最初はトミーの名前を変えることだ、というのはヒックスじゃスターらしくない。スティールSteelはおじいさんの名前だし、スティールsteelなら強固で輝いているので、それを選んだ。
(間もなく、トミーは最初のレコードを作った時、デッカが名前をスティールSteeleと印刷したのを見て愕然とした。デッカは「e」を付け加えたのだが、アメリカの系列レコード会社は、その「e」をバディ・ホリーBuddy Holleyの名前から外したのだった)。
次に、ケネディは最初の宣伝記事で、世間が驚くことをやってのけたのだが、それは1956年9月16日、ベストセラーのタブロイド紙、ザ・ピープルThe Peopleに、トミーが演奏して大勢の女の子を熱狂させている写真だった。
「ロックンロールはダンス・パーティーにデビューする女の子までも惹きつけた」と見出しには書いてあったのだが、モデルを雇い、リポーターから聞かれたら、「パトリシア・スコット・ブランPatricia Scott-Brown」や「バレリー・ソーントン・スミスValerie Thornton-Smith」のように上品な名前で答えろと言っておいた、とケネディは後に打ち明けた。この写真は、たぶんイギリスの「最初の上流社会のロックンロール・パーティ」で、夜のスターが「うわー、演奏がすごかったからもう動けない」と言って、パーティーの終わりには椅子に崩れ落ちた。派手な宣伝を続けるためにケネディにはお金が必要で、ラリー・パーンズLarry Parnesに近づいた。
パーンズは家業のファッション・ビジネスで働いていて、金を使ってショー・ビジネスに入り込もうとして、1年前演劇に投資したが失敗した。パーンズが、新聞記事に基づいてスティールと3週間の契約をした準高級ナイトクラブのストーク・クラブStork Clubに入って来ると、スティールが「こんにちわ、ボス。あなたが私の新しいマネージャーになるんですね」と言った。
スティールのマネージャーはもう3人目だが、それは彼をケネディに紹介した二人と、今度はパーンズだ。数週間後、スティールはデッカ・レコードDecca recordsのオーディションを受け(場所はトイレだった。なぜなら、使用されているスタディオをデッカが間違って予約したからだ)、「ロック・ウィズ・ザ・ケイブマンRock with the Caveman」を録音する準備をした。
この曲は、マイク・プラットMike Prattという名前のバイパーズ・メンバーと、バイパーズThe Vipersなども入っているコミューンのようなものにたむろしている若い学生のライオネル・バートLionel Bartが作った。
裏面は、スティール一人による「ロック・アラウンド・ザ・タウンRock Around the Town」だ。
この曲は、ロックンロールを聞いたことがない人が作りそうな、ある程度ロックンロールのレコードのように思えるが、当たらずとも遠からずだ。レコードは10月12日にリリースされ、メロディー・メーカー誌Melody Makerは、所詮ジャズじゃないと相手にしなかったが、気が強く若いライバルのニュー・ミュージカル・エクスプレス誌New Musical Expressは、「トミー・スティールによる、デッカのイギリス版ロックンロールのレコードは、欠くことのできない本物の味わいが無い。
しかし、このレコードで一番いいのは、ロニー・スコットRonnie Scottの強烈なテナーサックス演奏だ」と評した。
この音楽雑誌は、スコットが最初にテレビに登場した姿も嫌いで、「トミー・スティール、ぼさぼさの髪で現れて人気が出ると思っているのか?」とも問いかけた。髪がぼさぼさ!今どきの若者は気にしないのか?しかし20歳のトミーはエネルギッシュで、演奏中ドンドン飛び回ったが、特段不快感を与えなかった。