それはたいして問題にならず、デッカはバーバー・バンドThe Barber bandの曲にこれ以上関心を示すことが無く、年末までに契約を打ち切った。
バーバー・バンドは別のレーベルと契約してアルバムを作ったが、そこにスキッフルは無かった。その理由は、専門的技術を持つあるスコットランドのファンが「バック・ステアーズ・セッションBack Stairs Session」というすべてスキッフル・バンドのアルバムを制作し、大量にプレスしたからだ。彼には流通システムが無く、どのようにアルバムを流通したらよいか分からなかったので、ロニー・ドネガン・スキッフル・グループThe Lonnie Donegan Skiffle Groupという者が、ロック・アイランド・ラインRock Island Lineでトップテン入りしたことを1956年1月初めに知って、バーバー・バンドは大いに驚いた。
デッカの誰かがニューオーリンズ・ジョイズからスキッフルを2曲シングル・カットしてリリースしたのだ!それを演奏したミュージシャンのドネガンDonegan、ベースのバーバーBarber、そしてウォッシュ・ボードのベリル・ブリデンBeryl Briden(バーバーの長年の友人)は、ぴったり3ポンド2シリングをレコーディング料としてそれぞれ受け取った。
いかなる種類の印税もなかっただろう。そしてさらにひどいことには、デッカは米国全土でこのレコードを販売し、ポップのトップテン入りしたのだ。ロニーは、ちょうどその時ロンドンをたまたま通りかかったアメリカ人のマニー・グリーンフィールドManny Greenfieldをマネージャーとして雇い、その後バーバー・バンドを辞め、米国ツアーに行った。ペリー・コモのショーにも、クライド・マクファターClyde McPhatter、チャック・ベリーChuck Berry、クレフトーンズThe Cleftones、フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズFrankie Lymon and The Teenagers、パット・ブーンPat Booneと一緒のパッケージ・ショーにも登場した。
7月にロニーがイギリスに戻ると音楽業界全体が変わっていた。スキッフルが新しいものになったのだ。