男がエルビスになりたければ、それはまことに結構なことだが、女の子はどうする?「女エルビス」として、エルビスのポンパドールを女性向けにした髪型をして、もみあげに見えるように櫛を梳かしたアリス・レスリーAlis Lesleyを思いついた人もいた。
しかし、キャピトル・レコードCapitol recordsにはワンダ・ジャクソンWanda Jacksonがいて、その豊かな才能と反抗的態度に手を焼いていた。
ワンダはオクラホマ生まれで、経験豊かなマネージャーである父親の指導のもと、13歳の時からラジオに出演し始めた。彼女の力強く派手な声は、カントリー音楽を大声で歌うことができ、実際にそうしたが、同時に狂ったようにロックを歌うこともでき、実際にそういう歌い方もした。彼女は舞台演奏で両方を混ぜ、1955~1956年には、ボブ・ニールBob Nealがワンダとエルビス両方の出演代理人を務めていたので、二人は良く共演していた。
ところが、彼女の熱心さと美貌が不利に働いた。彼女の1955年のグランド・オール・オプリGrand Ole Opry初登場はアーネスト・タブErnest Tubbによって台無しにされた。
ワンダがこの時のために買ったノースリーブのドレスを着ることをアーネストが許さず、肩を覆うジャケットを着るために楽屋に戻したのだ。それが、彼女にとって最後のオプリ出演にもなってしまった。キャピトルにおける最初の曲はロック音楽で、エルビスは自分のレコードの曲を彼女に演奏して特訓したが、「ホット・ドッグ・ザッツ・メイド・ヒム・マッドHot Dog! That Made Him Mad」、「アイ・ガッタ・ノウI Gotta Know」などの曲は、ほとんどヒットしなかった。
1957年の「フジヤマ・ママFujiyama Mama」(どういうわけか日本では大ヒットしたが、他ではしなかった)、「レッツ・ハブ・ア・パーティーLet’s Have a Party」(1957年にエルビスElvisとコリンズ・キッズThe Collins Kidsがレコーディングし1958年に彼女の最初のアルバムの一曲になり、このアルバムは1960年に少しヒットした)は、後にロカビリーのリバイバル推進者たちが発見するまで待たなければならなかった。
リバイバル推進者たちは、彼女のカントリーの成功キャリアにおける最終盤で見出し、彼女は新たなリスナーを獲得した。