マーチャンBobby Marchanは、ヒューイ・ピアノ・スミスのクラウンズHuey “Piano” Smith’s Clownsのリード・シンガーとして最も良く知られていたが(実はマーチャンはトランスジェンダーであり、女装してボビーBobbiとしても演奏していた)、ここで彼は完全に違う立場に立った。




ラジオがこの曲のパート・ワン(殺人の話でない方)をチャートのトップに送り込み、ロビンソンRobinsonが、「エブリ・ビート・オブ・マイ・ハートEvery Beat of My Heart」の2番目のピップス・バージョンで多少成功した後、更なる成功を求めてニューオーリンズに戻った。ロビンソンは自動車修理工場を営み、バーで歌っているリー・ドーシーLee Dorseyを見つけ、レコード契約を申し出た。

彼らに必要なのは曲だけで、ある午後、ドーシーの家のベランダに座ってビールを飲んでいると、子供が縄跳び歌を「ララに座って、イエーイ、イエーイ」と繰り返し歌っているのを聞き、少し手を加えて歌にした。翌日それをAFOのハロルド・バティステのところに持っていくと、ハロルドは、「明日アレンジして、レコーディングの用意をしておく」と約束した。バティステは必ず約束を守る人で、AFOエグゼクティブズ The AFO Executivesを揃え、典型的なファンキーのアレンジをB面と一緒に急いで作って用意しておいた。ロビンソンは気分良くハーレムに戻ってきた。一方、AFOは最初のレコード、プリンス・ラ・ラPrince La Laの「シー・プット・ザ・ハート・オン・ミーShe Put the Hurt on Me」をリリースし、あまり売れなかったものの、町に新たなサウンドが誕生したことを知らしめた。
続いてバーバラ・ジョージBarbara Georgeの「アイ・ノウI Know」を出し、ジャギー・マレイJuggy Murrayの手助けも有って実に好調だった。

![Barbara George – I Know (You Don't Love Me No More) – Vinyl (7", 45 RPM), 1961 [r1422669] | Discogs](https://i.discogs.com/mHv-NGk-_nta6VH7F31gEfaP_7m3DT4T3by2vi_FQtE/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTE0MjI2/NjktMTIxODQxNjg4/NC5qcGVn.jpeg)
そしてボビー・ロビンソンが自分のフューリー・レーベルFury labelを復活させて、リー・ドーシーLee Dorseyのキャリアを「ララLa-La」で始めようとした時、マレイはその曲を聞いて、ニューオーリンズでそれをレコーディングできるコンボは一つしかないと思った。マレイは好機を待ち、ジョージのレコードで金をもうけた後、ハロルド・バティステHarold Battisteに電話をかけて、ジョージをスー・レコードSue recordsと契約させたと言い、AFOのタレントを使ってロビンソンRobinsonでドーシーをレコーディングさせることは独占契約違反になると主張し、彼らのレコードをこれ以上流通させることを断った。

AFOはしっかりした地元のレーベルとして頑張り続けるつもりであったが、これが致命傷になると分かるにはしばらくかかった。
