2I’sはロンドン最初のエスプレッソ・バーではなかったが、彼らは定期的に出演した。
自由奔放に生きる多くのロンドンの人たちはパブの雰囲気が好きでなかったので、遅くまで開店していてあらゆるタイプの変人がうろつく、ジャイル・アンド・ギンベルthe Gyre and Gimbel(常連には「ザ・ジーthe G 」として知られている)か、ニュークリアスthe Nucleus(もちろん「ザ・ニュークthe Nuke」)等の店にたむろするのが好きだった。みんながいつでも弾けるギターがあり、一人のギタリストが別のギタリストに教えて、一緒に演奏することがたまにあった。この2つの店の成功(「成功」は相対的な言葉だ)でさらに多くの店ができたが、ちょっと世間体を気にする傾向があり、ある店は「フォーク・ソングは良いが、スキッフルは禁止」と注意する看板を出した。しかし、2I’sのマネージャーはバイパーズが出演することを喜んでいた。
バイパーズはストリート・フェアの期間、平床式トラックの上で演奏し偶然入店した後も演奏を続けたが、立ち去ろうと荷物をまとめた時、店主は「すみません、皆さん、でも本当に楽しかった」と言った。マネージャーがまた来てくれと言ったところ、バイパーズは来週いつか来ると言った。そしてそれまでの、どんな状況の、どんなスキッフル・バンドの本拠地についても言えることだが、飛び入り参加者を惹きつけた。最も積極的だったのが、いつか芸能界で成功すると豪語した子で、その最初のステップが、ロックンロールを演奏する最初のイギリス人となることだと決心していた。彼の名はトミー・ヒックスTommy Hicks。
イギリスで、ロックンロールは必ずしも新しいものではなかった。デッカはイギリスが所有するレコード会社なのだから、ビル・ヘイリーBill Haleyのレコードは入手可能だったが、BBCはかけさせなかった。
彼らのレコードは、「暴力教室The Blackboard Jungle」が1955年10月17日に封切りされるまでは、隠れた名作だった。
その封切りによって、アメリカ同様、ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around the Clockの売上が復活しただけでなく、ティーンエイジャー達がぶらつく言い訳を作った。
20年後に思いもかけず有名になる、乱暴者で若いロンドン子のイアン・デュリーIan Duryは、「集まるチャンスをみんなにくれたのは、あの映画だった。
コンサートがたくさん催される前、日曜の午後には大きなスクリーンの周りに座って、冗談を言ったり歌を歌ったり、映画のネタばらしをしたものだ。」彼ら自身が理由なき反抗者であり、新しい時代のリスナーだった。さて、そんな彼らのためにロックンロールがあればいいのだが…。トミー・ヒックスはやる気があった。彼は学校を中退して大西洋定期便の船乗りの経験があり、アメリカでロックンロールを聞いてスキッフルに出会い、誰も良く知らない「ブルー・スエード・シューズBlue Suede Shoes」などの曲を、ミュージシャンに伴奏をさせようとした。
それはたいした話ではないが、ある晩2I’sで、ヒックスが短いステージで演奏をしていると、ハリウッドで働くショー・ビジネスの写真家で、特にマリリン・モンローMarilyn Monroeを撮ったことのあるジョン・ケネディJohn Kennedyというニュージーランド人が店にやって来て、その場にくぎ付けになった。
ケネディが「君をあっという間にスターにできると思う」とヒックスに言うと、ヒックスは「ショー・ビジネスの何を知っているんだ?」と返した。ケネディはあまり知らないことを認めなければならず、ヒックスに、歌について知っていることを尋ねた。「何も」とヒックスは認め、そこで二人は組むことになった。