ソウル誕生におけるもう一つの画期的事件は、昔のアーティストの不思議な復活だった。1959年、ドリフターズThe Driftersのマネージャーのジョージ・トレッドウェルGeorge Treadwellは、グループ全員を解雇し、以前からファイブ・クラウンズThe Five Crownsとして知られていたボーカル・グループを、新ドリフターズの集団として採用した。


旧ドリフターズは、クライド・マクファターClyde McPhatterが去った後、ヒット曲がなかったが、トレッドウェルはドリフターズというブランドにはまだある程度の可能性が残っていると考え、アトランティックにセッションをする準備ができていると知らせた。

アトランティックはこの件に関してリーバー&ストーラーをプロデューサーに任命し、トレッドウェルは自分がクレジットを半分持っている曲、「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビーThere Goes My Baby」を渡した。



アレンジは、当時流行していたバイオンbaionというブラジルのリズムに基づき、スタディオに着くまでは準備万端に思えた。失敗だった。ティンパニーのチューニングが狂っていた。マイク・ストーラーがアレンジの枠組みを決め、スタンレー・アップルボームStanley Applebaumという男が、その詳細を詰めていた。

リーバーの記憶によれば、「スタンレーは何かコーカサス風の物まねに聞こえるものを書いたが、私たちはこのラテンの楽曲を調子が狂ったティンパニーで演奏したので、ドリフターズは別のキーで歌い、トータル効果としては惹かれるものがあった。私たちは、ある日の午後アトランティックに戻ってテープを回し、アーメットAhmet ErtegunとジェリーJerry Wexlerに聞かせると、私たちは『これじゃ救いようがないな』と言って、もう一回かけるとマイクが『なんかすごく魅力的だな。


あのー、ひどいめちゃくちゃだけど、すごく惹かれるものがある』と言った。」ウェクスラーはダメだと言ったが、アーティガンはリリースすべきだと考えた。アーティガンは正しかった。それは今まで誰も聞いたことのないように思え、リード・シンガーのベンEキング Ben E Kingは情熱的にこの曲を歌い、真ん中で変わった楽器のブレークを入れたのだが、それは弦楽器をフィーチャーしたのだった。

かつて誰も弦楽器をリズム&ブルースのレコードで使ったことは無かったので、リーバーがとても心配したのは無理もない。この曲には大金を使ったのだが、アップルボームがストリングスの間奏を奇妙なモーダルの枠組みの中に入れ、そのために変わった風に聞こえたのだ。「時々ラジオを聞くとこの曲が耳に入ってくるのだが、二つの放送局が一曲をかけているように聞こえてならない。」それでもこの曲をかけた放送局は一局だけだったんだ。
