので、テープはオーディオ・マニア向けのものだった。問題は、テープ業界が8トラックに本格的に投資をしていたということなのだが、自動車用を除いては消費者に嫌われ、壊れやすく(業界用語で卵の殻という)、さらに悪いことに、トラックを切り替えるためにガチャッと音がして音楽番組が中断されるのだ。また、元々のレコードの曲順通りに収録されず、ロック・アルバムのように長い曲が増えてくると、台無しになる。また、8トラックはアメリカの特許なのだが、オランダの特許であるカセットは、レコードと同じように表裏があり、はるかにシンプルであった。これらに加わったのが、クアッドロフォニック(クアッドロソニック)と呼ばれる4チャンネルサウンドで、スピーカーがリスナーの前に2つ、後ろに2つ配置されている。もちろん、そのためには全く新しい再生装置とそれに適合する4つの同じスピーカーが必要で、音楽はテープ・カートリッジかディスクか、ディスクなら競合する2つのクアッド・ディスク・システムのうちどちらが市場を支配するのか、業界が結論を出した上で巨額の投資をしなければならない。誰も考えなかったことは、消費者はこの件に全く無関心で、買う余裕のある数少ない消費者ですら、関心を示さなかったことである。というのは、ステレオを買い換えたり、スピーカーを買い換えたりするお金で、たくさんのアルバムを買うことができたし、買いたいアルバムもたくさんあったからだ。さらに、石油危機によるビニールのコスト・アップに対応してレコード会社は1ドル値上げしていた。ステレオは、演奏者がリスナーの目の前にいて、コンサートにいるような気分を味わうことができた。4チャンネルは、自分自身がバンドやオーケストラの中で演奏すること以外、何も真似ることができず、消滅するまでに長い時間がかかったが、70年代半ばに消えてしまった。しかし、スタディオでは事態は急速に進行した。4トラック録音でアルバム、「サージェント・ペパーSgt. Pepper」が生まれたが、テクノロジーはそれをさらに向上させる方法をどんどん見つけていった。8トラック、16トラックのスタディオも登場し、プロデューサーやエンジニアは新しい実験の将来展望を描き、バンドはそれを熱心に利用した。しかし、新しい録音技術の中には、明らかに不合理なものもあった。ビルボード誌は、1971年5月22日号の一面で、「音の信号をデジタル・パルスにコード化する新しい録音方法が、サミュエルズ・エンジニアリング社Samuels Engineeringによって開発された」と発表した。確かに理論的には可能だが、当時はそのファイルを処理するのに十分な大きさのコンピューターは、ビル1棟を占領してしまうほどだった。サミュエルズよ、アイデアは悪くないけど、これは決して成功しないだろう。

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メロウなサウンドがすごい勢いで登場するようになったのは、ソウル・チャートで始まった。誰もがスライSly 、ジェームス・ブラウンJames Brown、ファンカデリックFunkadelicに続いて外の世界へ旅立ったわけではなく、伝統的なソウル・ミュージックもまだたくさん残っていた。もちろん、アレサArethaはミリオンセラーを続けていたが、他の流れも生まれつつあった。ビル・ウィザースBill Withersは、静かなアコースティック・ギターを弾くソングライターで、1971年に発表した最初のレコード「エイント・ノー・サンシャインAin’t No Sunshine」がアメリカでヒットし、浮き沈みを経ながら、今日まで続くキャリアをスタートさせた人物である。多少似た人物のテリー・キャリアーTerry Callierは、60年代半ばにシカゴのフォーク・シーンから登場し、分類不能な存在だったので、70年代初めにチェス・レコードChess recordsから出したジャズとフォークのハイブリッド・レコードが売れたのはほとんどがイギリスで、後にイギリスのスターになった。10代の頃、カーティス・メイフィールドCurtis Mayfieldのランニング仲間で、シカゴのサイケデリック・バンド、H・P・ラブクラフト H.P.LovecraftやデルズDellsにも曲を書いていた。しかし必然的に、主に小さなレーベルから、ボーカル・グループが再び登場するようになった。フィラデルフィア出身のスタイリスティックスThe Stylisticsは、他で何度かトライした後、1971年にアブコ・エンバシー・レコードAvco-Embassy Recordsから登場し、ファースト・シングル「ユアー・ア・ビッグ・ガール・ナウYou’re a Big Girl Now」でソウルのトップ10に入った。3作目の「ユー・アー・エブリシングYou Are Everything」でポップ・チャートを制覇し、シルキー・テナーのラッセル・トンプキンス・ジュニアRussell Thompkins Jr.をリード・シンガーとして、1975年までその調子が続いた。チーライツThe Chi-Litesは、それまでジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonで有名だったブランズウィック・レコードBrunswick recordsに所属し、ユージン・レコードEugene Recordのボーカル・アレンジと優れた曲作り(時には同じくブランズウィックのスター、バーバラ・アクリンBarbara Acklinと共同で)、そして、ロバート・リス・レスターRobert “Squirrel” Lesterのファルセットにより、1971年に「ハブ・ユー・シーン・ハーHave You Seen Her」が、あらゆるチャートで大ヒットしてブレークした。翌年には、「オー・ガールOh Girl」ですべてのチャートのトップに立ち、さらに前進し続けた。彼らの2枚のコンセプト・アルバム、「ア・ロンリー・マンA Lonely Man」と「ア・レター・トゥ・マイセルフA Letter to Myself」は、ブランズウィックの名アレンジャー、トム・トム・トム・ワシントンTom “Tom Tom” Washingtonの協力のもと、豪華なソウル・ハーモニーの画期的作品となった。隣のデトロイトでは、モータウンのロサンゼルス移転によりソウルの活動体制に空白が生じ、言うまでもなく非常に才能のある多くの楽器奏者に仕事がないままになっていた。レコード・プロデューサーのアーメン・ボラディアンArmen Boladianはこれを利用し、デトロイト・エメラルズThe Detroit Emeraldsなど主流派のボーカル・グループ・サウンドを世に送り出した。このトリオは、1972年にヒットにはいたらなかった「フィール・ザ・ニードFeel the Need」 がなければ、楽しい「ユー・ウォント・イット・ユー・ゴット・イットYou Want It, You Got It」を残したとはいえ、脚光を浴びていなかっただろう。

しかし、70年代初頭のソウル・シーンで最も注目すべきはフィラデルフィアだった。ソングライターのケニー・ギャンブルKenny Gambleとレオン・ハフLeon Huffは、フィラデルフィアのレーベル、アークティック・レコードArctic recordsでギャンブルGamble の演奏と曲作りを始めて、いくつかの人生経験を踏み、コロムビア・レコードColumbia recordsに注目され契約したことがある。この時、彼はキャンディ&キスィズCandy and The Kissesというグループで活動していたキーボード奏者のハフHuff、ギャンブルの友人で後にスタイリスティックスThe Stylisticsと活動することになる才能あるソングライター、アレンジャー、プロデューサーのトム・ベルThom Bellと組んで、タレントを探し始めた。彼らは、近所の4人組、イントゥルーダーズThe Intrudersにタレント性を見出し、1965年に彼らのために書いた曲「ユナイテッド(We’ll Be) United」は、ギャンブル・レーベルからリリースされ、翌年ヒットした。1970年、ギャンブルとハフはコロムビア・レコードに対し、それまでに彼らが作曲しプロデュースした素晴らしいヒット曲のカタログを提示し、自分たちのレーベル、フィラデルフィア・インターナショナルPhiladelphia Internationalを設立することを提案した。この会社はシングルとアルバムを発売し、コロムビアの配給力と宣伝力を背景とするもので、モータウンなど主流のソウルの会社は、マービン・ゲイはともかく、まだアルバムに手を付けていなかったからだ。コロムビアはソウル・チャートに関してはあまり成功していなかったので、この話に乗った。新しいレコーディング・スタディオのシグマ・サウンドSigma Soundと、天才エンジニア、ジョー・ターシャJoe Tarsiaを手に入れ、デュオが好んだ大編成バンドから荒っぽさを取り除き、楽曲を気楽に聞ける音楽にすることができるようになった。彼らは仕事にとりかかった。長年のビジネス経験から、あまり使われていないタレントをたくさん知っていた。大小たくさんのレーベルで録音したがうまくいかず、ずっとツアーで活動していたオージェイズThe O’Jays、同じくツアーで疲弊しトップに立つための要素がひとつ足りないように見えたハロルド・メルビン&ブルーノーツHarrold Melvin and The Blue Notes、地元のクラブで働くラウンジ・シンガーのビリー・ポールBilly Paul、1967年に「レット・ザ・グッド・タイムス・ロール/フィール・ソー・グッドLet the Good Times Roll/Feel So Good」のメドレーでヒットした恰幅の良い紳士、ウォルター・バニー・シグラーWalter “Bunny” Sigler、それからもちろん、旧知のイントルダーズThe Intrudersもそうだ。1972年、すべてが爆発した。オージェイズは「バック・スタバーズBack Stabbers」をリリースし、リード・シンガーのエディ・レバートEddie Levertがダイナミックなトム・ベルThom Bellのアレンジに乗せて社会的なメッセージを力強く訴えた。次は、ドリーミーなバラード 「イフ・ユー・ドント・ノー・ミー・バイ・ナウIf You Don’t Know Me by Now」で、ハロルド・メルビン&ブルーノーツHarold Melvin and The Blue Notesの曲だが、ボーカルはドラマーのテディ・ペンダーグラスTeddy Pendergrasだった。彼にはグループに欠けていたカリスマ性があり、ソロになる前に彼らのために多くのヒット曲をフロントとして演奏することとなる。同時に出たビリー・ポールの「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズMe and Mrs. Jones」もバラードで、彼はその後8年間チャートに登場することになる。そして最後に、オージェイズは1973年の幕開けを「ラブ・トレインLove Train」で飾った。この曲は、全面的にナンバーワンのレコードになり、ギャンブルとハフが会社の方針として確立しつつある普遍的な愛というメッセージを説いた。この曲はバニー・シグラーBunny Siglerによって書かれ、彼自身のバージョンは7分にも及び、1974年にシングルとアルバムの1曲としてリリースされ、フィラデルフィア・インターナショナルPhiladelphia Internationalがリリースした中では最もゴスペル色が強かった。1973年、ギャンブルとハフは、放課後の新しいテレビ・ダンス番組「ソウル・トレインSoul Train」のテーマ曲「ソウル・トレインのテーマTSOP (The Sound of Philadelphia)」をレコーディングし、彼らが指揮を取ると通知したのである。この曲を演奏したのは、彼らのハウス・バンドであるMFSB (Mothers, Fathers, Sisters, and Brothers, 別名が使われることがよくあった)で、同じく彼らが見出したスリー・ディグリーズThe Three Degreesがボーカルとして担当した。新しいモータウンはフィラデルフィアにあり、古いモータウンと同様に、チャート上で人種混合の音楽革命をもたらすことになる。

古いモータウンは、悲惨な状況にあった。テンプテーションズThe Temptationsはノーマン・ホイットフィールドNorman Whitfieldの下で再び黄金期を迎え、ジャクソン・ファイブThe Jackson Fiveは大金を稼ぎ、スプリームスThe Supremesとスモーキー・ロビンソン&ミラクルズSmokey Robinson and The Miraclesは順調で、ダイアナ・ロスはテレビのスペシャル番組に出演し、ベリー・ゴーディBerry Gordy製作のビリー・ホリディBillie Holiday伝記映画「レディ・シングズ・ザ・ブルースLady Sings the Blues」にまもなく主演する予定だった。実のところ、ジャクソン・キッズThe Jackson kidsは、ジャーメインJermaineとマイケルMichaelがグループを離れてソロでレコーディングをするほど好調だった。ジャーメインはベリーの娘ヘイゼルHazelと結婚し、一方でいくつかのヒット曲も出した。しかし、かつてのレーベルを築いたアーティストたちは去ろうとしていた。1972年9月、ビルボード誌はフォー・トップスThe Four Topsがダンヒルと契約したことを発表し、それは奇妙な相手先に思えたが、再びヒットを出し始めたことを考えると、結果的には悪い考えではなかった。そして、1973年半ばには、グラディス・ナイト&ピップスGladys Knight and The Pipsがブッダ・レコードBuddah recordsに移籍した。1972年8月、モータウンの関心は以前からロサンゼルスに集中していたが、正式に移転し、同月、副社長のウィリアム・スモーキー・ロビンソンWilliam “Smokey” Robinsonは、幼なじみのミラクルズThe Miraclesを離れることを発表、1974年には、初期からグループで歌っていた妻のクローデットClaudetteと別居したが、後に一時和解した。

1973年3月1日、キャピトル・レコードCapitol records傘下のプログレッシブ・ブリティッシュ・ロックを得意とするハーベスト・レコードHarvest recordsから、ピンク・フロイドPink Floydの最新作アルバム、「ダークサイド・オブ・ザ・ムーンDark Side of the Moon」が発売された。このバンドは、ジョー・ボイドJoe Boydの言葉を借りれば「アンダーグラウンドのサウンドトラック」として1967年に登場し、サイケデリックなロンドンの原点となったカムデンCamdenの巨大な旧鉄道ビル、ラウンドハウスthe RoundhouseにおいてUFOクラブ主催の夜イベントに何時間も即興演奏をしたことで有名だが、英国での活躍に比べると期待はずれだった。シド・バレットSyd Barrettが率いる4人組はケンブリッジからロンドンにやってきて、すぐにレコード契約を結んだ。ピンク・フロイドPink Floydは、バレットが作った「シー・エミリー・プレイSee Emily Play」等いくつかのヒット・シングルを英国で制作したが、アメリカのチャートでは下位に低迷した。しかし、バンドはバレットが彼らのブライアン・ジョーンズBrian Jonesになったと判断し、ファースト・アルバムの後に別れたが、彼らのアルバムはそれほどうまくはいかなかった。彼は隠遁する前にハーベスト・レコードでアルバムを数枚マネジメントし、2006年に亡くなった。アメリカのハーベストは、EMIがイギリスでリリースした常軌を逸したアーティスト、ロイ・ハーパーRoy Harper、クオーターマスQuatermass、ベーブ・ルースBabe Ruthの墓場だった。ピンク・フロイドにとって最も良かったは、映画のサウンドトラック、「雲の影Obscured by Clouds」だった。そして「狂気Dark Side of the Moon」が登場した。

このアルバムはバレット脱退後のものと大差なく、持続音のブーンという音、効果音、重たくて鈍いテンポ、そして初期のシンセサイザーであるVCS 3(音を出すだけでなく、入力した音を修正できる小型で簡単に持ち運べる機械)を多用していた。「ダーク・サイドDark Side」の9曲中6曲しか歌詞がなかったが、「The Great Gig in the Skyザ・グレイト・ギグ・イン・ザ・スカイ」では、スタディオ・シンガーのクレア・トリーClare Torryが即興でボーカルを担当した。それがかえって良かった。というのも、ベースのロジャー・ウォーターズRoger Watersの歌詞は、「人生は生きなければならず、無駄にはならない」「お金は人を変えるが、良い方向には変えない」「精神を病んだ人は問題になる(実体験)」など、あきれるほど当たり前のことばかりだからだ。しかし、今回、このレコードは売れた。本当に良く売れた。FMラジオはこのレコードに目を止め、とことんかけた。特に「マネーMoney」という曲をかけた。このアルバムでは、途中から話し言葉が遠くに混ざっていて、マリファナたばこを吸いながらステレオヘッドフォン(価格が下がって、今ではハイファイ用の標準アクセサリーになっている)で聴くのに好都合だった。このアルバムは売れに売れ続けた。1973年の発売から1988年に外れるまで、ビルボードのアルバム・チャートに741週連続でランクインし続けた。(1992年にCDで再リリースされると、再びチャート入りし、すべてのフォーマットで1000週以上チャートインした)。このアルバムは世界中で何千万枚も売れ、バンドのメンバーはとても裕福になった。しかし、ロジャー・ウォーターズRodger Watersが気難しい世界観の持ち主であり、バンドを利用して文句を言うのを止めることにはならなかった。

こうして、イギリスのロックはプログレッシブ、つまり『プログ』ロックに集まって、商業的に成功するようになった。もちろん、サイケデリックの時代から続いていたのだが、ピンク・フロイドの大成功によって、それが正式に実現した。プログレにはあらゆる種類がある。ジェスロ・タルJethro Tullでは、奇妙なフロントマンであるイアン・アンダーソンIan Andersonが片足で立ち、仰々しく理解しがたい歌詞の曲でフルート・ソロを吹いている。タルの音楽は、メンバーの入れ替わりとともに、ますます一貫性がなくなったが、「アクアラングAqualung」、「シック・アズ・ア・ブリックThick as a Brick」、「ア・パッション・プレーA Passion Play」といったコンセプト・アルバムで、何とか全米アルバム・チャート上位に食い込み、後ろの二つは全米アルバム・チャートのトップになった。ローリング・ストーン誌によると、アンダーソンAndersonはホメロスのような詩人ではないくせに、ホメロスの叙事詩を好んでいると書いていて、その指摘は的を射ていた。「ア・パッション・プレイA Passion Play」(新しいガールフレンドをジャケットのモデルに起用し、その子はタルのコンサートで映写された短編映画の主役にもなっている)の直後、アンダーソンは誤解されていると泣き言を言い、辞めて映画を作るつもりだと言った。しかし、辞めなかった。

エマーソン・レイク&パーマーEmerson, Lake & Palmer(ナイスThe Niceのキース・エマーソンKeith Emerson、キング・クリムゾンKing Crimsonのグレッグ・レイクGreg Lake、アトミック・ルースターAtomic Roosterとクレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンthe Crazy World of Arthur Brownのカール・パーマーCarl Palmer)は、1971年にクラシック音楽のスピードアップと大音量バージョンでデビューした。その中には、モデスト・ムソルグスキーModest Mussorgskyの「展覧会の絵Pictures at an Exhibition」をアルバムの長さで好き勝手にアレンジしたものもあったが、この曲はすでに多くのアマチュア・オーケストラがいじっていた。アトランティック・レコードは彼らに自分たちのレーベル、マンティコア・レコードManticore recordsを与え、マンティコアはイタリアのバンド、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニPremiata Forneria Marconiと契約した。キング・クリムゾンKing Crimsonは1969年に「イン・ザ・コート・オブ・ザ・クリムゾン・キングIn the Court of the Crimson King」からスタートした。このアルバムは、多くの点でこれらすべてのひな型となった。分かりにくいとは言え、非常にシリアスな楽曲とロバート・フリップRobert Frippのギター演奏が特徴で、彼はこの分野の草分け的存在となり、このバンドの多くのバージョンが今日まで続いている。ジェネシスGenesisは、サリー州にある私立学校、チャーターハウスCharterhouseの友人たちで構成され、ボーカルのピーター・ガブリエルPeter Garbrielとキーボードのトニー・バンクスTony Banksが率いていた。彼らは最初、一体となることは無く、1970年になって、トニー・ストラットン=スミスTony Stratton-Smithがプログレ志向の新レーベル、カリスマ・レコードCharisma labelと契約し、彼らもコンセプト・アルバムを発表するようになった。しかし、当初はドラマー問題があったことと、結成当時はまだ学生だったことから、キャリアはゆっくりと進むことになる。ドラマー問題は、チャーターハウス校出身ではないフィル・コリンズPhil Collinsを起用することで解決した。彼は子役時代に「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! A Hard Day’s Night」のエキストラとして出演していたことを読者は覚えているかもしれない。カンタベリー出身のバンド、ソフト・マシーンSoft Machine(ウィリアム・バロウズWilliam Burroughsの同名小説から取った名前)は、1968年にアルバムをリリースしたが鳴かず飛ばずで、その後カンヌに旅立ち、この地方に住むパブロ・ピカソPablo Picassoの劇「デザイア・コート・バイ・ザ・テイルDesire Caught by the Tail」のサウンドトラックを提供して夏を過ごすことになった。イギリスに戻ると、ギタリストのケビン・エアーズKevin Ayers、オルガン奏者のマイク・ラトレッジMike Ratledge、ドラマーのロバート・ワイアットRobert Wyattの3人を中心に、インストゥルメンタルのチームを結成して維持する一方で、プログレ志向の地元のミュージシャンたちと別のプロジェクトに取り組んだ。その中にはワイアットWyattが組んだバンド、マッチング・モールMatching Moleがあり、2枚のインストゥルメンタル・アルバムを録音している。1973年、3作目制作のためにスタディオ入りする前のパーティーで、ワイアットは4階の窓から転落し、腰から下が麻痺してしまった。ピンク・フロイドは彼のために慈善興業を行い、彼は独学でキーボードを学び、その結果、歌中心の一連のアルバムが生まれ、熱狂的なファンを持つことになった。ソフト・マシーンの残りのメンバーは、時にはホーンを使い、時には使わずに、熱心なファンのためにプログレやジャズ・フュージョンといえるような音楽を演奏して頑張ってきたのである。

ジェスロ・タルJethro Tullに次いで、プログレで商業的に成功したのはおそらくイエスYesで、そのファースト・アルバムとセカンド・アルバムを聴けば、少し気取ったハードロックバンドであることがわかる。キーボード奏者が交代した1972年の「こわれたものFragile」(ジャケットは以後、彼らと関係を持つことになるアーティスト、ロジャー・ディーンRoger Deanによるもの)から始まって、バンドは未知の世界へと旅立ち、ポップな感覚のメロディに、長くて重々しい歌詞の楽曲を書き、ボーカルのジョン・アンダーソンJon Andersonがクリアな高い声で歌うようになった。「海洋地形学の物語Tales from Topographic Oceans」というアルバム・タイトルは、いったい何を意味しているのだろう?誰にも分らない。とにかく売れて、何週間もアルバム・チャートのトップ10に居座った。キーボード奏者のリック・ウェイクマンRick Wakemanはその後脱退し、ヘンリー8世の6人の妻、ジュール・ベルヌの『地底旅行Journey to the Center of the Earth』を元にしたロック・オペラ、そして最もばかげた「アーサー王と円卓の騎士たちThe Myths and Legends of King Arthur and the Knights of the Round Table」など、キーボードばかりを使った歴史コンセプト・アルバムを発表し、批判を浴びるようになった。これらのアルバム制作に当たっては、オーケストラや合唱団を呼んでライブ演奏をしたり、アイス・スケートに乗って上演した。結局、ウェイクマンは税金問題でイエスに戻らざるを得なくなり、不可解なメンバー入れ替えを繰り返しながら、広大なスケールで活動を続けた。これらのグループの多くは、メロトロンMellotronという珍しいキーボードを使用していた。メロトロンは、弦楽器、音声、フルート、金管楽器などの、今日でいう「サンプル」を、複雑なテープ装置に録音したものだ。演奏者はメロトロンを使ってオーケストラや合唱団を模倣したり、単音のラインを演奏したりすることができた。メロトロンは重く、壊れやすく、あまり多機能ではなかったので、スタディオに追いやられてしまった。ビートルズの「ペニー・レイン」のイントロで効果を発揮しているのを聴くことはできるが、70年代プログレの決定的なサウンドだった。

おそらく最も重要なプログレの録音は1973年だったが、それは音楽上の理由が中心ではなく、元フォーク・シンガーのマイク・オールドフィールドMike Oldfieldが、ソフト・マシーンSoft Machineのメンバー、ケビン・エアーズKevin Ayresのバンドに参加する前に、姉とデュエットした時のことだ。その時、バージン・レコードVirgin Recordsを経営するリチャード・ブランソンRichard Bransonと出会ったのだが、その店はブランソンが10代の頃に寝室でやっていた通信販売から立ち上げたレコード店で、ブランソンは自らレコード会社を立ち上げることを検討していた。「現代の録音技術は、楽器のラインを重ねることによって、複雑な構成で曲を構築することができる」というオールドフィールドの説明に心を奪われ、お金がないのに、オールドフィールドをアビーロード・スタディオAbbey Road Studiosに送り込んだ。そして、ブランソンは、両親から借りたお金でオックスフォードシャーに邸宅を購入して、マナー・スタディオManor Studiosとし、レーベルがお金を出すことを了承すれば、バンドは数週間から数ヶ月間、そこで生活できた(この時点では、レーベルは喜んでこれを了承していた)。オールドフィールドはマナー・スタディオの操業テストとして、50分のインストゥルメンタル大作、「チューブラー・ベルズTubular Bells」を発表し、バージン・レコードVirgin Recordsから最初のリリースとなった。ウィリアム・フリードキンWilliam Friedkinが、このアルバムから編集した曲を大ヒット映画「エクソシストThe Exorcist」のメインテーマとして使用したことで、すでにイギリスとアメリカで大ヒットしており、アルバムはさらに何カ月もチャート入りすることになった。この予期せぬ幸運はブランソンに大きな自信と大金をもたらし、バージンの名を冠した『超大型店舗』チェーンのみならず、最終的には航空会社、ホテル、英国鉄道会社、宇宙開発会社など、輝かしい事業集団を立ち上げることを可能にしたのである。リチャード・ブランソンはアルバム1枚で億万長者になったが、ビジネスに関する自分の才能を見出したことも、おそらく関係していたのだろう。マイク・オールドフィールドに関しても、最初の大成功のおかげで十分報われたが、待望の続編であるアルバム、「ハーゲスト・リッジHergest Ridge」はその成功には遠く及ばず、それ以降のアルバムはさらに悪い結果となった。

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この時期、アメリカにプログレがなかったと言うのは不正確だが、それはイギリス人が支配するジャンルであり、一方でイギリスのエリート校である『パブリック・スクール』の文化(ジェネシスGenesisメンバーが同級生の時に結成)と国家神話(アーサー王、あるいはJ・R・R・トールキン J. R. R. Tolkienのフィクション)に根ざしていた。アメリカはまさに新世界であり、1970年代前半には、新たなディランを見つけるという別の探求をしていた。ディラン本人は飼いならされて、プロテストや抽象的なものをあまり書かなくなり、少なくともレコード業界は、アメリカの若者が1965年と66年にボブ・ディランが与えてくれたスリルを切望していると考えているようだった。ローレル・キャニオンのシンガーソングライターたちも、プロデュースするつもりはなかった。彼らの歌はあまりに自己中心的だったため、幻想を描いたり、失恋やツアー中のマリファナによる無法状態しか訴えられなかった。しかし、たくさんの子供たちがたくさんのギターを持っていたし、猿が無限にタイプライターをたたき続ければ名作を打てるという『無限の猿定理』に基づけば、素晴らしいアーティストは登場するはずだ。そして、その通り、時折現れていたのだった。アーロ・ガスリーArlo Guthrieは、ウディWoody Gathurieの息子であり、ピート・シーガーPete Seegerの友人であったのでぴったりの人なのだが、彼の最初のリリースは歌というよりおしゃべりに近く、アルバムの片面を全部使う曲で、自ら災いを招くようなものだった。「アリスズ・レストランAlice’s Restaurant 」は、FMの深夜ディージェイたちのお気に入りで、マリファナを吸いに外へ行ったり、トイレに行く曲となり、LPの裏面はほとんど無視されることになった。次のアルバムは、麻薬の密輸に関する曲(「カミング・イン・トゥ・ロサンゼルスComing in to Los Angeles」)で始まるが、これはキャッチーでも大衆が求めている曲ではなかったかもしれない。しかし、他にもあった。ラウドン・ウェインライト3世Laudon Wainwright Ⅲは、その名前が示すように、特権階級(父親は何年もライフ誌にコラムを連載しており、同誌の終盤の編集者になった)の子供だったが、他の人と同様にニューヨークのフォーク・クラブの中から這い上がってきたのである。彼の歌のいくつかは素晴らしいが(自嘲的で辛辣な観察眼に富み、メロディもいい)、演奏中は顔をしかめ、舌を出し、見るに堪えない態度である。それでもAtlanticは彼にチャンスを与えたが、2枚のアルバムを出した後に彼を放出した。しかし、彼のキャリアに致命的だったのは、シングル・ヒットだった。アトランティック・レコードが彼を放出した後、コロムビア・レコードColumbia recordsがすぐに契約し、「アルバムIII Album Ⅲ」を作った。その中に「デッド・スカンクDead Skunk」という曲があったが、面白く、キャッチーで、そして道路の真ん中にいる死んだスカンクの話だった。1973年の初めに16位まで上がり、ラウドン・ウェインライトLoudon Wainwrightは、それなりにキャリアを積んできたのだが、それ以来、『死んだスカンク』の男となった。

ジョン・ププランJohn Prineは元郵便配達員で、シカゴのフォーク・クラブに夜な夜な出入りし、プロテストと個人的な歌をうまく織り交ぜて書き、幅広い層のファンに感銘を与えた。ナッシュビルの新しいカントリー・ライターたちは彼を気に入り、スワンプ・ドッグSwamp Doggでさえ、ヘロインの問題を抱えたベトナム帰還兵を歌った彼の「サム・ストーンSam Stone」を録音している。結婚していたし、曲の中で遠慮しないではっきり言うので、キャリアを長持ちさせるための美徳なのだが、大人びたテーマは若い人たちを興奮させることがなく、彼は優れてはいたが新しいディランではなかった。友人のスティーブ・グッドマンSteve Goodmanも新しいディランではなかったが、それを気にしていないようだった。「シティ・オブ・ニュー・オリンズCity of New Orleans」(この曲はアーロ・ガスリーArlo Guthrieにとって唯一のトップ20ヒットとなり、他の多くの人たちもレコーディングした)を書いてそれなりの生活をしていたが、白血病で若死にした。必要とされていたのは、もっと若くて、もう少しロック色が強く、あまり円熟せず、ディランのような言葉のセンスがあり大衆受けする人だった。

そして、1973年の初め、まだほとんど誰も知らないが、ディランと同じルートで、彼は現れた。そのルートとは、コロムビア・レコードColumbia RecordsのA&Rマン、ジョン・ハモンドJohn Hammondである。ブルース・スプリングスティーンBruce Springsteenは、ジャージー・ショアのロック・クラブで働いた経歴があり、労働者階級の家庭生活を送り、デビュー・アルバム、「アズベリー・パークからの挨拶Greetings from Asbury Park, N.J. 」の曲が示すように、豊かな想像力をもっていた。今から思い返せば、曲はまだ完全には熟していなかったが、そこに何かがあったことは、9月に発売されたセカンド・アルバム、「青春の叫びThe Wild, the Innocent & the E Street Shuffle」でさらに明らかになった。このアルバムで演奏したバンドはEストリート・バンド E Street Bandと呼ばれ、ツアーに同行させ、クラレンス・クレモンズClarence Clemonsという巨漢の黒人サックス奏者を擁しており、スプリングスティーンは彼をステージ上の引き立て役として使い、バンドはライブの驚異的アーティストとして知られるようになった。それだけでなく、ロック評論家からも愛された。ジョン・ランドーJon Landauは、1974年5月22日付のボストンのリアル・ペーパー誌Real Paperで、スプリングスティーンのライブを評して、「私はロックンロールの未来を見た、その名はブルース・スプリングスティーンだ」と述べている。批評家は激賞したのだが、いつもと違って、それが災いの元となることは無かった。ところが、スプリングスティーンはスター街道を突き進み始めたものの、マネジメントの問題からさらにレコードをリリースすることはできず、再登場まで2年という長い月日を要することになる。

アメリカの型破りなバンドは、イギリスのプログレとわずかなつながりを持っていた。といっても、それは単に、当時の主流(ギターソロ中心のバンドやメロウなロック)には収まりきらなかったから、という理由にすぎなかった。ブルー・オイスター・カルトBlue Öyster Cultは、ロングアイランドのニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校SUNY Stony Brookでストークフォレスト・グループStalk-Forrest Groupというフォークロック・バンドとしてスタートし、60年代後半にはエレクトラ・レコードElektra recordsとアーティスト育成契約も結んでいた。友人のサンディ・パールマンSandy Pearlmanがマネジメントを担当し、もうひとりの友人でロック評論家のリチャード・メルツァーRichard Meltzer(イェール大学の修士論文は1967年に『ザ・エスセティクス・オブ・ロックThe Esthetics of Rock』として出版)が作詞で協力した。コロムビア社長のクライブ・デイビスClive Davisの目に留まる頃には、彼らは名前を変え、風変りな曲のたくさん入ったレパートリーを持ち、激しいギターソロをこなせる三人ギターを編成した。彼らの曲は少し小難しく、もちろん評論家はそういう曲が大好きだったが、ファースト・アルバムに収録された「シティーズ・オン・フレーム・ウィズ・ロック・アンド・ロールCities on Flame with Rock and Roll」という賛歌は、ライブで人気を博し、FMでもよく聴かれるようになった。ニューヨーク州立大学出身のもうひとつの頭脳派バンドは、スティーリー・ダンSteely Dan(ウィリアム・バロウズWilliam Burroughsの『裸のランチNaked Lunch』に登場する蒸気仕掛けのディルドにちなんで名づけられた)。バード大学Bard Collegeで出会ったドナルド・フェイゲンDonald Fagenとウォルター・ベッカーWalter Beckerという2人のソングライターが、決心して作り上げたバンドだ。彼らは最初の曲をバーブラ・ストライサンドBarbra Streisandに売り込み、ニューヨークにおけるロック/ジャズのアンダーグラウンド界での実績を積み上げ、新進気鋭のプロデューサー、リチャード・ペリーRichard Perryが率いるダンヒル・レコードDunhill recordsのニューヨーク・オフィスから契約を持ちかけられた。デビュー・アルバム、「キャント・バイ・ア・スリルCan’t Buy a Thrill」はFMで取り上げられ、「ドゥ・イット・アゲインDo It Again」、「リーリング・イン・ディ・イヤーズReelin’ in the Years」 の2枚のヒット・シングルを生んだ。しかし、バンドは素晴らしいショーを行っていたにもかかわらず、ツアーは悲惨なものとなり、やがてオリジナル・メンバーは脱落し、フェイゲンとベッカーはアメリカの優秀なスタディオ・ミュージシャンとレコード制作を行い、ツアーは完全にやめてしまった。スティーリー・ダンはAMでかかっていたが、1974年の「リッキ・ドント・ルーズ・ザット・ナンバーRikki Don’t Lose That Number」を最後に衰退し、1981年に解散を発表するまでFMの王者であり続け、2017年にベッカーが亡くなるまで時折再結成ライブが行われていた。

それよりも、この頃のアメリカらしいものといえば、ヒューストンのトリオ、ZZトップ ZZ TOPのプロデュースである。ヒューストンの人気バンド、ムービング・サイドウォークスMoving Sidewalksでヘンドリックス風のギターを弾いていたギタリストのビリー・ギボンズBilly Gibbonsを中心に、ベースのダスティ・ヒルDusty Hillと、ドラマーのフランク・ビアードFrank Beardを加えたバンドである。この2人は、ダラスの人気バンド、アメリカン・ブルースthe American Bluesの3人中の2人だった。彼らは、ヒューストンの音楽業界のお騒がせ者で、元の肉切り職人(このように人々に思い出させるのが、ヒューイ・モーHuey Meauxは好きなのだ)のビル・ハムBill Hamとマネジメント契約を、また、ロンドン・レコードLondon Recordsと契約を結び、1971年にテキサスと深南部を中心としたツアーを開始した。アメリカはまだグランド・ファンク・レイルロードGrand Funk Railroadに熱狂しており、ZZトップの方がもう少しブルースに根ざしていたが、グランド・ファンク解散後、ZZの3枚目のアルバム、「トレス・オンブレスTres Hombres」がトップ10に急上昇してランクインした。彼らは1977年にロンドン・レコードとハムとの契約が切れるまで、7年間ツアーをやめず、たまの休みにレコーディングをした。ハムは旧いタイプのマネジャーで、バンドとその出版権をほぼ完全に管理していた。たとえば、ギボンズは他のアーティストのアルバムにゲスト出演したり、人前でジャムすることを禁じられていたので、聴衆への露出は限られていたが、のちにミュージカル『テキサス1の赤いバラBest Little Whorehouse in Texas』の題材となった伝説の売春宿チキン・ランチChicken Ranch brothelを描いた「ラ・グランジLa Grange」など、長年の苦労が報われ、1979年にワーナー・ブラザース・レコードWarner Bros. recordsと契約した後、全米トップ・アーティストの仲間入りを果たした。

マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldがセミリタイア後、地元でのライブだけに絞りヘロインを長く常用していたので、アメリカ人は偉大なギター・ヒーローを探し続けていた。ポリドール・レコードPolydor recordsは、ワシントンDCのバーで長年活躍していたロイ・ブキャナンRoy Buchananこそ、探し続けたヒーローだと考えた。彼はロニー・ホーキンスRonnie Hawkinsの従弟だが、カントリー・ロッカーでヤングブラッズYoungbloodsのプロデューサーでもあるチャーリー・ダニエルズCharlie Danielsがレーベルに関心を持たせ、1970年にナッシュビルでブキャナンのセッションをいくつかプロデュースしていた(2004年まで未発表のままだった)。しかし、ポリドールは彼を信じてセルフタイトルのアルバムをリリースし、彼の名演奏である 「ザ・メシア・ウィル・カム・アゲインThe Messiah Will Come Again」によって、ブキャナンの控えめでほとんど会話的なスタイルを披露した。2枚目のレコードは大ヒットしたが、ブキャナンは成功に安住することなく、ポリドールに存続した後、アトランティックに移籍して活動を続けたものの、うつ病とアルコール依存症に悩まされ、1988年8月にバージニア州の刑務所の中で自らのシャツで首を吊っているのを発見された。

70年代前半、不遇の怪物のようなギタリストといえば、サンセット・ストリップ・シーン全盛のLAを中心に活動していたローウェル・ジョージLowell Georgeで、ロックバンド、マザーズ・オブ・インベンションThe Mothers of Inventionの初期に演奏していたが解雇された。以前一緒にバンドをやっていたドラマー、リッチー・ヘイワードRichie Hayward、キーボードのビル・ペインBill Payne、ベースの元マザーMotherのロイ・エストラーダMother Roy Estradaと組んでリトル・フィートLittle Featを結成し、ワーナース・レコードWarners recordsに見い出されて、シングル「ストロベリー・フラッツStrawberry Flats」とB面の「ハンバーガー・ミッドナイトHamburger Midnight」がローリング・ストーン誌に絶賛された。セルフタイトルのファースト・アルバムはあまり売れず、バンドはあまりツアーをしないで、1972年にセカンド・アルバム、「セイリン・シューズSailin’ Shoes」を発表する頃には、バンドの状態は怪しくなっていた。しかし、このアルバムのジャケットにはLAの奇抜なイラストレーター、ネオン・パークNeon Parkのイラストが採用されており、これが後に彼らのトレードマークとなった。エストラーダEstradaをケニー・グラッドニーKenny Gradneyに換え、パーカッションのサム・クレイトンSam Clayton(メリー・クレイトンMerry Claytonの弟)とセカンド・ギタリストのポール・バレールPall Barrereを加えたことによって、ジョージは特にスライドギター演奏から解放され、バンドは仕切り直して活動を続けた。ツアーの仕事は増え始めたが、決して全国的にヒットすることは無かった。ただし、アトランタ、ワシントンDC、オースティン、ニューヨークなどでは、数日間の売り切れ公演を可能にするほどの熱狂的なファンがいた。1977年、ロンドンとワシントンの2カ所で行われたライブは録音され、翌年この時代最高のライブ・アルバム、「ウェイティング・フォー・コロンバスWaiting for Columbus」としてリリースされた。しかし、複数の薬物問題を抱えていたジョージは、すでに奇矯な行動をとっており、1979年春にバンドを脱退(このバンドは解散)し、ソロ活動をすると発表した。彼の最初で唯一のソロ・アルバム、「サンクス・アイル・イート・イット・ヒアThanks I’ll Eat It Here」は、同年6月に薬物過剰摂取による彼の死とほぼ同時に発売された。

この頃のアメリカにおけるギターを中心としたもうひとつの動きは、皮肉にもデュアン・オールマンDuane Allmanの死によるものだった。オールマン・ブラザーズThe Allman Brothersは遺作として、ライブとスタディオ録音を収録したアルバム、「イート・ア・ピーチEat a Peach」を発表し、爆発的に売れた。その後、残っていたリード・ギタリストのディッキー・ベッツDickey Bettsがバンドのリーダーになった。そして11月、前年にオールマンが亡くなった場所から数ブロック離れた場所で、うつ病を患っていたベーシストのベリー・オークリーBerry Oakleyがバイク事故で死亡した。このため、バンドはこれまで以上に活動を続ける覚悟ができ、メンバーの陣容がそろった後、1973年夏、バンドのマネジャー、フィル・ウォルデンPhil Waldenが所有するブティック・レーベルのカプリコーン・レコードCapricorn recordsからアルバム、「ブラザーズ・アンド・シスターズBrothers and Sisters」をリリースすることになる。このアルバムは、オールマンズThe Allmansのキャリアで最も売れたアルバムとなった。このアルバムは、ベッツBettsの曲「ランブリン・マンRamblin’ Man」が大ヒット・シングルとなったのに代表されるように、ブルージーさが控えめで、独特のカントリー・フィーリングを持っていた。

突然、オールマンズに続くバンドが何組もいることが、レコード会社にとって明らかになった。フロリダのリナード・スキナードLynyrd SkynyrdがMCAブティック・レーベルのサウンズ・オブ・サウスSounds of the South(よりによってアル・クーパーAl Kooperが経営)に登場し、カプリコーンはほぼ同時期にサウス・カロライナ出身のマーシャル・タッカー・バンドMarshall Tucker Bandをデビューさせた(レーナード・スキナードLynyrd Skynyrdは、憎き高校の体育教師レオナルド・スキナーLeonard Skinnerに皮肉を込めて名付けた。マーシャル・タッカーMarshall Tuckerは存在せず、おそらくバンドのリハーサル場の鍵に刻印されていた名前に由来する)。やがて、チャーリー・ダニエルズ・バンドThe Charlie Daniels Band、アトランタ・リズム・セクションThe Atlanta Rhythm Section、アウトローズThe Outlaws、38スペシャル 38 Specials(レーナード・スキナードのロニーRonnieの弟、ドニー・バン・ザントDonnie Van Zantがフロントを務めた)など、『サザン・ロックSouthern rock』が大流行した。オールマンズのようなヒッピー・コミューンの出身であれば、なおさら良かった。当時、一時的に人気を博したブラック・オーク・アーカンソーBlack Oak Arkansasもその一つで、グランド・ファンク・レイルロードGrand Funk Railroadのようなブギーをかき鳴らしていた。カプリコーン・レコードCapricorn recordsはこのムーブメントの最高峰であり、優れたバンドをいくつかリリースしていたが、バンドはいくらでもいた。南軍のイメージを誇示するバンドもいたが、バンド・メンバーには黒人もいた(ただし、彼らの音楽は黒人ファンには全く受け入れられなかった)。そして、オールマン・ブラザーズに起きたような悲劇は、サザン・ロックにとって決して縁遠いものではなかった。レーナード・スキナードは、『サザン・マンSouthern Man』を痛烈に皮肉った『スウィート・ホーム・アラバマSweet Home Alabama』や、ライブでのギター叙事詩『フリー・バードFree Bird』といった曲でスーパースター目前まで迫っていたが、キャリアを決定づけるアルバム『ストリート・サバイバーズStreet Survivors』の発売からわずか3日後の1977年10月20日、飛行機事故でカリスマ的ボーカリストのロニー・バン・ザントRonnie Van Zantを含む複数のメンバーを失ったのだった。キャリアを決定付けるアルバム、「ストリート・サバイバーStreet Survivors」のリリースから3日後のことだった。その後、最終的に生き残ったメンバーが困難な事態を修復して再結成し、長いソロ、キャッチーな曲、反骨心あふれる南部の誇りを持ったサザン・ロックは、長く続くジャンルとなっただけでなく(これらのバンドのいくつかは、大きく形を変えながらもまだ存在している)、次のカントリー・ミュージック革命の礎となり、また南部のFMラジオの主要ジャンルとなったのである。

ポップスは頑張っていたが、売上を伸ばし始めてFMに移行するにはAM放送が必要で、それを実現できたバンドはほとんどなかった。スティーリー・ダンSteely Danは例外だった。当時の偉大な伝説的ポップ・バンドのひとつがメンフィスから生まれた。アレックス・チルトンAlex Chiltonは、ボックス・トップスthe Box Topsのリード・シンガーとして荒々しい声のティーンだった。契約が切れるとメンフィスに戻り、そこでオーディオ・エンジニアリングを学んでいた友人たちと一緒に非稼働時間に、新会社アーデント・スタディオArdent Studiosを利用することができた。そこは、スタックス・レコードStax recordsが一部出資し、ロック・アーティストのレコーディングを行っていた。チルトンのパートナーは、クリス・ベルChris Bellだった。彼はポップスターを目指して、ビートルズ・メンバーになっているはずだったと本気で考えていた。やがて二人は、ドラマーのジョディ・スティーブンスJody Stephensとベーシストのアンディ・ハンメルAndy Hummelという同じ志を持つ2人の若者を採用することになる。1971年、アーデントでは、ほとんどの仕事がラジオ用のジングルだったため、一晩中曲を作っていた。ある晩、4人が外で休憩しているときに、自分たちはバンドなのだから名前が必要だと思った。道路を挟んで2つの建物があり、ひとつはスウェーデン・クリームSweden Kreamというアイスクリーム屋、もうひとつは地元の巨大食料品店ビッグ・スターBig Starの支店だった。彼らはこの名前が好きだった。南部以外の人には通じないジョークであり、彼らのセッションから生まれたアルバムのタイトルと同様に、彼らの野心を皮肉ったものだった。このアルバムは、「#1レコード  #1 Record」であり、ビートルズ以来のポップ・ロック・ナンバーに勝るとも劣らない、しかし、アメリカらしいフィーリングを持った曲が何曲か収録されている。その中には、「フェン・マイ・ベイビーズ・ビサイド・ミーWhen My Baby’s Beside Me」や「サーティーンThirteen」などがある(10代の主人公が、年下の恋人に「『黒く塗れ!Paint It Black 』について僕たちが言ったこと」を父親に思い出させるよう言っている、というようなポップカルチャーに精通した発言がある)。このアルバムは、スタックス・レコードStax recordsがバックにいたので、大ヒットになりえたかもしれなかったが、ちょうどその時1972年だったので、スタックスは配給業者をアトランティック・レコードAtlantic recordsからコロムビア・レコードColumbia recordsに変えており、どうしたものかアルバムはかろうじて1,000枚しか売れなかった。そのため、クリス・ベルは文字通り怒り狂った。彼の細部への執拗なまでのこだわりと、アルバムを通してチルトンChiltonの歌の良さを引き出すように見事に練られた歌は、このアルバムを作り上げた2つの要素だった。やがて彼はバンドを脱退し、精神病院に入院した。退院後は、一人でアルバム制作を始めた。(生前発表されたのはシングル「アイ・アム・ザ・コスモスI Am the Cosmos」のみで、1978年に自動車事故で亡くなった)。一方、残った3人は1年後にセカンド・アルバム、「ラジオ・シティRadio City」を制作した。そのジャケットは、ファンの一人による、赤い壁と電球の印象的なものだった。そのファンとは、メンフィスの有名な芸術写真家ウィリアム・エグルストンWilliam Egglestonだ。またしてもスタックスはバンドの希望を潰し、そして再びバンドはスタディオに入る。今度は、レーベルが彼らのレコードを全面的に拒否した。そして、しばらくの間、そのような状況だった。

クリス・ベルChris Bellがこだわったのは、アメリカでポップ・バンドをやるには、英国びいきであることが有効だということだった。彼以前に、それが当てはまるバンドとして注目されたのが、セントルイス出身のエアロボンズThe Aerovonsだ。キャピトル・レコードCapitol recordsは彼らをイギリスに派遣し、アビーロードAbbey Roadでレコーディングを行った。彼らはビートルズのスタッフ(とジョージ・ハリスン)に感銘を与えたが、EMIレコードとキャピトルはそのアルバムを見送り、2003年まで聞かれることはなかった。モントリオール出身のワッカーズThe Wackers、レフト・バンクThe Left Bankeの残党であるストーリーズStories、ハッカモア・ブリックHackamore Brick、クラビー・アップルトンCrabby Appletonといったバンドはすべてこのことを理解していたが、ほとんどの場合、AMラジオは彼らとは関わりを持ちたがらず、それよりずっと無難なレコードがリリースされた。クリーブランド郊外のメンター出身のラズベリーズThe Raspberriesだけが、大々的ではないにせよ、実際に成功したバンドで、主なソングライター、エリック・カルメンEric Carmenには、なぜか心に響くポップなソングライティングの才能があった。1972年に「ゴー・オール・ザ・ウェイGo All the Way」がトップ10に入り、1974年の「オーバーナイト・センセーションOvernight Sensation (Hit Record)」という激しいタイトルがついた最後のヒットまで続いたが、この時点でカルメンはグループから脱退して、ソロ活動と他の人のためのソングライターとしての道を歩み始めた。彼の最初のソロ・レコードは、「オール・バイ・マイセルフAll By Myself」で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のメロディを基にしていると人々に話したがっていたが、1位を獲得している。彼は音楽院で学んだので、残念ながらそこで学んだことから逃れることができなかった。

英国では、ポップスとロックの区別はあまりなく、バンドはBBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスTop of the Popsやチャートに登場し、レコードを売り、運がよければ全米ツアーをすることを望む傾向があった。最も名門のイギリスのポップ・バンドはバッドフィンガーBadfingerで、アップル社から移籍し、ハリー・ニルソンHarry Nilssonの「ウィズアウト・ユーWithout You」がナンバーワン・ヒットになったのが最大の成功例だった。ビートルズからの支援も色々とあり、アップル・レコードApple recordsからワーナース・レコードWarners recordsへの移籍も成功したが、アメリカのAMラジオは彼らに興味を示さず、良い関係を作れなかった。ピート・ハムPete Hamとジョーイ・モランドJoey Mollandのソングライター・チームは、1975年、ハムがマネジメントについて謎めいたメモを残して首を吊り、その幕を閉じた。1979年に再結成するものの、1983年にベーシストのトム・エバンスTom Evansが自殺し、再びバンドはバラバラになる。

そして、フリートウッド・マックFleetwood Macは、バッドフィンガーBadfingerとは正反対の問題に悩まされた。ある時には、死んだりあきらめたりしてもおかしくなかったが、そうなることは無かった。オリジナルのギタリスト2名を精神疾患とカルト信仰で失った後、パリにいてホワイト・ソウルのキャリアを持つアメリカ人のボブ・ウェルチBob Welchと、新しいギタリストのダニー・カーワンDanny Kirwanを加えた。しかし、カーワンは、突然バンドにいたいという気が無くなって解雇され、代わりにボブ・ウェストンBob Westonとボーカルのデイブ・ウォーカーDave Walkerが入ったが、ウォーカーはすぐに脱退してしまった。彼らはアメリカ・ツアーを行い、主に一般的なフェスティバルに出演していたが、その間にウェストンがミック・フリートウッドMic Fleetwoodの妻と不倫を始め、バンドはツアーを中止してイギリスに戻ることになった。憤慨したマネジャーは、フリートウッド・マックという名前は自分のものだと主張し、ボブ・ウェルチに電話をかけて、開催されなかった日程を埋めるために彼が結成した『フリートウッド・マックFleetwood Mac』に参加する気があるかどうかを確認した。ウェルチは関心がなかった。偽者たちはツアーに出てみると(時には、偽名で活動している別のグループ、『ヤードバーズThe Yardbirds』 と一緒に)、本物の フリートウッド・マック をよく知っているファンたちがいて、ファンたちはバンドのレパートリーを良く知っていたため、ステージ上の連中がそのどれも演奏していないことに気づいて驚いた。ウェルチは本物のバンドに知らせてロサンゼルスに行くよう説得し、そこで再び合流した。彼らは弁護士を立てて、元のミュージシャンにバンド名を返すよう訴訟を起こした。フリートウッド・マックはその後、アルバム、「ヒーローズ・アー・ハード・トゥ・ファインドHeroes Are Hard to Find」をレコーディングし、1974年に大規模な全米ツアーを行って、失敗を償い、できるだけ多く露出して稼いだ。疲れ果てたウェルチは12月にバンドを脱退し、ミック・フリートウッドはレコード会社に多額の借金があることを知っていたので、次のアルバムをレコーディングするためのプロデューサーとスタディオを探しに行った。

サウンド・シティ・スタディオSound City Studiosで、プロデューサーのキース・オルセンKeith Olsenが興味を示し、2年前に無名のデュオと作った無名のアルバムから1曲演奏して、プロデュースの手腕を披露した。リンゼー・バッキンガムLindsey Buckinghamとスティービー・ニックスStevie Nicksは、サンフランシスコでフリッツFritzというバンドを組んでいたが売れないので、有名になるためにロサンゼルスに移っていた。オルセンがプロデュースしたアルバム、「バッキンガム・ニックスBuckingham Nicks」はポリドール・レコードPolydor recordsから発売され、ジャケットには2人の裸が載った。この写真は、いろんなところに登場する南アフリカ出身のノーマン・シーフNorman Seeffの提供によるもので、この写真家によるロックスターの写真は、70年代半ばにLAで大流行していた。シーフは、カーリー・サイモンCarly Simonのアルバム、「プレーイング・ポッサムPlaying Possum」や、バフィー・セイントマリーBuffy Sainte-Marieのアルバム、「バフィーBuffy」のジャケットなど、ロック界のエリートたちをしばしばセクシーに撮っていたが、アルバムは失敗だった。バッキンガムはツアーとセッションをこなし、ニックスはウェイトレスをしていた頃、バッキンガムがたまたまスタディオにいて、そこにいたフリートウッドと話をするようになり、それがきっかけでオーディションを受け、フリートウッド・マックのラインナップに加えられることになった。長い間の苦労を経てようやく運命の歯車がかみ合い、1975年8月に発売されたアルバム、「フリートウッド・マックFleetwood Mac」が、彼らを一躍スターにした。ワーナー・ブラザース・レコードWarner Bros. recordsは、テープを聴いて気に入り、ローリング・ストーン誌ビルボード誌に『英米の男女新旧ブルース・ロック・バラード・バンド』と持ち上げて、バンドの写真入り広告を出した。写真の頭上に各メンバーの名前を記載したのだが、「リンジー」は女の子の名前だろう? それに、スティービーなんて名前の女の子、聞いたことある?と言われた。(この間違いは、翌週のビルボード誌で訂正された。)この構成はうまくいき、クリスティン・マクビーChristine McVie、スティービー・ニックスStevie Nicks、リンジー・バッキンガムLindsey Buckinghamが曲を作り、「オーバー・マイ・ヘッドOver My Head」 や 「リアノンRhiannon (Will You Ever Win)」 といったシングルを出して、ポップスで成功を収め始めた。1位を獲得するまでには、しばらく時間がかかったが、ここまでの苦労を考えれば、十分満足していた。

公平に言えば、フリートウッド・マックFleetwood Macを 『イギリスの』と呼ぶのはあまり正確ではない。ボブ・ウェルチBob Welchを迎えてから、彼らは英米系になり、新しいバンドを組んだ後は、一層その色彩が濃くなった。前のフュージョンでは、ジョー・コッカーJoe Cockerというそれほど才能のないシンガーにスポットライトを当てていた。鉄鋼の町シェフィールド出身の元配管工コッカーは、ソウル・シンガー気取りで、グリース・バンドThe Grease Bandというバンドを結成した。彼らは、プロデュースとマネジメントを担当するデニー・コーデルDenny Cordellに拾われてウッドストックに出演し、ジョーはこもった歌声とぎくしゃくした体の動きで好評を得て、アメリカ人に受け入れられた。まもなくグリース・バンドは歴史に名を残し、コーデルの顧客となったLAのスタディオ・ミュージシャン、レオン・ラッセルLeon Russellは、コッカーがビートルズの「ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズA Little Help from My Friends」を思いがけずヒットさせ、一緒にツアーするバンドが必要だと聞きつけた。ラッセルは人脈がなければ大したことはなかったが、マッド・ドッグス&イングリッシュメンMad Dogs and Englishmenというバック・ボーカリストを伴う21人編成のバンドを手早く結成し、1970年初頭に何とかして57日間で65回の公演を行ったので、疲れ切った哀れなジョーは1年間の休養を余儀なくされた。ライブで録音したセルフタイトルの2枚組アルバムは全米で大ヒットし、翌年には映画化もされた。このことは、コッカーにとっても良かったが、ラッセルとその周りの人間も有名になり、ラッセルとコーデルはシェルター・レコードShelter Recordsを設立し、ラッセルの企画したレコードをリリースし、3枚組ライブ盤を含むアルバムを次々と発表した。(このイベントからの副産物が、デュオのディレイニー&ボニーDelaney and Bonnie、エリック・クラプトンEric Claptonなどだ)。しかしコッカーは、すでに明らかなアルコール依存症に加え、ヘロインの常用もあって健康がすぐれず、元グリース・バンドのキーボーディスト、クリス・ステイントンChris Staintonが指揮する新しいバンドで新しいアルバムを録音したにもかかわらず、彼の演奏は悪い意味で伝説になりつつあった。やがてステイントンが引き受けなかったので、コッカーはLAに移り、所属レーベルのA&MレコードA&M recordsは次のアルバム、「アイ・キャン・スタンド・ア・リトル・レインI Can Stand a Little Rain」の準備を始めた。そのお披露目としてロキシーに出演したのだが、4曲歌ったところで嘔吐し、床に倒れ込んで胎児のような恰好になってしまった。1974年9月にアルバムがリリースされることになったとき、A&Mレコードは 『近年は公の場に出るスケジュールにムラがあるが… 』と始まる全ページ広告を掲出した。アルバムはまずまずの出来で、米英で彼の輝きが衰える中、コッカーはドイツのシュラガーという、ロックを取り入れた一種のMORにニッチを見出し、2014年に亡くなるまで大人気で、1989年にベルリンの壁崩壊の公式コンサートを担当した。

ラッセルRussellのキャリアは異なる軌跡をたどった。彼のファンは、新興のサザン・ロック・ファンとほぼ同じで、ブギー・ファンの一部と融合していたが、その様子は、レス・ブランクLes Blankが、ツアー中とラッセルの故郷オクラホマ州の屋敷で撮影した1973年の映画『ア・ポエム・イズ・ア・ネイキッド・パーソンA Poem Is a Naked Person』に記録されている。この映画にラッセルは激怒し、ブランクの死後、自分が再編集を監修する2015年まで公開を拒否していたほどだ。しかし、1973年の彼の大きな進展は、「ハンク・ウィルソンズ・バックVol.I Hank Wilson’SBack, Vol.I」という、ナッシュビルの一流セッション・ミュージシャン達とレコーディングしたカントリーのアルバムだったことから、必ずしも自分にとって何がベストかを知っていたわけではなかったのだ。このアルバムは、次の1974年のアルバム、「ストップ・オール・ザット・ジャズStop All That Jazz」と同様に彼のファンを混乱させた。ジャケットには、ラッセルが料理鍋の中で、映画のアフリカ人のような服を着た黒人バックアップ・トリオ、ギャップ・バンドThe Gap Bandに囲まれている姿が描かれていた。ジャズと呼べる要素は一切聞こえず、バンドはすぐにラッセルを見捨て、1980年が近づくにつれ、ラッセルのキャリアは徐々に先細りになっていった。しかし、ラッセルの真の遺産は、コーデルDenny Cordellがシェルター・レコードShelter recordsのために選んだ優れたアーティストだ。クリス・ブラックウェルChris Blackwellと共同経営したレゲエのパイオニアであるレーベル、マンゴ・レコードMango recordsが生まれた。オースティン出身のソングライター、ウィリス・マン・ラムゼイWillis Alan Ramseyはビッグ・スターではなかったが、大ヒットした曲を数曲書いている。そして最も重要なのは、タルサ出身のソングライター、JJケール J.J.Caleであり、あまりツアーにはいかないが、行っても本当に『くつろいで』いて、他の人のためにヒット曲をたくさん書いた。

70年代半ばになると、アメリカではいくつか重要な変化が起きた。ひとつには、リチャード・ニクソンRichard Nixonが、副大統領のスピロ・T・アグニューSpiro T. Agnewを汚職で失い、若者からの人気もなく、論争の的になる大統領であったことがあげられる。ローリング・ストーン誌は、ジャーナリストのハンター・トンプソンHunter Thompsonなどが、全力で彼を追い、特に1972年の再選キャンペーンで、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党本部に侵入した強盗が捕まって、1974年3月のハリス社の世論調査で43%のアメリカ人がニクソン大統領の弾劾を支持するほど不人気となった。リチャード・ニクソン大統領は、8月に辞任した。ベトナム戦争も、うまくいっていなかった。ニクソンは、ベトナム戦争を終わらせるための『秘密戦略』について嘘をつき、アメリカ兵が無駄死にしていることが広く知れ渡っていた。新大統領のジェラルド・フォードは、1975年4月23日に終戦を宣言し、29日にはサイゴンにいた最後のアメリカ人を空輸で脱出させた。次の大統領は民主党であることが明らかになり、ロック界は祝祭ムード一色だった。ジョン・レノンがついにグリーン・カードを手に入れるかもしれない。大きな変化の気配が漂っていた。

 

 

第8章 

ルネサンス待望

 

 

ニューヨーク・ドールズThe New York Dollsのステージ(©Bob Gruen/www.bobgruen.com)

 

 

 

 

1975年に入ると、ポピュラー音楽には閉塞感が漂うようになる。数字がすべてではないし、特にこの時代のビルボード誌チャートには多少懐疑的な見方もあるが、1974年に35枚のレコードが1位になり、1975年も同数だった。(1971年はたった18枚しかなかったので段違いだ。)このことから、どのレコードが1位なのか、リストを見るまでもなく、いくつかの結論が導き出される。ひとつは、圧倒的なトレンドがなかったこと。チャートの上位には誰かが入っていなければならないが、ファンにとってその年の思い出となる1曲はなく、特定の音楽スタイルが優勢だったわけでもない。1974年は3週以上1位だったのは1曲(バーブラ・ストライサンドBarbra Streisandの「追憶The Way We Were」の3週間)だけであり、1971年はキャロル・キングCarole Kingの「イッツ・トゥー・レイトIt’s Too Late」が5週間で、ロッド・スチュワートRod Stewartの「マギー・メイMaggie May」と並んだが、6週間ランクインしたスリー・ドッグ・ナイトThree Dog Nightの「ジョイ・トゥ・ザ・ワールドJoy to the World」に負けた。アルバム・チャートも同様である。1974年には前例のない23枚のアルバムが首位を獲得し、中でも最高だったのは「エルトン・ジョンズ・グレイテスト・ヒッツElton John’s Greatest Hits」が10週首位に輝いたことだ。カーペンターズThe Carpentersの「ザ・シングルス1969-1973 The Singles 1969-1973ジョン・デンバーズ・グレイテスト・ヒッツJohn Denver’s Greatest Hits」、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの「ソー・ファーSo Far」の3枚がトップになった。どうやら、当時のベストセラーへの道は、過去の作品をリサイクルすることにあるようだ。

1974年もノスタルジーの動きが強まった。60年代後半のばかばかしい自己満足ではなく、「オールディーズ」のリバイバルによって過去の曲を売るための協調的な取り組みが行われていた。『ロックンロール・リバイバル』ショーが次々と催され、シャ・ナ・ナSha Na Naや「アメリカン・グラフィティAmerican/Graffiti」で有名なフラッシュ・キャデラックやコンチネンタル・キッズFlash Cadillac & Continental Kidsのようなグループが人気になり、トニー・オーランドとドーンTony Orlando and Dawn、リンゴ・スターRingo Starrらによって『オールディーズ』が再レコーディングされた。そして最も甚だしいのは、ロックンロールそのものではなく、ロックンロールについての歌を歌うことで、カーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モアYesterday Once More」、B.J.トーマス  B. J. Thomas の「ロック・アンド・ロール・ララバイRock and Roll Lullaby」、「ロックンロールRock and Roll(I Gave You the Best Years of My Life)」のレコードまで、さまざまなものがあった。言うまでもなく、本物のロックやレッド・ツェッペリンLed Zeppelinの「ロック・アンド・ロールRock and Roll」のようなロック的ナンバーはもちろん、キラキラしたロック・ブームに乗っかり、ゲイリー・グリッターGary Glitterとして活動していたポール・ガッドPaul Gaddの奇妙で単調な同名の曲もあった。次の曲は、「アイ・ディドゥント・ノウ・アイ・ラブドゥ・ユーI Didn’t Know I Loved You (Till I Saw You Rock and Roll) 」という奇妙で恐ろしいタイトルだった。ベット・ミドラーBette Midler、ポインター・シスターズThe Pointer Sisters、マンハッタン・トランスファーManhattan Transferなど復古調のアプローチもあったが、彼らはむしろ新興勢力の一部であった。この動きは、明らかに新しいアイデアが枯渇していたことが原因だった。

オール・ユー・ニード・イズ・ラブAll You Need Is Loveは、ポピュラー音楽の全歴史を、1977年に17時間近い野心的だが欠陥のあるテレビ・シリーズとして、イギリス人監督トニー・パーマーTony Palmerが制作したものである。その中でゲイリー・グリッターGary Glitterが汗まみれになって、目を丸くし、見事なビール腹が写っているのを目の当たりにすることができる。1975年初め、パーマーはちょうど現代編の撮影を終えたところだった。彼がインタビューをした中の一人、クライブ・デイビスClive Davisは、43歳の元コロムビア・レコード社長で、息子のユダヤ教成人式の費用の一部に会社の資金を使ったことが発覚し、会社を追われた。デイビスは、自分の息子の成人式の費用を会社の金で賄っていたことが発覚し、会社を追い出された。彼は、成人式にレコード会社の社員が大勢出席していたので、これは実際にはビジネス・コストだと正当性を主張した。デイビスは仕事ぶりがしっかりしていたので、しかるべき期間の後に、案の定、コロムビア・ピクチャーズColumbia Pictures(当時CBSが所有していたコロムビア・レコードColumbia Recordsとは無関係)が買収したベル・レコードBell Records(ゲイリー・グリッターのレコードのほか、トニー・オーランドとドーンTony Orlando and Dawn、パートリッジ・ファミリーThe Partridge Family、フィフス・ディメンションThe 5th Dimensionなどたくさんのレコードが、米国ではこの会社から発売された)を扱わないかとコッソリ持ちかけてきた。ベル社の長年の社長であったラリー・ウタールLarry Uttalは、プライベート・ストック・レコードPrivate Stock Recordsを設立するために辞め、デイビスは、引き継いだ様々な混乱を、今後は自分の新しいレーベル、アリスタ・レコードArista recordsで解消していくと発表した。デイビスは、カメラに映った短い時間の中で、パーマーに、自分のようなレコード会社の重役は、流行を作るのではなく、それを見抜くのだと指摘した。その時、デイビスの目には何も映っていなかった。実際、デイビスの最初の成功は、メリッサ・マンチェスターMelissa Manchesterとバリー・マニロウBarry Manilowという、モダンな軽音楽のMORだった。しかし、モントレーMontereyの時と同じように、飛び乗るべき現代の流行を熱心に探した。

パルマーTony Palmerのカメラは、デトロイト郊外のミシガン州バーミンガムにも入り、クリーム誌Creemの編集者レスター・バングスLester Bangsにインタビューしている。ローリング・ストーン誌の編集者兼発行人、ヤン・ウェナーJann Wennerにインタビューするのが普通であることを考えると、これは賢明な選択であったが変則でもあった。しかし、クリーム誌はもっと現場に近く、レコード業界の有力者たちの顔色をそれほど窺うことはなく、子供たちが好きなのにローリング・ストーン誌Rolling Stoneが軽蔑している音楽(ボウイBowieなど)がたくさんあることに、中西部という良い立地にいたから、気づいていた。南カリフォルニアで育ったバングスは、独学で勉強し、ローリング・ストーン誌にレコードの批評を持ち込み、初期には選ばれて掲載されたものもあった。1973年、彼はミュージシャン(特にブルースを愛し、アルビン&チップマンクスAlvin and The Chipmunksのレコードを作った、ブギースラッジの旗手キャンド・ヒートCanned Heat)を軽視したという理由で、フリーランスを解雇された。そこで攻撃対象をクリーム誌に向け、彼のポピュリズムと異常な知的主義が、全国展開を目指すにあたって雑誌がまさに必要としているものだと考え、初代編集長のデイブ・マーシュDave Marshは話を先に進めたくてたまらなかった。凡庸さがはびこっている中で、因習打破主義者のバングスの言葉は詳細に引用する価値がある。

 

俺の世代は、すべて与えられていた。一度もお金を払ったことがない・・・。60年代の反乱の背後には知的エネルギーはなかった。ビート族連中はヒッピーとは違い、教養がなかった。ここ数年、アメリカの若者のうち、他の世代のほとんどは次第に無教養になってきた。いや、無教養ではなく、無知が進行している。

芝居がかった仕掛けは人の注意をそらすためのおとりで、もうすぐ何かが起こるという事実から目をそらしているのだ。ルネッサンス期を待っているようなもので、誰もがそうならざるを得ないと思っている。一般的に言えば、10年ごとに、その10年の真ん中に大きなスターがいる、と言われている……。シナトラSinatra、プレスリーPresley、ビートルズThe Beatles。でも、もう2年も経っているのに、何も起こらない。70年代も半ばを過ぎたが、反体制文化はまだ始まってさえいない。

 

もちろん、もし彼がその1年後に接触していたら、もっと違った見方をしていただろう。

アリス・クーパーAlice Cooperが様々な場面で蛇や首吊りを使って繰り広げたワイルドな演出から、ボウイが入念に台本を書いた『ジギー・スターダストZiggy Stardust』、そしてニューヨークの同じ場所で育った二つのバンドまで、バンズの言う芝居がかった仕掛けとは、まさにこの時期の大流行なのだ。

マーサー・アーツ・センターThe Mercer Arts Centerは、実は、ブロードウェイ・セントラルthe Broadway Centralというダウンタウンの老朽化したホテルのボール・ルームを2つ使ったもので、その元キッチン(ザ・キッチンthe Ketchenとして有名)は、前衛的なビデオ・アートや音楽の中心地でもあった。狭義のマンハッタンには、時代遅れで有害な酒場を取り締まるためのキャバレー・カード法があるため、オリジナルのロック・バンドはほとんど出演機会がなかった。キャバレー・カードは前科のない人にのみ与えられ、そのカードがなくてもアルコールを提供してくれるお店に、アーティストが出演することはできなかった。ジャズ界の巨匠セロニアス・モンクThelonious Monkは、ヘロイン所持を警官に発見されたバド・パウエルBud Powellと同乗していたためにカードを失い、懸命な努力の末にカードを取り戻した。ローワー・イースト・サイドやマンハッタン周辺の繁華街にはバンドがいたが、コンサート・サーキットに出演できるほど大物になるまで本当の演奏場所がなかったり、あるいは、不本意ではあるが、ニュージャージーやロングアイランドで演奏していた。そこで、そのうちの何人かがマーサーでショーを行うようになった。最初に登場したのはニューヨーク・ドールズThe New York Dollsで、このシーンにぴったりだった。サウンドはローリング・ストーンズThe Rolling Stonesの少しルーズなバージョンに似ていたが、ビジュアル的には全く違っていた。ドレス、ホットパンツ、プラットフォーム・シューズを身に着け、少し過剰な化粧をしていた(ギターのシルバン・シルバンSylvain Sylvainは優秀なテーラーで、それが役立った)。 リード・ギターのジョニー・サンダースJohnny Thundersは、キース・リチャーズKeith Richardsに似ているがもっと危険で、リード歌手のデビッド・ヨハンセンDavid Johansenは、完璧な仕上げといえるほどミック・ジャガーに似ていたし、より重要なのは動きが同じだったことだ。彼らはどうにかしてマーキュリー・レコードMercury RecordsのA&Rで、元ローリング・ストーン誌のライター兼編集者のポール・ネルソンPaul Nelsonに彼らの演奏を聴いてもらうことができた。ネルソンはボブ・ディランBob Dylanの大学時代の親しい友人で、感銘を受け、ロッド・スチュワートRod Stewartに彼らを紹介した。スチュワートはドールズをイギリスでの自分のツアーに招待し、その間に彼らの伝説を確固たるものにしたときに、ドラマーのビリー・マルシアBilly Murciaがパーティーに行き、ヘロインを過剰に摂取した。コーヒーで彼を蘇生させようとしたところ、窒息死してしまった。バンドは新しいドラマーを採用して、マネジャーのマーティ・タウMarty Thauを獲得し、ネルソンが契約を結んで、1972年末にトッド・ラングレンTodd Rundgrenのプロデュースでセルフタイトルのアルバムをレコーディングした。このアルバムは売れなかったが、元シャングリラスSangri-Lasのプロデューサー、ジョージ・シャドー・モートンGeorge “Shadow” Mortonがプロデュースしたアルバム、「トゥー・マッチ・トゥー・スーンToo Much Too Soon」という絶妙なタイトルの作品で再チャレンジし、クリーム誌の精通した読者が1973年のベスト・アルバムとワースト・アルバムに選出した。このアルバムの売れ行きも惨憺たる結果に終わり、マーキュリーMercuryはバンドの契約を打ち切ったが、ドールズはベルベット・アンダーグラウンドVelvet Undergroundやビッグ・スターBig Starと並んで、影響力ある失敗作制作者の仲間に入り、この仲間の数は増えて行った。

ドールズThe DollsがマーシャMurciaの死後にオーディションをして不合格にしたドラマーの一人は、ピーター・クリスクオラPeter Criscuolaというニューヨーク・ロックのベテランで、マーサーMercerの常連だった。彼の当時のバンド、ウィキッド・レスターWicked Lesterはエピック・レコードEpic recordsでアルバムを録音した後、メンバーを解雇し、その時点はクリスクオラCriscuola、ポール・スタンレーPaul Stanleyとジーン・シモンズGene Simmonsしかいなかった。ステージ上で化粧をして、自分たちであることを分からなくするという人目を引くためのからくりを試してみたが、皆、業界にコネがあるにもかかわらず、会う人すべてに断られた。しかし、もう1人、リード・ギターにエース・フリーレイAce Frehleyを迎えたことで、一気に勢いがついた。1週間後、バンド名を「キッスKISS」と改名。ビル・オーコインBill Aucoinというマネジャーを得た彼らは、1973年11月、元ブッダ・レコードBuddah recordsの天才児ニール・ボガートNeil Bogartが立ち上げた全く新しいレーベル、カサブランカ・レコードCasablanca recordsと契約した。(レーベルの仲間はジョージ・クリントンGeorge Clintonが率いる最新グループであるパーラメントThe Parliamentで、クリントンはキッスをとても注意深く見ていた)。オーコインAucoinはキッスKissのイメージを固めるために、化粧を完璧にし、衣装を加え、バンドをすぐにツアーに出した。ボガートは、シングル「キッシン・タイムKissin’ Time」をリリースし、83位まで上昇したのは立派だったが、その後消えてしまった。10代の女の子たちにとって、この連中とキスするという考えはあり得ず(彼らの観客は圧倒的に男なので、女の子の間で人気になることも無い)、シングル曲を出してもキッスが成功することはなく、それは人目を引くためのからくりにますます依存した彼らのライブ・ショーが示すことからも分かる。案の定、彼らは日本で瞬く間に人気者になった。予想通り、ローリング・ストーン誌は彼らを無視した。クリーム誌はしなかった。ブロードウェイ・セントラル・ホテルThe Broadway Central Hotelは、キッチンthe Ketchenを生み(現在は移転し、フィリップ・グラスPhilip Glass、ローリー・アンダーソンLaurie Anderson、スティーブ・ライヒSteve Reichといった、ダウンタウンに新たに出現した前衛音楽シーンにとって重要な会場となった)、ニューヨークのライブ・ロックに再興をもたらしたが、その役目を終え、73年8月3日に崩壊してしまった。

クライブ・デイビスは活動していたかもしれないが、1974年、彼のスターの座はデビッド・ゲフェンDavid Geffenに取って代わられた。ボブ・ディランBob Dylanはアルバート・グロスマンAlbert Grossmanのマネジメントから離れ、やがてコロムビア・レコードColumbia recordsでの更なるレコーディングを拒否するようになったので、コロムビアは、かなりひどいアウトテイクのレコードや奇妙なカバー・バージョンである、「セルフ・ポートレイトSelf Portrait」と「ディランDylan」を契約上の義務を果たす形でリリースして、仕返しした。1973年11月に対立は公然のものなり、同時にディランはザ・バンドThe Bandをバックにしたツアーを発表し、一大イベントとなった。彼らはマリブの自宅に集まってリハーサルを行い、それをそばで見て話しかけていたのがデビッド・ゲフェンであった。12月、ゲフェンはディランが自身のレーベル、アッシュィズ・アンド・サンド・レコードAshes and Sand recordsを設立し、ゲフェンはそれを、エレクトラ・レコードElektra recordsの子会社にしようとしていると発表した。ゲフェンは、すでにアサイラム・レコードAsylum recordsをエクストラの子会社にしていた。新譜、「プラネット・ウェーブズPlanet Waves」が間もなく発売予定で、2月にリリースされ(アサイラムからではあったが)、アルバム・チャートで2位初登場の後に2週間首位に立った。3月9日号のビルボード誌には、「ゲフェン大成功」という見出しの記事が掲載され、前週に31歳になった若き大物はめちゃくちゃに忙しく、奇妙なことに結婚もしておらず、レコード・ビジネスでかつてない成果を上げたと報じられた。この週、ゲフェン社のレコードは、ビルボード・ホット100の1位(プラネット・ウェイブスPlanet Waves)、2位(ジョニ・ミッチェルJoni Mitchellのコート・アンド・スパークCourt and Spark)、3位(カーリー・サイモンCarly SimonのホットケークスHotcakes)を独占した。一方、ディランDylanのアルバムからの最初のシングルで、70年代以降ずっと結婚式で流行することになる「フォーエバー・ヤングForever Young」がチャートインしなかったことを考えると、彼のチームにはシングルを扱っている人がいなかったようだ。この商業的奇跡は、「積み替え」と呼ばれる業界の怪しげな慣行によるもので、注文していない商品が「間違って」小売店に入荷され、小売店はそれを返品して全額返金してもらうことができ、その後に注文した他の店に行くというものだ、と呟かれることが多かった。返品しない場合、会計上は売上として計上される。この話は証明も反証もされていないが、あまり良いアルバムではなく、1曲について2つのバージョンがある「プラネット・ウェイブスPlanet Waves」は、「ゴールドで出荷して、戻ってプラチナになった」という皮肉が広く聞かれたものである。

しかし、ディランはツアー中で、7月にはツアーのライブ2枚組アルバム、「偉大なる復活Before the Flood」(これは本当に良いアルバムで、ザ・バンドThe Bandに多くのスペースを与えていた)がアサイラムからリリースされた。同じ週、アトランティック・レコードAtlantic recordsとエレクトラアサイラム・レコードElektra-Asylum recordsが合併し、アーメット・アーテガンAhmet Ertegunとデビッド・ゲフェンDavid Geffenが共同会長、ジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerが副会長になることが業界内で発表された。実際の合併は、事務的な問題を解決するために、もう少し時間がかかることになる。8月中旬、ディランはコロムビア・レコードColumbia recordsとの再契約を発表し、エレクトラ・アサイラムの合併、アルバムの売り上げ不振、そして大量の返品に「激怒」(ビルボードの言葉)したと伝えられている。ザ・バンドはといえば、キャピトル・レコードCapitol recordsからあと2枚ほどアルバムを出す義務があり、それを果たすと発表した。

もう1つのレコード会社のドラマも終わりを迎えようとしていた。アトランティック・レコードAtlantic recordsと決別して以来、スタックス・レコードStax recordsは順調に業務を運営していたが、パラマウント・レコードParamount recordsとの提携は得策ではなかった。パラマウント・レコードは、映画スタディオの中で最後にレーベルを立ち上げたが、舵取り役がいなかったので、スタックスはできるだけ早くその関係を断つ計画を立て、1972年までに、コロムビア・レコードColumbia recordsのクライブ・デイビスClive Davisと配給契約を結んだ。これはクーデターだった。コロムビアは、すでにフィラデルフィア・インターナショナル・レコードPhiladelphia International recordsを保有しており、さらにもう1つ、成功したブラック・レーベルを手に入れたのである。デイビスの夢であったソウル・チャートの制覇が現実のものになるかもしれない。「我々は戦いに向かって出発した」と、スタックス・レコードのアル・ベルAll Bellは言った。映画「ワッツタックス/スタックス・コンサートWattstax」はカンヌ国際映画祭で上映され大好評を博し、ジョニー・テイラーJohnnie Taylor、ウィリアム・ベルWiiliam Bell、ソウル・チルドレンThe Soul Children、ステイプル・シンガーズThe Staple Singersはチャートを席巻して、レーベルは未払いのローンを返済し、アイザック・ヘイズIssac Hayesは手頃な住宅を建設する民間建設会社を発表し、1973年5月にはクライブ・デイビスClive DavisがCBSレコード CBS recordsから解雇されたのである。スタックス・レコードとの契約は、むしろデイビスとの契約であり、その詳細は決まっていなかった。捜査当局は、デイビスだけでなく、スタックスの取引も調べていた。コロムビア・レコードは、まだタレント性のある者を開花させていた。ワッツスタックスに出演していた若いコメディアン、リチャード・プライヤーRichard Pryorはスタックスと契約し、「ザット・ニガーズ・クレージーThat Nigger’s Crazy」というアルバムを録音したが、コロムビアの新責任者がこのアルバムのリリースに難色を示したため、スタックスはパーティー・レコードPartee recordsというレーベルを立ち上げなければならなくなった。それどころか、コロムビアはスタックスが必要以上に作品をリリースしていることを懸念し、レーベルに支払うべき金額の40パーセントを返品分として留保し始めた。スタックスは、「コロムビアがちゃんとレコードを流通させてくれさえすれば、それらは売れるはずだ。実際、卸売業者たちは、注文したレコードが手に入らないと不満を漏らしているじゃないか」と主張した。そして、1974年4月、コロムビアは、スタックスに借りている100万ドル以上の返済を渋った。この争いは、ビッグ・スターBig Starの2枚のアルバムを台無しにした一因でもあった。その後、事態は実にばかばかしいことになり、レナ・ザバローニLena Zavaroniという10歳のスコットランド人少女をめぐって契約金合戦が起こったが、彼女の「 マ!ヒーズ・メイキング・アイズ・アット・ミー Ma!He’s Making Eyes at Me」がイギリスで大ヒットした。彼女はスタックスの典型的なアーティストではなく、得意はスタンダードを歌うということだったが、彼女を獲得してシングルをリリースした。夏の終わりに何とか90位代に入ったが、アルバムはチャートインしなかった。

スタックスは、コロムビアとの取引に焦点を絞るべきだった時なのに、パリで事務所を開設したり、スタックスの曲だけを流す1時間のラジオ番組と引き換えに南アフリカのミュージカル上演権を獲得しようとして、何人かのスタッフが行動していた。このようなことをするにはお金がかかるが、配送問題のせいでお金が入って来なかった。メンフィスのユニオン・プランターズ・ナショナル・バンクに対するスタックスの負債は1,000万ドルを超えていた。引退したジム・スチュワートJim Stewartは、レーベルを存続させるために自分の財産をかなりつぎ込んだ。アイザック・ヘイズIsaac Hayesは、税金を払うために27万ドルの小切手を受け取ったが、不渡りになってしまった。彼は、ABCレコード ABC recordsと契約しようとし、契約解除を訴えて勝利し、その際ドラマティックスThe Dramaticsというかなり成功したボーカル・グループを連れて行った。リチャード・プライヤーRichard Pryorもスタックスと問題があり、レーベルはしぶしぶ彼との契約を解除した。彼はすぐにワーナー・ブラザース・レコードWarner Bros. recordsと契約して、「ザット・ニガーズ・クレージーThat Nigger’s Crazy」を再リリースし、他にも連続してリリースした結果、大スターになった。もちろん、ワーナー・ブラザースが映画会社でもあったことが、プライヤーのスターとしての成功を後押しした。それは、まさに戦争だった。アル・ベルAl Bellは、CBS全体のトップであるアーサー・テイラーArthur Taylorと対決した。その結果、具体的なこととして、コロムビアが購入したスタックスのレコードを大量のトラックで返送することになった。梱包はそのままで、レコードはコロムビアの倉庫から一度も出ていなかった。1974年末までに、スタックスはユニオン・プランターズ銀行に対する債務を履行せず、銀行は最も信頼できる収入源であったレーベルの出版部門を差し押さえた。銀行は資金を必要としており、スタックスの借入を担当していたジョー・ハーウェルJoe Harwell等8人の役員が横領で起訴されたばかりだった。スタックス自体は1975年まで低迷し、ベスト盤を大量にリリースしたが、9月にアル・ベルAl BellとハーウェルHarwellは、1,890万ドルを横領した廉で連邦裁判所に起訴され服役した。レーベルは資金繰りを続け、サウジアラビアのファイサル国王と契約寸前までいったが、国王は暗殺された。

そして、象徴的なことが起こった。スタックス・レコードStax recordsの初期にブッカー・T & M.G’s  Booker T. and the M.G.’sでドラムを叩き、現在はウィリー・ミッチェルWillie Mitchellがハイ・レコードHi Recordsで使っていたアル・グリーンAl Greenなどのスタディオ・バンドの一員で、他のM.G.’sにも再結成を話していたアル・ジャクソン・ジュニアAl Jackson Jr.がメンフィスの自宅で強盗に撃ち殺されたのである。また、マーキーズThe Mar-Keysのバンドで、レーベルの初ヒット曲を生んだパッキー・アクストンPacky Axtonは、1974年1月にアルコール中毒で死亡した。それに続いて起きた出来事は、スタックスの終焉を現実として突きつけるものだった。12月5日、イースト・メンフィス・ミュージック・レコードEast/Memphis Music recordsの資産は、裁判所の手続きにより競売にかけられた。買い手はユニオン・プランターズ銀行Union Planters Bankだけで、同社はスタックス・レコードStax recordsの未払金額で買い取った。次に、ユニオン・プランターズ銀行は、3つのサプライヤーに対する合計1910.13ドルの債務について、強制破産の申立てを調整した。12月19日、アル・ベルAl Bellはビルから追い出され、ビルには新しい南京錠が取り付けられた。スタックスは終わったのだ。幸いなことにサザン・ソウル・ミュージックは終わらなかったのだが、それはウィリー・ミッチェルWillie Mitchell、ボビー・ブルー・ブランドBobby “Blue” Bland、B.B.キング B B KingがABCで成功し(アイザック・ヘイズIsaac Hayesはすぐに立ち消えた)、フロリダ州ハイアリアで興味深い状況が誕生して、すぐに大流行したおかげだ。しかし、時代は、変わりつつあった。

その要因のひとつは、テレビである。1957年にディック・クラークDick Clarkが放送した『アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstand』までさかのぼれば、テレビはロックンロールの普及に貢献してきたが、ロックンロールはネットワーク・テレビのプライムタイムに登場することはなかった。クラークはステージで行う夜の番組を試みたが失敗に終わり、お気に入りのスターを見たいと願うファンは、エド・サリバンEd Sullivanかその競争相手が出演させるのを待つしかなかった。ブリティッシュ・インベージョンの後、「シンディーグ!Shindig!」や「フラバルーHullabaloo」は最善を尽くしたが、「シンディーグ!」の場合のようにハウス・バンドが一流であっても、番組の出来栄えが良くなかったことが足かせとなっていた。1966年、ベテランのディスク・ジョッキー、ビル・ホス・アレンBill ”Hoss” Allenは、ダラスで撮影するブルース・ソウル・ショウ、ザ・ビートThe !!!Beatの26話をプロデュースしたが、この番組は、クラレンス・ゲートマウス・ブラウンClarence “Gatemouth” Brownがバンドリーダーを務め、素晴らしいスターが出演していた。この番組は全国ネットで配信されたが、あまり大きな反響を呼ぶことはなかった。ただし、そのテープは保存されて、数十年後にベア・ファミリー・レコードBear Family Recordsから再発売された。一つ言えることは、ウッドストック以降、ロック・ショーを成功させるだけの潜在的な視聴者は存在したが、彼らはより良いカメラワーク、自分の町には来ないようなアーティスト、よりコンサートらしい雰囲気を望み、そして見下した態度は望んでいなかったのである。

テレビ界最高の集団がこのプロジェクトに取り組んでいたのである。ABCのディック・クラークDick Clark、ティーン・パン・アレーTeen Pan Alleyのアルドン・ミュージックAldon MusicからモンキーズThe Monkees、アーチーズThe Archiesまでを追ってきたドン・カシュナーDon Kirshner、そしてグラミー賞のテレビ放送を2回手がけたNBCのバート・シュガーマンBurt Sugarmanである。1973年後半までに、彼らは3つの番組を制作し、いずれも真夜中以降の麻薬常習者向けの時間帯に放送していた。クラークは、長年にわたってつながりのあるABCが、コンサート会場であるフィルモア・イーストthe Fillmore Eastのステージ・マネジャーだったジョシュア・ホワイトJoshua Whiteと、そこで宣伝係を務めていたサニー・シニアSunny Schinierを、最初の提供番組である、「イン・コンサートIn Concert」シリーズのプロデューサーに選んだことに激怒し、「こんな番組を運営できる専門知識は自分しか持っていない」とローリング・ストーン誌に不満をぶちまけた。一方、NBCの『ミッドナイト・スペシャル』は、カナダの軽音楽、MORの人気歌手アン・マレーAnne Murrayを司会に起用して始まったが、出だしは不調だった。制作陣は、「人気トーク番組『ジョニー・カーソンJohnny Carsonショー』の直後なら、その視聴者をそのまま維持できる」と考えていたが、それは誤算だった。視聴率は悪く、新たな対応策を急いで練った。史上最短の引退期間を経て、デビッド・ボウイがロンドンのマーキー・クラブMarquee Clubに再登場し、番組のために放映1回分を収録するという画期的なてだてを講じた。一方、「ドン・カシュナーズ・ロック・コンサートDon Kirshner’s Rock Concert」は、全米に配信された。1年たっても、あまり変化はなかった。1974年10月10日号のローリング・ストーン誌に掲載されたベン・フォングトレスBen Fong-Torresの皮肉な記事は、3つの番組が「繁栄している。そして、互いに邪魔にならないようにしている。そして、以前にも増して、互いに似ているように見えるし、聞こえるようになり始めている。」と述べている。しかし、問題はそれだけではなかった。テレビの音声はひどかった。昔からずっとそうだった。テレビのスピーカーは小さく、音域も狭いので、誰もテレビの音をハイファイで録音したりミキシングしたりしない。大学の寮にあるようなレコードプレイヤーの方が、はるかに高価なカラーテレビよりも音が良かったし、ファンもそこで初めて音楽と出会うのだ。「ブラック・オーク・アーカンソーBlack Oak Arkansas」のマネジャー、ブッチ・ストーンButch Stoneが1年後に語ったように、「テレビの人間は『アイ・ラブ・ルーシーI Love Lucy』のミキシングに慣れていても、ロックのミキシングについては全く知らない」のである。やれることもあった。何年もの間、CBSはラジオ局と提携して、クラシックの特別番組をテレビで放送していたが、テレビの音を使用せずに、FMステレオのハイファイ装置を使って、オーケストラを素晴らしい音で聴くようにしていた。フォングトレスFong-Torresの記事が出た頃、ABCの「イン・コンサートIn Concert」とNBCの「ミッドナイト・スペシャルMidnight – Special」がそれぞれのネットワークと同時放送のFMラジオを聴けるようにしていたが、多くの人はそれ以外の番組を聴いていた。「キング・ビスケット・フラワー・アワーKing Biscuit Flower Hour」は、全国ネットのラジオ番組において高音質で録音され、毎週、テープや非公開のLPレコードで何百もの加入局に配給されていた。アーティストがツアー・スケジュールの間に時間を作って行うテレビ番組とは違い、バンドに迷惑をかけることなくツアー中に録音することができた。しかし、それでもPBS(公共放送)は、シカゴ放送局のWTTWからブルースの名場面を保存する番組「サウンドステージSoundstage」の放送を始めていたし、ウッドストックでステージ・アナウンサーや技術者をしていたチップ・モンクChip Monckは、深夜放送のロックのトーク番組「スピークイージーSpeakeasy」を立ち上げたが、この番組はすぐに終了した。フォングトレスFong-Torresは1975年10月に別の記事で続きを書いたのだが、その内容は、「イン・コンサートIn Concert」はバッサリと打ち切られ、ミッドナイト・スペシャルはヘレン・レディHelen Reddyを司会に復活させ、「ドン・カーシュナーズ・ロック・コンサートDon Kirshner’s Rock Concert」はピュア・プレーリー・リーグPure Prairie League、ルビー・スターRuby Starr、コモドアーズCommodoresを放送しようとしていた。「一流ロック・バンドの多くはもうテレビに出ない」とドン・カシュナーはフォングトレスに言った。ABCは人気のスポーツキャスターを起用して、『サタデー・ナイト・ライブ・ウィズ・ハワード・コセルSaturday Night Live with Howard Cosell』をテストするつもりだったし、NBCもまた、各番組の中で音楽を20パーセント取り入れた『サタデー・ナイト・ライブSaturday Night Live』というコメディ/バラエティ番組を企画していた。NBCはタイトル争奪戦を制し、後者の番組は、ロック・バンドにチャンスを与えただけでなく、実に重要なものとなっていく。しかし、当面は、コロムビア・レコードColumbia recordsの昔のキャッチフレーズ通り、レコードが「最高のエンターテインメント」であることに変わりはない。

レコードとテープは、ポータブル・メディアとして確固たる地位を築き、非常に収益性の高い副次的な機能を持つメディアでもあった。極めて低コストで複製できるので、数千個の空のカセットとコピー機さえあれば、オリジナルとほとんど見分けがつかない偽物のテープを作ることができ、トラック給油所や理髪店などの従来とは異なる場所に陳列し、楽に金儲けができた。業界は、州をまたいだ商取引が証明されれば、FBIの力を借りて、偽造者を追跡することもあった。レコードは偽造しにくかったが、これも脅威だった。早く大量に作るために、一部のレーベルが偽造者を雇ってレコードを製造しているという噂があったが、確認はされていない。(レコードも製造コストが上昇していた。オペックOPECが10日間戦争でイスラエルを支援した報復として石油価格を高騰させたのだが、石油はレコードの材料であるポリ塩化ビニールの原料だったからだ。)しかし、さらに暗雲が立ちこめようとしていた。1975年春、ニュージャージー州ニューアークの連邦検事局が、レコード・ビジネスに関する2年間の捜査の結果、ニューアーク、ニューヨーク、ロサンゼルス、フィラデルフィアの事務所を拠点とする音楽業界関係者を起訴したことを初めて発表した。数多くの容疑が公表されたが、脱税や、音楽業界で昔から行われていた亡霊であるペイオーラのような贈収賄などだった。起訴されたのは、クライブ・デイビスClive Davis、ケニー・ギャンブルKenny Gamble、レオン・ハフLeon Huff、そしてシカゴにあるブルンズウィック/ダカー・レコードBrunswick/Dakar Recordsの関係者ほぼ全員などである。このレコード会社関係では、社長でジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonのマネジャーとしてスタートしたナット・ターノポールNat Tarnopol、そして、タイロン・デイビスTyron Davisとオーティス・リービルOtis Leavillという2大スターの責任者で、以前仕事をしていたオーケー・レコードOKeh recordsから多くのアーティストを連れてきた副社長のカール・デイビスCarl Davisがいた。この頃には、誰かがお金をもらって無理やり聞かせなければ、今の愚かな子供たちはこんなくだらないものを聴かないだろう、という考え方が(前回の大手レコード会社のスキャンダルのときと同じように)あったが、その考えはこれまで以上に通用しなくなった。プログレッシブ・ロックのFM局が関与していないのは注目すべきことで、またしても悪者扱いされた者が黒人音楽を売っていたように見えた。実際には、黒人のレコード・ビジネスには、いつも個性的な人物がいたり、怪しげなプロモーション手法が使われたが、検察は前回から少しは学んでいたようで、特にブランズウィック/ダカーのケースでは、多くの告発が非常に具体的であった。

クライブ・デイビスClive Davisはその告発を受け流し、コロムビア映画Columbia Picturesもそれを支持し、ギャンブルGambleとハフHuffは何事もなかったかのように続け、それどころか、彼らはまた新たな黄金期を迎えようとしていた。しかし、シカゴの人間に対する告発は露骨で、また、的を射ているように思えた。レコードが大量に、通常の卸売りルートを通さず、自動車やその他の商品と交換され、しかも卸値以下で取引されていたという話があり、その結果、卸業者だけでなくアーティストまでもが埒外に置かれたという話だ。ブランズウィック/ダカーズ・ターノポールBrunswick/Dakar’s Tarnopolは、このブラック・マーケットの現金に対して税金も払っていなかったようで、国税庁がアーティストを調べ始めたところ、チャイライツThe Chi-Litesのマネジャーが現金を管理していなかったことが発覚し、その後の混乱でグループは壊滅状態に陥った。長年のリーダーでチーフ・ソングライターのユージン・レコードEugene Recordは、ワーナース・レコードWarners recordsでソロ活動を試みて失敗し、他のメンバーは彼抜きでマーキュリー・レコードMercury recordsと契約したが、これが彼ら、そしてシカゴのソウル・シーンにとっての終焉となった。ただし、実に奇妙なレコードを出していたカーティス・メイフィールドCurtis Mayfieldは、例外だ。彼の最終章は1975年9月29日のことで、ニュージャージー州チェリーヒルのディック・クラーク・オールディーズ・ショーDick Clark oldies showで、皮肉にも「ロンリー・ティアドロップスLonely Teardrops」を演奏中、「マイ・ハート、マイ・ハート」と歌いながらステージに倒れ、重い心臓発作の犠牲者となった。4ヵ月近くも昏睡状態が続いた後、意識が戻ったものの、回復できないダメージを受けていた。ターノポールは、他の問題で忙しかったが、著名なソウル・アーティストが利益を稼ぎ、そのほとんどが国税庁に納められた。ジャッキーJackie Wilsonもまた、顧みられなかった。1984年、ついに亡くなったのだが、その時数人の「未亡人達」が現れ、残されたわずかな財産をめぐって争った。ターノポールは1987年に56歳で亡くなった。

ロック・ビジネスに関しては、すべてがうまくいっているように思えた。演奏者の不安定さに対処する方法に関する一種の処方箋が存在した。売上があまりにも大きいので、大物アーティストを喜ばせようとして、そのメンバーにソロ活動の機会を提供し、解散したり活動休止中のバンド・メンバーたちを、一時的に組み替えて新しいバンドやプロジェクトを作らせることを奨励していた。例えば、フーThe Whoは基本的にピート・タウンシェントPete Townshendのバックだったが、1975年には狂気のドラマー、キース・ムーンKeith Moonを含む全メンバーがソロ・アルバムをリリースし、ムーディー・ブルースMoody Bluesのフルート奏者、レイ・トーマスRay Thomasも、バンドがまだ存在するかどうか考えている間に2枚のソロ・アルバムをリリースした。また、他のグループから外された演奏者を一時的に参加させることを奨励した。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングCrosby, Stills, Nash and Youngの並べ替えだけでも、その数は膨大なものだった。それを最も良く表したのが、まさにイラストの山で、イギリス、バッキンガムシャーの専門雑誌出版社、ピート・フレームPete Frameは、地元の電力会社の元製図技師で、その鋭い記憶力、大量のインタビューの蓄積、カリグラフィーなどの図面書き技術を生かして、自身の専門雑誌ジグ・ザグZig Zagで「ロック家系図」を発表し始めたのだ。これらは後に3冊の本としてまとめられ、興味深い読み物となっている。

しかし実際には、次のようなものであった。1973年にフリーFreeが解散し、ボーカルのポール・ロジャースPaul Rogersとドラマーのサイモン・カークSimon Kirkeは何か新しいことをやろうと、モット・ザ・フープルMott The Hoopleを脱退したばかりのギタリスト、ミック・ラルフスMick Ralphsと、常にメンバーを解雇していたキング・クリムゾンKing Crimsonのベーシスト、ボズ・バレルBoz Burrellを雇って、バッド・カンパニーBad Companyを結成した。レッド・ツェッペリンLed Zeppelinのマネジャー、ピーター・グラントPeter Grantが引き受けた後、1974年のデビューから1979年の活動休止までに5枚のアルバムをチャートのトップに送り込み、アメリカで大成功を収めた。あるいは、スモール・フェイセスThe Small Facesのようなバンドを考えてみよう。レーベルから追い出され、アメリカでも売れず、ひどく落ち込んでいたところに、スタディオ・ミュージシャンと録音した曲をツアーをしたり、演奏するレギュラー・バンドを必要としていたロッド・スチュワートが、彼らに参加を依頼した。しかし、スモール・フェイセスのスティーブ・マリオットSteve Marriottは、フランスのロック歌手ジョニー・アリディJohnny Hallydayとレコーディングするためにパリに行き、そのセッションで、自分のバンド『ハードHerd』を脱退したピーター・フランプトンPeter Framptonと出会った。そこでひらめいた。リズム・セクションを結成し、ロック・バンドのハンブル・パイHumble Pieが誕生した。A&Mレコード A&M Recordsは、最初から彼らと組む良いチャンスだと考えて契約し、1971年から1975年にかけてFMラジオやライブで全米ツアーを行い、大成功を収めた。この頃、A&Mでソロとして副業をしていたフランプトンFramptonはアルバム、「フランプトンFrampton」をリリースし、その次に、1976年にはベストセラー・アルバム、「フランプトン・カムズ・アライブ!Frampton Comes Alive! 」をリリースした。これはサンフランシスコのウインターランド・ボールルームWinterland Ballroomで録音されたが、観客の盛り上がりがかけていたので、歓声をオーバー・ダビングした。(観客を集めようと必死だったビル・グラハムBill Grahamは、サンタナSantanaなどの人気バンドをショーのオープニングに起用し、観客がいるようにしたのだ)。しかし、発売されたアルバムは、当時のライブLPとしては記録的な1千万枚の売り上げを記録し、FMラジオでは欠かせない存在となった。また、イギリスではムーブThe Moveが解散し、ギタリストのロイ・ウッドRoy Woodがポップなロック・バンド、ウィザードWizzardを結成していた。ウィザードは、元ムーブのジェフ・リンJeff Lynneを中心としたエレクトリック・ライト・オーケストラThe Electric Light Orchestraとなり、80年代半ばまでヒット曲を連発したが、リンは別のことに目を向けるようになった。ウエストコーストではシンガーソングライターがどんどん誕生し、イーグルスThe Eaglesやリンダ・ロンシュタットLinda Ronstadtがカントリーロック・サウンドをAMやFMラジオの礎として確立し、元バーズByrdsのメンバーもたくさんいたし、背後ではレコード会社も応援していたため、ピュア・プレーリー・リーグPure Prairie League、ポコPoco、ドクター・フック&メディスン・ショーDr. Hook and The Medicine Show、マイケル・ネスミスのファーストとセカンドのナショナル・バンドMichael Nesmith’s First and Second National Band、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドThe Nitty Gritty Dirt Band、そして途中で挫折した無数の者達がいた。その他にも、一時的に集合したバンド、例えば(イーグルスThe Eagles、元バードByrd、元ポコPocoのソングライターである)サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドSouther- Hillman‐Furay Band、(元バーズByrds、元ブリトー・ブラザーズBurrito Brothers、元スピリットSpiritから成る)ファイアフォールFirefall、ニール・ヤングNeil Youngの様々なカントリー調バンドからも、大量の作品が生み出された。北のサンフランシスコでは、ビル・グラハムBill Grahamが次に発掘した大物のジャーニーJourney(元サンタナSantana、元フランク・ザッパFrank Zappa)がコロムビア・レコードColumbia recordsと契約し、大きな期待を寄せられた。

タレント(あるいは少なくとも商品)のもうひとつの源泉は、ブティック・レーベルであった。エルトン・ジョンElton Johnは、MCAレコードMCA Recordsから恩典としてロケット・レコードRocket Recordsを与えられ、再契約を勧められた(800万ドルの報酬も役に立ったかもしれない)。そしてすぐにニール・セダカNeil Sedakaやソフトロック歌手のキキ・ディーKiki Deeと契約し、芸術的才能を発揮した。上述の通り、ジェファーソン・エアプレインJefferson Airplaneのグラント・レコードGrunt recordsは、マリン郡のほぼすべてのアーティストと契約し、1975年にジェファーソン・スターシップJefferson Starshipのチャート第1位アルバム、「レッド・オクトパスRed Octopus」でついに成功を収めた。また、レオン・ラッセルLeon Russellのシェルター・レコードShelter Recordsは1979年までJJケイル J.J. Caleのアルバムを出し続けた。グレイトフル・デッドThe Grateful Deadは1973年にワーナー・ブラザースWarner Bros.からほぼ円満に分離し、グレイトフル・デッド・レコードGrateful Dead Records(自分たちのアルバムのため)とラウンド・レコードRound Records(ジェリー・ガルシアJerry Garciaのブルーグラス・プロジェクト、『オールド・アンド・イン・ザ・ウェイOld and In the Way』等バンドによる外部企画)を運営するという大胆なプロジェクトを立ち上げたが、デッドの組織を支配していた混乱があって、案の定、数年で破綻した。しかし後に同じことをしようとする他のバンドの(主に失敗の)見本となった。彼らの仲間であるヤングブラッズThe Youngbloodsは、ラクーン・レコードRaccoon Recordsを所有したが、運営はワーナースWarnersに任せ、ヤングブラッズの様々なソロ作品をリリースするだけでなく、ワイルドでエキセントリックなソングライターのマイケル・ハーリーMichael Hurley(そして時にはホリー・モダル・ラウンダーHoly Modal Rounder)にメジャーレーベルという舞台を与えた。ムーディー・ブルースThe Moody Bluesは自分たちのレーベル、スレッショルド・レコードThreshold recordsを手に入れ、もちろんローリング・ストーンズThe Rolling Stonesはローリング・ストーンズ・レコードRolling Stones Recordsで、当初はジャム・アルバムという馬鹿ばかしく無意味な企画を行った後、ほとんど自分たちのアルバムかサイド・プロジェクトだけに専念していた。フランク・ザッパFrank Zappaはレーベル間の駆け引きの達人であり、作品の多くはワーナー系列のディスクリート・レコードDiscReet recordsという会社を通して流通した。ワーナース・レコードWarners recordsもまた、伝説的なプロデューサー、フィル・スペクターPhil Spectorが最近設立したワーナー・スペクターWarner-Spectorを結局受け入れることになり、シェールCherやディオンDionのアルバムで多少の成功を収めた。

そして、もうひとつの要素が徐々に力をつけてきた。1970年ごろまでには、ロックそのものは、もはや英米だけのものではなくなっていた。特にプログレッシブ・ロックは、ポポル・ブフPopul Vuh、バース・コントロールBirth Control、アシュ・ラ・テンペルAsh Ra Templeといった過激なサイケデリック音楽の故郷であるドイツ、非常に変わったバンドがレコードを出し始めたフィンランド、クラシック音楽の教育を受けた一組の兄弟がサウンドトラックを作るためにサベージ・ローズSavage Roseを結成したデンマークなどの変わった場所で早くから熱心に採用された。この兄弟は、自称アニセットAnnisetteという兄弟のうちの一人の妻に人気を食われたのだが、この妻は、ある評論家が、「ヘリウム・ガスで膨らんだミニーマウスの風船みたい」な声を持っていると言ったのが印象的だった。共産圏から、ロコモティブGT Locomotiv GTがマーキュリー・レコードMercury recordsと契約し、エマーソン・レイク&パーマーEmerson, Lake and Palmerのブティック・レーベル、マンティコア・レコードManticore recordsはイタリアのバンド、PFM (プレミアータ・フォルネリア・マルコーニPremiata Forneria Marconi)と契約し、その本格的なプログレ3枚がアメリカのチャートで下位に低迷していた。ポップではいつものように、もう少し良い結果を出した。アトランティック・レコードAtlantic recordsは1973年にアムステルダムのグループ、フォーカスFocusを獲得して、フルートによるインストゥルメンタル曲「ホーカス・フォーカスHocus Focus」がトップ10に入るヒットとなり、EMIはストックホルムのグループ、ブルー・スウェードBlue Swedeを獲得して、「ウガチャカooga-chacka」というばかばかしいがフックのきいた「ウガ・チャカHooked on a Feeling」が1974年にナンバーワン・ヒットとなる等した。サイケデリックの恐怖が収まった後、ドイツのチャートは、甘ったるい感傷的なライトロックの一つであるドイツのシュラーガーSchlagerというジャンルにほぼ固定され、ファン雑誌は多くのスターの苦難や悲劇を詳細に書き立て、努力しても、プログレバンドはイギリスでもアメリカでもうだつが上がらなかった。ただし、イギリスの抜け目ないプログレバンド、ネクターNektarは、アメリカの代わりに大陸に照準を向け、多くのドイツ人ファンのおかげで立派なキャリアを築けた。ケルンとデュッセルドルフ出身の4人組、クラフトワークKraftwerk(発電所の意味)は、クラシックの電子音楽の影響を強く受けたドイツの新興勢力の一部であり、その多くはケルンにあるWDRラジオのスタディオで作曲されたものだった。かなりぶざまなデビュー (後にアメリカで Mercury のプログレ子会社 Vertigo に拾われた)の後、 「アウトバーンAutobahn」 という片面を全部使った奇妙な曲をレコーディングした。この曲では、高速道路を走るビューンという車の音をエレクトロニクスで模倣し、時折「Wir fahr’n fahr’n auf der Auto-bahn」(「俺たちはアウトバーンを走ってる、走ってる、走ってる」)と歌う。この歌は編集されて、実際に国際的に多少ヒットした。スウェーデンでは、音楽出版関係者のスティグ・アンダーソンStig Andersonに敬意を表さなければならなかった。アンダーソンは毎年、国際音楽見本市「ミデムMIDEM」で、自分が契約しているシンガーを何人か売り込もうと奮闘していたのだ。最初に食いついたのはプレイボーイという雑誌の不運な子会社で、レーベル等にウサギが描かれ、ベニーとビョルンBenny & Björnのシングルを2枚リリースしたものの新曲の洪水の中に埋もれてしまった。しかし、アンダーソンはやり続けた。二人の少年にはガールフレンドがいて、彼女たちも歌っていた。4人でグループを組ませ、少年たちと曲を共作したところ、聴いた者が気に入ったので、グループはアンニ・フリッド、ベニー、ビョルン、アグネッタAnni-Frid, Benny, Bjorn, and Agnethaの頭文字を取ってABBAと呼ばれるようになった。1974年、アンダーソンはこの4人組を「恋のウォータールーWaterloo」という曲でユーロビジョン・ソング・コンテストthe Eurovision Song Contestに出場させ、優勝した。イギリスは熱狂し、この曲はすぐに1位を獲得した。アトランティック・レコードAtlantic recordsは、思い切ってアメリカでこの曲をリリースしたところ、思った通りトップ10入りを果たした。しかし、これはもちろん『ブルー・スウェードBlue Swede』のようなまぐれ当たりで、ABBAのアルバム、「ウォータールーWaterloo」は発売に合わせて宣伝されることはほとんどなかった。それでもスティグは、心に思うところがあったので活動を続けた。

70年代半ばのもうひとつの大きな要因は、ドラッグに対する考え方の変化である。このころには、ほとんどのロック・ファンがマリファナを吸って、自分の好みに合うかどうかを判断していた。そして、大量のマリファナがメキシコ国境を越え、ハワイから船で入ってくるようになり、アメリカ本土各地の企業家が遠隔地での野外栽培を始めるようになった。巨大な洞窟のようなホールでのロック・コンサートは、あるアーティストが演奏すると、マリファナの煙の臭いがが立ち込めるようになった。飲酒も復活した。アルコール度数の低いビールはもちろんだが、ブーンズ・ファームBoone’s Farm、アニー・グリーン・スプリングスAnnie Green Springs、リップルRipple(後者はグレイトフル・デッドThe Grateful Deadの曲で有名になった)など、甘い「ワイン」飲料が人気を博し、ブーンズ・ファームはローリング・ストーン誌にアップル味とイチゴ味の広告を出していた。テキーラはアガベ・サボテンから作られる無名の蒸留酒だったが、西海岸のカントリー・ロックの流行と、同名の人気カクテルにちなんだイーグルスThe Eaglesの「テキーラ・サンライズTequila Sunrise」のヒット曲によって、ある日突然成功を収めたのだ。フロリダを拠点にしてアラバマ州モビールで育ち、ナッシュビルの経験もあるシンガーソングライター、ジミー・バフェットJimmy Buffettは、酒、海賊、オウム、ビーチでのライフスタイルを歌ったショーで、酔っぱらったり、あるいは、酔ったふりをして有名になり、やがて「マルガリータビルMargaritavill」のヒットにつながった。その結果、クルーズ、テーマバー、「パロットヘッド・コンベンションParrothead convention」、短期間のブロードウェイ「ジュークボックス・ミュージカルjukebox musical」などを監督し、現在も続くキャリアへとつながり、彼を数百万ドルの資産を持つ大富豪にした。(現在、『マルガリータビルMargaritavill』という老人ホームが計画されている。)

しかし、覚醒剤として新しく登場したのは、もちろん新しいものではないが、不気味に人気が高まっているヘロインとコカインである。ヘロインはジャズ・ミュージシャンと長い間関わりがあり、いわゆるヒップなロック・ミュージシャンには敬遠されがちだったが、ジャニス・ジョプリンJanis Joplin、ジム・モリソンJim Morrison、キース・リチャーズKeith Richards、ジョン&ヨーコJohn and Yoko等、そのダークな誘惑は使用者を魅了し続けた。1973年にグラム・パーソンGram Parsonsが過剰摂取で死亡し、彼のツアー・マネジャーのフィル・カウフマンPhil Kaufmanがカリフォルニアの砂漠で彼の棺を焼こうとして逮捕されるなど、時折、ニュースをにぎわす者もいた。また、アトランティック・レコードAtlantic recordsがMCAから引き抜いて契約したスコットランドの素晴らしいインストゥルメンタル・ソウル・グループ、アベレージ・ホワイト・バンドThe Average White Bandがナンバーワン・ヒット「ピック・アップ・ザ・ピーセスPick Up the Pieces」をハリウッドで祝うグレッグ・オールマンGregg Allmanのパーティーで、メンバーの2人が誤ってヘロインを摂取した時もニュースになった。シェールCherは医者を呼び、ようやく婦人科医が電話に出たが、シェールの説明から判断して、一人は歩かせ続けば助かるが、青くなった一人はおそらく死ぬだろうと言われた。それが、アベレージ・ホワイト・バンドのドラマー、ロビー・マッキントッシュRobbie McIntoshで、死んだ時は24歳だった。(皮肉なことに、彼の後任はバンド発足以来唯一の黒人メンバー、スティーブ・フェローンStee Ferroneであり、彼は後にトム・ペティ&ハートブレーカーズTom Petty and The Heartbreakersでプレイすることになる)。ルー・リードLou Reedはコンサートでベェルベット・アンダーグラウンドVelvet Undergroundの曲「ヘロインHeroin」を演奏していたが、ギタリストの一人がソロをとっている間、リードは自分自身をマイクのコードで縛って静脈を浮き上がらせ、皮下注射器を出して注射するふりをし、その後に観客の誰かに注射針を手渡したのである。しかし、多くのロック・ミュージシャンはもっと慎重で、麻薬依存症からの復帰治療所に入るまでの数年間、比較的純度の高いヘロインを確実に手に入れることができたし、その後、リハビリに行く者もいれば、行かない者もいた。

本当に危険な薬物はコカインだった。ヘロインを使用すると、体が温まって頭がボーとなり、使用者は、ビート世代の中毒作家、ウィリアム・S・バロウズ William S. Burroughsが声高に警告していた生理的渇望を覚えるようになった。コカイン、それは本当に楽しいものだった。コカインは、覚せい剤のスピードのようなものだが、スピードのひどい落ち込みは無く、不機嫌な中毒者にはしなかった。ハイな気分は1時間ほど続くが、時折少量を追加すると効果的で、無限の可能性やアイデア、さまざまな状況に心を開かせ、それらについて話さずにはいられなくなる――そして延々と話し続けてしまうのだった。しかも、中毒性はないはずだ。医学界の権威がそう言っているのだ!フロイト自身、それを使っていたし、賞賛していたのだ!その最大の欠点は、マリファナやヘロインやアルコールよりもかなり高価なことだった。グラム単位で売られ、50ドルから100ドルの間で、70年代半ばのロックスターしか払えないような値段だった。また、ヘロインのように注射することもできたが、鏡、片刃のカミソリ、丸めたお札(50ドル札が人気だった)を用意しておくと簡単で安全である。薬物は結晶になっていて、湿度に非常に敏感なので、鼻血を出さないように刻む必要があり、そこでカミソリの出番となるのである。鏡は平滑な面であればよく、ホテルの部屋の机の上やトイレのタンクの上でもよかった。コカインはローリング・ストーン誌で笑いものにされ、歌の中でほのめかされ、ミュージシャンだけでなく、誰もが、本当に誰もが使っているようだった。コカインはレコード会社に(そして、公平に見て、映画産業やウォール街のような場所にも)大いに浸食していて、唯一の浸食基準は、それを買うお金があるかということだけだった。危険な薬物だという話はどうなったのか?連邦法ではマリファナとともに違法薬物に分類され、それが間違いないことは周知のとおりだ。しかし、残念なことに、ヘロインほどではないにしろ実は中毒性があったのだ。さらに悪いことに、コカインは判断を多少狂わせ、時には非常に基本的な生理学的レベルで歪ませる。この時代に最も人気のあった多くのレコードのオリジナル・プレスは、高域が非常に弱く、低域があまり出ないが、それはコカイン中毒のエンジニアにとって良い音に聞こえたからだ。コカインは多くのアーティストに決定的な役割を果たしたが、取っ掛かりはスライ・ストーンSly Stone(早くから摂取していた)で、1974年6月5日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンMadison Square Gardenでのショーの最中に結婚の儀式を行い、大々的に報道されたが、12月には妻から離婚を言い渡され、1975年にはほとんど破綻してしまった。ミュージシャンはショーの途中でステージを降り、バンドがその穴を埋めて演奏している間、コカインをやることもあった。エリック・クラプトンEric Claptonは、ショーにはコカインが必要なんだという意味のノー・スノー・ノー・ショーNO SNOW, NO SHOWと書いたTシャツを着て、1975年8月8日のバーミンガムでのショーの冒頭、「ウォグス」(非白人に対する人種的中傷)と言って、イギリスが白人の国であることについてわめき散らしている。このことは、大きく報道されたものの、意外にも彼のキャリアを傷つけることはなかった。デビッド・ボウイは、シン・ホワイト・デュークthe Thin White Dukeというキャラクターを演じ、ナチスのような式服を身につけ、ビンテージのメルセデスで走り回るなど、人格の急変を遂げた。1974年のアルバム、「ヤング・アメリカンズYoung Americans」に収録された「フェームFame」のような曲は、まさにコカイン文化を反映した音楽の典型と言える。60年代は終わった。マリファナとLSDは、マリファナ、コカイン、アルコールの時代になった。1960年代のような意識拡張・精神的探求の理想は過去のものになった。

ジョン・レノンJohn Lennon(「フェイムFame」の共同作曲者)とハリー・ニルソンHarry Nilssonが、トルバドールthe Troubadourでスタッフ相手に公然と喧嘩(スマザーズ・ブラザーズThe Smothers Brothersに罵声を浴びせ、ウェイトレスに暴行したとされる)をした同じ年に、コカインが関与していたことはほぼ確実で、彼らが一緒に作ったアルバム、「プシー・キャッツPussy Cats」がレノンやニルソンにとって傑作として評価されない理由がそこにある。ジョンが長年の個人秘書であるメイ・パンMay Pangと不倫関係にあったことから、ジョンとヨーコの結婚は危機に瀕していた。そしてこの件は、レノンが愛することとなったニューヨークに滞在するために、合法的な移民資格を取得しようとする長年のプレッシャーによるものだが、その取得は、ニクソン大統領の司法省の一部から強く反対されていた。司法省の反対は、レノンの不道徳行為の証拠とされた麻薬の手入れについてではなく、レノンとオノが支持する、ベトナム戦争の終結、マリファナの合法化、政治犯の解放といった、世間によく知られ非常にナイーブな政治問題であった。ヨーコは星占い師に相談し、ジョンにとって今いるニューヨークの星の配置は良くないが、ロサンゼルスに行けば星の並びが彼にとって幸運に作用すると信じ、ジョンをロサンゼルスに送り、ニルソンとパンの事態の改善を可能にした。その6ヵ月後、レノンはニューヨークに戻り、次のアルバム、「心の壁、愛の橋Walls and Bridges」をプロデュース・録音した。このアルバムに参加したミュージシャンの一人がエルトン・ジョンElton Johnであり、彼は自分が演奏した曲「真夜中を突っ走れWhatever Gets You Through the Night」が1位になったら、その年の感謝祭にレノンはエルトン・ジョンとコンサートに出なければならないとレノンに断言している。(そのとおり1位になり、レノンは出演した。そして、エルトンは馬鹿ではないので、そのライブを録音し、レノンとデュエットした「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズLucy in the Sky with Diamonds」で自分もナンバーワンを獲得した)。舞台裏では、ジョンとヨーコがラブラブな様子で、二人の仲が戻ったことは明らかだ。この日がレノンの最後のコンサート出演となった。翌年レノンは、ずっと録音したいと思っていたロックンロールの名曲を集めたアルバムをめぐって、ニューヨーク音楽界の悪名高いギャング、モーリス・レビーMorris Levyとのトラブルに巻き込まれることになる。レノンは2年前にフィル・スペクターのプロデュースでこのプロジェクトをスタートさせたが、喧嘩別れしスペクターはテープを持って姿を消した。レノンは、自身のプロデュースによるヒット・アルバムの経験を背景に、早速レコードを録音し直した。その頃、チェス・レコードChess recordsの出版社アーク・ミュージックArc Musicを所有していたレビーLevyは、ビートルズの曲「カム・トゥゲザーCome Together」にチャック・ベリーChuck Berryの歌詞を使ったことについてレノンに詰め寄り、ジョンはアルバムにチャック・ベリーの曲を数曲録音することに同意し、レビーにテープを渡して了承を得た。気がつくと、アダム・エイトAdam Ⅷという前代未聞のレーベルから通信販売するジョン・レノンのアルバム、「ルーツRoots」の広告がテレビから流されていた。そこでアップル社は、慌てて本当のマスターテープをアルバム、「ロックンロールRock ‘n’ Roll」として発売することにした。一方、レノンは勇敢にもレビーを訴え、4万5千ドルの損害賠償を勝ち取ったが、これは前例のない勝利であり、過去の犠牲者の留飲を下げたに違いない、まあ、生き残っている人たちにとっては、の話だが。10月、ニューヨーク州最高裁判所はレノンの国外退去命令を覆し、その直後、ヨーコYokoはショーンSeanという子供を無事出産し、ジョンは子育てを手伝うために引退を決意した。

 

ボブ・ディランBob Dylanはダビッド・ゲフェンDavid GeffenやアサイラムAsylumとの経験から、さっさと立ち直った。彼には録音したい新曲がたくさんあって、マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfield、デビッド・クロスビーDavid Crosby、シェル・シルバースタインShel Silversteinにそれらを演奏して、忙しく動き回っていた。ジョン・ハモンドJohn Hammondにも聴かせたら、アルバムを作ったら良いんじゃないかと言うので、ディランはエリック・ワイズバーグEric Weissbergと彼のセミ・ブルーグラスのバンド、デリバランスDeliveranceをつかまえて、アルバムを作った。その後は考え直し、弟のデビッドDavid Zimmermanに演奏を聞かせたところ、もっといいバンドを使ってもっと雰囲気を出すことを提案され、デビッドはミネソタでミュージシャンたちを集め、ボブは彼らと話し合って既に録音したものを再レコーディングした。その結果生まれたアルバム、「ブラッド・オン・ザ・トラックスBlood on the Tracks」は、長年にわたるディランの作品の中で最も売れ行きが良く名盤となったが、ファンの間では「一体何が起こっているのか」という議論が巻き起こった。アルバムの曲には、彼自身の痛みや破局の血が流れているのか?ディランの結婚生活に問題があるのか?この長大な物語歌は、他のものへのヒントで満たされているのだろうか?それでも、ひとつだけはっきりしていたのは、このアルバムがここ数年で最高の作品であり、大衆がこのアルバムをチャートのトップにあっという間に送り込んだということだ。ディランはマンハッタンのグリニッジビレッジに現れ、夜な夜な飛び入り参加できるフォーク・クラブに出没し、古い友人(ランブリン・ジャック・エリオットRamblin’ Jack Elliot)や新しい友人(ジャーナリスト、詩人、ソングライターであるパティ・スミスPatti Smithは、クリーム誌Creemのために執筆し、エレクトリック・ギタリストのレニー・ケイLenny Kayeと詩の朗読で演奏した)たちを集め、大抵は楽しい時を過ごしていた。ディランはすでに次のアルバムの構想を試していたが、そのほとんどが、心理学者で演劇監督、ソングライターでもあるジャック・レビーJacques Levyとのコラボだった。レビーは、ボブに友人を紹介したロジャー・マクギンRoger McGuinnと共同で作業した。ディランは、エリック・クラプトンEric Claptonのバック・バンドであるココモKokomo(とクラプトン自身)を中心とした大所帯のバンドを招集し、しばらくレコーディングに励んだ。うまくいかなかったので、ベーシスト(ロブ・ストーナーRob Stoner)とドラマー(ハウイ・ワイエスHowie Wyeth)、謎のバイオリニスト、スカーレット・リベラScarlet Rivera、LAのカントリー・ロック・シーンの新星エミルー・ハリスEmmylou Harrisを加えて再スタートさせた。でき上ったアルバム、「デザイアDesire」は、またしてもディランの謎めいたレコードとなった。最初のシングルは、無実の罪で有罪判決を受けたミドル級ボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターRubin “Harricane” Carterを歌った「ハリケーンHurricane」で、これはディランのプロテストとしての最高傑作であった。もう1曲の「ジョーイJoey」は、ニューヨークのリトル・イタリーにあるウンベルトズ・クラム・ハウスUmberto’s Clam Houseで、敵対するマフィア一家の一員に射殺されたクレイジー・ジョーイ・ギャロ”Crazy Joey” Galloを讃える曲だった。ニューヨークで最も大規模な家系間の犯罪戦争を引き起こした、暴力的な精神病質者であるギャロは、ディランが過去に追悼したような人物ではなく、この曲は奇妙な作品である。この2曲を含めて、アルバムの2曲を除くすべての曲がレビーとの共作である。単独作の内の1曲は「サラSara」で、ディランは確かに問題を抱えていた妻に感情的に訴え、ファンがすでに疑っていたこと、つまりアルバム、「ブロンド・オン・ブロンドBlonde on Blonde」の「サッド・アイド・レディ・オブ・ザ・ローランドSad Eyed Lady of the Lowlands」を彼女に向けて書いたことを認めるなど、自分の人生の具体的事実に触れた数少ないディランの曲の一つであった。

ディランは再びツアーに出ることを望んでおり、そのためにバンドを結成して、ビレッジで愛想よく人に会って回っていたのだった。今回は、大きなスタジアムでのボブ・ディラン・ツアーではなく、ニュー・アルバムの曲を、もちろん、ディランが演奏し、それに併せて、他のメンバーが歌ったり演奏したりするバラエティー・ショーのようなものを望んでいた。つまり、アルバムに参加したミュージシャンたち(ハリスHarrisを除く)であり、ランブリン・ジャックRamblin’ Jack、ジョーン・バエズJoan Baez、ディランの旧友ボブ・ニューワースBob Neuwirth、マクギンMcGuinn、ミック・ロンソンMick Ronson(ボウイの後任、モット・ザ・フープルMott the Hoopleの解散後はイアン・ハンターIan Hunterと仕事をしていた)、フォートワース出身のひょろっとしたギタリスト、J. ヘンリー・Tボーン・バーネット J. Henriy “T Bone” Burnett、同じくギタリスト/ソングライターのスティーブ・ソールズSteve Soles、パーカッショニストのルーサー・リックスLuther Rix、クワッキー・ダック&ヒズ・バーンヤード・フレンズQuacky Duck and His Barnyard Friendsというバンドの複数楽器奏者、デビッド・マンスフィールドDavid Mansfieldなどだ。ロニー・ブレイクリーRonee Blakleyという女優は、ロバート・アルトマンRobert Altmanの映画『ナッシュビルNashvill』(カントリー・ミュージシャンを演じる俳優たちは、臨場感を出すためにすべて自分で歌を書くことになっているのだが、幸いブレイクリーには才能があった)に出演したのだが、ビレッジのクラブで演技の練習をしているところに、ディランが入ってきたのだ。ディランはアレン・ギンズバーグAllen Ginsberg(と彼の連れであるピーター・オルロフスキーPeter Orlovsky)を、仲間であり文学の観点からも信頼しているので同行してもらい、ラリー・ラッツォ・スローマンLarry “Ratso” Slomanという男がローリング・ストーン誌でこのことを報道した。もう十分すぎるほど混沌としているのに、それに拍車をかけるように、ディランは「レナルド&クララRenaldo and Clara」という即席映画を撮影することにし、「ローリング・サンダー・レビューRolling Thunder Revue」と名付けられた一座のメンバーが、その映画に出演することになった。

ツアーはアルバム、「デザイアーDesire」が発売される前に始まり、最初の訪問地であるマサチューセッツ州ノースファルマウスのモーテルでは、マージャン大会が行われており、ディランとバエズは参加した老婦人たちのために演奏し、そのあとギンズバーグが詩を朗読した。観客は大喜びだった。ツアーはニューイングランドをあちこち回り、アルロ・ガスリーArlo Guthrie、ジョニ・ミッチェルJoni Mitchell、ゴードン・ライトフットGordon Lightfootなどが時折ゲスト参加し、しばらくすると妻のサラ・ディランSara Dylanがバスに乗り込み、ディランの大ファンの一人であるディランの母親がステージに現れて手をたたいたりした。ツアー開始早々、ディランはアイラインを引いて白塗りの化粧を始めるなど、舞台は大がかりで、高価で、無秩序で、見た目も奇抜で、どうやらとても楽しいものだったらしい。しかし、これは、「レナルド・アンド・クララRenaldo and Clara」とは言えず、ほとんど上映されていない。このときから、ディランのキャリアは次の段階に入り始め、多少なりともコンスタントにツアーが始まり、この慣行は現在も続いている。

ディランのツアーは、バンドThe Bandを明確に否定するものでもあり、対等であると考えられる5人の関係も今回については危うくなった。1970年のアルバム、「ステージ・フライトStage Fright」は、それまでのアルバムと同様、みんなで制作したものだったが、2面はすべてロビー・ロバートソンRobbie Robertsonの曲で、翌年のアルバム、「カフーツCahoots」からも分かるように、主導権を握りつつあった。しかしそれは好ましい形ではなかった。そして1971年から1972年にかけて、ジャズ・チューバ奏者のハワード・ジョンソンが、ホーン・セクションを率いた2枚組ライブ・アルバム「ロック・オブ・エイジズRock of Ages」を、ブルックリン音楽院the Brooklyn Academy of Musicでレコーディングし一息ついた。このレコードでは、ワード・ジョンソン率いるホーン・セクションが、ニューオーリンズの巨匠アレン・トゥーサンAllen Toussaintのアレンジした曲を演奏し、かつてのボスであるディランも即興でゲスト出演した。1973年後半には、ロックンロールのパイオニアであるディージェイ、アラン・フリードAlan Freedに捧げる、面白味のないオールディーズのアルバム、「ムーンドッグ・マチネMoondog Matinee」を発表し、アサイラム・レコードAsylum recordsでの活動は中絶し、やむなくもう一度ディランとツアーに出た。だが、状況は改善しなかった。1975年には、バンドがカナダと(ロニー・ホーキンスRonnie Hawkinsとレボン・ヘルムLevon Helmを通して)南部の融合を検証するはずだったアルバム、「ノーザン・ライツ・サザン・クロスNorthern Lights-Southern Cross」をリリースしたが、このアルバムも全曲ロバートソンによるものであった。このアルバムはあまり売れず、グループは再びツアーに出ることになったが、どうにもならなかった。そしてついに、サイド・プロジェクトをたくさんやっていたロバートソンが他のメンバーに、あるアイデアを持ちかけてきた。バンドは落ち目なのだから、華々しく解散して、彼が一緒に演奏したりプロデュースしたりしていた人たちを中心に、何十人ものゲスト・スターを招いて最後のコンサートを開こうというのだ。マーティン・スコセッシMartin Scorseseに撮影を依頼して劇場公開し、サウンドトラックもアルバムとしてリリースする。そして、ロック・ショーの達人であるビル・グラハムBill Grahamに頼んで、1976年の感謝祭にウィンターランドで開催してもらい、高価なチケットを持った観客に感謝祭のフルコースのディナーが振る舞われた(他の観客は、数時間前にホースで水をかけたものの、まだ湿っている2階の冷たいコンクリートの座席に座っていた)。何時間にもわたるショーには、バンドThe Band、ボブ・ディランBob Dylan、ロニー・ホーキンスRonnie Hawkinsだけでなく、アラン・トゥーサンAllen Toussaintのホーン・セクション、カナダ代表としてニール・ヤングNeil Youngとジョニ・ミッチェルJoni Mitchell、そしてエリック・クラプトンEric Clapton、ニール・ダイヤモンドNeil Diamond、ポール・バターフィールドPaul Butterfield、ドクター・ジョンDr.John、リンゴ・スターRingo Starr、バン・モリソンVan Morrison、ボビー・チャールズBobby Charles、ロン・ウッドRon Wood、マディ・ウォーターズMuddy Watersも登場した。また、詩人の朗読や、もちろんジャム・セッションもあった。舞台裏には「ジャン・コクトーの部屋Jean Cocteau room」と名づけられた部屋があり、壁にはプラスチックの鼻が取り付けられ、中央には大きなガラス天板のテーブルが置かれ、麻薬を鼻から吸い込む音がスピーカーから流れていた。それが終わると、バンドはカリフォルニア州マリブMalibuに引き揚げた。そこには、自分たちのレコーディング・スタディオ、シャングリラShangri-Laがあったのだが、新たに少しレコーディングして手持ちの音源を少し加えたアルバム、「アイランズIslands」を急いでもう1枚作り、キャピトルとの契約を履行して、スコセッシScorseseへの資金提供者であるワーナー・ブラザース・レコードWarner Bros. Recordsから映画のサウンドトラックを出せるようにした。ロビーRobbieもワーナースと契約し、サウンドトラックとソロ・アルバムをたくさん出すと宣言した。バンドのアルバム「アイランズIslands」は、リチャード・マニュエルRichard Manuelが「ジョージア・オン・マイ・マインドGeorgia on My Mind」を歌ったものの、評判も売り上げもさんざんで、エミルー・ハリスEmmylou Harrisとステイプル・シンガーズThe Staple Singersのフィルムを追加撮影した後、この映画は『ラスト・ワルツThe Last Waltz』と題され、78年4月に初上映された。多くの参加者がコカインで酔っぱらっている中、一つの時代の終わりをスナップショットで表現しようという試みであることは間違いないのだが、ニール・ヤングNeil Youngは下から撮影され、鼻に大きなコカインが詰まっていて、それを苦労して編集しなければならなかった。また、魅力的なマディ・ウォーターズMuddy Waters等いくつかの注目すべきパフォーマンスを撮ろうとしたが、1台を除くすべてのカメラが不思議と作動しないことが判明し、パニックが起こりかけた。「調子がいい」って言ってたけど、どこがだよ。

バンドのアルバム「ラスト・ワルツThe Last Waltz」は、時代の終わりとは言い難いものだった。1977年にニューヨークへオフィスを移した時に、一つの時代の終わりを迎えたローリング・ストーン誌は、そのアルバムの参加者をロック界の王族として祀り上げたのだが、考えてみれば、これはかなり変な考えだ。70年代半ばまでには、レコード・ビジネスが大きな収益を上げ、どこかの子供たちが大レーベルと契約を結ぶという概念は消えてしまったように思われた。子供たちはまだバンドを組んでいたが、圧倒的多数の人々は、成功したプロモーターが企画した夏のロックフェスや大規模な野外コンサートに参加し、冬には大きな会場に詰めかけ、ロックの報道で自分たちが見逃したものを読み、ただ派手な見世物を見ることに満足しているようだった。出版物は、主流でない週刊誌(その中でもビレッジ・ボイス誌Village Voiceは、地元の政治雑誌であると同時に今や全国的な文化雑誌でもあり、その音楽編集長は「アメリカのロック評論家の長老」であるロバート・クリスゴーRobert Christgauで、アルバムについてアルファベットによって格付けする「消費者ガイドConsumer Guide」を毎月書いていた)である、ローリング・ストーン誌Rolling Stone クリーム誌Creemズー・ワールド誌Zoo Worldサーカス誌Circus、復活したクロウダディ誌Crawdaddy(ただし、雑誌名から感嘆符が無くなり、ポール・ウィリアムズPaul Williamsは編集長から退いた)などに拡大していた。他の時代も終わりつつあった。レッド・ツェッペリンLed Zeppelinは10年間活動を続けたが、印象的な作品や名演は次第に減っていった。1980年末、ドラマーのジョン・ボーナムJohn Bonhamがアルコールで死亡した後、彼らは正式に解散した。クイーンQueen、エアロスミスAerosmith、レインボーRainbow、そしてようやくレコードが売れ始めたボブ・シーガーBob Segerなど、この10年の美学を踏襲した新世代のバンドが現れ、西海岸の密売人たちのコカインだけでなく、エルトン・ジョンElton Johnなどからの商品にも事欠かなかった。『古き良き』グレイトフル・デッドGrateful Deadは1974年に活動を休止したが、その後すぐに復活し、かつてないほど人気な存在になった。クラシック・ロックは、反対意見も聞かれるようになり始めたが、まだまだ続くだろう。

 

 

 

終章 

1977年8月16日

 

 

ミシシッピ州ジャクソン グレースランド・トゥーでのエルビスのお土産 (写真:トム・グレーブスTom Gravesの好意による)

 

 

 

 

案の定、新時代のロックンロールは過去を一掃し、多くの偉大な演奏者が取り残された。おとなしく立ち去らなかった者もおり、リック・ネルソンRick Nelsonは、LA周辺で素晴らしいカントリー・ロック・バンド、ストーン・キャニオン・バンドThe Stone Canyon Bandと一緒に演奏した後、ニューヨークのMadison Square Gardenの「ロックンロール・リバイバル”rock-and-roll revival” show」ショーで演奏した。その体験にひどく嫌気がさしたので、1972年にその体験を完全に否定する内容の『思い出のガーデン・パーティーGarden Party』という曲を書き、そこそこヒットした。その中で、「でも思い出が僕の歌だけだったら、むしろトラックを運転する方が良い」と断言した。1985年に飛行機墜落事故で死ぬまで、カントリーとカントリー・ロックの間の辺りに居続けた。他に『リバイバル』を繰り返したのはチャック・ベリーChuck Berryで、今はもう100%お金のためで、コンサートに現れては現金で支払いを受け、次にバックのバンドと会ったが、支払わないこともよくあった。バンドが曲を知らなくても、チャックは相変わらず滑舌が良かったので何とかなった。長年にわたって演奏し有名な曲を出して、自身や他の人のヒット曲になったのだが、チャートの1位には決してならなかったのだから、彼が苦々しく感じても仕方ない。最初からの出身母体だったチェス・レコードChess Recordsが消滅すると、マーキュリー・レコードMercury recordsと契約したのだが、アルバム作成のために、音楽ホールのフィルモアthe Fillmoreでバックにスティーブ・ミラー・バンドThe Steve Miller Bandを付けて、彼のキャリアを台無しにしてしまった。その時マーシャル・チェスMarshall Chessがレーベルを復活させ、ベリーは1972年に戻って来て別のライブ・アルバムをイギリスのコベントリーでレコーディングし、ビーズThe Beesという無名のグループが50年代初期にレコーディングした曲を演奏した(バックはアベレージ・ホワイト・バンドThe Average White Band)。彼らはこの曲を「トイ・ベルToy Bell」と呼んだが、当時繊細さに欠けていたチャックはコーラスに倣って「マイ・ディンガ・リングMy Ding-A-Ling」と呼んだ。ロンドンの聴衆はこの下品で童謡のような歌に合わせて歌い、そしてシングルとしてリリースしたチャック・ベリーは、初めてそして生涯で一度だけシングル・チャートのトップになった(チャックは曲作りに当たってもちろんクレジットを獲得したが、そんな資格がないことは彼自身が一番わかっていた)。様々な『リバイバル』ショーでは、忘れられてしまった多くの人たちにそれぞれの業績に応じて正当な仕事があてがわれることも有り、ワーナー・ブラザースWarner Bros.でのキャリアが短かったリトル・リチャードLittle Richardとファッツ・ドミノFats Dominoは何曲か演奏し、カントリー・ミュージックの方が順調だったジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisも時折出演した。

それから、もっと無名のミュージシャンもいた。多くのロカビリー・アーティストはカントリーのバック・バンドで演奏をするか、ロック&ロール・トリオThe Rock and Roll Trioのポール・バーリソンPaul Burlisonのように完全にリタイヤして、ラジオ・テレビの修理店を何十年も営んでいたが、その後、ファンが演奏をごくまれに希望した時には応じた。サン・レコードSun Recordsのベテランのビリー・リー・ライリーBilly Lee Rileyはメンフィス辺りで、ほとんどハーモニカでセッション・ワークを行い、メキシコのレーベルで2枚組アルバム「フォーク・ロック・ハーモニカFolk Rock Harmonica」を作った(このうちの1曲が「コモ・ピエドラ・ケ・ルエダComo Piedra Que Rueda」で、別名「ライク・ア・ローリング・ストーンLike a Rolling Stone」)。スタックス・レコードStax recordsの子会社から「サン・ゴーイン・ダウン・オン・フリスコSun Goin’ Down on Frisco」を出し、優れた曲だったが売れなかった。海外にも熱狂的ファンがいたおかげで、2009年に死ぬまで活躍を続けた。ジョニー・オーティスJohnny Otisは、ルース・ブラウンRuth Brown、ピー・ウィー・クレイトンPee Wee Crayton、ロイ・ブラウンRoy Brown、エスター・フィリップスEsther Phillips、ロイ・ミルトンRoy Milton、エディ・クリーンヘッド・ビンソンEddie “Cleanhead” Vinson、そして息子のシャギー・オーティスShuggie Otis等古い時代の大勢のタレントをフィーチャーしたレビューを企画し、1970年モンテレー・ジャズ・フェスティバルMonterey Jazz Festivalをエピック・レコードEpic recordsにレコーディングさせ、その結果すべての演奏者の認知度を増大させたが、その後ジョニーと一緒に仕事をしたいという者はほとんどなかった。(ジョニーは意に返さなかった。シャギーはスターになることを夢見て、その後ジョニーは牧師やオーガニックのリンゴジュース農園を精力的に経営した。)他の者はそれほど幸運でなく、ファイブ・ロイヤルズThe “5” Royalesのメンバーはほとんどが、1964年にスマッシュ・レコードSmash recordsで最後にレコーディングした後、音楽を離れ、ギタリストでソングライターのローマン・ポーリングLowman Paulingは、さまざまなグループでレコーディングを続けたが、何も起こらなかったということがはっきりした。その後、サム&デイブSam and Daveのツアーのバンドとして契約したが、飲酒がひどくなって、解雇せざるを得なくなった。1973年のクリスマスの翌日に死亡したが、その時ニューヨーク市クイーンズ区のユダヤ教教会の管理人として採用されていた。

ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix、ブライアン・ジョーンズBrian Jones、ジャニス・ジョプリンJanis Joplin、ジム・モリソンJim Morrison等、大ニュースになるプレイヤーに加えて、ブリティッシュ・インベージョン後のアーティストで、何らかの悲劇なしで済んだ者はいなかった。グレイトフル・デッドThe Grateful Deadのロン・ピッグペン・マッカーナンRon “Pigpen” Mckernanは1973年3月8日にアルコール中毒で死亡した。彼はまだバンドと一緒にステージで演奏していたが、別のキーボード奏者のキース・ゴジョーKeith Godchauxが補充された。ジョー・ボイドJoe Boydが見い出したニック・ドレイクNick Drakeは、卓越した前途有望なイギリスの若者だと多くの人が考えていたが、たまたま抗うつ剤を過剰摂取して1974年に26歳で死去した。フーThe Whoの乱暴なドラマー、キース・ムーンKeith Moonは1978年後半に、アルコールの効果を抑えるための薬など、合法的ないくつかの薬剤を過剰摂取して死んだ時にはあまり驚かなかった。彼は既にサンフランシスコのカウ・パレスCow Palaceのショーの真っ最中にステージ上で倒れ込み、ピート・タウンシェンドPete Townshendがドラマーの代わりをしてほしいと頼んだところ、皆の話によると、若いファンのスコット・ハルピンScott Halpinが応えて、バンドと一緒にとても上手にショーを最後まで続けたそうだ。マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldはカリフォルニアで隠遁したまま、時折アルバムを出して現れ、そのバンドはプレス機からレコードが出る前に解散した。しかし、意外なことに80年代初めに薬物を断ち、依存から抜け出し始めたが、アルコール依存は断ち切れなかった。1981年2月15日、カギのかかった車の中で死んでいたのが発見されたいきさつは、今まで明らかになっていない。検死報告書ではコカイン関連の化学物質が検出されたが、最大の問題が不眠症である男としては珍しかった。

薬物だけが唯一の危険ではなく、ステージ上の配線はまだ発展途上にある技術で、1972年、レッド・ツェッペリンLed Zeppelinのマネジャー、ピーター・グラントPeter Grantがマネジャーを務めた有望なバンド、ストーン・ザ・クロウズStone The Crowsがウェールズのスワンシーで演奏中に、ギタリストのレス・ハーベイLes Harveyがマイクロフォンから火花を浴びて事故死した。ヤードバーズのオリジナル・メンバーだったキース・レルフKeith Relfは、1976年に自宅の地下でギターを演奏しているとき感電死した。クリームCreamを生んでイギリスのブルース・シーンの始まりにいたグラハム・ボンドGraham Bondは1976年にロンドンの地下鉄に飛び込み自殺した。Tレックス T. Rexの元メンバーのマーク・ボランMarc Bolan(カサブランカ・レコード Casablanca Recordsから出したアルバム、ライト・オブ・ラブLight of Loveが不発に終わった後、イギリスのテレビの音楽バラエティー番組の司会に追いやられた)は、アメリカ人ガールフレンドのグロリア・ジョーンズGloria Jonesと一緒にドライビングしていた時、木にぶつかって即死した。そして1975年4月28日、サンフランシスコにおけるディスク・ジョッキーのパイオニアで、時にはレーベルの起業家でもあったトム・ビッグ・ダディ・ドナヒューTom “Big Daddy” Donahueには数人のレゲエ・ファンがいて、番組でボブ・マーレーBob Marleyのニュー・アルバム「ナティ・ドレッドNatty Dread」やレゲエ一般を語ったりし、番組の最後に次の人に引き継いだ後、家に帰り、そして死んだ。大男で400ポンド以上あり、グレーのあごひげをはやしていたが、わずか46歳だった。最後のインタビューでこう言っていた。「音楽の熱狂的愛好家・・・。それこそ、ディスク・ジョッキーに私が求めているものだ。音楽に本当に関わっている人が欲しい。何をかけるかを人に言われるような人は決して望んでいない。」彼が死んだのは、音楽業界に巨大な変化がもたらされる直前で、それはラジオやサンフランシスコで、一つの時代が終わる瞬間であったが、まだはっきり見えていたわけではなかった。

そして次がエルビス。彼の1968年のクリスマス・ショーは古くてつまらない仕事から彼を解放し、ツアーに戻したものの、観客は彼を見るのは好きだが、かつて彼が持ち続けていたのと同じ問題を持っていた。パーカー大佐はまだ選曲し、収入の50%を取っていた。エルビスはツアーをしたが、ラスベガスに1か月間住み、ガールフレンドやメンフィス・マフィアに囲まれていた。結婚は困難に陥っていて、プリシラPriscillaが空手教師のマイク・ストーンMike Stoneと関係していることが発覚し、カップルは1972年2月に離婚訴訟を提起した。1973年10月に、プリシラは離婚手当として2百万ドルと娘リサ・マリーLisa Marieの養育費を受け取ることで離婚が確定した。しかし、体重が急増したエルビスは空手の練習をし、ステージ・ショーでは動いていたが、過度に薬に依存し始め、それはしばらくの間エルビスのかかりつけ医で、側近には「ドクター・ニックDr. Nick」として知られていたジョージ・ニコポウラスDr. George Nichopoulosが処方したものだった。ニコポウラスは悪者の烙印を押されていたが、他のメンフィスの人達はほめていて、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesとツアーに同行し薬物中毒になってしまったジャーナリストのスタンレー・ブースStanley Boothは、ドクター・ニックが治療して回復したことに関する素晴らしいエッセイを書いた。しかし、医者のできることはたかが知れている。エルビスはカッとなりやすくなって寂しく孤立し、何事にもたいして興味を示さなくなった。RCAは彼をスタディオに戻そうとし続け、シングルを出したり、時折アルバムを出したが、1972年のデニス・リンドDennis Lindeが作った「バーニング・ラブBurning Love」は例外として、1973年の「アロハ・フロム・ハワイ・ビア・サテライトAloha from Hawaii via Satellite」のサウンドトラックの後には、ハードコアなファン以外に受け入れられなかった。常軌を逸した行動もとって、スピリチュアリズムに関するあらゆる種類の変わった本を読み、自動車や飛行機の購入に大金を支払って、『リサ・マリーLisa Marie』と名付けた。1973年には肺炎で倒れ、2週間入院し、1975年にはツアーによる極度の疲労で2回再入院した。ついにRCAはどうしても製品が欲しくなり、ライブ・ショーの中の曲の間のとりとめのないおしゃべりを少し削除することを大佐に許して、1974年に37分間のアルバム「ハビング・ファン・ウィズ・エルビス・オン・ステージHaving Fun With Elvis on Stage」をリリースした。これはどうひいき目に見ても、理解できないと言われる程度のものだった。「デブのエルビスFat Elvis」のジョークが流れ始めた頃、キングは1975年末のある晩の演奏中に空手をしてズボンが破れた。

1976年、エルビスはまだツアーをしていて、次のツアーをメリーランド州ランドオーバーで始めたのだが、その観客の中にエルトン・ジョンElton Johnがいた。「彼の周りには何十人もいて、たぶん世話をする人だったのだろうが、彼は既に死体のようだった」とジョンはローリング・ストーン誌Rolling Stoneに語り、7月5日、ツアーの終わりにメンフィスMemphisで演奏して、その後、いつもはグレースランドGracelandで花火が催されるのだが、それを気にも留めずにガールフレンドと一緒にコソコソ立ち去った。1週間後、メンフィス・マフィアの主要メンバーのうち、ほぼ最初からボディガードだったソニーとレッドのウエスト兄弟Sonny and Red Westが、エルビスの父親のバーノンVernonから別々に電話を受け、一人につき1週間分の給料を払って解雇されたと告げられ、その理由は不明朗会計が問題だったが、バーノンはさらに詳しく述べることをしなかった。エルビスも空手トレーナーのデイブ・ヘブラーDave Heblerをクビにした、というよりはむしろバーノンがした。ドクター・ニックDr. Nickはラスベガスに本拠を置く別の医者に代わられたという噂があった。しかし噂は双方から出ていて、ウエスト兄弟とヘブラーはタブロイド判レポーターのスティーブ・ダンレビーSteve Dunleavyをゴーストライターとして使って、本を書くという噂があった。そうせざるを得なかったのは、レッド・ウエストは自分の家族を養うために家を売らなければならず、1週間分の給料ではとても賄いきれないからだ。その本、「エルビス:ホワット・ハップンドゥ!Elvis: What Happened?」は1977年8月1日に上梓された。これは、テレビを銃撃したり、女性に乱暴したり、びっくりするほどの薬物(もちろん処方薬)を接種したこと等なので、瞬く間にショックを与えた。こうしたことから、なぜエルビスのショーやレコードがあれほどひどかったかが分かるのだが、それは正にどうでも良いと思っていたからだ。無関心だったのだ。この夏の初め、メンフィス・マフィアMemphis Mafiaに残留していたジョージ・クレインGeorge Kleinは、新しいガールフレンドという形の気持ちを明るくするものが必要だと判断して3姉妹を連れてエルビスを訪問したが、全員クレインがデートしたことがあって、現在のミス・テネシー州もいた。エルビスはその姉妹のうち、ミス安全運転Miss Traffic Safetyで今20歳になるジンジャー・オールデンGinger Aldenを選び、数日間ラスベガスに同伴してからメンフィスに戻って自分の部屋に閉じこもり、ビデオ監視カメラを使ってグレースランドで起きていることを見ていた。8月16日の午後、ジンジャーはエルビスを探してバスルームに歩いて行き、床に横たわっているのを見つけたが、彼はザ・サイエンティフィック・サーチ・フォー・ザ・フェース・オブ・ジーザスThe Scientific Search for the Face of Jesusという本を持っていた。彼女は数人のボディガードに声をかけると彼らは救急車を呼び、人工呼吸を試し続けた緊急医療チームの一人が小声で「僕の方に息を吐いて、プレスリー」と小声でつぶやき続けた。救急車は3時30分にバプティスト記念病院Baptist Memorial Hospitalに到着し、臨終を告げられた。42歳だった。

ニュースはすぐに伝わった。ジミー・カーター大統領は声明を発表し、その中で「「エルビス・プレスリーElvis Presleyの死は、我が国から一部分を奪いとった。彼は唯一無二でかけがえがない」と述べた。メンフィスの新聞2紙のニュース編集室は混乱していた。(実は、「フェン・エルビス・ダイドWhen Elvis Died」というタイトルのエルビス死亡ニュースに関する本はすべて、後になってジャーナリストの夫婦チームが書いた。それもなかなかの出来だった。)公式の死因は心不整脈だったが、検死解剖によれば胃の中にブタバルビタールButabarbital、コデインcodeine、モルヒネmorphine、ペントバルビタールPentobarbital、プラシジルPlacydil、クアールードQuaalude、バリウムValium、バルミッドValmidという強力な鎮静剤が混ざっていた。エルビスの遺体はグレースランドに公開安置され、17日に25,000人以上の人が列をなして、開けられた棺のそばを通り過ぎた。翌日には葬儀に150人が参列した一方で、75,000人の群衆が外で立っていた。エルビスはメンフィスのフォレスト・ヒル共同墓地the Forest Hill Cemeteryにある母親の隣に埋葬された。エルビス、死産の双子のジェシーJesse、母親のグラディスGladysの墓は結局グレースランドに移葬された。ニューヨークでは、ロックンロール雑誌のクリーム誌Creemの仕事の後に再びフリーランサーとなったレスター・バングスLester BangsがVillage Voice誌の中でエレジーを書き、「もし本当に愛が永遠に流行遅れになると言っても、私は信じないし、おたがいの関心が無くなるのなら、それはおたがいの畏敬の念の対象への関心がなくなることなのだ。私たちはこうして分断されていくのだが、なぜなら、今の時代を支配しているのは“独我主義”だからだ。それは、かつてエルビスよりもはるかに強い支配力を持つ王なのだ。しかし私は一つのことを保証する。それはエルビスについて意見の一致を見るほどのことは、何事についても無いだろうということだ。したがって、彼の遺体にわざわざさよならを言いはしない。あなたにさよならを言おう。」激しい言葉だが多少不可解であり、しかし重要な事実を含んでいて、エルビスは誰もが認める最初で最後のポップスターだということだ。その後にビートルズ/ストーンズが来る。分断は続いている。新しい景色は、丘の向こうにまで来ている。

 

ロンドンのあまり高級でない区域に、かつてジミ・ヘンドリックスJimi Hendrixなどのロックコンサート設営スタッフを務めたアンディ・ジェイクマンAndy Jakemanがいた。今は非常に小さなレコード・レーベルの一員として、ジェイク・リビエラJake Rivieraと名乗り、新たにリリースする曲のアメリカのジャーナリスト宛てに郵送する箱を用意していた。彼は、送るレコードが好意的に受け入れられることを願って丁寧な送付状を書き、その手紙をタイプライターから抜き取ったちょうどそのとき、ラジオでニュース速報が流れた。彼はペンを取り手紙にサインし、その上に「これでエルビスは、コステロだけになった!」と走り書きした。

 

 

ビブリオグラフィ

 

書籍

 

Boyd, Joe. White Bicycles: Making Music in the 1960s. London: Serpent’s Tail, 2006.

Bradley, Lloyd. Bass Culture: When Reggae Was King. London: Penguin Books, 2000.

Brown, Peter, and Steven Gaines. The Love You Make: An Insider’s Story of the Beatles. New York: McGraw-Hill, 1983.

Chusid, Irwin. Songs in the Key of Z: The Curious Universe of Outsider Music. London: Cherry Red Books, 2000.

Dickinson, Jim. I’m Just Dead, I’m Not Gone. Jackson, MS: University Press of Mississippi, 2017.

George, Nelson. Where Did Our Love Go?: The Rise and Fall of the Motown Sound. New York: St. Martin’s Press, 1985.

Goodman, Fred. Allen Klein: The Man Who Bailed Out the Beatles, Made the Stones, and Transformed Rock & Roll. New York: Houghton Mifflin Harcourt, 2015.

――― The Mansion on the Hill: Dylan, Young, Geffen, Springsteen, and the Head-on Collision of Rock and Commerce. London: Jonathan Cape, 1997.

Gordon, Robert. Respect Yourself Stax Records and the Soul Explosion. New York: Bloomsbury, 2013.

Green, Jonathon. Days in the Life: Voices From the English Underground, 1961-1971. London, Minerva, 1988.

Gregory, Neal and Janice. When Elvis Died. Washington, DC: Communications Press, 1980.

Guralnick, Peter. Careless Love: The Unmaking of Elvis Presley. New York: Little, Brown, 1999.

 

――― . Dream Boogie: The Triumph of Sam Cooke. New York: Back Bay Books, 2005.

Hagan, Joe. Sticky Fingers: The Life and Times of farm Wenner and Rolling Stone Magazine. New York: Alfred A. Knopf, 2017.

Hoskyns, Barney. Small Town Talk: Bob Dylan, the Band, Van Morrison, Janis Joplin, Jimi Hendrix & Friends in the Wild Years of Woodstock. Boston: Da Capo Press, 2016.

――― . Waiting For the Sun: A Rock ‘n’ Roll History of Los Angeles. New York, Backbeat Books, 2009.

Jackson, Blair, and David Gans. This Is All a Dream We Dreamed: An Oral His-tory of the Grateful Dead. New York: Flatiron Books, 2015.

Kramer, Wayne. The Hard Stuff: Dope, Crime, the MC5 and My Life of Impossibilities. New York: Da Capo Press, 2018.

Miles, Barry. In the Sixties. London: Jonathan Cape, 2002.

Norman, Philip. Shout.’: The Beatles in Their Generation. New York: Fireside Press, 1981.

Oldham, Andrew Loog. Stoned. London: Vintage, 2001, 2003.

Perry, Charles. The Haight-Ashbury: A History. San Francisco: Rolling Stone Press, 1984.

Rees, Dafydd, and Luke Crampton. The Guinness Book of Rock Stars. London: Guinness, 1991.

Richards, Keith. Lift. New York: Little, Brown, 2010.

Riley, Tim. Lennon: The Man, the Myth, the Music—The Definitive Lift. New York: Hyperion Books, 2011.

Selvin, Joel. Altamont: The Rolling Stones, the Hells Angels, and the Inside Story of Rock’s Darkest Day. New York: Dey Street Books, 2016.

Smith, RJ. The One: The Life and Music of James Brown. New York: Gotham Books, 2012.

Steffens, Roger. So Much Things to Say: The Oral History of Bob Marley. New York: W. W. Norton, 2017.

Wald, Elijah. Dylan Goes Electric!: Newport, Seeger, Dylan, and the Night that Split the Sixties. New York: Dey Street Books, 2015.

Ward, Ed. Michael Bloomfield: The Rise and Fall of an American Guitar Hero. Chicago: Chicago Review Press, 2016.

Whitburn, Joel. Hot Country Songs, 1944-2012, 8th ed. Menomonee Falls, WI: Record Research, 2013.

―――  . Hot R&B Songs, 1942-2010, 6th ed. Menomonee Falls, WI: Record Research, 2011.

――― . Top Pop Albums, 7th ed. Menomonee Falls, WI: Record Research, 2010.

――― . Top Pop Singles, 1955-2010, 14th ed. Menomonee Falls, WI: Record Research, 2011.

Wyman, Bill. Rolling with the Stones. London: DK Publishing, 2002.

 

Liner Notes

Bowman, Rob. The Band. Hollywood, Capitol Records, 2000.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Janie Bradford, and Todd Boyd. The Complete Motown Singles, Vol. 4: 1964. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2006.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Al Abrams, and Todd Boyd. The Complete Motown Singles, Vol. 5: 1965. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2006.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Edward Holland Jr., and Stu Hackel. The Complete Motown Singles, Vol. 6: 1966. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2006.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Barney Ales, and Herb Jordan. The Complete Mo-town Singles, Vol. 7: 1967. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2007.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Otis Williams, and Herb Boyd. The Complete Motown Singles, Vol.8: 1968. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2007.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Shelly Berger, and Stu Hackel. The Complete Mo-town Singles, Vol.9. 1969. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2007.

Dahl, Bill, Keith Hughes, John Reid, and John Anthony Neal. The Complete Motown Singles, Vol.10: 1970. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2008.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Harry Webber, and Andrew Flory. The Complete Motown Singles, Vol.11A: 1971. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2008.

Dahl, Bill, Keith Hughes, Scott Regan, and Andrew Flory. The Complete Motown Singles, Vol. 11B: 1971. Universal City, CA: Hip-0 Select, 2008.

Edmonds, Ben. What’s Going On (Deluxe Edition). New York: Motown Records, 2001.

Flanagan, Bill, and Clinton Heylin. Bob Dylan: The Complete Album Collection, Vol. 1. New York: Columbia Records, 2013.

Gordon, Robert, Bill Mehr, and Alec Palao. Keep an Eye on the Sky: Big Star. Burbank, CA: Rhino Records, 2009.

Heylin, Clinton and Sid Griffin. The Complete Basement Tapes. New York: Columbia Records, 2014.

Nathan, David. Lorraine Ellison: Sister Love, the Warner Bros. Recordings. Bur-bank, CA: Rhino Handmade, 2006.

Zax, Andy, and Bud Scoppa: Woodstock 40 Years On: Back to Yasgur’s Farm. Burbank, CA: Rhino, 2009.

 

Periodicals

Billboard, Cincinnati, Ohio, 1964-1975 inclusive, accessed via books. google .com.

Crawdaddy! Issues 1-8, New York, 1966-1968.

Rolling Stone, The First Forty Years. New York: Bondi Digital Publishing, 2007.

 

Films

All You Need Is Love. Directed by Tony Palmer. London: Isolde Films, 2008.

Bang! The Bert Berns Story. Directed by Bob Sarles. Ravin’ Films, 2016.

The Complete Monterey Pop Festival. Directed by D. A. Pennebaker. New York: The Criterion Collection, 2002.

Don’t Look Back. Directed by D.A. Pennebaker. New York: DocuDrama Films, 2006.

Festival. Directed by Murray Lerner. Patchke Productions, 1967.

A Hard Day’s Night. Directed by Richard Lester. United Artists, 1964.

Help! Directed by Richard Lester. United Artists, 1965.

Long Strange Trip. Directed by Amir Bar-Lev. Amazon Studios, 2017.

Sir Doug and the Genuine Texas Cosmic Groove. Directed by Joe Nick Patoski. Artist Labor, 2015.

The Trip. Directed by Roger Corman. Hollywood, 1967.

 

 

 

 

 

 

 

ライナー・ノーツ

 

本の出版は、その著者の人生において素晴らしい出来事であるはずで、私は2016年末にこの作品の第一巻が出ることを本当に楽しみにしていた。なぜなら、その数ヶ月前に、長い間絶版になっていたが新たに改訂された私の執筆したマイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfieldの伝記が出版されるのを見届けていたからだ。マイケルのファンやレコードを通してしか彼を知ることのなかった人々からインタビューを受けたので、その宣伝をしなければならなかったからだ。そのほとんどは楽しいものだったが、それから起こることは、もっと大きな出来事だった。仕事まで時間があったので休暇をとった。スペインをもっと見て回りたいと思い、スペインの一部をぐるっと回るルートを考えたのだが、それはまさに私が必要とすることだった。

ただし、それもバレンシアに着くまでは、の話であった。今まで泊まったホテルの中で一番豪華なホテルで、iPadをセットしてメールをチェックした。私の家を点検していた人が、家族の緊急な事情でアシスタントに引き継いだところ、ある日、玄関から水が流れ出ているのに気づいてカメラで撮影した写真が何枚か入っていたのだ。鍵は友人が持っていたのだが、国を横断している途中だった。その写真はテキサス州オースティンからニューヨーク市バッファロー、スペインのバレンシア、そしてまたオースティンの大家へと、転送され、翌日、私はトイレのバルブが壊れてタンクの蓋が飛び、超高圧の水で壁数か所と天井の一部が壊れたことを知った。水深は数インチに達し、本やCDのコレクションにも大きな被害が出た。休暇はほとんど終わり、損害はすでに起きてしまっていた。数日後、私は自分の目でそれを確認することができた。

そして実際にそうなった。私が戻ったときまでには、大家の保険会社が、訪問してくれた緊急清掃員に支払いを済ませていた。濡れた本は「濡れてる」と書かれた段ボール箱に入れられ、カビで毛羽立ち、CDのボックスセットや作業員のボトルが裏庭に散乱し、濡れた衣服の山はカビが生えて腐りかけていた。復旧作業には少なくとも4週間かかると言われた。オースティンのダウンタウンにある長期滞在型の住宅ホテルを調べたが、満足のいく解決策ではなかった。その後、Airbnb をしているFacebookの友人に、真冬に使用されていない場所を教えてもらい、救われた。そこで私は、冬の風、ピーカンの木、トタン屋根について学んだが、少なくとも1年分のピーカンを手に入れることができた。

4週間が4カ月になり、その間に、30年近くロックンロールの歴史を語ってきたラジオ番組が、この本について私をゲストとして呼んでくれないことがわかった。私たちは袂を分かったが、出版社であるフラットアイアンFlatiron Booksの広報担当であるスティーブン・ボリアックSteven Boriackのおかげで、他にもたくさんのインタビューを受けることができ、新聞やさまざまなウェブサイトで素晴らしい評価を得ることができた。最終的に、ネイト・ウィルコックスNate Wilcoxと私は、これらの本で扱われているテーマを掘り下げて語るためにレット・イット・ロールLet It Rollというポッドキャストを開発し、それに基づいた新しいセッションを始めるのが待ち遠しい。

しかし、家の中はめちゃくちゃで、この巻の執筆の合間に、多くの荷ほどき、棚入れ、改築、参考資料の入れ替えなどを行った。ケリー・サラグサ・マッケンティーKelly Saragusa McEntee、ジェニファー・ミルバウアーJennifer Milbauer、アンドリュー・ハルブライヒAndrew Halbreich、リチャード・ラケットRichard Luckett、トニー・ロマノTony Romano、ローランド・スウェンソンRoland Swenson、ボブ・シモンズBob Simmons、クリス・ウォルターズChris Walters、ゲリー・ライスGary Riceなど、手伝ってくれたすべての人に感謝したい。私の理解ある大家、ジェフ・クレイマーJeff Kramerには特に感謝したい。

ビルボード誌Billboardローリング・ストーン誌Rolling Stoneのページから調査しただけでなく、私自身の経験からも多くのことを得た。ここに描かれている時代は、私の執筆活動の始まりと重なるので、そのきっかけを作ってくれたブロードサイド誌Broadsideのシス・カニンガムSis Cunninghamとゴードン・フリーセンGordon Friesen、クローダディ!誌Crawdaddy!のポール・ウィリアムスPaul Williamsとティム・ユルゲンTim Jurgensに感謝する。ローリング・ストーン誌のジョン・バークスJohn Burks、ジョン・モースランドJohn Morthland、ジョン・ランバーディJohn Lombardi、バロン・ウォルマンBaron Wolman、ロバート・アルトマンRobert Altman、クリーム誌Creemのレスター・バングスLester Bangs、ジャン・ユーヘルスキJaan Uhelszki、デーブ・マーシュDave Marsh、そして目の前で起こっていることを理解するのに助けとなった無数の広報やレコード会社の人たちにも感謝している。パイン・ストリートPine Streetのルリア・カステルLuria Castell、エレン・ハーモンEllen Harmon、リン・ヒューズLynne Hughes、そして1967年の忘れられない一週間を過ごしたアルトン・ケリーAlton Kelley、さらには、私が社会と文化の歴史に興味を持つきっかけを作ってくれたクエンティン・フィオーレQuentin Fioreとその家族にも大きな感謝を捧げる。マイケル・ブルームフィールドMichael Bloomfield、ニック・グラブナイツNick Gravenites、イアン・ハンターIan Hunter、レイ・ベンソンRay Bensonといったミュージシャンたちは、エンターテインメントとともに洞察力を与えてくれたし、ビレッジ・ミュージックVillage Musicのジョン・ゴダードJohn Goddardは、私を教育し新しい展望を開き続けてくれた。また,ティム・ペイジTim Pageとマーク・サトロフMark Satlofには,最後まで事実確認をしてもらった。

アメリカ以外では,イギリスのピート・フレームPete Frameとノース・マーストンの人々、チャールズ・シャー・マレーCharles Shaar Murrayとアンドリュー・ローダーAndrew Lauder,ベルリン時代のスタッフ、パリのジェラール・バー・ダビッドGerard Bar-Davidとミシェル・キャンベルMichelle Campbell,モンペリエのドクターJCマラシュ Dr.J.-C. Marracheとエティエンヌ・ポデバンEtienne Podevin、フィンランドのタピオ・コルユスTapio Korjusとペッカ・ライネンPekka Lainen、そしてコペンハーゲンのリケ・ラスカRikke Raskに感謝したい.

いつものように、私のスーパーエージェントであるハーベー・クリンガー・エージェンシーHarvey Klinger Agencyのデビッド・ダントンDavid Duntonが物事をスムーズに進め、フラットアイアンFlatironではJasmine Faustinoが、これを支障なくもう一冊の本にしてくれた。

ここに書いていない人もいるはずだが、締め切りが迫っている。最後に、この時代の文化史を扱う本の中で、販売店に感謝するのが当然であり、この本の執筆に一役買ってくれたテキサス州オースティンのアンダーソンズ・コーヒーAnderson’s Coffeeに感謝を込めて乾杯。

 

 

 

 

索引

ABBA

Abbey Road

Abbey Road Studios

Adler, Lou

After Bathing at Baxter’s

Aldon Music

Alexander, J. W.

Alice’s Restaurant

All Things Must Pass

“All You Need Is Love”

Allman, Duane

the Allman Brothers

Altamont

Altamont (Selvin)

AM radio

American Bandstand

“American Pie”

Anderson, Ian

Anderson, Stig

the Animals

Another Side of Bob Dylan

Anthology of American Folk Music

Apple the Archies

Ardent Studios

Aretha Arrives

Armstrong, Louis

Asher, Peter

Ashley, Clarence

Aspinall, Neil

Astral Weeks

Asylum

Atlantic Records

Aucoin, Bill

Autosalvage

avant-garde music

Average White Band

Ayres, Kevin

 

Baby Boomers

Bad Company

Badfinger

Baez, Joan

“The Ballad of Forty Dollars”

“The Ballad of John and Yoko”

the Band

at Big Pink

Dylan and

in The Last Waltz

Robertson in

The Band

Bangs, Lester

Bare, Bobby

the Bar-Kays

Baron von Tollbooth and the Chrome Nun

Barrett, Syd

Barrow, Tony

Batman (television show)

BBC

the Beach Boys

Bearsville Records

Beat poets

Beatlemania

the Beatles

Abbey Road by

“All You Need Is Love” by

in America

American press conferences

Apple and

“The Ballad of John and Yoko”

in Billboard

Capitol and

“Come Together” by

controversy

“A Day in the Life” by

Epstein and

figurines

films for TV

“Get Back” by

A Hard Day’s Night (film)

Help! (film)

“Hey Jude” by

at Hollywood Bowl

“I Want to Hold Your Hand” by

Klein, A., and

“Lady Madonna” by

Let it Be by

“Let it Be” by

live performances turned down by

“The Long and Winding Road” by

LSD and

Magical Mystery Tour

Paris residency

“Penny Lane” by

“Revolution 9” by

Revolver by

the Rolling Stones and

Rubber Soul by

Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band by

“She Loves You” by

“Something” by

Spector and

“Strawberry Fields Forever” by

Sullivan and

Wilson, B., on

Yellow Submarine (film)

Yesterday … and Today by

Beck, Jeff

Becker, Walter

the Bee Gees

Before the Flood

Beggars Banquet

Bell, Al

Bell, Chris

Bell Records

Benson, Obie

Berns, Bert

Berry, Chuck

Berry, Richard

Big Brother and the Holding Company

Big Pink

Big Star

Big Youth

Billboard

on alternative press

the Beatles in

on Columbia

Cornyn to

on country trend

on Fleetwood Mac

on folk

on folk rock

on Franklin

on Jefferson Airplane

on MOR

on progressive radio stations

Warner Bros. in

Binder, Steve

Bishop, Elvin

Bitches Brew

Black Oak Arkansas

Black Sabbath

Blackwell, Chris

Blakley, Ronee

Blankfield, Peter

Blind Faith

Blonde on Blonde

Blood, Sweat and Tears

Blood on the Tracks

Bloomfield, Michael

“Blowin’ in the Wind

” Blowin’ Your Mind

Blue Oyster Cult

blues

Blues Incorporated

Boladian, Armen

Bolan, Marc

Bond, Graham

Bond, Julian

Bonnie and Clyde (1968)

Booker T. and the M.G.’s

Boone, Steve

Booth, Stanley

bootlegs

Boston

boutique labels

Bowie, David

the Box Tops

Boyer, Elisa

Brambell, Wilfrid

Brandt, Jerry

Branson, Richard

Bringing It All Back Home

Britain

British bands. See also specific bands

Mod

at Monterey International Pop Festival

progressive

record companies and

  1. S. labels and

British Invasion

Brother Records

Brown, Arthur

Brown, Earl

Brown, James

in Boston “Cold Sweat” by

J.B.’s and

King, M., assassination and

King Records and

“Papa’s Got a Brand New Bag” by

“Say It Loud, I’m Black and I’m Proud” by

Brown, Maxine

“Brown Eyed Girl”

“Brown Sugar”

Browne, Jackson

Bruce, Lenny

Brunswick

Brunswick/Dakar Records

bubblegum music

Buchanan, Roy

Buckingham, Lindsey

Buckingham Nicks

Buddah Records

Buffalo Springfield

Buffett, Jimmy

Burke, Solomon

Burton, James

Buster, Prince

Butterfield, Paul

the Byrds

Byron Lee and the Dragonaires

 

Cahoots

Callier, Terry

Campbell, Glen

Canada

Capitol Records

Apple and

the Beatles and

Brother label of

Steve Miller Band on

on Teen Underground movement

Da Capo

Captain Beefheart and His Magic Band

Carawan, Guy

Carmen, Eric

the Carpenters

Carr, James

Carter, Jimmy

Cash, Johnny

cassette

Castell, Luria

Catch a Fire

Cecil, Malcolm

Chairmen of the Board

Chandler, Chas

“A Change is Gonna Come”

the Charlatans

Charles, Ray

Cher

Chess

Chicago

Chicago (band)

the Chi-Lites

Chilton, Alex

Christian, Arlester (“Dyke”)

Christian rock

Christmas special, of Presley

“City of New Orleans”

Civil Rights Act

civil rights movement

Clapton, Eric

in Blind Faith

Bloomfield and

on cocaine

Cream and

Derek and the Dominos

Clark, Dick

Clark, Gene

classical records

Clayton, Merry

Cleave, Maureen

Clemons, Clarence

Cleveland, Al

Cliff, Jimmy

Clinton, George

“Cloud Nine” cocaine

Cocker, Joe

“Cold Sweat”

Coleman, Ray

Collier, Mitty

Collins, Bootsy

Collins, Phil

Colonel Tom Parker. See Parker, Colonel Tom

Columbia Records

Billboard on

the Byrds on

Davis, C., at

Sigma Sound studio

Stax and

“Come Together” Concert for Bangladesh

Cook, Robin

Cooke, Sam

Cooper, Alice

Cordell, Denny

Comyn, Stan

counterfeit records

Country Joe and the Fish

country music. See also specific artists

The Country Musk Hall of Fame Hits

countrypolitan sound

country-rock

Covay, Don

Crawdaddyf

Cream the Creation

Credence Clearwater Revival

Creem

Cropper, Steve

Crosby, David

Crosby, Stills, Nash and Young

Crosby, Stills and Nash

Cruising with Reuben & the Jets

Curtis, King

Curtis, Sonny

Dale, Dick

Daniels, Charlie

Danko, Rick

DarkSide of the Moon

Davies, Ray and Dave

Davis, Clive

Davis, Miles

Davis, Sammy Jr.

“A Day in the Life

“Daydream Believer”

De Passe, Suzanne

“Dead Skunk’

Death of Hippie event

death of the sixties

Decca Records

deejays

deep soul

Dekker, Desmond

Delfonics

the Deltones

Denmark

Derek and the Dominos

Desire

Desmond

Dekker and the Aces

Detroit. See also Motown

Detroit (band)

Dickson, Jim

Diddley, Bo

Dion

Disc and Music Echo

the Dixie Cups

Do the Ska

“Dock of the Bay”

Dodd, Clement “Coxsone”

“Does My Ring Hurt Your Finger”

Domino, Fats

Donahue, Tom

Donegan, Lonnie

Donovan

Dont Look Back (1967)

the Doors

Dr. Hook

Dr. John

the Drifters

drinking, songs about

drugs. See also LSD; marijuana

at Altamont

cocaine

in Haight-Ashbury

heroin

Lennon, conviction for

in Presley death

Quaaludes

the Rolling Stones and

in songs

speed

Dunhill Records

Dyke and the Blazers

Dylan, Bob

Another Side of Bob Dylan by

the Band and

basement tapes

at Big Pink

Blonde on Blonde by

Blood on the Tracks by

Bloomfield and

“Blowin’ in the Wind” by

Bringing It All Back Home by

Cash and

on Cliff

Desire by

electric, at Newport Folk Festival

Before the Flood by

Ginsberg and

Grossman and

Highway 61 Revisited by

John Wesley Harding by

“Maggie’s Farm” by

motorcycle accident

Nashville and

Nashville Skyline by

Planet Waves by

protest songs

“Rainy Day Women #12 & 35” by

“Subterranean Homesick Blues” by

Tarantula by

The Times They Are a- Changins by

Tiny Tim and

in Woodstock

Dylan Live at the Albert Hall

E Street Band

the Eagles

Eastman, John

Eastman, Linda

Echols, Johnny

Edgar Winter Group

eight-track

Electric Prunes

Electronic Sound

Elektra Records

Ellison, Lorraine

Emerson, Lake & Palmer

Epic Records

Epstein, Brian

Ertegun, Ahmet

Europe ’72

Evans, Bill

Evans, Mal

Exploding Plastic Inevitable

 

Fagen, Donald

Faithfull, Marianne

“Fame”

Famepushers

Farewell to the First Golden Era

Fields, Danny

the Fifth Dimension

“59th St. Bridge Song, (Feelin’ Groovy)”

Fillmore Auditorium

Fillmore East

Fillmore West

“Fist City”

Flatt, Lester

Fleetwood Mac

Fleetwood Mac

Floyd, Eddie

the Flying Burrito Brothers

FM radio

Fogerty, John

Fogerty, Tom

folk revivalism

folk rock

folk scene

folk singers

folkswinging

Folkways Records

Fong-Torres, Ben

Fontana, D. J.

“For What It’s Worth”

Ford, Gerald Forever Changes

the Four Tops

Frampton, Peter

Frampton Comes Alive!

Frank, Robert

Franklin, Aretha

“Free Bird”

the Bobby Fuller Four

funk

the Funk Brothers

Funkadelic

“Funky Broadway”

fusion

Gamble, Kenny

Garcia, Jerry

Garvey, Marcus

gay male pop stars

Gaye, Marvin

Geffen, David

Genesis

Gentry, Bobbie

Germany

“Get Back” ‘Get Your Ya-Ya’s Outi,

‘ Gibbons, Billy

Gibbs, Joe

Gimme Shelter (1970) “Gimme Shelter”

Ginsberg, Allen

girl groups

“Give Peace a Chance”

Gladys Knight and the Pips

glam rock

Gleason, Ralph

Glitter, Gary

Godspell

Goffin, Gerry

Goldenberg, Billy

Goldmann, Peter

“Good Vibrations”

Goodman, Steve

Gordon, Robert

Gordy, Berry

Gore, Lesley

Govan, James

Graceland

The Graduate (1968)

Graham, Bill

Grand Funk Railroad

Grand Ole Opry

Grande Ballroom

the Grateful Dead

Grateful Dead Records

Gravy, Wavy

the Grease Band

the Great Society

Green, Al

Greetings from Asbury Park, N.J.

Grossman, Albert

Grunt

Guthrie, Arlo

Guthrie, Woody

 

 

Haggard, Merle

Haight Street

Haight-Ashbury

Hall, Rick

Hall, Tom T.

Hammond, John

Hancock, Herbie

A Hard Day’s Night (1964)

hard rock, black

The Harder They Come (1972)

Hare Krishnas

Harmon, Ellen

Harold Melvin and the Blue Notes

“Harper Valley P.T.A.”

Harris, Emmylou

Harrison, George

Harrison, Patti

Harvest

Harwell, Joe

hashish

Hawkins, Dale

the Hawks. See also the Band

Hawthorne, California

Hayes, Isaac

Hazel, Eddie

Hazlewood, Lee Head (1968)

heavy rock

Hello, Dolly! soundtrack

Hells Angels

Helm, Levon

Help! (1965)

Hendrix, Jimi

Henzell, Perry

Herb Alpert and the Tijuana Brass

“Heroes and Villains”

heroin

“Heroin”

“Hey Jude”

Hi label

Higgs, Joe

Highway 61 Revisited

Hip Pocket Records

hippies

Hirt, Al

Hoffman, Abbie

Hoffmann, Dew

Hofmann, Alfred

Hog Farm

Holly, Buddy

Holy Modal Rounders

Honey Cone

Hood, David

hootenanny bands

Hopkin, Mary

Hot Tuna

Hot Wax

House, Son

Howe, Bones

Hubbard, Al

Hudson, Garth

Huff, Leon

Hughes, Lynne

Human Be-In

Humble Pie

Hunky Dory

Hunter, Meredith

“Hurricane”

Hurt, Mississippi John

Huxley, Aldous

 

“I Never Loved a Man (The Way I Love You)”

“I Think Were Alone Now”

“I Want to Hold Your Hand”

Ian and the Zodiacs

“If I Can Dream”

Ike and Tina Turner

“I’ll Take You There”

the Impressions

In a Silent Way

In Concert

Insect Trust

In the Court of the Crimson King

“Instant Karma”

interracialism

Invisible Republic (Marcus)

IRS

Islam, Yusuf

Island

Islands

Isle of Wight Festival

 

  1. Geils Blues Band

Jackson, Al Jr.

Jackson, Jesse

Jackson, Michael

Jackson 5

Jacobs, David

Jagger, Mick

Jakeman, Andy

Jamaica

James, Carroll

James, Skip

the James Gang

James Taylor

Jan and Dean

Janov, Arthur

jazz

jazz fusion

JBC

Jefferson Airplane

Baron von Tollbooth and the Chrome Nun by

After Bathing at Baxter’s by

on RCA

Slick and

at Woodstock

Jennings, Waylon

the Jerk (dance)

Jesus Christ Superstar

Jesus rock

Jethro Tull

Jobriath

“Joey”

Johansen, David

John, Elton

John Lennon/Plastic Otto Band

John Wesley Harding

Johnny and the Moondogs

Johnston, Bob

Jones, Brian

Jones, David. See Bowie, David

Jones, George

Joplin, Janis

Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat

Judge Dread

 

Kapp Records

Kelley, Alton

Kennedy, Jerry

Kennedy, Robert

Kesey, Ken

Kick Out the Jams

King, Albert

King, B. B.

King, Carole

King, Martin Luther, Jr.

King Crimson

King Records

the Kingsmen

the Kingston Trio

the Kinks

Kirshner, Don

Kiss

the Kitchen

Klein, Allen

Klein, George

Klein, John

Knight, Gladys

Knight, Terry

Kong, Leslie

Kooper, Al

Korner, Alexis

Kramer, Billy J.

Kristofferson, Kris

 

  1. See Los Angeles

L.A. Woman

Laboe, Art

“Lady Madonna”

Landau, Jon

Lang, Michael

the Larks

“Last Train to Clarksville”

The Last Waltz (1978)

Laughlin, Chandler

Layla

Lead Belly

“Leader of the Pack”

Leary, Timothy

Led Zeppelin

Lee, Alvin

Lee, Arthur

Lee, Brenda

Lennon, John

drug conviction

heroin use

“Instant Karma” by

John Lennon/Plastic Ono Band songs by

Levy, M., and

McCartney, P., and

Nilsson and

Ono and

with Plastic Ono Band

Wenner on

Lennon Remembers (Wenner)

Lester, Richard

Let it Be

“Let it Be”

Let it Bleed

“Let’s Go Trippin”‘

Levy, Jacques

Levy, Morris

Lewis, Jerry Lee

LHI

Liberty

Lifetime

“Like a Rolling Stone”

Little Anthony and the Imperials

“Little Boxes”

Little Feat

Little Richard The

Live Adventures of Mike Bloomfield and AI Kooper

Live’r Than You’ll Ever Be bootleg

the Living Theater

Lomax, Alan

London

“The Long and Winding Road”

Lopez, Trini

Los Angeles (LA)

“Louie Louie”

Love (band)

Love, Mike

the Lovin’ Spoonful

Lowe, Nick

LSD

Lydon, Michael

Lynn, Loretta

Lynyrd Slcynyrd

 

MacLean, Bryan

Mad River

“Maggie’s Farm”

“Maggot Brain”

Magical Mystery Tour

Mahal, Taj

Maharishi Mahesh Yogi

Mailer, Norman

Mainstream Records

the Mamas and the Papas

Manilow, Barry

Mann, Manfred

Manuel, Richard

Marcus, Greil

“Margaritaville”

marijuana

Rastafarians and

references in songs

at rock concerts

Marley, Bob

Marsh, Dave

Marshall, Jim

Marshall Tucker Band

Martin, Dean

Martin, George

Matching Mole

the Matrix

Mayfield, Curtis

Maysles brothers

the Maytals

the MC5

McCartney

McCartney, Linda

McCartney, Paul

Apple and

Eastman, L, and

Epstein and

“Hey Jude” by

Lennon and

on Let it Be, Spector and

on Pet Sounds

with Wings

McGuinn, Jim

McKenzie, Scott

McLean, Don

McLendon, Gordon

“Me and Bobby McGee” (Kristofferson)

Meaux, Huey P.

Mellotron

Melody Maker

Meltzer, Richard

Memphis

Mercer Arts Center

the Merry Pranksters

middle of the road (MOR)

Midler, Bette

Miles, Barry

Miles, Sue

Miller, Roger

Miller, Steve

Mitchell, Joni

Mitchell, Willie

Moby Grape

the Mods

“Money”

the Monkees

Monsour, Richard. See Dale, Dick

Monterey International Pop Festival the

Moody Blues

Moog synthesizer

Moondog Matinee

Moore, Scotty

MOR. See middle of the road

Morrison, Jim

Morrison, Van

Morrison Hotel

Mother Earth

Mothers of Invention

Motortown Revue

Motown

Funk Brothers

Gaye at

Gordy at

HDH and

Jackson, M., and

Jackson 5 and

Stax and

Whitfield at

Wonder at

Mott the Hoople

the Move

Murcia, Billy

Muscle Shoals

Muscle Shoals Rhythm Section

“My Ding-A-Ling”

“My Sweet Lord”

the Mynah Birds

 

narrative songwriting

Nashville

Nashville Skyline

Nathan, Syd

National Association of Radio and Television Announcers (NATRA)

Natty Dread

the Nazz

NBC

Nelson, Paul

Nelson, Ricky

Nelson, Tracy

Nelson, Willie

NEMS

Nesmith, Michael

“new Dylan?

New Jersey

New Lost City Ramblers

New Orleans

New York. See also Woodstock

New York Dolls

Newman, Randy

Newport Folk Festival

News of the World

Nicholson, Jack

Nicks, Stevie

Nico

Nigerian music

Nilsson, Harry

Nilsson Sings Newman

Nitty Gritty Dirt Band

Nitzsche, Jack

Nixon, Richard

Northern Lights-Southern Cross

nostalgia

The Notorious Byrd Brothers

Nyro, Laura

 

Ochs, Phil

Odam, Norman

“Ode to Billie Joe”

the O’jays

Oldfield, Mike

Oldham, Andrew Loog

Oldham, Spooner

Ono, Yoko

Osmond, Humphry

Owen, Alun

Owens, Buck

Paar, Jack

Page, Jimmy

Palmer, Tony

“Papa’s Got a Brand New Bag”

Parker, Colonel Tom

Parks, Van Dyke

Parliament

the Parliaments

Parlophone

Parrotheads

Parsons, Gram

Parton, Dolly

Passaro, Alan

A Passion Play

Paul Butterfield Band

Paul Revere and the Raiders

Paycheck, Johnny

Peebles, Ann

Peel, John

Pendergrass, Teddy

Pennebaker, D. A.

“Penny Lane”

Perkins, Carl

Perry, Lee “Scratch”

Pet Sounds

Peter, Paul and Mary

Philadelphia

Philadelphia International

Philco

Phillips, John

Phoenix, Arizona

phonographs

Pink Floyd

Pisces, Aquarius, Capricorn and Jones

Planet Waves

Plastic Ono Band

poetry

Polydor

Pop, Iggy

postwar America

Presley, Elvis

the Pretty Things

Price, Ray

Pride, Charley

primal therapy

Prine, John

Procol Harum

Proffitt, Frank

progressive MOR

progressive rock

protest songs

Pryor, Richard

psychedelic music

psychedelics

Pussy Cats

Quaaludes

quadrophonic sound

Quicksilver Messenger Service

 

Raccoon Records

Radio City

radio stations, progressive

Rafelson, Bob

Ragovoy, Jerry

“Rainy Day Women #12 & 35”

Ram

Ramblin’ Jack Elliot

the Raspberries

Rastafarianism

RCA

Bowie at

Cooke and

Jefferson Airplane on

NBC and

Nelson, W., on

Presley on

studio

record industry

recording technology

Red Dog Saloon

Redding, Otis

death of

“Dock of the Bay” by

at Monterey International Pop Festival

“Respect” by

at Stax

Reed, Lou

Rees-Mogg, William

reggae Reprise

“Respect”

Revilot

“Revolution 9”

Revolver

Reynolds, Malvina

Rice, Tim

Rich, Charlie

Richards, Keith

the Righteous Brothers

Riley, Jeannie C.

Riley, John

Rinzler, Ralph

Riot on Sunset Strip (1967)

The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars

“River Deep-Mountain High”

Rivers, Johnny

Roberts, Elliot

Robertson, Robbie

Robinson, Dave

Robinson, Smokey

“Rock Island Line”

Rock ‘n’ Roll

Rock of Ages

rock operas

rock-and-roll revival

rocksteady

Rolling Stone

on Bowie

Creenz and

on Fleetwood Mac

on The Last Waltz

on rock television programs

in San Francisco

Thompson at

Wenner at

the Rolling Stones

Altamont

the Beatles and

Beggars Banquet by

on Berry, C.

“Brown Sugar” by

Decca Records contract

drugs and

in France

‘Get Your Ya-Ya’s Out!’ by

“Gimme Shelter” by

Jones, B., and

Klein, A., and

Let it Bleed by

Live’r Than You’ll Ever Be bootleg

Oldham, A., and

party on February 11, 1967

“Ruby Tuesday” by

“Satisfaction” by

“Schoolboy Blues” by

Sticky Fingers by

“Street Fighting Man” by

“Sympathy for the Devil” by

T.A.M.1. Show

“You Can’t Always Get What You Want” by

The Rolling Stones Rock and Roll Circus (1996)

Rolling Thunder Revue

the Ronettes

Ronson, Mick

Ronstadt, Linda

Ross, Diana

Round Records

Royal Albert Hall

the Rubber Dubber

Rubber Soul

Rubin, Barbara

“Ruby Tuesday”

rude boys

Rundgren, Todd

Russell, Leon

Ryder, Mitch

 

SAFEE. See Stax Association for Everybody’s Education

Sahm, Doug

Sainte-Marie, Buffy

Sam and Dave

“Sam Stone”

San Francisco

bands

folk scene

Haight Street

Haight-Ashbury

pop music confab in

Rolling Stone in

San Francisco Mime Troupe

Santana

SAR

“Sara”

Sargent, Bill

“Satisfaction”

Saturday Night Live

“Say It Loud, I’m Black and I’m Proud”

“Schoolboy Blues”

Scorsese, Martin

Scruggs, Earl

Sebastian, John

the Seeds

Seeff, Norman

Seeger, Pete

Selvin, Joel

sexuality

Sgt. Pepper’s Lonely Means Club Band

Shaft (1971)

“Shake”

Shangri-Las

Shankar, Ravi

Shaver, Billy Joe

“She Loves You”

Shelter Records

Sherrill, Billy

Shindig!

Sigma Sound

Silverstein, Shel

Simon, John

Simon and Garfunkel

Simone, Nina

Sinatra, Frank

Sinclair, John

singer-songwriters

singles versus album markets

Sir Douglas Quintet

ska

the Skatalites

skiffle bands

skinheads

Slade

Slick, Grace

Sloan, P. F.

Sly and the Family Stone

Small Faces

Smile

Smith, Harry

Smith, Patti

“Something”

Something Else by the Kinks

Sommerville, Brian

soul music. See also Motown; Stax; specific artists

blues and

deep soul

mellow

Southern

white listeners

Sound City Studios

Southern rock

Southern soul

Spector, Phil

speed

Spence, Skip

Springsteen, Bruce

Stage Fright

“Stairway to Heaven”

“Stand By Your Man”

the Staple Singers

Staples, Mavis

Staples, Pervis

Staples, Pop

“The Star Spangled Banner” performance, by Hendrix

Starr, Ringo

Stax

Ardent Studios tlantic and

Bell, A., at

Big Star and

Columbia and

convention

Hayes at

Motown and

Redding at

Staples Singers at

Stax Association for Everybody’s Education (SAFEE)

Steely Dan

stereo

Steve Miller Band

Stevens, Cat

Stewart, Jim

Stewart, Rod

Stewart, Sylvester

Sticky Fingers

Stigwood, Robert

Stills, Stephen

Stone, Butch

Stone, Sly

the Stone Poneys

Stonewall riots

the Stooges

“Strawberry Fields Forever”

“Street Fighting Man”

the Strip, in LA

the Stylistics

“Subterranean Homesick Blues”

Sullivan, Ed

summer festival season

Summer of Love

the Supremes

surfing instrumentals

Surrealistic Pillow

“Suzy Q .”

Swamp Dogg

Sweden

Sweet Baby James

Sweetheart of the Rodeo

“Sympathy for the Devil”

synthesizer

 

  1. Rex

Taj Mahal

T.A.M.I. See Teen Age Music International

  1. A.M.I. Show

tape cartridges

Tapestry

Tarantula (Dylan)

Tarsia, Joe

Taupin, Bernie

Taylor, Arthur

Taylor, Bobby

Taylor, Derek

Taylor, James

Taylor, Mick

Teen Age Music International (T.A.M.I.)

Teen Pan Alley

Teen Underground movement

television

television theme songs

the Temptations

Ten Years After

Terrell, Tammi

That Nigger’s Crazy

theatricality

Them

Thin White Duke persona, of Bowie

Thomas, Carla

Thompson, Hunter S.

the Three Blazers

Thunders, Johnny

The Times They Are a- Changin’

Tiny Tim TM. See transcendental meditation

“Tom Dooley”

Tom the Great Sebastian

Tommy

Tommy James and the Shondells

TONTO’s Expanding Head Band

Top of the Pops

Toussaint, Allen

Tower of Power

transcendental meditation (TM)

transistor radios

transistors

Trini Lopez

the Troggs

the Troubadour

Trout Mask Replica

Truth of Truths

Tubby, King

Tumbleweed Connection

Two Virgins

 

  1. S. See United States

“Unchained Melody”

Uni Records

United States (U. S.)

Unobsky, Mark

the Upsetter “Uptight”

U-Roy

 

Vartan, Sylvie

Vee-Jay

the Velvet Underground

“Viet Nam”

Vietnam War

Village Music, record store

Village Voice

Virgin Records

Virginia City

vocal groups

 

Wadleigh, Michael

Wagoner, Porter

the Wailers

Wainwright, Loudon Ill

Walls and Bridges

Warhol, Andy

the Warlocks

Warner Bros.

Watergate

Waterman, Dick

Waters, Muddy

Waters, Roger

Watson, Doc

Watts, Alan

We Shall Overcome

“Weather Report

the Weavers

Webb, Jimmy

Webber, Andrew Lloyd

The Weight”

Welch, Bob

Wells, Mary

Wenner, Jann S.

West Indians

Wexler, Jerry

“Whatever Gets You Through the Night”

What’s Going On

“What’s Going On”

What’s Sha kin’

Whiskey, Nancy

White, Kevin

White, Ted

White Panthers

“A Whiter Shade of Pale”

Whitfield, Norman

the Who

The Who Sell Out

Wicked Lester

The Wild, the Innocent dr the E Street Shuffle

Williams, Jerry

Williams, Paul

Williams, Tony

Williamson, Sonny Boy

Wilson, Brian

Wilson, Dennis

Wilson, Jackie

Wilson, Tom

Wings

Winter, Johnny

Withers, Bill

Wonder, Stevie

“Wonderful World, Beautiful People”

Wonderwall (1968)

Woodstock (1970)

Woodstock, New York

Woodstock Musk and Art Fair

WOR radio station

Works, Don

Wyatt, Robert

Wynette, Tammy

 

Yanovsky, Zal

the Yardbirds

Yarrow, Peter

Yellow Submarine (1968)

Yes

Yesterday … and Today

“You Can’t Always Get What You Want”

“You Don’t Own Me”

Young, Neil

young people

the Youngbloods

youth market

 

Zappa, Frank

Zen Mine

Zero Time

Ziggy Stardust persona, of Bowie

Zimmerman, Robert. See Dylan, Bob

the Zombies

ZZ Top

 

 

 

ブックカバーの解説

 

ロックンロールの歴史家エド・ウォードが、ロックの最もエキサイティングな一時代を包括的で信頼でき、そして魅力的に描いた文化史。

1964年2月、ビートルズThe Beatlesはニューヨークに降り立ったばかりで、ニューヨーク市警、ファンの群れ、200人のジャーナリストの集団が、彼らのアメリカでの最初の記者会見を待ち構えていた。それは、「アメリカで髪を切るつもりなのか?」という誰もが心に抱く質問から始まり、存在しないカツラを取ろうとしてポール・マッカートニーの髪を記者が引っ張って終わる。『ロックンロールの歴史第Ⅱ巻』はここから始まる。1964年から1970年代半ばまでを綴ったこの最新巻は、ポピュラーで最先端の音楽が大量にあふれ出た、ロック史上最もエキサイティングな一時代を網羅している。エド・ウォードは、興味深い史実を通して語られるとても面白い逸話を紡ぎ出し、音楽史におけるこの驚くべき時代の最前線にいた大スター、先駆者、DJ、レコード会社の重役、コンサート・プロモーター、プロデューサーたちの舞台裏を語っている。ボブ・ディランBob Dylanからビル・グラハムBill Gra-ham、ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix、ジャニス・ジョプリンJanis Joplin、バーズThe Byrds、アレサ・フランクリンAretha Franklin、ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesなど、この時代の人気ミュージシャンが登場し、さまざまなプレイヤー、サウンド、トレンドがどのように融合し、今日の私たちが知っている、そして愛している音楽を生み出したかを明らかにする。

 

 

エド・ウォードは、ナショナル・パブリック・ラジオNPRのフレッシュ・エアFresh Airで30年以上ロックンロールの歴史家を務め、1,400万人のリスナーに支持された。現在はポッドキャスト「レット・イット・ロールLet It Roll」の共同司会者。ニューヨーク・タイムズ紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙、そして数え切れないほどの音楽雑誌に寄稿している。著書に『ロックンロールの歴史 第Ⅰ巻The History of Rock & Roll, Volume Ⅰ』、『マイケル・ブルームフィールド:ザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・アン・アメリカン・ギター・ヒーローMichael Bloomfield: The Rise and Fall of an American Guitar Hero』がある。テキサス州オースティン在住。

 

 

 

 

 

 

『ロックンロールの歴史 第Ⅰ巻:1920〜1963年』への賛辞

 

「深く研究されているが、会話調。ウォードはちょうどよい具合に『オタク的情熱』を見せ、ヒット曲からヒット曲へ、ブームからブームへと小気味よく進みながら、いくつかの選りすぐりの逸話を語るときだけ少しゆっくりになる。

-ワシントン・ポストTHE WASHINGTON POST

 

「ロック・ジャーナリズムの第一人者が、人々を魅了してやまないこのテーマに関する大作の第Ⅰ巻を世に送り出した。驚くべき発見と新たな洞察に満ちている。古い曲を新しく、より深い理解をもって聴き直したくなる、いきいきとした研究書だ。」

-カーカス誌書評KIRKUS REVIEWS (特に高い書評starred review)

 

「ウォードの生き生きとした逸話は、タイトルに『歴史』がつく本の98パーセントよりも楽しく読ませる。」

-ダラス・モーニング・ニュースDALLAS MORNING NEWS

 

「このような本は非常に重要だ。ウォードの温かく親しみやすい語り口のおかげで、この本は情報提供としても娯楽としても成立している。」

-ピッツバーグ・ポスト・ガゼットPITTSBURGH POST-GAZETTE

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