マディ・ウォーターズMuddy Watersも、1956年に3曲のヒットを出してシカゴのサウス・サイドを牛耳り続け、彼のかつてのハーモニカ演奏者リトル・ウォルターLittle Walterは、楽器のみならず、「ブーム・ブーム(アウト・ゴー・ザ・ライツ)Boom Boom (Out Go the Lights)」等の名曲を歌っても、やはり好調だった。
サニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamsonは60歳近かったが、クラブで人気を博し、チェスから出したレコードが時々ヒットした。
ボ・ディドリーBo Diddleyは、ティーンエイジャーと大人の両方のマーケット向けに演奏し、「ユー・プリティ・シングYou Pretty Thing」は若者にアピールし、暗く悪いことが起こりそうな、「フー・ドゥ・ユー・ラブWho Do You Love」は全くの別ものだった。
チェス・レコードはがちがちのブルースを独占しているというわけでもなかった。ビージェイ・レコードVee-Jay recordsは、ギタリストのジミー・リードJimmy Reedを見出したが、彼はラックに置いたハーモニカを吹き、伴奏は最小限にして、シカゴでは信じられないほどの人気で、直ぐに他でも人気が出た。
彼の1956年のヒットには、「エイント・ザット・ラビン・ユー・ベイビーAin’t That Lovin’ You, Baby」、「キャント・スタンド・トゥ・シー・ユー・ゴーCan’t Stand to See You Go」などがあった。
ビージェイにはデトロイトからブルース演奏者のジョン・リー・フーカーJohn Lee Hookerがやって来て、契約はしなかったが、代表曲のひとつ「ディンプルスDimples」をレコーディングした。
そして、誰もが心配したというわけではないが、もしブルースがサウス・サイド・シカゴ・ブルース演奏者たちと共に消えてしまうことを心配しても、ライバルとなる若者たちはシカゴのウェスト・サイドに出現した。そこでの最大のスターで、22歳の左利きのギタリストであるオーティス・ラッシュOtis Rushは、コブラ・レコードCobra recordsから、「アイ・キャント・クイット・ユー・ベイビーI Can’t Quit You Baby」をリリースした。
コブラはできたてのレーベルで(ラッシュの曲は最初のシングルだった)、ジュークボックス運営業者、エリー・トスカーノEli Toscanoが経営していた。