リチャード・ベリーRichard Berryに関して、ビルボード誌の評価はレコードのもう一面の方が高かったが、それは、かつてのルイジアナ州知事ジミー・デイビスJimmie Davisが書いた、みんなで歌う曲、「ユー・アー・マイ・サン・シャインYou Are My Sunshine」の別バージョンだった。
ベリーは、ロサンゼルスでR&Bのミュージシャンでもあり、地元のローカル・グループとも一緒に歌い、ルネ・トゥゼ・キューバン・アメリカン・チャチャ・グループRene Touzet’s Cuban American cha-cha groupとの仕事はできる限り引き受けた。
彼らの「エル・ロコ・チャ・チャEl Loco Cha Cha」は人の心をとらえる曲で、ベリーはそこからいくつかアイデアを取り入れたが、最も顕著だったのがリズムとコード進行だった。
そして、名曲「ワン・フォー・マイ・ベイビーOne for My Baby(And One More for the Road)」に漠然と基づいて、女性に恋い焦がれるジャマイカ男についての歌詞を書いた。
ベリーの失敗は、カリプソでなくチャチャをレコーディングしたことだ。たとえチャート入りしたカリプソ・アーティストがハリー・ベラフォンテHarry Belafonteしかいなかったとしても、1957年初期の流行はカリプソだった。
ベラフォンテは、エルビスと同じRCAのレーベルに属し、両親は西インド諸島出身だが、本人はハーレムで生まれた。ベラフォンテは1956年末に「さらばジャマイカJamaica Farewell」を軽い訛りで歌ってヒットさせ、1957年には「バナナ・ボートThe Banana Boat Song (Day-O)」でスターになったが、彼のレコードはタリアーズThe Tarriersによる別バージョンの歌と競争になった。
タリアーズはアコースティックのトリオで、バンジョーのエリック・ダーリーングErik Darling、そして後の俳優として最も良く知られたギタリストのAlan Arkinがいた。
もし流行を進んで受け入れる者がいたら、タリアーズに目を向ける方が良いのだろうが、1957年初めの時点では、人々はロックンロールをどうにか撃退したかったので、その後継としてカリプソを歓迎した。残念ながらベラフォンテのチャート在籍期間は短く(少なくともシングルのアーティストとしては短かった。しかしアルバムは何年も売れた)、当時米国でリリースされた流行の波に乗ろうとするものも、正統派のカリプソ・レコードも売れなかった。