バラードは大見出しのスタイルで要約され(ミシシッピ・ジョン・ハートMississippi John Hurtの「フランキーFrankie」 :アルバートAlbertは死んだがアリス・フライAlice Fryの方を気に入っていた。

でも判事は後の裁判でフランキーが魅力的だと気が付いた)、メモ(「1899年10月15日、ミズーリ州セントルイス、ターギー・ストリート212番地のフランキー・ベイカーFrankie Bakerをアレン・ブリットAllen Brittが撃ち殺した。

この都市にあるベイブ・コナーBabe Connerの有名なキャバレーの歌手『マミー・ルー』が歌い、おそらく作った歌だ。」)、レコード目録、出版目録があり、民俗学研究のようだった。しかし実際には、これらが初期の商売レコード(そこには、カーター・ファミリーThe Carter Family、ブラインド・レモン・ジェファーソンBlind Lemon Jeffersonもいた)であり、スミスはパンフレットの最初の方で、このレコードは電気録音が始まった1927年から1932年まで使われ、大恐慌がフォーク音楽の売上をダメにするまで続いたと書いてある。


(あるいはスミスがそう言っている。)スミスは1890年から1950年にわたるリズム変化の実例を対象として、さらに3巻作ることを期待したが、アッシュにとっては最初の3巻で十分だったので、スミスが準備していたにもかかわらず第4巻を断った。最初の3巻は売れず、「サンスクリット語と英語で書かれた古代インド叙事詩ラーマーヤナとバガバッド・ギーターを読む」や「ベルギー領コンゴの音楽第1巻(東)」と一緒に奥の部屋に放置された。はっきり言うと、最初はあまり売れなかった。しかし、上記のとおり明確な題名がついていたので、図書館やその他の組織が注文し始め、ピート・シーガーに触発された子たちなどが聞いた。自分のレコードを買うために貯金する者もいて(フォークウェイズ・レコードはほとんどを図書館に売っていたため高価で、通常のLPよりも数ドル高かった)、フォーク歌手になりたての人が学ぶための歌の情報源になった。これがきっかけとなり、出かけて行って、この6枚のアルバムにあるような音楽をもっと探し、古い78回転レコードを買うために南部を一店一店訪ね、後には、それを作ったアーティストを見つけることとなった。(このことは聞くほど難しくはなく、結局1958年に、これらのレコードはかろうじて30年しか経過していなかった。)
しかしほとんどの大学キャンパスでフォーク・ミュージックと言えば、たまに集まってバンジョー、ギター、ベースを演奏する3人組で、ウィーバーズThe Weaversの演奏形式を手本とする必要最低限の楽器を使うものだった。

このパターンは、ハリー・ベラフォンテHarry Belafonte以前に、「バナナ・ボートThe Banana Boat Song ( Day-O)」のオリジナルヒットを出したタリアーズThe Tarriersが採用している。
![Harry Belafonte – Banana Boat (Day-O) / Star-O – Vinyl (7", Single, 45 RPM), 1956 [r2876976] | Discogs](https://i.discogs.com/NvCR8F44-jVlLDhzqZz4aPfbFnLIVxXDf6F5eYgibkY/rs:fit/g:sm/q:90/h:550/w:550/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTEzMjQ3/ODYtMTQ0OTc1MzM2/Ni05NTgxLmpwZWc.jpeg)

ゲートウェイ・シンガーズThe Gateway Singers、イージー・ライダースThe Easy Riders、バド&トラビス Bud & Travis、キングストン・トリオThe Kingston Trioなどのグループは、本物らしさを追い求めることにはほとんど興味がなく、ジャズを演奏するようなクラブに出演し、コメディアンと共演していた。




