第10章 1958年 外にいる不良友達
1957年12月19日、エルビス・プレスリーは地方徴兵委員会会長から電話を受けた。

エルビスは数か月前に徴兵分類1-Aに区分されて以来ずっと委員会から話があると予想していて、今その通りになった。メンフィス出身の人間がたくさんいるエルビス・プレスリー特別部隊の業務や、入隊中は米慰問団巡業のエンターテイナーと一緒に働くような特別待遇を与える提案が軍隊からあったが、エルビスは断っていた。

エルビスはキャリアの絶頂にあり、グレイスランドを買ったばかりだったが、それは町の南のハイウェー51沿いに18部屋のある豪邸であり、その元所有者は尊敬されていた医師で娘がクラシックの演奏家だ。


家屋と土地だけで102,500ドルだったが、サム・フィリップの新しい家のインテリアデザイナーを雇って、裏に大きな屋外スイミングプールと、音符をデザインした鋳鉄の門を注文し、それが完成するのに50万ドルかかった。


母親の鶏のための小屋も建てられ、年末までにグレイスランドはエルビスのクラブハウスになり、エルビスや友人たちが使えるように完璧に機能するソーダ・ファウンテンも備えた。壁はエルビスと母親が選んだ新しい色に塗られた。エルビスは、映画製作の無い時はいつもツアーに出ていて、1957年に初めてハワイに行った。常に新しい映画のスケジュールが立てられていたので、休みの時にくつろげる場所がようやくできてよかった。
エルビスは市内まで召集令状を取りに行き、サン・レコードに寄ってそれを見せ、それからグレイスランドに戻ったが、そこでジョージ・クレインGeorge Kleinは令状を見て、どうするのかを訊ねた。


「そうだね、分からない。」とクラインに言った。「大佐はキング・クレオールKing Creole(エルビスの次の映画)を作るために延期できるかもしれないと言ったが、エルビスは、おそらく行くことになるだろうと言った。」


大佐は、エルビスのキャリアにおいていかなる時も、混乱を招くようなことをすべきではないと断固主張したのだが、それは、長年の間、表に出なかった理由があったからだ。「大佐」というタイトルを買収したのは誰でも知っていたが、彼はトム・パーカーTom Parkerという名前の人間では全くなかった。彼はアンドレアス・バン・クイクAndreas van Kuijkというオランダ人で、法を逃れ(たぶん、彼の姉妹がのちに推測したように殺人罪のため)、10代後半にアメリカ行きの船に密航した。彼はアメリカ市民ではなく不法滞在なのでパスポートを持たず、どうしてもアメリカを離れようとはせずに、政府の目をエルビスと、それに関連して自分自身からそらしたのだ。エルビスのキャリアを通じて、申告すれば多額の控除をできるのに、トムは簡略なフォーム1040で納税し(他のマネージャーのマネージメント料は一般に15~20パーセントなのに、ひどく不釣り合いな50パーセントのマネージメント料をとり、自腹を切って納税していた)、五万とあるエルビスの海外公演オファーを断っていた。トム・パーカー大佐には、はったりをきかせて派手なイメージがあるが、アンドレアス・バン・クイクは怯えながら暮らしていた。

トム大佐はエルビスのために事態を改善できる人々を知っていた。バン・クイクはそのような人々に相談しなかった。