しかしポップスの世界に行くためにルビコン川を渡ってしまったサムにとって、選択の幅は狭まった。
サムはバンプスに、自分がレコーディングしたい数曲を演奏したテープを、自分でギターの伴奏もやって送り、バンプスはそれをループに持ち込み、もしもう一回サムのセッションをしてみなければ、誰かほかの人に持っていかれると言った。
ソウル・スターラーズとしてはサムがわがままな行動を取っていると思っていたが、サムはこの時点で彼らの曲のほとんどを作っていたので、入ってきたお金を6分割することにいら立っていた。
しかし、これはほとんどのゴスペル・グループがやっていた方法で、ソウル・スターラーズも例外でなかった。サムはどうしてももっとお金が欲しかったが、グループはそれを変えようとはしなかった。「ラバブルLovable」がグループの売上を減少させていると感じたので、グループはループに電報を送って、これ以上デール・クックDale Cookeのレコードを発売しないように頼んだ。
苦境に陥ったサムは、信頼できる相談相手だと考え始めていたJWアレクサンダーJ.W. Alexanderと話した。
JWはこの先何年もサムの心に残るであろう、明確で感傷的でない見通しを持っていたのだが、それは、ソウル・スターラーズは自分たちよりも大きな文化的勢力と戦っていて、ソウル・スターラーズとピルグリム・トラベラーズThe Pilgrim Travelersはあまり長く存続できないことを悟っていた。
両グループが出演したプログラムの後に夕食をとりながら、スターとしての仮面を脱ぎ捨て、多少おずおずと、自分が世俗のシンガーとして成功できるかどうかを尋ねた。JWはサムに、デール・クックの仮面を忘れ、本来のサムにならなければならないが、もちろん成功すると言った。そこで1957年5月28日、サムは友人の車に乗ってシカゴ空港に向かい、ロサンゼルス行きの飛行機に乗った。サムはわざわざソウル・スターラーズに辞めるとは言わなかったが、現に辞めてしまった。