かつて、バーバー・バンド以外にはスキッフルを演奏するものはほとんどいなかった。
1955年9月、ある「クラブ」がブリュワー通りとワードウアー通りBrewer and Wardour Streetsの角にあるソーホーのラウンドハウス・パブthe Roundhouse Pubで始めた。
(ある「クラブ」とは、イギリスでは同好会の意味で、一定の目的のために、決まった原則の下で、決まった場所に集まる熱心なグループのことだ。このように、ラウンドハウスは理屈から言えば、一週間の他の日にジャズ・クラブ、詩のクラブ、フォーク・クラブを開催することもできた)。ラウンドハウスのスキッフル・クラブはBob Watsonが運営していたが、この人は自身のスキッフル・バンドを持ち、ここで演奏し、コリヤー/バーバー・バンドからスキッフルを紹介された。ワトソンは、ロニー・ドネガンからギターのレッスンも受けていたが、すぐにドネガンは忙しくなったので、アメリカの黒人音楽について知識が豊富だと評判のアレクシス・コーナーAlexis Kornerを探しあてた。
コーナーは10代の頃学校をさぼってはソーホー辺りをたむろして、ギターは独学で、やがて時々バーバーと共演したが、他で演奏する機会も探していた。コーナーはディッキー・ビショップDickie Bishopの率いるバンドに加わったが、そのバンドはシリル・デイビスCyril Daviesというギタリスト、アドリアン・ブランドAdrian Brandというベイシストがメインだった。
ボブ・ワトソンがラウンドハウスのスキッフル・クラブの考えを提案すると、デイビスとブランドは、ボブ・ワトソン・スキッフル・グループメンバーに加わり、クラブの幹部になった。クラブは初日の夜から盛況で、その日の終わりに家主が最大収容人数と消防法について話をした。この「グループ」はとても柔軟で、ドネガンやコーナーが飛び入り参加することは日常茶飯事だった。ロンドンに住む自称ランブリン・ジャック・エリオットRamblin’ Jack Elliottというアメリカ人の参加もあった。
彼はブルックリンのユダヤ人歯科医の息子で、本名はエリオット・チャールズ・アドゥノポズElliott Charles Adnopozということをラウンドハウスの誰も知らず、また、ウッディ・ガスリーWoody Gutherieとしばらくの間一緒に住んでいたという事実に誰も感動しなかった。
なぜなら、ガスリーが何者か知らなかったからだ。しかし、否定できない事実は、ランブリン・ジャックは誰よりもたくさんの曲を知っていたということだ。ジャックがクリスマス・ミュージカル、ザ・ビッグ・ロック・キャンディー・マウンテンThe Big Rock Candy Mountainで主役を務めても誰も気に留めなかったが、このミュージカルは最近ロンドンに住み着いた民俗学研究者のアラン・ロマックスAlan Lomaxが書いた。
ロマックスの父親のジョンは、レッド・ベリーLead Bellyを見出し、「ミッドナイト・スペシャルMidnight Special」と「ロック・アイランド・ラインRock Island Line」の演奏を初めて録音した。