当時彼らに必要だったのは金で、ある日それが入ってきたのだった。ジャギー・マレーJuggy Murrayはニューヨーク出身の黒人ビジネスマンだが、自分の新レーベルのスー・レコードSue recordsを創業したばかりで、黒人が所有する全国最大のレーベルに育てるつもりだった。

マレーのところには既にアイク&ティナ・ターナーIke & Tina Turnerがいて、自分のためにタレント・スカウトをしてくれる人を探しにロサンゼルスへ行き、ソニー・ボノSonny Bonoを訪問すると、ニューオーリンズのバティステBattisteに話をするように言われた。



マレーはその通りにすると、AFO(All for One Records)の決意、才能、理想主義に感動し、その場で投資資金を渡した。さあ、次はレコードを作る番で、メルビン・ラスティMelvin Lastieの叔父ジェシー・ヒルJesse Hillが連れてきた二人のアーティストが、

10代の女の子のバーバラ・ジョージBarbara Georgeとギター演奏者のローレンス・ネルソンLawrence Nelsonで、ネルソンは市にある黒人の秘密組織と関係があるという理由からプリンス・ラ・ラPrince La Laと名乗った。


ラ・ラはこの若い女性のために2曲書き、会社所属のバンドに1曲目の概要を説明した。このバンドは自分たちをAFOエグゼクティブズThe AFO Executivesと呼んでいたが、その理由は本当にAFOのエグゼクティブだったからだ。バンド・メンバー達は、バティステとトゥーサンが専門とする、つかみどころがなくぎくしゃくした動きのリズムに慣れてきて(ピアニストがセッションにいなかったので、代わりにマーセル・リチャーズMarcel Richardsを使った)、数回のテイクで、バーバラ・ジョージBarbara Georgeがマイクまでやって来て、この曲を指して「分かった」と言った。誰もがヒット曲を作ったと思い、(ラスティは特に感動的なソロを吹いたのでそれが契約締結につながり、)今度はラ・ラの別の曲を録音する番になった。頑張ったけど、バーバラにはできなかった。ラ・ラは頭を抱えてしまったが、彼には易しく思えた!最後に彼は自分でやると言い、AFOの2番目のヒット曲「シー・プット・ザ・ハート・オン・ミーShe Put the Hurt on Me」が出来上がった。物事はうまく行っているように見えた。
しかしながら、ニューオーリンズのスタディオで進化したサウンドは、ルイジアナから出た新しい音楽の一つに過ぎない。もう一つのサウンドは数年間同時に生じていた。たぶん全国でヒットした最初の曲は、1959年、ジョージ・コーリーGeroge Khouryのレイク・チャールズLake CharlesレーベルにおけるコーリーKhoury 703で、クッキー&カップケイクスCookie and The Cupcakesの「マチルダMathilda」だった。
ヒュー・クッキー・ティエリーHuey “Cookie” Thierryはレイク・チャールズの人気クラブでハウス・バンドを率いていた中南米のクレオール人であり、四分音符と三連符が交互に並ぶベース・ラインを軸に、「ダム・ダー・ダー・ダー・ダム」と、珍しいが心地よいビートで奏でていた。
クッキーがお願いしながら配達したことでこの曲は売れ、交渉を通じて、コーリー・レーベルからサム・フィリップスの兄が所有していたジャド・レコードJudd recordsへ、さらにチェス・レコードChess recordsへと移り、そこで落ち着いた。

ジョージ・コーリーが次に注力した歌手はフィル・フィリップスPhil Phillipsで、フィルの「シー・オブ・ラブSea of Love」は1959年に第2位となる大ヒットで、他に何が起こっているかを見るために西ルイジアナに来たシェルビー・シングルトンShelby Singletonというナッシュビルのやり手によって、マーキュリー・レコードMercury records に引き抜かれた。
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