AMITA 14章 シーソー

第14章 シーソー

ジェリー・ゴフィンGerry Goffinとキャロル・キングCarole King、そしてラス・タイテルマンRuss Titelmanが映画「ハード・デイズ・ナイト」を観にニューヨークへ向かう途中、リンカーン・トンネルに差し掛かったとき、キングは車を回してウェスト・オレンジへ戻ろうと主張した。ゴフィンによれば、「彼女は恐れて」いて、このまま進んでビートルズの処女作を見るために彼女を説得するしかなかった。アメリカのソングライター、特にアルドンをコロムビア・スクリーン・ジェムズに売却したことをまだ引きずっているソングライターには、尻込みする理由があった。

ジョン・F・ケネディJohn F. Kennedyが暗殺された直後にビートルズThe Beatlesが登場したことで、アメリカの若者たちの呆然とした気分は高揚したが、イギリスのグループがポップチャートを席巻していたため、若者たちを楽しませるパフォーマーやソングライターの多くは憂慮していた。「イギリス訛りの歌でなければ、レコードはかけてもらえなかった」と、トーケンズthe Tokensのジェイ・シーガルJay Siegalは不満を漏らした。ビートルズと、彼らが先陣を切ったイギリスのグループは、ブリル・ビルディングthe Brill Buildingとブロードウェイ1650番地の作曲技能を賞賛し、利用した。ジョン・レノンJohn Lennonとポール・マッカートニーPaul McCartneyは、キングとゴフィンをお気に入りのソングライターだと公言した。ビートルズは、アメリカでの最初のアルバムでゴフィン=キングの「チェインズChains」をカバーした(バカラックBacharach、マック・デイビッドMack David、ルーサー・ディクソンLuther Dixonの「ベイビー・イッツ・ユーBaby It’s You」や、同じくシュレルズthe Shirellesの曲、ディクソンとウェス・ファレルWes Farrellの「ボーイズBoys」も)。ニューヨーク・ポスト紙のロック・コラムニスト、アル・アロノビッツAl Aronowitzは、ビートルズが初めてニューヨークを訪れた際に、ワーウィック・ホテルthe Warwick Hotelでの首脳会談を企画した。「ジョン・レノンはキャロルに言い寄った」とゴフィンは言ったが、「それは冗談でやったことだった。」

スナッフ・ギャレットがニューヨークの出版社をいつものように回り、異常に収穫が少ないと感じると、彼はアニマルズthe Animals、Herman’s Hermits、ドノバンDonovanなどを手がけ、目を見張るような成功を収めたイギリスのプロデューサー、ミッキー・モストMickie Mostが最近この街に来たかどうかを尋ねた。もしそうなら、彼はスケジュールを調整して時間を置き、在庫を積み重ね、次の訪問時には、モストが親友のギャレットが最後に立ち寄ったのはいつかと尋ねるように仕向けた。「私たちは、新しくて新鮮なものを競い合っていたんだ」とギャレットは言った。

ハーマンズ・ハーミッツの最初のシングルはゴフィン=キングの「朝からゴキゲンI’m Into Something Good」で、アール=ジーン・マックレアEarl-Jean McCreaのオリジナル・バージョンが38位止まりだった4ヵ月後に全米13位を記録した。この陽気な5人組は、キング=ゴフィンの「かわいい天使Walking with My Angel」もカバーしている。リード・シンガーのエリック・バードンEric Burdonは、R&Bの本物の男らしさとブリル・ビルディングや1650番地のポップの女々しさを対比させた、ボ・ディドリーBo Diddleyのトーキング・ブルースへのトリビュートで「サヨナラ・ベイビーTake Good Care of My Baby」を揶揄したが、マン=ワイルの「朝日のない街We Gotta Get Out of This Place」やゴフィン=キングの「ドント・ブリング・ミー・ダウンDon’t Bring Me Down」がなければ、アニマルズthe Animalsを進化させることはできなかっただろう。ジェフ・バリーJeff Barryとエリー・グリニッジEllie Greenwichの「ドゥ・ワー・ディディ・ディディDo Wah Diddy Diddy」でマンフレッド・マンManfred Mannが世界的にブレイクした後、キング=ゴフィンの「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビーOh No Not My Baby」がイギリスでヒットをした。「ア・ハード・デイズ・ナイト」を見た直後、ゴフィンとタイテルマンは、ビートルズの「恋におちたらIf I Fell」を模倣したバラード「アイル・ビー・トゥルー・トゥ・ユーI’ll Be True to You (Yes I Will) 」を書き、キングがそのデモを歌った。この曲は、コースターズの曲を2曲カバーしてキャリアをスタートさせたホリーズがレコーディングした。

いくらイギリスのバンドがニューヨークのソングライターを尊敬し、頼りにしていたとしても、彼らのアメリカでの成功は反撃でもあった。彼らの音楽は、スティーブとイーディによる当り障りのない曲、そしてくだらないホームドラマによるあまりにもありきたりなシングルの後、大西洋を越えて吹き荒れた新鮮なサウンドとエネルギーの爆発だった。それぞれ22歳と25歳だったキングとゴフィン、そして彼らの同僚たちは、彼ら自身が衰退し、目新しいブリティッシュ・インベイジョンによって、ノスタルジアのゴミ箱に追いやられそうになり、過去の人になる危険にさらされていた。

1963年春、モリス・レビMorris Levyとジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerは、それまで一時的にしか存在しなかった若者市場に「ゴールデン・オールディーズGolden Oldies」という概念を持ち込んだ。ルーレット・レコードRoulette Recordsは、ディオンDionやドリフターズthe Driftersのような、ライセンスを受けた過去のヒット曲から成るアルバム・シリーズを発行した。その年、リーバーとストーラーがプロデュースを中止した後のドリフターズは、アーティ・レズニックArtie Resnickとケニー・ヤングKenny Youngの鮮やかな「渚のボードウォークUnder the Boardwalk」(ローリング・ストーンズがカバー)で絶大なヒットを放ち、その後低迷を始めた。キングとゴフィン、ワイルとマンはグループに曲を提供し続けたが、それらは「アップ・オン・ザ・ルーフUp on the Roof 」や「オン・ブロードウェイOn Broadway」のような大ヒットではなく、小ヒットだった(マン=ワイルの巧みな「サタディ・ナイト・アット・ザ・ムービーズSaturday Night at the Movies」、ゴフィン=キングのアフロ・キューバン・ストンプである「アット・ザ・クラブAt the Club」)。一方、ディオンは50年代にリーバーとストーラーがドリフターズのために書いた「ルービー・ベイビーRuby Baby」や「ドリップ・ドロップDrip Drop」を復活させ、ポーマス=シューマン(哀愁漂う「トラブルド・マインドTroubled Mind」)やゴフィン=キング( 「ディス・リトル・ガールThis Little Girl」は、「ザ・ワンダラーThe Wanderer 」によってディオンが表現した闊歩する威張った態度を、ただの散歩に変えた)の新曲をレコーディングするよりも大きな成功を収めた。

ワイルによれば、イギリスの猛攻撃は誰にとっても「トラウマ」だったという。しかし、ゴフィンを打ちのめしたのは、ビートルズよりもボブ・ディランだった。特に、1965年にフォークシンガーのディランがエレキを使ってロックンロールを演奏し始めたときだ。ビートルズがブリル・ビルと1650に敬意を表したのに対し、ディランはそこで生まれた音楽を、「僕は君に夢中で、君も僕に夢中だ。オーカ・ドゥーッカ・ディッカ・ディー」と、中身がないと切り捨てている。「ティン・パン・アレイTin Pan Alleyはもうない」と、彼はグリニッジ・ビレッジの芸術家たちように誇らしげにアップタウンを軽蔑した。「俺はそれに終止符を打ったんだ。(ディランは2004年の回顧録で、ブリル・ビルディングは「ほんの数ブロック先にあった」けど、「そのような人たちとは一度も交わったことがない。というのも、ポピュラー・ソングのどれもがフォーク・ミュージックやダウンタウンのシーンとは無縁だったからだ。」と、より如才なく書いている。)

ゴフィン、キング、そしてディランは、ディランが1965年10月にカーネギー・ホールでコンサートを行なったとき、その場ですれ違った。「マギーズ・ファームMaggie’s Farm」、「レオパード・スキン・ピル・ボックス・ハットLeopard-Skin Pill-Box Hat」、「やせっぽちのバラッドBallad of a Thin Man」を初めて聴いたゴフィンは、「歌詞に、詩に驚いた」と回想している。ここで何かが起こっていて、ゴフィンはそれを「自分はとるに足らない小人のようだ」と感じたと数十年後に語っている。ディランは、ゴフィンが1曲の中で費やした以上の言葉を1節に詰め込み、言葉の意味は広く、大胆不敵で大人向け(少なくとも大学生向け)だった。「税金控除の対象となる慈善団体」や「F・スコット・フィッツジェラルドF. Scott Fitzgeraldの全著作」は、ゴフィンやキング、そしてその仲間たち、そしてビートルズ初期の、自分たちの中に閉じこもっていた青春の恋愛をはるかに超えて、ポピュラー音楽の語彙を広げた。そして、ホークスthe Hawks(やがてバンドthe Bandとなる)によって残忍に演奏された音楽は、キング、ゴフィン、そして彼らの仲間たち(初期のビートルズも含まれていた)を拘束したバース・コーラス・ブリッジの構造と3分間の演奏時間を完全に無視した。

ディランを祝福するためにバックステージに行ったゴフィンは、彼と握手して「君は、自分を誇りに思う権利がある」と言った。「僕が?」ディランは無表情に言った。一方、キングはディランのギターを手に取り、かき鳴らし始めた。彼女の図々しさは、ディランの熱狂的な信奉者の一人であるボブ・ノイワースBob Neuwirthを激怒させたので、「僕は彼女を弁護しなければならなかった」とゴフィンは回想する。(ディランによれば、ノイワースは「ブルドッグ」だった。「その口で、引き裂き、切りつけ、誰をも不安にさせた」)。

ゴフィンの自尊心は、友人のアル・アロノビッツAl Aronowitzがディランを「新しい救世主」と称賛したときにも回復しなかった。「私は、良い音楽、良い曲を作ろうとして、何かを成し遂げようとしていた。ディランを聴いたとき、『まだ遥かに遠い」と言ったんだ」とゴフィンは説明した。キングとゴフィンは古いデモを何枚か積み上げ、それを真っ二つに割って、「成長しよう」と誓った。しかし、ゴフィンはディランの言葉遣いに力不足を認識し、「ポップの作詞家と詩人との大きな違いに威圧感を感じていた。詩人というのはもっと厳しくなければならず、本当に大変な仕事なんだ。あんな曲を書き、詩人になりたいという願望はあったが、できなかった」。

ディランやビートルズが自作した曲を自演し、すぐに自作の曲以外はレコーディングしなくなると、不十分であり不適切だと感じた。ソングライターが何の役に立つのか?という疑問は、アービング・バーリンIrving Berlinやサミー・カーンSammy Cahnにはめったに浮かばなかったが、1960年代に自己表現が重視されるようになったことは、彼らの後継者たちを自信喪失に陥れる大きな変化だった。「ビートルズが成長し、本当に良くなり始めた後、誰かのために曲を書くというやり方は、突然、通用しなくなった」と、ゴフィンは言った。

挫折感と虚しさによって、ゴフィンとキングの間の緊張を悪化させた。複数の友人が、レコーディング・スタジオでの彼らの騒動を第三次世界大戦になぞらえた。トニー・オーランドTony Orlandoは、ゴフィンは「音楽家でないだけでなく、歌手でもなかった」と説明した。「それが何よりも彼をいらだたせた。彼は聴いたものを歌うことができなかったし、内気な男で「ララ」と歌うことができなかった。. . キャロルは、『じゃあ、説明してよ!どういう意味?』と言った。『言えないよ、キャロル』彼は言い出せなかった」。

レコーディング・エンジニアのブルックス・アーサーBrooks Arthurによれば、キングはこのようにしてスタジオに入ったという。

 

明確な計画を心に抱いて。ジェリーには、この曲の中にもっと本能的なものがあって、そのために戦うんだ。クッキーズthe Cookiesであれフレディ・スコットFreddie Scottであれ、彼はある曲やフレーズをある方法で歌ってほしいと思っていた。キャロルは「えーと、違う、それがいいわ」と言うんだ!彼は、「いや、違う、バカな!にせものだ!白すぎる!黒すぎる!」何についても、彼は満足していなかった。それでよく喧嘩になった。キャロルがあるピアノの一説でちょっとごてごてさせると、「キャロル、そんなことするな!」と言うんだ。そして拳を叩きつけた。

 

ゴフィンのどもりはさらに状況を悪化させた、とアーサーは言う。 「彼は『あ、あ、あ、あ』、という単語に長く留まり過ぎ、その時までに事態は非常に早く進展した。彼は余りに欲求不満が募ったので、かんかんに怒って、外に飛び出してしまった。お互いの意見が食い違っていたわけではない。ただ、それをうまく表現できなかったんだ」。

ゴフィンは、1960年代半ばにドラッグを始めた何百万人もの若いアメリカ人の一人だった。ディオンが、自分とマンとワイルが住んでいたイーストサイドのアパートの隣人や駐車係からヘロインやアンフェタミンを買っていた頃、ゴフィンはマリファナや幻覚剤を試していた。「少し罪悪感がある」とマンは言った。「私がゲリーをマリファナに仕向けたんだと思う。初めてやったとき、彼はとても偏執的になった。彼はクローゼットの中を探し始めた。

ゴフィンによれば、アロノビッツは彼にLSDをやらせ、彼は「その効果が気に入った」という。(アロノビッツはゴフィンにLSDをあげたことはないと否定したが、マリファナを一緒にやったことはあり、もともと「ちょっと変人」だったゴフィンに強烈な影響を与えたと語った。「彼の反応は非常に強かった。」)ゴフィンは、ファイアーアイランドでキングと一緒にいた時、初めてLSDに手を出した、と言った。「LSDの影響で女の子とつかの間の関係になり、3日後に家に帰った。これがキャロルとの仲たがいの始まりだった」。

ゴフィンがドラッグに手を染めたのは、時代の特徴だけではなかった。時代に取り残されることを恐れたゴフィンは、時代に追いつき、彼がうらやむビートルズやディランの創造性の一部を手に入れたかったのだ。スティーブ・タイレルSteve Tyrellは言った。「意味もなくドラッグに手を出したわけではない。多くの人々がそうであったように、思考範囲を広げようとしていた。彼はより良い作詞家になろうと思っていた。より賢く、より直感的になろうと思ったんだ」。

サイケデリックな体験によって、いくつかの素晴らしい曲を生み出せた。例えば、「ゴーイン・バックGoin’ Back」は温かみのあるバラードで、老いの不安を洗い流してくれる。「しかし、若いと思ったり年を取ったりすることは罪ではない/そして、私は勝つために人生というゲームをすることができる。」歌詞は、ゴフィンの特徴である、自然で、率直で、透明で、感動的なものだ。その芸術的なまでにシンプルな歌詞は、薬物によってやっと獲得した自己認識に勝るとも劣らない。

ダスティ・スプリングフィールドDusty Springfieldが演奏した「ゴーイン・バック」は、1966年にイギリスでトップ10入りを果たしたが、アメリカでは未発表で、翌年にバーズthe Byrdsがレコーディングした。ジェファーソン・エアプレインthe Jefferson Airplaneが最終的にレコーディングすることになる、夫婦と愛人による3人共同生活について書いた曲よりも、グループが「ゴーイン・バック」を好んだため、デイビッド・クロスビーDavid Crosbyは不機嫌になってセッションを去った。クロスビーはバンドを解雇され、「ゴーイン・バック」はアルバム「名うてのバード兄弟The Notorious Byrd Brothers」に収録されて光り輝く曲となり、その繊細なアレンジと豪華なハーモニーは、スプリングフィールドのかなり大げさなバージョンを軽々と凌駕した。しかし、ゴフィンとキングを絶望的にダサイと考えたのはクロスビーだけではない。自分の作品があるのに、なぜ二流作家の作品をレコーディングするのか?60年代が進むにつれ、キングとゴフィンはこのマインドセットと負け戦を繰り広げた。

ゴフィンはドラッグとの戦いにも敗れた。「ゲリーは決してLSDに手を出すべきではなかった」とバリー・マンは言い、「おそらく躁鬱病だったのだろう」と推測した。ゴフィンは「その病気に対する抵抗力がなかった」とジャック・ケラーは言った。「当時のゲリーの脳がどうなっていたのかはわからない。一人きりになってすべての曲を書いていた時にゲリーの頭がどうなっていたかははっきりしない。彼はとても激しくて、とても繊細で、とても深かった。ゲリーはいつもギリギリのところにいた。だからこそ成功したのだ。」

ゴフィンは「世の中に出て流行る前から、世の中に発表していた」と、ハンク・メドレスHank Medressは語った。トーケンズが曲のリハーサルのためにウェスト・オレンジを訪れたとき、キングは彼らを歓迎し、フィレステーキを焼いたが、ゴフィンは誰とも話さずに、プールのゴムボートに乗って一日中浮いていた。「彼は頭がおかしかった」とメドレス。しかし、キングとゴフィンがトーケンズのために書いた曲「ヒーズ・イン・タウンHe’s in Town」は、トーケンズの最高のシングルのひとつとなった。この曲は、スパニッシュ・ギターがアクセントとなり、堂々たるハーモニーに満ちたムーディーなバラードで、リーバーとストーラーが奨励し、彼らの教え子たちが受け入れてきた「何でもやってみよう」という革新性を象徴するような、変わったリズム楽器でタイテルマンをフィーチャーしている。タイテルマンが弾いたのは、レコードではっきりと聴くことができるのだが、スリンキーだ。

1964年夏、トーケンズは「ヒーズ・イン・タウン」をレコーディングした。バリー・マンによると、1965年、キングとゴフィンは、ワイルとマンにセラピストを紹介してもらえないかと頼んだ。数週間後、ゴフィンは真夜中に電話をかけてきて、ボブ・ディランのことをしゃべり始めた。「彼は興奮していて、いろいろ言っていたが、とても素晴らしかった。精神分裂病の長広舌みたいだった。彼はディランと話をして、それからこの曲をレコーディングするつもりだったんだ。私は『こいつは狂っている』とも思った。でも同時に、『こいつは何かすごいことを知っているのかもしれない』とも思った」。

「そして彼は、愛する人たちだけにこのことを伝えるつもりだし、私たちを愛しているから救いたいのだ」と、ワイルは付け加えた。

事態はさらに悪化し、マンとワイルは警戒を強め、ついにマンはカーシュナーに電話をかけた。ワイルの言葉を借りれば、「私たちには大人が必要だった。ドニーはすぐ近くに住んでいたし、私たちはニューヨークにいた。当時は車も持っていなかったし、どうやって行けばいいのかもわからなかった。」マンによれば、その頃までにゴフィンは家の屋根に登っていた。「ようやくドニーが医者と一緒にやってきて、彼を捕まえて病院に連れて行った。私はそれを知ったとき、泣き出した。とても安心したからだ。」と、マンは言った。

「連れて行かれる前に私に電話してきて、『どうしてこんなことをするんだ。僕らの世界全体が粉々になった』とワイルは回想した。

キングとゴフィンは、崩壊しつつある結婚生活に残酷なまでに率直に向き合い、荒涼とした曲を書き、キングはそれをレコーディングした。ディメンション・レコードの終了後、彼らは別のレーベル、トゥモロー・レコードを立ち上げ、配給はアトランティックに任せた。アロノビッツは、ゴフィンとキングだけでなくアロノビッツも住んでいたニュージャージー郊外のティーンエイジャーのグループを連れてきた。彼はマイドル・クラスthe Myddle Classと改名したバンドをマネージメントし、キングとゴフィンに作曲とプロデュースを依頼した。ベルベット・アンダーグラウンドThe Velvet Undergroundは、ニュージャージー州サミットの公立高校で、マイドル・クラスの前座を務めたが、マイドル・クラスが有名になることはなかった。トゥモローからの2枚のシングル(1枚はB面にディランの「エデンの門Gates of Eden」のバージョンをフィーチャー)は惨敗した。アロノビッツによれば、キングは「今度は何を売るつもりなの?ブルックリン橋?」

しかし、キングはトゥモローにおける自身のシングルでも良い結果を出せなかった。鈍い単調な音のギターと、鎖のように鳴るどことなくオリエンタルなパーカッションに合わせた「ア・ロード・トゥ・ノーフェアA Road to Nowhere」は、ずばりと言った: 「私たちの愛は芯まで腐ってしまった。/ 私たちが過去に何を所有していても、もう無くなった」。1967年、キングとゴフィンは別々にウェスト・オレンジからロサンゼルスに引っ越し、離婚を申請した。

1650番地の会社とブリル・ビルディングのサウンドはブリティッシュ・インベイジョンを生き延びたが、バリー・マンは「下草の一部」と言った。キングとゴフィンは確かに挫折を味わったが、彼らの音楽の人気が衰えるにつれ、ワイルとマンの音楽は新たな名声を得た。60年代初めのNo.1シングルは、マンとワイルがゼロだったのに対し、ゴフィンとキングは4枚を獲得し、良き競争相手をはるかに上回っていた。カーシュナーが大事に育て、近くに住みたかったのはキングとゴフィンで、ビートルズが会いたがったのはゴフィンとキングだった。しかし、1965年になると、2組のカップルの役割は逆転した。

1964年の終わりに、ジーン・ピトニーGene Pitneyは、ハウィー・グリーンフィールドHowie Greenfieldとヘレン・ミラーHelen Millerの「イット・ハーツ・トゥ・ビー・イン・ラブIt Hurts to Be in Love」に続いて、マンとワイルの「アイム・ゴナ・ビー・ストロングI’m Gonna Be Strong」を発表した。このシングルは アルドンの元スタッフが書いたもので、この年のトップ10に入ったのはこの2曲だけである。ピットニーが2曲とも歌ったことで、彼のスター性とカーシュナーが意気消沈した作家たちを管理しきれなかったことが証明された。ドラマチックなバラードで、華やかなクライマックスまで盛り上がる「アイム・ゴナ・ビー・ストロングI’m Gonna Be Strong」は、ワイルとマンによるピットニーの2曲目の小さなヒット、「ルッキング・スルー・ザ・アイズ・オブ・ラブLooking Through the Eyes of Love」につながった。

1964年の終わりにリリースされた別のシングルは、マンとワイルが1年半前の「ヒーズ・シュア・ザ・ボーイ・アイ・ラブHe’s Sure the Boy I Love」以来一緒に仕事をしていなかったフィル・スペクターと再会したことを意味した。その間、スペクターがジェフ・バリー、エリー・グリニッジと行ったコラボレーションは驚異的な成功を収めていたが、彼らの関係が冷え込み、グリニッジとバリーが他のプロジェクトに参加したため(第16章で詳述)、スペクターはワイルとマンに再び声をかけた。彼らは一緒にロネッツのためにシングルを書いたが、マンとワイルは後にバリーとグリニッジの真似だとけなした。「私はただ、青春を表現しようとしただけよ」とワイルは言うが、ガールズ・グループの曲は、マンや自分たちのような社会意識の高いブロードウェイのソフィスティケートされた人々よりも、グリニッジやバリーの方が自然に作れるものだと、賞賛と見下しが入り混じったような表現で語った。切ない「恋の雨音Walking in the Rain」は、バリー=グリニッジ=スペクターがロネッツのために作ったヒット曲よりも感傷的だったが、ストリート・セクシーではなかった。スローテンポのため、リード・ボーカルをワン・テイクで録音したベロニカ・ベネットVeronica Bennettのビブラートの揺れが露呈した。しかし、コーラスは、雷と雨の効果音の上に祝福する虹のように浮かび上がり、スペクターの手の込んだプロダクションは、ブライアン・ウィルソンBrian Wilsonがビーチ・ボーイズthe Beach Boysのために作曲・プロデュースした多くのシングルの中で繰り返し使われた。(「フィル・スペクターのレコードを聴いて、ビートをつかんで、それから先に進みなさい」と、ウィルソンはかつてロック志望者にアドバイスした。)

「恋の雨音」は大ヒットにならず、マン=ワイル=スペクターによるロネッツのセカンド・シングルは失敗に終わった。スペクターのウォール・オブ・サウンドは崩れ始め、その結果「ボーン・トゥ・ビー・トゥゲザーBorn to Be Together」のメロディーを失われていた。冗長、過剰、そしてスペクターの気まぐれは、彼を有名にし、彼のレコード・レーベル、フィリーズを成功に導いたガールズ・グループの魅力を失わせつつあった。「ボーン・トゥ・ビー・トゥゲザー」のレコーディング中、スペクターはアレンジャーのジャック・ニッチェJack Nitzscheに向かってこう言った。「終わった。終わったんだ。もうそこにはないんだ」と。スペクターは持ち駒の多様化に躍起になり、別のインディペンデント・レーベル、ムーングロー・レコードMoonglow Recordsから、カリフォルニアでちょっとした話題を呼んだ男性デュオをレコーディングし、アメリカ、イギリス、カナダでフィレスからリリースする権利を借りた。

ビル・メドレーとボビー・ハットフィールドBill Medley and Bobby Hatfieldほど黒人的なサウンドを奏でた白人デュオはめったになく、彼らの熱狂的なパフォーマンスは、オレンジ郡エル・トロ海兵隊基地に住むアフリカ系アメリカ人に、彼らを「ライチャス・ブラザースRighteous Brothers(正義の兄弟)」と呼ばせるきっかけとなった。彼らとの仕事はスペクターにとって変化であり挑戦であった。なぜなら、彼らは白人であり、男性であり、自分たちの名前を所有していたからだ。それぞれの要素が、ダーレン・ラブ、クリスタルズ、ロネッツよりもスペクターのコントロールや気まぐれに左右されにくかった。スペクターは、この繊細な仕事を手伝い、スタートさせるための完璧な曲を書くために、ワイルとマンに声をかけた。

カーシュナーが渋々お金を支払って、マン、ワイル、そして彼らのジャーマン・シェパードはロサンゼルスに飛び、犬のジョディとピアノを収容できる唯一のホテル、シャトー・マーモントthe Chateau Marmontに落ち着いた。スペクターがライチャス・ブラザーズのムーングローのシングルを聴かせたとき、彼らはこのグループが白人だとは信じられなかった。それらの曲は熱狂的なロック・ミュージックだったが、ワイルとマンはフォー・トップスthe Four Topsの最近のモータウンにおけるヒット曲「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラビングBaby I Need Your Loving」のような情熱と衝動に満ちたバラードを作曲した。

珍しく、冒頭の一節を思いついたのはマンだった。「僕があなたの唇にキスをするとき、あなたはもう決して目を閉じない。」そうすることで、スペクターがプロデュースしたマンの最初の曲、パリス・シスターズが歌った「貴方っていい感じI Love How You Love Me」のラリー・コルバーLarry Kolberのオープニングを反映させ、アップデートしたのだ。それから3年後、マンとワイルは大人の感情を表現する劇作家へと成熟していた。歌い手は、恋人がもはや目を閉じていないことに気づくが、それは彼の目も大きく見開き、退屈や裏切りの兆候を探っているからだ。ソングライターのジミー・ウェッブJimmy Webbは、「僕らはこの会話を盗み聞きしているという設定だ」と述べ、この曲は彼に「不意打ち」を食らわせた初めての曲であり、「縁石に車を停め、瞼を盛んにしばたたかせて、ラジオを聴きながら涙を流す」ことを余儀なくされた曲だと付け加えた。残りの歌詞はウェルが書いたが、コーラス・ラインは特に気に入っておらず、最終的には差し替えるつもりだった。しかし、この曲をスペクターに電話で聴かせたところ、スペクターはこのダミーで入れた歌詞が素晴らしいタイトルになると断言し、「ふられた気持ちyou’ve lost that lovin’ feelin’」を変えようなんてどうかしていると言ったという。

マンの音楽は歌詞以上に感動的だ。詩は希望と不安の中で音階を登っていくが、各コーラスの終わりは絶望の中で崖から落ちていく。スペクターのアイデアで、ラテンのブレイクを伸ばす形で第3セクションが追加され、最終コーラスの前に短く再登場し、曲をABABCBcBという異例の構造にした。

マンとスペクターがライチャス・ブラザーズのためにこの曲を歌ったとき、彼らの「ちょっと高くて細い声」に惑わされたビル・メドレーは、「ふられた気持ち」がライチャス・ブラザーズよりもエバリー・ブラザースにふさわしいと勘違いしてしまった。ハットフィールドは、最初のコーラスまで自分が入らなかったことにやきもきしていた。この曲のヒットの可能性を確信していたメドレーは、ハットフィールドはこう言った。「君が歌っている間、僕は何をすればいいんだ?」

レコーディング・セッション(3人のキーボードも参加)で、3人のギタリストの1人、バーニー・ケッセルBarney Kesselは、スペクターが「モスクワを侵略するような戦略を練っていた」と語っている。メドレーの洞窟のようなバリトン(ワイルとマンが最初にレコードを聴いたとき、間違ったスピードで再生されていると思ったほど低い)からハットフィールドのファルセットの高い声まで、ライチャス・ブラザーズは数オクターブにまたがっていた。スペクターの記念碑的なプロデュースも同様で、ウォール・オブ・サウンドを反響する大聖堂へと拡張し、演奏時間を3分50秒に延長した(スペクターは、時間に追われるディスク・ジョッキーを不安にさせないために、シングルのレーベル上では思い切って3分5秒に変更した)。

その後40年間、「ふられた気持ち」は全米で1,000万回以上放送され、BMIカタログのどの曲よりも、ビートルズの曲よりも放送回数が多かった。スペクターやライト・ブラザーズがこの後に続くことは不可能だったが、ワイルとマンは「ソウル・アンド・インスピレーション(You’re My)Soul and Inspiration」でそれに迫ることになる。彼らは「ふられた気持ち」に続く曲としてこの曲を書いたが、相変わらず信用できないスペクターがキングとゴフィンに鞍替えしたのには失望した。キングはロサンゼルスに行き、スペクターやライチャス・ブラザーズと一緒に「ジャスト・ワンス・イン・マイ・ライフJust Once in My Life」を作った。メドレーは、自分は少女のような歯列矯正を付け、「ティーンエイジャーの小さな子供たち」を持つ女性がこれほど天才的な才能を持っていることに感銘を受け、面白がった。しかし、「ジャスト・ワンス・イン・マイ・ライフ」は混乱していた。「ふられた気持ち」の後に続く曲はどれも期待外れなものだったが、「ジャスト・ワンス・イン・マイ・ライフ」は前作と同じサウンドにしようと必死になりすぎて、問題をさらに悪化させてしまった。ゴフィンとキングはライチャス・ブラザーズのために2曲目の「ハング・オン・ユーHung on You」を書いたが、これはシングル盤のオリジナルB面で、アレックス・ノースとハイ・ザレットAlex North and Hy Zaretのスタンダード曲「アンチェインド・メロディUnchained Melody」をハットフィールドがダイナミックに演奏したことで影が薄くなってしまった。この時期、キングとゴフィンはまだ離婚する数年前だったが、ダーレーン・ラブの未発表曲やロネッツの失敗作、「イズ・ディス・ホワット・アイ・ゲット・フォー・ラビング・ユーIs This What I Get for Loving You?でもスペクターとコラボしている。

暴君的なスペクターと強情なライチャス・ブラザーズの間に亀裂が入るのは避けられなかった。1965年後半にそれが起こると、デュオはMGMレコードに移籍し、メドレーはワイルとマンに「ソウル・アンド・インスピレーション」について電話で問い合わせた。この曲を草案程度にしか考えていなかったマンとワイルは、自分たちにはもっといい素材があると主張してメドレーに送ったが、彼は「ソウル・アンド・インスピレーション」にこだわった。レコーディングの指揮を執った彼は、「フィルならそうするだろうと思ったようにプロデュースした。」この曲は「ジャスト・ワンス・イン・マイ・ライフ」と同様に「ふられた気持ち」を模倣していたが、より明快でメロディックな曲だった。1966年4月、「Soul and Inspiration」がライチャス・ブラザーズにとって2枚目のNo.1シングルとなったことは、グループとソングライターたちにとって、リベンジとまではいかなくとも、正当性を証明するものだった。

その年の後半、キングとゴフィンは魅力的なシングルの両面の曲をライチャス・ブラザーズに提供した。「サヨナラは言えないOn This Side of Good bye」が寂しげな歌詞と陽気なコーラスを並べたのに対し、「ア・マン・ウィズアウト・ア・ドリームA Man Without a Dream」はゴフィンとキングがカーティス・メイフィールドCurtis Mayfieldやインプレッションズthe Impressionsの甘いシカゴ・ソウル・ミュージックを聴いていたことを示唆した。どちらの曲も失敗した関係を後悔し、仲直りを切望していた。そのころには、キングとゴフィンの結婚と同様、ライチャス・ブラザーズのキャリアも崩壊しつつあった。

しかし、メドレーとワイル、マンとの関係は続いた。1968年、メドレーがソロ・キャリアを目指し、「ふられた気持ち」や他のライチャス・ブラザーズの曲でバック・ボーカルを務めていたダーレン・ラブとのロマンスを求めていた頃、マンはワイルと作曲し、異人種間の恋愛を歌った力強く不穏なバラードをメドレーと共にプロデュースした。メドレーはスタジオでラブと一緒にこの曲をレコーディングし、彼女に向けて直接歌った。「ブラウン・アイド・ウーマンBrown-Eyed Woman」は、良い気分にさせ、私たちはみんな家族だということを歌ったものではない。青い目のシンガーであるメドレーは、表向きは善意のリベラリズムと言う立場だが、黒人女性が自分の誘いに抵抗するのは、「長年の間/憎しみと恐怖のすべて」によって「ねじ曲げられた」彼女の心のせいだとしている。曲の間中、黒人と思われる女性コーラスが「近寄らないで、ベイビー」と女性に警告する。ワイル、マン、メドレーが意図した以上に挑発的なこの曲の最後では、白人男性と黒人女性、詩とコーラスは行き詰まったままだ。人種の現実を思わず表現した「ブラウン・アイド・ウーマン」は、ポップ・チャートで43位止まりだった。メドレーとラブが情事を終えるまでに、そう時間はかからなかった。

ワイルとマンは、ロックンロールに精通し、その流行に適応できることを示し、「ソウル・アンド・インスピレーション」と一緒に、他のグループのヒットとなった別の2曲をメドレーに送った。「朝日のない街We Gotta Get Out of This Place」と「キックスKicks」だ。ハンク・メドレスは、「バリーはおそらく、私が知る限り最も不安定で自分のことに無我夢中になる人間だ。そして、それが彼の曲作りに役立っていると思う。彼はどの時代でも、その時代の中でやっていくことにこだわるから、決して後ろを振り返らないんだ。」発明の母はパニックだった。「何か新しいことが起こるたびに、これで終わりだと思った」、とワイルは説明した。マンは仲間たちと同じようにピアノで作曲していたが、子供の頃にウクレレをかき鳴らしていたため、ビートルズによってキーボードよりもギターが主流となったポップミュージックへのシフトに、他の人たちよりも素早く適応した。「朝日のない街」と「キックス」のデモでギターを弾いていたアル・ゴルゴーニAl Gorgoniによると、マンは「ピアノでリックを作るんだ。左手のパートはギター・ベース的なものが多かった。彼はインストゥルメンタルのフックを作るのが得意なんだ」。

ギターとベースが疾走する「キックス」は、ポール・リビアとザ・レイダースPaul Revere and the Raidersがレコーディングした激しい麻薬撲滅ソングで、マンとワイルはゲリー・ゴフィンを意識して作曲した。「ゴフィンが衰弱していくのを見て、彼のためにこの曲を書けば、もしかしたら聴いてくれるかもしれないと思ったの。それでも彼は聴かなかったわ」とワイルは言う。 リビアとザ・レイダースは、ブリティッシュ・インベイジョンに対抗して、ひざ丈のズボンと三角帽のバカげたコスチュームを身にまとい、ワイル・マンの艶やかな「ハングリーHungry」で2度目のトップ10ヒットを記録した。この2曲は、ガレージ・ロックの重く鈍い音、強いリズム感、みすぼらしさを、熟練のコーラスと聖歌のようなハーモニーで飾り立て、粗削りさと巧妙さを巧みに融合させていた。

マンがリードを歌う「朝日のない街」のデモは非常に強力で、”Who Put the Bomp “の後に崩壊した歌手キャリアを復活させようとシングルとしてリリースされる予定だった。しかし、ワイルとマンが、デモのコピーをアレン・クラインAllen Kleinに渡すと、彼はそれをミッキー・モストMickie Mostに渡した。これはヒットすると思ったモストは、アニマルズのバージョンをプロデュースした。マンにとって「この場所」とは、ワイルの歌詞にあるように、早く年老いてしまう退屈なブルックリンのことだったのかもしれない。アニマルズでは、舞台をイングランド北部のほこりだらけの炭鉱に移し、早死にする危険性を強調した。カーシュナーはワイルとマンをオフィスに呼び出した。悪いニュースとしては、マンのレコードが発売されないということだと言った。良いニュースとしては、アニマルズのバージョンが1週間のうちにイギリスで2位に躍り出たことだった。ワイルは言った。「私たちは打ちひしがれたわ。ワイルにとっては、歌詞が変えられ曲を台無しにされたからで、マンにとっては、「ワイルは、「彼らは歌詞を変え、曲を妥協した」と言い、マンは、ビル・メドレーの言葉を借りれば、「ヒット・レコードを数枚出すことができれば、彼の曲をすべて手放しても構わない」からだ。

翌年、アニマルズがゴフィンとキングの「ドント・ブリング・ミー・ダウンDon’t Bring Me Down」をヒットさせた。この曲は、マンとワイルの曲(キングとゴフィンの曲はたいていそうだった)よりも個人的であり政治的でなく、この曲の歌詞は、男性シンガーをダメにする女性を非難し、二人を抑圧する社会構造を非難するのではなかった。そのころには、ゴフィンとキングは、ワイルとマンをリードするよりも、ワイルとマンに従うことが多くなっていたし、マンとワイルの結婚生活は、音楽と同様に順風満帆であった。