ローズWesley Roseは二人を作曲者として契約し、アーチー・ブレイヤーArchie Bleyerからレコーディングができるようなタレントを知っているかと聞かれ、エバリー兄弟のことを話した。
1957年2月にブレイヤーは二人と契約し、おそらく自作曲のレコーディングを不安に思い、ナッシュビル初のプロ作曲家で演奏はしないフェリスとブードローのブライアント夫妻Felice and Boudleaux Bryantに依頼した。
アイク・エバリーはブードローの床屋だったこともあってこの仕事を熱望し、夫妻はバイ・バイ・ラブBye Bye Loveというアップ・テンポのナンバーを渡した。
この曲は今まで30人の歌手に断られたが、二人の声を誇示するような曲で、アーチーの不安は突然なくなった。というのは、1位は逃したものの、27週間チャートに居続けたからだ。そのレコードのB面はエバリー兄弟自作の「アイ・ワンダー・イフ・アイ・ケア・アズ・マッチI Wonder If I Care as Much」で、二人の作曲に関しての心配は杞憂なことを示すことになった。
パッツィー・クラインPatsy Clineは、エバリー兄弟が前述の楽曲を売った相手で、ポピュラー歌手になったもうひとりの人だった。
バージニア州ヘンズレーの生まれで、デッカ傘下のマイナー・レーベルであるフォー・スター・レコードFour Star recordsで、スタンダードの(及びスタンダードまで至らない)カントリー曲を録音し、時々グランド・オール・オプリGrand Ole Opryに登場したが、デッカと契約しブラッドリーズ・バーンBradley’s Barnで録音してようやく成功したのだった。
オーウェン・ブラッドリーOwen Bradleyは、クラインに鼻声訛りが全くなく、強くてハスキーな声を持っているだけでなく、ジャズ・シンガーのように表現できるのを見て、カントリー風に飾って歌うことをせず(スタディオ・ミュージシャンの中には、仕事が終わった後、町の反対側に行って黒人ミュージシャンとジャム・セッションをしていたので、この歌い方をとても喜ぶ者もいた)、最初のレコード、「ウォーキン・アフター・ミッドナイトWalkin’ After Midnight」で分かり易いポップ・サウンドの方向に進んだ。
その結果、この曲はポップ市場でもカントリー市場でも良く売れた。クラインが本当に成功するのは数年後のことだが、ナッシュビルの機構組織の中に彼女がいるというだけで、ますます硬直化していくカントリー界に新たな道筋を示すことになった。ブラッドリーはそこに留まらなかった。デッカはブレンダ・リーBrenda Leeという11歳のボーカリストと契約したのだが、オーウェン・ブラッドリーがプロデュースを引き受けるまで、同じように成功しなかった。
このことは、もしブラッドリーがバディ・ホリーを獲得しなくても、少なくともカントリー・ミュージックを近代化させ、切望されていたクロスオーバー(カントリーの「ヒット」はたいてい、数千枚しか売れなかった)をもっと頻繁に行うようなアイデアを、彼が持っていたことを意味する。ブレンダ・リーはパワフルで、パッツィー・クラインはより微妙なニュアンスを出し、エバリー兄弟はカントリー寄りだがティーンエイジャー向けだった。ナッシュビルは変わりつつあった。