主な障害(あるいは、障害ではない)は、すべてのメディアは地方限定だということだ。エド・サリバンEd Sullivanやスティーブ・アレンSteve Allenなどの番組にたまたま登場したことはあったものの、テレビ、ラジオのネットワークは、ロックンロールを一時的流行にしか過ぎないとして相手にしなかった。
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ビルボード誌Billboardや他の業界紙はまだ地域のチャートを掲載していて、デトロイト、メンフィス、シカゴ、アトランタでヒットした曲は全国でヒットするかもしれないが、大ヒットした後消えてしまって、次のステップに上ることは無いかもしれないということは分かっていた。あるいは、ひょっとすると、その地域における別のいくつかの市に(例えばシカゴからデトロイトとクリーブランドに)広がるかもしれないが、ニューヨークやロサンゼルスという、マスメディアにとって重要な2都市に飛躍することは決してない。そのため、タレントがその才能を爆発させても、ポップスという閉ざされた世界の中でしか活躍できないということを、地域主義は意味していて、多くのアーティストは目に見えない人気の壁を突き破ることがどうしてもできなかった。この状況はゆっくりであるが、間もなく変わるのである。それを促進したのが二つあり、テレビとラジオの新しい使い方だった。
前述のように、テレビはロックンロールには注目していなかった。テレビ受像機の価格が手ごろになるに連れ、より多くの人たちが買い、視聴者が急増した。

エド・サリバン・ショーなどのバラエティー番組以外にも、30分物の連続ホームコメディは、ちょっとした騒動が起こる家族向けの話であり、最後には心温まる終わり方をした。人気番組の一つが「陽気なネルソンThe Adventures of Ozzie and Harriet」で、主役は、オジーOzzieとハリエットHarrietのネルソンNelson夫妻、デイビッドDavidとリッキーRickyの二人の息子だった。

オジー・ネルソンOzzie Nelsonは「優しい」バンドリーダーとして成功し、妻のハリエットHarrietは女性ボーカリストで、彼らはハリウッドの仕組みに精通していたので、レッド・スケルトンRed Skeltonのネットワーク・ラジオ番組の概略に基づいて、家族で構成する番組をオジーが提案し、彼らはそのとおり実現した。

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最初の数年間、少年役は俳優が演じたが、番組がABCテレビに移る1952年までには、子供たち自身が演じるようになった。
オジーは自分で脚本を書き、オープニングのクレジットでは自分たちの実際の家を見せたが、それはハリウッド大通りの西の端からほど近いところにあり、自力で成功を勝ち取った。ところが1956年にリッキーが16歳になると、頼みごとができた。

リッキーはロックンロールが好きで、ロックンロールのレコードを作らせてくれと父親にせがんだのだ。もしリッキーが番組でそれを演奏すれば、それは良いアイデアだとオジーは賛成し、音楽界でそれが実現できるように画策した。ジャズ・レーベルのバーブVerveと単発契約をして、そのバンドはジャズ・ギタリストでバーブのアーティスト&レパートリー A&Rだったバーニー・ケッセルBarney Kesselをフィーチャーして構成された。

彼らはA面にファッツ・ドミノFats Dominoの最近ヒット「アイム・ウォーキングI’m Walking」、B面は「十代のロマンスA Teenager’s Romance」に決め発売した。

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